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アドベスタ  作者: ばぼびぃ
9/15

東の森

  1


 店の入り口脇に、動物が横に寝そべった形の看板が取り付けられた。耳が立ち、鼻先はどこか遠くを見つめるように起き上がっている。鼻先と反対の端は尻尾を模っている。

 大きな犬のシルエットに見える看板に「銀狼亭」と文字が刻まれていた。

 店の主人、ジャック・ストレイダーは太く大きな手を腰に当て、新しく取り付けた看板を満足げに見上げた。

 入り口を入ると一階は酒場兼食堂だ。二階に宿泊できる部屋がいくつかある。特徴的なものは、入り口脇の掲示板だろう。今は何もないが、仕事の依頼書が張り出される。冒険者と称する人々向けに仕事を仲介するのである。

 つまり、この店は、食堂、宿、仕事の斡旋の三つを提供するのである。

 店主のジャックは元冒険者だ。その妻、ローザも、同様である。冒険者がくつろぎやすい場所を提供する、というのが、夫婦の思いだった。

 新しく始めたばかりの店で、まだ客は少ない。

「なんで銀狼亭なんだ?」

 キュリアス・エイクードは看板の取り付けを見学した後、早々に店内へ引っ込み、手にしたコップの中身を煽った。

 まだ午前中だというのに、外は日差しが強く、じりじりと石畳を焼いていた。建物の中は暑さも幾分和らいだ。

 キュリアスは朝日の熱を吸収した自身の黒髪を撫でつけた。服も黒いので、早々に熱を帯びている。かといって、キュリアスの顔に汗が流れるかというと、そうでもない。

 キュリアスの背に、僅かに曲線を描く剣があった。その下の腰に、大型のナイフも鞘に納まっている。

 キュリアスはジャックの元仲間で、現役の冒険者である。剣の腕を売って生計を成り立てている。世間からはならず者と見られることも多いが、冒険者への仕事斡旋所であるこの店では、肩身の狭い思いをすることはない。

 店の外にいるジャックにもキュリアスの声は聞こえたはずだ。しかし、返事はない。ジャックは取り付けた看板の下に、冒険者への仕事の斡旋所を示す、国から支給された看板を取り付けにかかった。

「ほら、マディが話してくれたでしょ」

 キュリアスの腰かけるカウンター席の正面に、ローザ・ストレイダーが大きなお腹を抱えるようにして立った。

「その話を参考にさせてもらったの」

 ローザは説明すると、大きなお腹を愛おしそうに撫でた。新年を迎えた今月中には、そのお腹のふくらみとお別れだ。早く出てきて欲しいと願うと同時に、まだ大事に抱えていたいと思うらしく、手が空くと必ずお腹に触れていた。

「何話したっけ?」

 キュリアスの隣に若草色の髪をした女性が腰かけていた。その女性、マデリシア・ソングも冒険者で、ジャックやローズたちの元冒険者仲間である。

 マデリシアの素っ頓狂な声に反応したかのように、キュリアスの持つコップの中身が激しく揺れた。

 キュリアスはコップの中身の揺れに眉をひそめ、マデリシアを睨んだ。

 マデリシアはまるで気付かず、だらしなく頬杖をついていた。

「ほら。銀狼の子供を助けたって言ったじゃない。しばらく育ててたって」

 ローザは説明しながらキュリアスのコップの動きを窺っていたのだろう。お代わりはいるかと尋ねた。

「いや、いい」

 キュリアスは断って、気遣いに礼を述べた。

「私たちもちょうど子供が生まれるところだし。子供つながりで。それに銀狼って珍しいじゃない。縁起がいいかもって」

 ローザは言いながら、お腹を撫でまわした。

「銀狼って縁起物だっけ?」

 マデリシアが追求すると、ローザはさあ、と答えて笑った。

「そいつが気に入ったのなら、いいんじゃねぇか」

 キュリアスは何気なく言った。

「ありがとう。許可をいただけたってことね」

 ローザの答えに、キュリアスは顔を上げた。

「ちょっと待て。使用許可を求めていたのか?よし、使用料を…」

「もう許可いただいたもの」

「いや、だから…」

「働いて宿代払ってね」

「鬼」

「何ですって?」

「少しは優遇する気にならねぇのか」

「あら、優遇されてないと思っていたのかしら?」

 ローザの声色が変わり、不穏な雰囲気が漂っていた。

 キュリアスは何を優遇されているのか全く分からなかったが、逆らうとまずいと悟り、曖昧に口を濁した。

 ローザと共に冒険者として仕事をこなしていた時、彼女を怒らせて、味気ない料理を出されたことがあった。量も半分程度で、その夜は腹の虫をなだめるのに苦労したものだ。

 キュリアスは当時を思い出して口を閉じたのだが、思えば、食べ物を出してもらえない可能性もあったのではないかと思い至り、それは困ると不用意な口答えを悔いた。

 キュリアスは訓練を受けている。数日ものを食べなくても耐えられるよう、実際の訓練も受けた。が、目の前にローザの料理があると、その訓練が無意味だったように思えてならなかった。

 ローザの料理の味を知っていれば、当時の訓練は耐えられなかったかもしれない。

 高い金を払って珍味を食すよりも、ローザの手料理の方がいい。キュリアスはそう思うほどに、ローザの味が気に入っていた。

 機嫌を損ねてそれが食べられなくなるなど、あってはならない。

 ジャックが客を引き連れて店内に戻ってきたことで、ローザの刺すような視線はキュリアスから外れた。

 キュリアスは助かったと胸を撫で下ろしながら、客の様子を窺った。

 客はローブを着た青年で、身体の線が異常に細く見える。それは隣にいるジャックの横幅があり過ぎるためでもある。ジャックの腕の太さが、青年の身体の幅ほどもあった。

 キュリアスは青年の顔をどこかで見たように思え、もう一度観察した。

「ローザ。ディグ・コリンズさんやマリア・ベネフィカさんは?」

 ジャックが低く響く声を発した。

「今日は東の森の探索に出かけています」

 ローザは、キュリアスに向けていた不穏な声色を消し、客を迎える明るい声で答えた。

 ジャックが尋ねた人物は、魔術師ギルドから東の森の調査に訪れている。年末はもう一人の合流を待ち、店に滞在し続けたが、年が明けると、新年祭も明けやらぬ早々に、仕事に取り掛かっていた。

「新年祭も終わってないのに、仕事熱心よね」

 マデリシアはコップをもてあそびながら言った。

 ここイクウィップの町は建設中で、祭りは行われていない。にもかかわらず、マデリシアは一人祭り気分でゆっくりと過ごしていた。

 ローザは小声でマデリシアに、行儀が悪いと指摘し、顔を上げるとジャックに尋ねた。

「その方がお連れの?」

「エリック・パシュートです」

 青年は自分から名乗った。青年の顔の前に紙の束が舞い上がり、パラパラと自動的にめくれた。止まったところにエリックは眼を通すと、頭を抱えた。

「しまった。僕、十日も遅れたんですね」

 キュリアスはその様子に、記憶と重なる部分があるように思えた。

「研究に没頭しすぎました」

 エリックはそう言って頭を下げた。ただ、詫びるべき待ち人は一人も残っていない。

「あんたもしかして、ロッツ村にいたか?」

 キュリアスは直接出会った時のことを口にするのはまずいと思い、推測で言った。

 キュリアスの記憶にあるエリックという青年は、森の中でゴブリンの解体をしていた魔法使いだ。ゴブリンの肉の処理方法を研究しており、その場で食べたことを覚えている。

 だが、ゴブリンとは一般に、畑を荒らし、人に危害を加えるモンスターで、その身体は独特の異臭を放つため、その肉を食べようとは、誰も考えつかないような生き物だった。

 ここでその話をすれば、色々追求されて収拾がつかなくなる恐れがある。ゴブリンの肉を食べたことで回りから嫌煙されるのも面倒だった。

 キュリアスはその後の噂から判断して、青年がロッツ村に滞在していたのではないかと考えていた。

 そう言えば、マディも食べたことあるな。キュリアスはふと思い出した。彼女はゴブリンの肉だとは知らずに食べ、今も気付いていない。知らない方が幸せだろうと、キュリアスは隠し通すつもりになっていた。

