第一講:イントロダクション・並行世界とは
「並行世界……パラレルワールド、ってやつですよね?」
「そうだ。フィクションの話でも構わない。知っていることを、教えてくれ」
「……ここではない、別の世界、ってやつですかね」
「他には?」
俺に次いで、瀬川が意見を言った。
「画面ノルダーで言うところの、違うライダーの世界」
「なるほど。あれはあれで、並行世界を論ずるには面白い題材だ。他には?」
「俺のドッペルゲンガーがいる世界、とかスかね」
「そうだな。並行世界というものを現実として考えるならば、ドッペルゲンガーはオカルトの話ではなくなる。重要な視点の一つだろう」
ぴしっとスーツを着こなした教授の彼女は、改めて自らが書いた「並行世界」を指差しながら言った。
「では、最初に言っておこう。並行世界の定義は、脚本家や学者によって様々だ。しかし殊にこの講義においては、並行世界が現実に存在するものとして、理解をしてほしい。後半の実習では実際に、ここから近しい並行世界へ旅をする。その時に嫌でも実感するかもしれないが、やはり最初から並行世界があるものとして認識しておいた方が、よりこの講義も楽しめるだろう」
「実際に、旅をする……」
「安心してくれ。それほど長旅をするつもりはない。それに、この世界と近しい、至って平和な世界だ。ただし、私たちの知る常識が少々通用しない世界を、あえて選ぶつもりではいるがな」
続いて、教授はシラバス、と大書した。
「さて、本当は煩わしいことは抜きにして、体験多めの講義にしたいところなのだが、基本を抜きにしてはならないのもまた事実だ。特に君たちは留年が心配な学生だというから、私が白紙にしたままだったシラバスの話をしよう」
教授は教壇からパイプ椅子を引っ張り出すと、ちょこんと座った。やはり背丈は俺たちよりもずいぶんと小さく、とても俺たちより少し年上の人間とは思えなかった。外見もどこか幼さがあり、凛とした口ぶりがむしろそういう属性なのだと感じてしまう。
「結論から言えば、君たちがこの講義の単位を落とすことはない。一つでも落とせば留年という状態まで追い込まれた以上、私が全部の回に出席しろと指示すれば、その通りにしてくれるだろうからな。君たちの両親は留年を許さなさそうだということは、把握している」
「そこまで!?」
「この国の法律の範囲内で、いろいろと調べさせてもらっている。理解してくれ」
「「「……」」」
「話を続けよう。君たちがこの初回講義に出席してくれた時点で、基本的には単位を出すつもりだ。私に個人的な誹謗中傷をするだとか、特に理由もなく実習を拒否するだとか、あからさまにこの講義の目的を妨害しない限り、可以上は出す。これは約束する」
「……なるほど」
「もちろん可では満足できない、優を出せと言うのならば、今交渉してくれても構わないが。どうする?」
「……そちらから交渉を持ちかけてくるあたり、突っぱねる自信がある、ということですね」
「よく分かっているな。その通りだ。さすがにそこまで単位をかき集めるのに必死な学生に肩入れしてはならないと、学長からも忠告されているのでね。無論、実習の内容次第では、良い評価も当然つける」
いつの間にか三人の中で、俺がメインでしゃべっていた。他の二人はどちらかというと、教授が思ったよりもずっと若く、また美貌なことから、そっち方面で気になっているようだった。心なしか、教授を見る目が下心のあるものになっていた。俺は全くその気がないと言えば嘘になるのだが、それよりも教授の語る並行世界がどんなものなのか知りたいという好奇心の方が勝っていた。
「ということで、試験は行わない。評価は実習の出来によってのみ左右される。私もそれほど難しいミッションを与えるつもりはないから、安心して取り組んでほしい。そして成績よりも、並行世界という概念そのものに触れて、そのことを楽しんでほしい。君たちが単位やら成績やらを気にするのは、他の科目で十分、嫌というほどできることだからな」
何とも耳が痛い。俺たちの気持ちを察したのか、楽しそうに教授はニヤリとした。そして教授は、そこまで言ったタイミングでホワイトボードの文字を一旦消し、「序論」と大きく書いた。
「さて、では本題に入ろう。先ほど並行世界について、それぞれ思うところを述べてもらったが……君たちの知る並行世界は、どれも正しい。いずれも、並行世界という大きな概念の側面の一つだ。そして、言葉の定義のみを議論するのは簡単だ。しかし並行世界というくくり方をしてしまえば、それは無数に存在する」
教授が次にホワイトボードに描いたのは、「行動A」から「行動1」「行動2」「行動3」の三つに枝分かれした樹形図だった。
「では、ここで君たちに課題を出そう」
「えっ」
「心配するな、点数をつけるわけではない。提出も求めない。次の講義で考えてきたことを話してもらうから、メモ書きあたりは必要かもしれないがな。つまり、課題の説明をして、今日は終わりだ。このように前半の座学は早く終わるから、安心するといい。君たちが三人とも、5限に講義を入れていないのはすでに確認済みだ」
「はあ……」
「さあ、説明だ。今私が描いたのは、分岐する樹形図。詳しくは後々に説明するが、並行世界はどんなささいな行動に対しても、そこに『可能性』が存在する限り、常に生まれる。参考までに、今日の私の行動を説明しよう」
教授は順番に、行動をホワイトボードに羅列し始めた。この4限の講義が始まるまでを列挙したのち、再びこちらを向いた。
「朝8時、起床。朝食にオートミール。9時30分、研究室に到着。午前は自著の執筆作業に没頭していた。13時、電子回路工学の安村教授と理工学部食堂にて昼食。安村教授はランチメニューのBセット、私は温かいかけそばとおにぎりを二ついただいた。午後は安村教授の研究室に出向き、学生の実験の手伝いを少ししていた。戻ってきて執筆作業を少し行ったのち、この講義に至る。……さて、ざっと説明したが、この中で分岐する可能性のある行動はどれだろうか? またその可能性は、どんなものだろうか? ささいなことでも構わない。どうせ他の講義でうんと難しい課題が出るだろうから、休憩がてら、いろいろ考えてみてほしい。もちろん、この課題に没頭して他の講義に支障が出ては本末転倒だから、ほどほどにな」
板書だけではなく、教授は一日の行動を示した紙を一人一枚、配布してくれた。そしてすぐにホワイトボードを消し、本当に講義室から去ってしまった。嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった、という表現が最も正確だった。
「……なんだ、あの教授」
瀬川の感想が、小さめの講義室に響いた。目の前で起こったことの情報量が多く、俺たちはしばらくその場で呆然としていた。