「あ、はい、ロッツ村でゴブ…」

 エリックは言いかけたが、言葉が途切れた。キュリアスが気付かぬ間に詰め寄り、口を塞いでいた。

 キュリアスはエリックに、それは言わない方がいいと耳打ちした。

「おいおい。お前ら何か良からぬことをしでかしたんじゃないだろうな」

 ジャックはキュリアスの一瞬の移動に驚きつつも、勘繰りを入れて太い腕を組んだ。

「ロッツ村に研究者が滞在しているって聞いてたもんでね」

 キュリアスはジャックの睨みを跳ね返すと、エリックの肩に手を回してカウンターの席に案内した。

 キュリアスはもう一押し、忠告しておく気になった。

「あの肉は色々誤解を呼びかねないからな。秘密にしておいた方がいい」

「そうですね。せっかくロッツ村の特産品になりそうですし、他に取られてはかわいそうですから」

 エリックはすぐに同意した。ただ、意味合いは違っている。それでも目的は達成できるので、指摘する必要もない。

 エリックに対して、キュリアスには別の思惑もあった。金のないキュリアスは、食事代と宿代を稼がなければならない。さもないと、ここを追い出されることになるからだ。

 いざとなれば野宿もいとわないが、ローザの食事を数日食べると、それなしでは人生が物足りなくなるほどだ。彼女の作る料理にありつくためにも、働かなければならなかった。

 そしてこのエリックは、もしかすると仕事、引いては報酬を生み出すもとになるかもしれない。そういう打算があって、キュリアスはエリックをカウンターの席に案内したのだった。

「ところで、エリックだったか?東の森へ行くんだろう?護衛の冒険者が必要じゃないか?」

 キュリアスはあまりに露骨に言い過ぎたかと後悔したが、口をついて出てしまったものは仕方ない。胸を張ってエリックを見た。

「そうですね。すでに調査を始めているのなら、僕も追いかける必要がありそうです」

 エリックはキュリアスの思惑に気付かない様子で、空中に浮いていた紙の束をローブの内ポケットにしまいながら思案していた。

「僕一人でも行けそうな…」

「いやいや、モンスターが逃げ出すほどのものがいるはずだぜ?念には念を入れた方がいいんじゃねぇか?」

 キュリアスはエリックの思考を遮り、自分が護衛につく利点を説いた。腕っぷしには自信がある。そして気配を読むのに長けている。キュリアスの利点は大きい。

 ジャックが首を左右に振りながら、カウンターの中に入った。入れ替わるように、ローザは大きなお腹を抱えて厨房へ入っていった。

 マデリシアは興味なさそうに、頬杖をついたまま、コップの中身をちびりちびりと飲んでいる。

「な?咄嗟の時に肉弾戦のできるやつがいるといないとでは、大違いだぜ?」

 キュリアスはこんなに自分で話したことがあったかと、自分でも滑稽に思えるほどアピールしていた。

 そのかいあってか、エリックはそれもそうですねと言った。

 このチャンスを逃す手はない。キュリアスはそうだろうとたたみかけた。

「俺の腕っぷしは保証するぜ」

 エリックは顔を上げるとキュリアスの名前を尋ねた。

「キュリアス・エイクードだ」

 以前森の中で出会ったことは覚えていないのだろう。キュリアスはそう考え、名乗って手を差し出した。

 ところがその手は宙に浮いたままになった。エリックもキュリアスの噂を知っていたのかもしれない。知っていれば、近づきたくない人物と思われている可能性が高かった。

「あなたが噂のエッジですか」

 案の定、エリックはキュリアスのあだ名を言った。キュリアスの所業を知っている証拠だ。

 この話はダメになるかもしれないな。キュリアスは落胆しながら、宙に浮いた手を引っ込めた。

「エッジの能力、観察してみたいと思っていたんですよ」

 エリックは明るい声で言った。

「ぜひとも同行していただけますか?」

 どうやら、エリックには握手の習慣がなかっただけのようだ。キュリアスを警戒するどころか、観察したいと言う。間違いなく、変わり者だ。キュリアスはそう思ったが、口にしたのは別のことだった。

「よし、商談成立だな。よろしく頼むぜ」

 観察というものがどのようなものか分かっていないキュリアスは、仕事の依頼を生み出したことに満足し、その小さな疑問を受け流していた。この時、エリックが森の中でゴブリン相手に行っていた行為をしっかりと思い出していたら、キュリアスも素直に喜べなかったに違いない。



  2


 森に入ってしまうと、ひんやりした風が肌を撫でた。真夏の太陽に熱せられた頭や肌に風が触れると心地よかった。

 東の森の奥に川が流れている。風はそこから漂ってきているのだろう。湿気も多いように感じた。

 川の存在を感じ取れることから、森がそれほど深くないことを物語っている。

 森は川に沿って南北に広がっている。東の森と呼ばれてはいるが、建設中のイクウィップよりも南北方向に広い。奥行きに関しては誰も調査していないので、はっきりしたことは分かっていない。

 元々街道傍まで広がっていた森を切り開いて町を建設しているので、そもそも森の奥行きは大幅に変わったことになる。

 森を切り開く以前、キュリアスは森の中を抜けたことがあった。当時、姿を隠して南北に移動する必要があったためだ。森は姿や足取りを隠すのに適している。

 未開の森で、木こりや猟師が踏み入った様子もなかった。動物が森の実りを求めて集まり、動物を餌にしようとモンスターが森に侵入した。

 未開の森はキュリアスたちの隠密行動に適した場所だった。

 今やその森の様相は様変わりし、動物やモンスターの気配すら消えて、異界の森の様相を呈していた。

 雰囲気は悪いが、森の奥から流れ出てくる風は適度な湿り気を帯びて涼しかった。

「涼しい!生き返るわ」

 マデリシアの声が背後から響いた。

 マデリシアは当初、炎天下に仕事なんてできないわと主張し、行かないと言い張った。

 キュリアスはそっけなく分かったと答え、エリックを伴って銀狼亭を後にした。数歩も歩まないうちにマデリシアが追いかけてくると、あろうことか、置いて行くなと抗議するのである。

 キュリアスは何をわがままなことを言いやがると、一言いい返してやろうとした。ところが、マデリシアの身体が僅かに震えていることに気付き、言い返せなかった。

 マデリシアは先日のフェム・ファタルとの遭遇が記憶に新しかったのだ。キュリアスがいなくなった途端にその恐怖が脳裏によみがえり、慌てて追いかけてきたのである。裏付けるように、彼女は言った。

「あたしの護衛が勝手にどこかに行かないでくれる?」

「護衛だというなら、報酬をいただくとしようか」

 キュリアスはわざと言い返した。

「だからあたしの身体で支払うって言ってるじゃないの」

 マデリシアは即座に答えると、キュリアスの腕に自分の腕をからませ、豊満な胸を押し付けるのだった。

「宿代と飯代をくれ」

 キュリアスは投げやりに言い返した。

 キュリアスが腕を振り解くまでもなく、マデリシアは自分から離れ、暑いわねと手で自分の顔を仰いだ。その後は絶えず、暑いと嘆き続けていた。太陽に向かって吠えても、返事の代わりに照り付ける太陽光が戻ってくるだけだった。

 キュリアスは呆れて頭を左右に振った。以後のマデリシアの苦情は無視を決め込むに限る。

 エリック・パシュートは二人の後を黙々と歩いた。彼の視線は絶えず、キュリアスを捕らえたままだ。すでに観察が始まっているのだろう。

 キュリアスはエリックの視線に気付いていたものの、触れないことにした。マデリシアのように変な絡み方をされても困る。ただでさえ、横でうるさく騒いでいるのに、さらに何かが加われば、煩わしくて仕方ない。

 空き地だらけの町を柵が囲っている。南側の門から外に出て、柵に沿って東の森を目指した。柵が無ければ僅かな距離だ。が、回り込んだ分、燃えるような日差しを浴びた。

 エリックの視線と、日差しと、マデリシアの愚痴と、果たしてどれが一番嫌だっただろうか。キュリアスにとって、日差しは精神力を発揮して我慢できる。視線も、愚痴もそうだ。一つ一つであれば問題ない。しかし、その三つが重なると、さすがに苛立ちを覚えた。

 一発殴って黙らせようか、視線を逸らさせようかなどと物騒な考えに行きついたころ、森に達した。

 森が作り出す日陰に入ると、苛立ちが薄れた。森の奥からの涼しい風が、握った拳を解かせた。手のひらに触れる風がひんやりして心地いい。

 マデリシアは日陰に飛び込み、深呼吸すると、生き返るわとため息をもらすように言った。

 普段、暑さ寒さを気にかけないキュリアスもさすがに同感だった。

 エリックも日陰に入り、しばらく涼しい風に身を任せていた。

 キュリアスが緊張を解いたのは僅かな時間だった。すぐに森の異常な気配を嗅ぎつけ、辺りの気配を探っていた。

 東の森は本来、人の入り込まない、動植物の楽園だった。夏に盛りを迎え、実をつけた植物が見えた。ある植物は秋に向けて花を咲かせ、ある植物は実に向かって膨らみ始めていた。

 その実を求めて虫や小鳥、小動物が集まり、小動物を餌にしようと肉食の動物がやってくる。さらにモンスターも加わって、森の中は生き物たちの気配の宝庫である。

 だが、この森に、生き物の気配がまるでなかった。

 花や実は虫や小動物を呼び集めようと、更に甘い香りを漂わせ、より一層色鮮やかに咲き誇った。あまりの強烈な匂いと花の色に、異質な世界が生み出されていた。

 植物の努力は空しく、返って、毒々しく見えた。生き物のいない世界はここまで異質な印象を与えるものなのかと、驚いたほどである。

 北東方向は、死んだ森のようだ。

 木々が枯れ、朽ちているのならば、この状況も分からないことはない。いや、その場合でも虫は生息するものだ。その虫すらいない。生き物のいない世界が広がっていた。

 森は朽ちてなどいない。豊かな実りがあることを、風に運ばれてくる甘い匂いが示している。

 その甘い匂いに誘われて森に入り込む動物も、虫すらいなかった。

 モンスターもいない。

 それらが逃げ出すほどのことが起こったのだ。あるいは、逃げ出さなければならないほどのものがそこにいるのだ。

 気配の分かるキュリアスにとって、東の森で探索すべき場所は一目瞭然だった。

 キュリアスと違って気配を探知できない魔法使いたちは、森との境を南に向かって進んでいるようだ。南の方に子供を含めて四人の気配があった。

 先発している魔法使いたちを追いかけるべきか、エリックを探索すべき場所へ案内するか、悩むところである。

 エリックを北東の怪しい場所へ案内すれば、ほぼ目的を達成できると言っていい。先発の魔法使いだろうが、エリックだろうが、どちらでもいいので目的地へ達し、調査を行えば、今回の任務は終了なのだ。

 とはいえ、エリックは先発の魔法使いたちを追いかけてきた。それを差し置いて目的地へ向かうのも別の問題が生じるかもしれない。

 さらに、異常な気配に包まれた森で、どのような不測の事態が起こるか分かったものではない。

 異様な気配の場所と方向は違っても、先発の魔法使いたちの側で、森の異変の発生源が出現でもすれば、ひとたまりもないのではないか。

 先発の魔法使いたちが見ず知らずの人々であれば、得体のしれないものに襲われてもキュリアスが気に病むこともない。が、年末年始を共に過ごした彼らを知らない仲とは言えなかった。

 それに、見当違いの方向を探していることを指摘し、魔法使いたちを導くことが、キュリアスにはできる。

 魔法使いたちの手助けをすれば、感謝され、酒の一杯でもおごってもらえるだろう。

 また、見知った魔法使いたちが危険に遭遇するかもしれないと考えると、見捨てることなどできなかった。

 キュリアスは目的を定めると、南へ向かうと言った。

 森の中を南下する。日差しの下に出れば歩きやすいが、涼しい森がそこにあるのだ。無理して太陽光に焼かれながら歩く必要はない。

 そもそも、マデリシアは森から出るつもりがないかのように、木陰を伝うように歩いた。

「風以外に物音が聞こえませんね」

 エリックの声が背後から聞こえた。不安を含んだ声は、低く沈んでいた。まるで誰かに聞きとられるのを避け、木陰に隠れているかのようだ。

 エリックの気配から、しきりに左右に眼を配っていることが分かっていた。さすがにキュリアスの観察よりも、異様な気配の森が気になるのだ。

 赤い小さな実をつけた、背の低い木があった。そこかしこに幾つも見える。そこに虫や小動物の姿も気配もなかった。赤い実は熟れて甘い匂いを、周囲に漂わせている。中には実が裂けているものもあった。

 鳥のさえずりさえ聞こえない。

 木々の根元には草花が咲き、鮮やかな彩りを見せていた。その草を分けて進んだ、獣道がいくつもある。しかし、その道を作った生き物の姿も気配もなかった。

 キュリアスにとって、動くものの気配がない森は居心地よかった。絶えず頭に入り込んでくる周囲の気配は、時に煩わしく、キュリアスの精神を蝕んだ。この森はその負荷が減り、心が解き放たれたような錯覚まで生じた。

 キュリアスが解放感に浸っている横で、マデリシアは珍しく押し黙り、できるだけキュリアスの傍から離れないように歩いていた。

 マデリシアは森の異常な雰囲気を敏感に嗅ぎ取り、警戒しているのだ。突発的な何かが起こったとしても、キュリアスの傍であれば安全だと考え、腕が触れんばかりに接近している。

 マデリシアの気持ちに余裕があれば、すぐにキュリアスの腕に絡みついたことだろう。それをしない、できないほどに、マデリシアは緊張していた。

 森の異変は、すべての原因が北東部にあるとは言えなかった。

 元々この森はもっと西、国営の馬牧場の傍まで広がっていた。街道沿いに森が広がっていたのだ。

 それを、イクウィップの町を建設するために切り開き、森の面積が半減していた。

 森を切り開く時の騒ぎで多くの動物たちが逃げ出したのである。

 とはいえ、人の気配を利用して天敵から身を守る鳥や小動物の姿まで消えている。

 現在の異常な状態は、北東部に感じる異常な地点と、人の手が森に入ったことと、双方が絡み合って、生み出されていた。

 キュリアスにも分からない、未知の森が北東部にある。

 気配を探知できないマデリシアも周囲の状況から、後ろに広がる森を恐れるように警戒していた。

 森はその恐怖心をあおるかのように、静かに広がっていた。

「こんな気味の悪い森、初めてだわ」

 マデリシアが背後の森を窺いながら言った。

 木漏れ日が揺れ動き、暖かく見える。マデリシアの印象とはかけ離れた景色が広がっていた。

「そうですか?豊かできれいな森に見えますよ」

 エリックは見た目通りの印象を抱いているようだ。

 マデリシアはキュリアスのように広範囲の気配を探知することはできない。しかし、彼女は幼少期から命を狙われて育ったために、危険に敏感だった。

 虫の知らせとも言うべきか、何の根拠もなく、前触れもなく、恐怖を覚えることがある。マデリシアは今も、言い知れぬ恐怖を感じ、鳥肌が立った腕を、時折さすっていた。

 何より、マデリシアは自分の感覚を信じている。目の前の豊かな森とは違う印象を受けても見た目に惑わされることなく、感覚の方を信じて、油断なく辺りを警戒していた。

「さしあたって問題ない」

 キュリアスはマデリシアに声をかけた。

「そう、なの?」

 マデリシアは半信半疑と言った表情で答えた。それでも、キュリアスの言葉が効いたのか、肩の力を抜いた。彼女は自身の感覚と同様に、キュリアスを信頼していた。

「何かあるんですか?」

 エリックは怪訝そうに後ろに広がる森と、前を行く二人の様子を交互に見た。

「さあな。…調査に行けば分かるさ」

 キュリアスは曖昧に答えると、もうすぐ合流すると告げた。怯えているマデリシアの前に、見知った相手とはいえ、急に人が現れれば、慌てることになる。大声で叫ばれても困る。前もって知らせておけば、その心配も減るというものだ。

「エッジには第三の眼があるって聞きましたけど、それで分かるのですか?」

 エリックの問いかけに、キュリアスは足を止めて振り向いた。質問の意味を理解できなかったからだ。

「第三の眼?」

 短く問い返すキュリアスの眼を、エリックは見返していた。というより、キュリアスの額の辺りを探るように見ていた。

「そうです。額にある…どうやらこの噂は間違いだったようですね。後頭部にあるとの噂もありますよ。だから背後からの攻撃も避けられるのだと。ちょっと髪を剃ってみませんか?」

「剃るかっ!」

 キュリアスは呆れた。真剣に問い返したのがばからしい。踵を返し、前方の気配の方へ向かおうとした。

「どれどれ?」

 マデリシアがキュリアスの前に立ち塞がり、両手を伸ばしてキュリアスの頭部を触った。先ほどまでの恐怖はどこへやら、おもしろがってキュリアスの頭部を撫でまわした。

 マデリシアの顔が近い。

 キュリアスは思わず顔を背けると、

「そんなものねぇ」

 とぶっきらぼうに答えた。ただ、マデリシアの手を払いのけるようなことはしなかった。この近さでマデリシアがキュリアスをからかい始めたら、何をしでかすか予測ができない。マデリシアが手を放すまで待つのが正解だ。

 マデリシアは思わせぶりなウインクを一つ残して離れた。

「では武術の達人が言う、心眼というものですか?」

「それ近いと思うわ」

 マデリシアが答えていた。答えながら、もう一度手を伸ばしてキュリアスの頭を触ろうとする。キュリアスは咄嗟にマデリシアの手首をつかんで阻止した。が、すぐに失敗だったと分かり、内心ため息をもらした。

 手首をつかまれたマデリシアは潤んだ瞳でキュリアスを見上げていた。残った手を口元に当て、妙なシナまで作っている。

 緊張が解けるとこれだ。キュリアスはまたからかわれていると理解し、少し乱暴に手を放した。

 キュリアスが進行方向の茂みに視線を向けたのと、マデリシアが身構えたのが、ほぼ同時だった。ただ、身構えたと分かったのはキュリアスだけだ。僅かな変化のため、エリックはまるで気付いていない。

 キュリアスの見つめる先で、茂みから音が聞こえた。エリックはその音に反応して目を向けた。

 キュリアスはマデリシアの前へ進み出ると、手を広げてマデリシアの先制攻撃を阻止した。

 茂みから出てきたのはローブに身を包んだディグ・コリンズだった。

「びっくりさせないでよ」

 マデリシアが安どの声を発したものの、ディグの声に遮られた。

「びっくりした!」

「その声にびっくりしたわよ!」

 負けずに声を上げるマデリシアだった。



  3


 ディグはマデリシアの声に尻餅をつき、茂みの中にはまり込んでもがいた。

「なにやってるのよ。勝手に行動しないでって言ってるでしょ」

 ディグの後ろから女性の声が聞こえたかと思うと、ローブに身を包んだマリア・ベネフィカが、茂みをかき分けて現れた。指を空中で振ると、ディグに絡まった茂みが生き物のように動いて離れた。

 ディグはマリアや茂みの不思議な現象には目もくれず、茂みから解き放たれるとすぐに立ち上がり、キュリアスの後方に立つエリックに視線を向けて、やっと来ましたかと笑顔を浮かべた。

 ディグとエリックは互いに歩み寄り、握手を交わした。

 ディグは後ろからマリアに抗議されても聞いていないようだった。

「ディグ。あなたは自身の身を守れないのだから、一番に飛び込むのは止めていただけません?」

「ママが心労で倒れちゃうわ」

 マリアの抗議を、若い声が茶化すように引き継いだ。その声は空中から聞こえた。見上げると、少女が杖に腰かけて浮いている。

 キュリアスは、魔法で空を飛べると噂には聞いたことがあっても、実際に飛んでいるところを目撃したことはない。思わずまじまじと眺めたが、空中にいるのは特別な存在ではなく、マリアの娘、シャロン・ベネフィカだ。

 マデリシアもキュリアスと同様に、目を丸くして空中のシャロンを眺めていた。

 マリアの後ろの茂みが動き、ローランス教の法衣に身を包んだシンディ・エイティネイトが現れた。森に入っていた魔法使いたちはこれで勢ぞろいしたことになる。

 エリックとディグは周りの声が聞こえていないのか、二人で語り合っていた。端々に聞き取れる言葉はゴブリンだとか、ゴールドバードだとかで、ディグの仮説は正しかったとエリックは興奮気味に告げていた。

 マリアは抗議しても無駄だと悟ると、木漏れ日に向かって顔を上げた。しばらく放心したように木漏れ日にあたっていたかと思うと、おもむろに腰に手を当て、顔を下ろした。その表情には有無を言わせない迫力がこもっている。

 キュリアスとマデリシアは足音も立てずに、ディグとエリックの傍から離れた。二人とも、これから何が起こるか分かっていないものの、危険なものであると察知していたのだ。

「ディグ」

 それはマリアの優し気な呼びかけから始まった。マリアの表情は言葉同様に微笑が浮かんでいる。

 ディグは反応しなかった。

「エリック」

 マリアは二人が呼びかけに反応しないことを確かめると、口角を上げた。

 次の瞬間、どこからともなく、細長い蛇のようなものがディグとエリックを襲った。二人が戸惑い、悲鳴を上げる間に、それは二人の身体に巻き付いて自由を奪っていた。

 ディグに巻き付いたものはロープだった。まるで生き物のように拘束し、身体を持ち上げ、顔を強制的にマリアの方へ向けさせた。

 エリックにもロープが巻き付いたのだが、エリックの身体の回りに見えない壁があるかのように、ロープはエリックに近づけずにいた。

 エリックは異変に気付き、自らマリアを振り返った。

「初めからこうしていればよかったわ」

 マリアは笑顔を崩さずに言い放った。マリアが杖を動かすと、その動きに同調して、ロープに捕らわれたディグの身体が移動した。

「これで調査がはかどることでしょう」

「正直、そろそろ別行動をさせていただこうかと考えていました」

 シンディも同調するように言った。ディグを見る眼が険しい。シンディは行方不明の兄を探している。気持ちが焦り、遅々として進まない調査に嫌気がさしていたのだ。

 行動を共にしている魔法使いたちの調査と、シンディの兄探しの先が一時的に一致しているので、行動を共にしているにすぎない。シンディは魔法使いたちの護衛ではないので、いつ別行動に移っても、問題なかったのだ。

「調査は進んでないようね」

 マデリシアはマリアやシンディの言葉から伝わる事実を確認した。

「ええ、そうなの」

 マリアは大きなため息とともに答えた。マリアが杖を動かすと、ロープにからまれたディグの身体が、杖の向きに合わせて移動した。

「ちょ、マリアさん、お願い、止めて」

 身動き取れないディグは、ロープに振り回されながら、とぎれとぎれに懇願した。

「ディグ」

 マリアは杖を操り、ディグを自分の目の前に移動させた。

「ここが危険な場所だということをご存じかしら?」

「ここが?何かの間違いでしょ。これだけ豊かな森で」

 ディグはあっけらかんと答えた。

「キマイラがいるのですよ」

 マリアは感情を押し殺したかのように、歯の隙間から言った。

「それは研究すべき逸材ですよ!ぜひ出会いたいものです!」

 ディグは興奮した面持ちで答えた。

「これでは命がいくつあっても足りませんわ」

 マリアは怒りを通り越して、呆れかえっていた。眼を見開き、空を仰ぎ見た。

「護衛は増えましたよ」

 エリックは助け船のつもりで言ったのかもしれない。が、マリアの冷たい視線が戻って来ただけだった。

 エリックの手はキュリアスとマデリシアを指していたのだが、宙に浮いてただようばかりになった。

「護衛代は誰が支払うのかしら?」

 マリアの声が冷たく響いた。

「魔術師ギルドで支払います」

 ディグが即答していた。

 マリアの冷たい視線がディグを捕らえる。が、ディグは萎縮することなく、これで僕を拘束しておく必要もないでしょうと言い放った。

「あなたにそんな権限はないはずですが?」

「あー」

 マリアの怒りを削ぐ声が上がった。声の主はエリックで、彼の顔の前で紙の束が自動的にめくれ、とあるページで止まった。

「権限はあります。顧問契約の…」

 エリックは細かい条文を説明した。

 マリアは聞き流し、両手を広げて空を仰ぎ見た。

「あんたの気が済むのなら、そいつの手綱は握っておいてくれていいぜ」

 キュリアスは一つ提案を述べた。護衛対象にうろつかれるのは確かに面倒だが、それ以前に、マリアの怒りの矛先を変えない方がいいと判断していた。

 マリアは冷たい視線を下ろすと、

「そうさせていただきましょうか」

 と言い放っていた。

 辺りの色が急激に失われつつある。日が暮れ始めているのだ。

「続きは明日にした方がいいようですね」

 シンディは焦る気持ちを抑えるかのように拳を握りしめ、唸るように言った。日が暮れても、単独でも探しに行くと言わないのは、それだけキマイラがいるという森の危険性を正しく認識している証拠でもあった。

 はやる気持ちは抑えきれないため、握りしめた拳を解くことができない。声にもその感情があふれ出ていたのだ。

「明日からの調査は北東だ」

 キュリアスは怪しげな気配の元を察知している。先発隊の苦労を一瞬で取り払うだけの情報を、森の生き物がいなくなっていることも含めて説明した。

 シンディが期待の眼をキュリアスに向けた。

「キマイラの調査にはなる。シンディの兄の手がかりは、行ってみねぇと分からねぇな」

 キュリアスの言葉を受けても、シンディは落胆しなかった。北東方向を睨み付け、拳をさらにきつく握りしめていた。

 マリアやシャロンも北東方向へ視線を向けている。こちらは眼を輝かせていた。ディグやエリックも同じ眼をしている。

「日が暮れるわ。明日にした方がいいわよ」

 マデリシアの声が、皆の視線を引き戻した。

「そうね。今日は引き上げましょう」

 マリアの決断は早かった。シャロンも頷いている。

 ディグは先に進みたがっているが、ロープに拘束されたままで身動きできない。

 エリックはマリアに大人しく従うようだ。

 シンディ一人が、再び北東に身体を向けていた。今にも一歩踏み出しそうだ。踏み出せば、そのまま駆け出すだろう。身体が勝手に動き、止めることも難しくなるに違いない。

「シンディ。あんたも戻りな。一人では無理だ」

 キュリアスは素早くシンディの前へ回り込んだ。機先を制していた。シンディの足が一歩前へ踏み出され、キュリアスにぶつかるようにして止まった。

 キュリアスの行動が僅かでも遅ければ、シンディは森の奥へ駆けていた。キュリアスはシンディの肩を押し返して引き止めた。キュリアスの両手に、シンディの全体重がかかっているのではないかと思われるほどに、押し返す力が必要だった。

 魔法使いたちはシンディの様子に気付かず、森の出口へ向かった。あるいは夜の森の怖さを知っているがために、日が暮れる前に森から抜け出したかったのかもしれない。

 魔法使いたちは一様に重い足取りだ。暑いさなかの無駄な探索に疲労し、自然と宿へ足が向いたようでもある。

 シンディはしばらく森の奥を睨んで立ち尽くした。その間、キュリアスの手に強い負荷がかかり続けていた。手を離せば、森の奥へ突き進んだかもしれない。

 森の中は次第に薄暗く変わり、周りの色が消えて行った。足元が見え難くなってくると、どういう訳か、小さな物音一つが気になる。

 真夏の夕暮れで、寒くはないはずなのに、森の中は寒気に似たものが漂っていた。

 何かが落ちる音がした。どこかで何かの実が落下したのだろう。ただの自然現象なのだが、生き物の気配が失せている森で、物音が発生するのは異常な事態に思える。

 通常の森であれば、物音が何かの接近を知らせる合図だ。夜ともなれば、小さな物音ひとつ聞き逃すだけで、モンスターや獰猛な獣の接近を許し、ケガや、ともすれば命を落とす結果ともなりかねない。そのために、物音を聞き取ることは大事だった。

 だが、この森に物音はほとんどない。何か大事なサインを見落として、危険な生き物の接近を許しているのではないかと、常に警戒することになる。無音は逆に恐怖を呼び込むのだ。

 自然に構えているように見えるシンディも、絶えず神経を研ぎ澄ませ、周囲の様子を窺っていたのだろう。そんな時に物音が発生すれば、驚きもする。

 キュリアスのように気配を感知して辺りを把握しているのならばそこまで物音に警戒し、怯えることもないが、シンディは物音にひるみ、眼の鋭さが消えていた。同時にキュリアスの手にかかっていた重みが消えた。

 シンディは重い身体を引きずるように魔法使いたちの後を追った。度々森の奥を振り向き、歩みは遅々として進まない。

 今度はキュリアスが動こうとしなかった。当然、マデリシアもキュリアスを見つめて動かなかった。

 二人がついてこないことに気付いたシンディは、森の探索を続けるのかと、淡い期待めいた視線をキュリアスに送った。神経をすり減らす森の探索も、数人で行うのならば、不可能ではない。

 キュリアスの能力をもってすれば、森の探索など容易いものだ。感知するものが多すぎて、神経を逆なでされるような感覚に襲われ続けることを除けば、である。キュリアスにとって、闇夜だろうが、日中だろうが、そう大差があるわけではない。

 キュリアスは今、気になる気配を察知し、確認する腹積もりになっていた。それはシンディや魔法使いたちの目的とは関係ないと予測したため、魔法使いたちやシンディが森から立ち去るのを待っていた。

 しかし、キュリアスの態度にシンディが反応し、足を止めてしまった。

 キュリアスは薄暗がりに同化しつつある黒髪に指を当て、軽く掻いて苦笑した。

「気になることがあって見てくるが…」

 キュリアスの声は小さかったが、静まり返った森の中ではっきりと響いた。キュリアスはもう一度頭を掻きむしると、言葉を選ぶように言った。

「あんたの兄さん、持病持ちのじいさんじゃねぇだろう?…そっちに一人旅のじいさんがいるようなんでね。様子を見てくるだけだ」

 シンディの目的と異なる。彼女は踵を返して森から出ていくものと、キュリアスは考えていた。そのために、気配で察知していた人物について、口にしたのだ。

 ところが、シンディの反応はキュリアスの予想を裏切った。

「人がいるのならば、兄の消息を聞けるかもしれません」

 シンディは力強い眼を取り戻し、同行すると言ってきかなかった。

 キュリアスは詰め寄ってくるシンディを留める手段も言葉もなかった。シンディの兄を思う熱意に勝るものなどない。

 とはいえ、気配を察知している人物は、訳アリだと推察できた。死に関わって生きてきたキュリアスだからこそ、気配で理解したそれは、死を求めて旅する者の殺伐としたものである。

 病のためか、別の目的があるのか、そこまではキュリアスにも気配だけでは読み切れない。ただ、微かに抜身の剣のような鋭い気配も交じっている。そのような人物の元へ、シンディを連れて行くことに気後れした。

 では近づかなければいい。だが、キュリアスは妙にその気配の人物が気になり、放っておけなくなってもいた。

 マデリシアに視線を送っても、彼女は我関せずだった。逆に、戸惑っているキュリアスを楽しげに眺めているようでもあった。

 キュリアスはため息をもらすと、こっちだと一言吐き捨てて、暗く染まっていく森の中を南へ向かった。



  4


 瞬く間に森は闇に沈んだ。

 森の外に出れば、まだ赤く染まった空が辺りを照らしていただろう。だが、その光は森の中まで届かない。森の木々、生い茂った葉が、光の最後の一滴までもらすまいと、枝葉を広げている。光は全て吸収され、森を歩くキュリアスたちの足元は闇の沼のようにすべてを覆い隠した。

 闇は光と一緒に熱まで奪っていったのかもしれない。時折、冷気を帯びた風が吹き抜けた。真夏とは思えない冷たさである。じっと風にあたっていれば、寒気すら感じるほどだ。

 あるいは、闇に対する恐怖心が、冷気と勘違いさせているのかもしれない。

 何かしらの物音がすべき森で、何も聞こえないとなると、異様な空気を嫌でも感じざるを得ない。

 本来の森であれば夜行性の動物たちが動き回り、そこかしこで物音が発生するものだ。それが聞こえない。そして、闇の森ともなると、胸の奥で不安が膨れ上がっていく。

 自分の足元で枯れ枝が折れる音にも驚き、身体がこわばる。

 並の神経の持ち主であれば、この状況に耐えきれず、早々に森の外に出る。さもなくばランタンなどの明かりを用意し、慎重に足元を照らしながら歩くことになる。

 キュリアスは明かりを持たない。マデリシアも同様だ。二人は闇の森を平然と歩いた。木の根に足を取られることも、幹にぶつかることもない。まるで闇の森の景色が見えているかのように歩いた。

 二人の後に続くシンディは、ともすれば闇に溶け込んでしまいそうなキュリアスの背中を必死に追いかけていた。木の根に躓き、幹にぶつかりながらも、何とかはぐれずに済んでいる。下草に足を取られても持ちこたえる。

 シンディの動きは、武術を体得した者特有の体幹の良さが現れていた。そうでなければ、闇の中に取り残され、キュリアスたちを見失っていたであろう。

 逆に、これだけ視界が利かず、足元も悪い中で遅れずに済んでいる辺りに、シンディの身体能力の高さが現れていると言っても過言ではなかった。

 キュリアスの歩く速度が落ちた。前方に焚火らしい揺らめく明かりが見えていた。

 マデリシアはキュリアスの横に並ぶと、前方に眼を凝らして様子を窺った。だが、生い茂る木々や下草が邪魔で、何も確認できない。

 シンディはキュリアスたちの動きが遅くなったことに気付かず、キュリアスの背中に飛び込むように前のめりに倒れた。キュリアスの背に手をつき、荒い呼吸をしている。

 キュリアスは立ち止まってシンディの支えとなり、彼女の呼吸が整うのを待った。

 まだ遠い焚火の明かりでも、明かり一つあるだけで、森に対する不安が薄らぐ。シンディも、マデリシアですら、表情が僅かに和らいでいた。

 闇の森で平然としていられるのはキュリアスくらいなのかもしれない。

 シンディの呼吸が整うのを待ち、キュリアスは焚火の明かりを目指して再び歩き出した。マデリシアとシンディはキュリアスの少し後ろを歩いた。

 シンディは明かりを見て、眼に浮かんでいた不安が消え、元来の意志の強さを示していた。次第に歩調を早め、キュリアスの前に出る。

 いきなり襲い掛かっては来ないだろう。キュリアスはそう判断し、シンディの逸る足を止めなかった。

 案の定、気配の主は焚火の傍から動こうとはしなかった。来客の接近に気付いていないのではないかと、脳裏をかすめたが、キュリアスは気配の主が接近に気付いており、気付かぬふりをしているのではないかと考えた。

 近づくにつれ、男の咳が聞こえた。姿はまだ見えないが、繰り返される咳が、老齢のものに聞こえた。

 一本の幹をかわすと、焚火の光が眼に飛び込んだ。一瞬眼がくらんだために、その焚火の傍に腰を屈めて座る痩せた男の姿が認識できなかった。

 男が咳き込み、口元に手をやることで、そこに人がいると分かったのである。

 男の隣に剣が一本立てかけてある。立ち上がりながら抜き放てるようにしているのだ。いつでも臨戦態勢に入れる証でもある。

 男の咳が止まった。

 男の鋭い眼光がこちらに向いていた。

 キュリアスたちはまだ焚火の明かりの圏外で、影に紛れているはずだが、男は見えているかのように凝視していた。

 やはり気付いていたか。キュリアスは男の反応に、感じ取っていたものが正しかったと確信した。

 武術の達人ともなれば、キュリアスほど広範囲ではないにしろ、気配を察知できるという。男はその領域に達していることを、その眼が語っているのだ。

 キュリアスは心が弾んだ。達人と接する機会は希だ。気配でそうではないかと疑い、期待していた。それが確信に変わると、キュリアスは楽しいことを見つけた子供のように心を弾ませていた。

 キュリアスも剣を使う。それ故に、腕の立つ相手とどちらが上か、競ってみたいと思うことはよくある。相手が達人ともなれば、またとないチャンスである。

 キュリアスの子供のころであれば、育ての親にして師匠であるサム・ガゼルが、興味の相手だった。所属していた部隊にも数人、腕比べしたい相手がいる。

 いや、部隊の連中は倒すべき相手か。キュリアスは口の中で独り言ちた。

 育成を待つ相手であれば、アレック・ヒューイットやラルフ・フォーティスがいる。アルバート・フェンサーもそうだ。今やれば負けることなどないが、彼らの技量が増した時、いい勝負ができるのではないかと考えていた。

 キュリアスは思考を男に戻した。男の殺気に引き戻されたようにも思える。

 男から感じ取っていた気配の中に、死を覚悟した殺伐としたものを感じ取っていた。自身の命を燃やし尽くし、相対する者をも焼き尽くす。言うなれば、抜身の刀身のような気迫が混ざっていた。

 男の元へ向かいながら、キュリアスはその気迫が達人のものではないかと疑い、腕比べできれば、などと心躍らせていた。

 その刃と、俺の刃、どちらが鋭いか。キュリアスは湧き立つ感情を押さえた。気持ちは逸るが、いきなり勝負を申し出ても聞き入れはしないだろう。

 それに、一歩間違えば、闇夜の襲撃者と間違えられ、先頭を行くシンディがいきなり斬られる可能性もある。楽しい遊びを見つけた子供のようにいそいそと進み出るわけにもいかなかった。

 キュリアスはいつでもシンディの前へ割って入れるように警戒しつつ、焚火の明かりの元へ足を踏み入れた。

 シンディは明かりの中に立つと早速に声をかけた。

 男は剣に手をかけることはなかった。ただ、いつでも抜刀できると、キュリアスは理解していた。ただ座っているように見えて、隙が無い。

 ますます期待が膨らむキュリアスだった。しかし、焦っては事を仕損じる。無益な血を流すことにもなりかねない。犠牲になるのは、シンディか、自分か、はたまた相手か、分からないのだ。

 シンディは兄の行方を尋ねることに頭がいっぱいのようで、男の尋常ならざる気配に気付いていない。名乗ると、矢継ぎ早に兄の特徴を伝え、見かけなかったかと尋ねていた。

 シンディは一言一言口を開くたびに、足も一歩、また一歩と相手に近づいた。

 男が剣をつかみ、抜きざまに斬りつけるのではないかとキュリアスは冷や汗を流した。それほどの気迫を、男は放っている。

 キュリアスはいつでも割って入るつもりだが、間に合うかどうかは定かでない。

 男の口角がかすかに上がった。

 どうやら、来客を試すためにわざと気迫を放っていたらしい。キュリアスの視線が男の眼とあった途端に、気迫は消えていた。

 男はキュリアスを見上げたまま、シンディの話を聞いていた。男はキュリアスたちを野盗の類とは違うと判断し、警戒を解いた。そして同時に、キュリアスという同類の匂いがする男に興味を持ったようでもあった。

 シンディは切羽詰まったように兄の行方を尋ねた。尋ね慣れているようで、感情的にまくしたてているのに、要領を得た説明だった。

「すまんな。嬢ちゃん」

 男は視線をシンディへ向けると、そう言った。口を開いたことで、止まっていた咳が再びあふれ出た。咳の合間、合間を利用して、男は言った。

「わしは南から旅してきたばかりでな。残念ながら見かけておらん」

 男の声は優しかった。咳のために間延びした会話になってしまっているが、律義に答えている。

 シンディはそうですかと静かに言うと肩を落とした。すぐに気を取り直して顔を上げると、お湯はありますかと言った。

「いいハーブを持っています。少しは咳が治まると思いますよ」

 シンディは男が指差す小さな鍋に、小袋から取り出したものを入れて焚火にかざした。

 火の傍に近づいて男の顔をよく見ると、多くのしわが刻み込まれていた。眉毛が濃く、力強い眼をしている。その眼とは裏腹に、剣は振るえないのではないかと思われるほどに身体がやせ細っていた。

 やせ細り、しわが多いため、老齢に見えるが、眼光からするとまだ若いのかもしれない。咳が老齢者に聞こえるのは病のためかもしれなかった。

 キュリアスはそれでも、じいさんと声をかけた。

「すぐそこに町があるぜ。こんなところで野営しなくてもいいだろ」

「労咳でな」

 男はキュリアスの言葉を途中で遮った。咳き込みながらも、主張はしっかりしていた。

「人にうつして迷惑をかけたくない」

「そうか」

 キュリアスは短く答えると、焚火の向かい側に腰を下ろした。

 マデリシアは何も言わず、シンディがハーブディを男に渡すのを見届けると、彼女を連れてキュリアスの背後に移動した。

 男はハーブティを口に含んだ。のどが少し楽になったのか、残りもちびちびと喉へ流し込んだ。

「じいさん、剣客だろう?」

「分るか?」

 キュリアスの問いに、男は嬉しげに答えた。咳が少し治まったようだ。病人としてではなく、一人の剣客として見られたことも嬉しいらしい。

「どこへ腕試しに?」

 キュリアスの次の質問にも、男は微笑んだ。眼が夜空に向いた。

「わしはな、これでも先の大戦に参加したことがある」

 先の大戦とは、フォートローランスやスペリエントなど、複数の国で覇権争いした戦争のことだ。キュリアスの生まれる以前に終結している。小競り合いが完全に終結したのはそれから数年後だとしても、大戦と称されるものは、二十五年ほど前に終戦した。

 もしも男が少年兵として参加したのであれば四十代か、五十代かもしれない。見た目より若い可能性が出てきた。

「あのころは色々な戦場を駆け巡ったものだ」

 男は遠い眼をしたまま話を続けた。

「若かりし頃のカークロス・ハート国王陛下と共に戦ったこともある。ビトレイアル卿の素晴らしい剣技もこの眼で見た」

 キュリアスはビトレイアルと聞いてサイモン・ビトレイアルを思い出したが、大戦で戦ったとなると、彼の父親に違いないと思いなおした。

 大戦で戦功を上げた剣士の話はキュリアスもよく耳にし、その剣士たちと腕試しをしてみたいと思うことがある。叶わぬ夢だが、こうして男の話を聞いていると、その腕試しをしてみたいという思いがふつふつと湧き起っていた。

「わしは当時三十六でな。剣の技もわしなりに相当な腕前と自負しておった。ビトレイアル卿とて、負けるとは思わん。まあ、勝てる自信もなかったがの」

 男はそう言って笑った。黄ばんだ歯が並んでいる。

 男は少なくとも六十を超えた老人だ。やはり最初に受けた印象が正しかったのだと、キュリアスは考えを改めた。ただ、老人とは思えない剣気が、時々ほとばしっているのを感じていた。

 老人の発する剣気がより一層強まった。

「それでもわしは怖いと思ったことがある。あれは忘れもせん。スペリエントとの戦いだ」

 老人は小さく震えてみせたが、発する剣気は逆である。

 どうやら、その時恐怖した相手に挑みたいらしい。キュリアスはそうあたりをつけて話を聞き続けた。

「スペリエントの兵は雑兵と言えども、まさに一騎当千だった。味方が瞬く間に倒されていった。わしは数人の仲間と共に懸命に戦った。だが、わしが一人倒す間に、仲間が数人倒れた」

 昔の仲間を偲んでか、老人は眼に涙をためていた。

「気付けばわしは一人、スペリエント兵に囲まれておった。死を覚悟した。ただでは死なん。そう決意して柄を握っても、足が震えておった」

 老人は不甲斐ないと呟いた。

 聞いている限りでは、老人の生き残る余地はなさそうに思えた。しかし、彼は焚火の向こうにいる。その窮地を脱し、生き延びたことは間違いない。

 老人は焚火を見つめ、口を閉ざした。炎の中に、過去の戦場が映し出されているのかもしれない。

 マデリシアは少し離れたところで聞き耳を立て、様子を窺い続けている。シンディも落ち着いた様子で、老人の話に聞き入っているようだった。

 マデリシアが顎をしゃくり、キュリアスに続きを聞けと訴えた。続きが気になるらしい。

 キュリアスは小さくため息をもらすと、老人に向き直った。自分も続きが気になるのだから、促されるまでもなかった。

「それからどうなったんだ?」

「ん?ああ、すまん」

 老人は虚を突かれたように顔を上げ、しわだらけの手で顔を覆った。手を放し、続きを語ろうと口を開いた。が、出てきたのは激しい咳だった。

 キュリアスは立ち上がって老人の傍に向かおうとした。それを老人は片手を上げて制した。咳が治まるまで、手を上げ続け、キュリアスを押しとどめた。

「近づかん方がいい」

 男はやっとのことで言った。

 シンディの作ったハーブティはすでに空になっている。男は咳き込みながら、手探りで自分の荷物をあさった。

 荷物の中から何かを取り出すと、口の中に放り込み、上を向いて喉仏を動かした。次第に咳が治まり、落ち着きを取り戻した。

「高い買い物をしただけはある。これでしばらくは大丈夫じゃろう」

 老人はすらすらと声を発した。先ほどまで咳をしていた人物とは思えない。

 老人は手で、キュリアスに座るように示した。

 キュリアスは大人しく従い、元の場所に腰を下ろした。

「わしは死を覚悟した。一人でも多く道連れにしてやると、覚悟を決めた」

 老人は再び語った。

「ところがじゃ。スペリエントの一人の士官が前へ進み出た。わしの覚悟を見極め、一対一でケリをつけに来たのじゃ。確かにその士官はいい腕じゃった」

 老人は再び遠くを見る眼になった。

「その士官は言った。私が一対一で打ち取る。万が一にも私が破れ、こやつが生き残ったのならば、手出しを禁ずる。無事に帰してやれ」

 老人は言葉を区切った。

「妙なことを言うと思ったものじゃ。が、深く考えておる余裕などない。わしは全身全霊で戦いに向かった。なるほど、言うだけあって、わしの剣技など全く通用しなかった。その士官の剣技に隙はない。打ち込んでも、引いても、隙が無いんじゃ」

 老人は身振りも加えた。目の前の炎と戦っているかのように、手を振り、身体を動かした。

「奴の切っ先は下からくるかと思えば横に飛び、上からくるかと思えば斬り上げておった。何をどうしているのか皆目見当もつかなかった。いっぱしの剣士を自負しておったわしが、なす術なかった。防戦一方じゃった」

 老人は身体の動きを止めた。少し呼吸が乱れている。病のため、体力が落ちているのだ。

「じゃが、わしにも起死回生の一手がなかったわけではない。その瞬間をひたすら待ち、耐えに耐えた」

 キュリアスは目を閉じて話を聞いた。二人の剣士の戦う様が、まぶたの裏に浮かぶ。

「なにより、士官の動きはやはりあの出足が優れておった。一歩踏み込んだかと思えば、瞬く間に肉薄しておる。引いたかと思えば、わしが追い付けんほどの跳躍じゃった」

 キュリアスもスペリエントで育った身だ。スペリエント兵の足腰に定評があることは、重々承知しており、容易く想像できた。その最たる例が、サム・ガゼルだ。

 サム・ガゼルはキュリアスの師匠にして、孤児だったキュリアスの育ての親でもある。

 サムの一歩は瞬時に十メートルを詰める。それを不規則な移動に取り入れているので、予測できないところから肉薄され、対処に戸惑ううちに打ち負かされる。

 老人も同じように感じ、四苦八苦したのだろう。剣の腕前もあるとなれば、相当苦労したはずだ。

 サムほどではないだろうが。キュリアスはそう考えて、思わず苦笑した。あれは化け物の部類に入る。老人がいかに剣の達人だったとしても、サムが相手では、瞬時に負けていたに違いない。初見殺しもいいところだ。キュリアスは頭の中のサムに向かって文句を言っておいた。

 気配を察知でき、抜群の運動神経、反射神経を誇るキュリアスでも、サムの初太刀を凌げるようになるまで歳月を要したものだ。

 キュリアスが感傷に浸っている間も、老人は戦いの様子を詳しく語っていた。よほど印象に残った戦いらしく、細部に至るまで、未だに覚えているようだ。

「じゃが、あれは悔いの残る戦いでもあった」

 老人の声が沈んだ。

「不慮の事故で相手の士官が?」

 マデリシアが先を予測した。

 老人はゆっくりと顔を上げ、マデリシアを見た。

「いや」

 老人は短く答えると、顔を手で覆った。

「伝令が届いたのじゃ。戦争は終わった、とな」

 老人はくぐもった声でそう言うと、手を放し、顔を炎に向けた。

「終戦協定の結ばれた日じゃった」

 老人は呟くように言った。

「スペリエントの士官は律義じゃった。そのままわしを倒してしまっても、誰も文句は言うまい。じゃというのに、士官は終戦の知らせをわしにも教え、疑心暗鬼のわしをそのまま残し、撤退したのじゃ」

 その命拾いに納得がいかなかったことは、老人の顔を見れば一目瞭然だった。

 その悔いが残ったまま死ねない。老人はそう考えたのではないだろうか。だから、病魔に侵された今、病で死ぬよりも、当時の戦いの続きを望んで、北を目指しているのではないか。キュリアスはそう思えてならなかった。



  5


「病気はひどいのか?」

 キュリアスはしばらく無言で焚火を見つめた後、老人に尋ねた。

 老人は鋭い眼をキュリアスに向けた。口元は笑っている。

「長くはないの」

「死出の旅で、北に、か」

「そのようなものじゃな」

 老人は軽く答えた。

「止めんでくれ」

 言われるまでもなく、キュリアスは止めるつもりなどなかった。マデリシアを見ると、彼女も何かを悟ったらしく、小さく頷いた。

 キュリアスが頷き返すと、マデリシアはシンディを促して森の中へ入っていった。

 二人の足音が聞こえなくなるのを待ち、キュリアスは老人を見た。老人も訝しむようにキュリアスを見ている。

「一応聞いておくが、そのスペリエントの士官の名前は?」

「さあの。互いに名乗りは上げなんだ」

「そうか」

 キュリアスはもう一度焚火を見つめた。自分の中に、炎がくすぶっている。それは老人がつけたのか、あるいは老人の話を聞くことによってついたのか、その辺りは定かではない。

 ただ、キュリアスも腕前に自信があるためか、達人と呼ばれる剣士の話を聞くと、胸が躍る。自分も戦ってみたいと思う。

 別に自分の強さを誇りたいわけではないが、だからといって、腕比べに興味が無いわけでもなかった。

 老人は死出の旅に出ている。ここからスペリエントまではまだかなりの道のりがあり、老人が無事にたどり着けるとは限らない。たどり着く前に、病魔に負けてしまうこともあり得るのだ。

 あるいはその士官がすでに亡くなっていたり、探し出すことが出来なかったり、探し出せても戦えない状態だということも考えられる。

 そうなれば、老人は悔いを残したまま、死んでいくことになる。それは同じ剣士として、無情に思えた。

 話を聞かなければ、そのまま捨ておくこともできた。

 自分の剣の腕に自信が無ければ、やはり捨て置いただろう。

 いや、達人の気配と分かった時から、捨て置くことなどできなかったに違いない。

 そして何より、スペリエントというかかわりが、自分にはある。キュリアスはそう考えると、老人と一戦交えるのが使命のように思えた。老人のためでもあるように感じた。

「無理にスペリエントまで旅することもない」

 キュリアスはこの言葉を発するまで、だいぶ時が流れたように感じていた。その間、老人の鋭い視線がキュリアスを射続けていた。

「たかが冒険者風情に…」

 老人の顔から笑みが消えていた。同情はいらんと、身体中から意思が湧き出ている。

 キュリアスはゆっくりと立ち上がった。

 老人も、横の剣をつかんで立ち上がった。

「誰にも止めさせはせん」

 病魔に侵されているとは思えない気迫を、老人は発していた。咳していたのを目撃していなければ、その威圧感で押し通せただろう。

 病魔に侵されていなければ、相当な技の冴えを見せるのではないか。そう考えると、キュリアスは惜しく思えた。全盛期の老人と対峙してみたかったと、妙なことを残念がった。

「無理してスペリエントへ出向く必要なんてねぇぜ」

 キュリアスはもう一度言って背中にある剣を親指で示した。

 老人はキュリアスをゆっくりと一瞥した後、同情でもしたかと唸った。

「病気持ちの老人なんぞ、冒険者風情でも勝てると思っておるの」

 老人ははっきりとした声で言うと、咳をした。咳が治まると、侮りおってと、唸り、また咳をした。

 老人にはやはり、まともな勝負は望めそうにない。まして、スペリエントまで旅して、剣を振るう体力が残っているとは思えない。

 さらに、明らかな病人相手に、誰が剣の相手をしてくれようものか。まともに相手にされず、無念のうちに倒れるに違いない。

 そこまで考えて、キュリアスは老人を不憫に思った。

「俺も元はスペリエントでね」

 キュリアスは言った。

 スペリエントの名は、老人の興味を引いた。キュリアスに対する怒りも加わり、激しい剣気を発していた。

 老人とキュリアスが睨み合う。

 物語りならば、互いに名乗りを上げ、いざ尋常に勝負と言った流れなのかもしれない。だが、キュリアスは、マデリシアが語って聞かせる物語は好きだが、自分が同じ流儀でやるつもりもなかった。

 キュリアスに一つ懸念がある。これはキュリアスの道場からなのではないか。道場で剣を交えるのは、気が引けた。

 同時に、キュリアスは老人の剣気に当てられ、本気で手合わせしてみたいとも思っていた。

 老人を本気にさせる言葉があるように思われた。それは名乗ることではない。キュリアスの元の所属を言うことだ。その部隊のことを老人が知っていれば、老人にとって、キュリアスはちょうどいい相手となるはずだ。

「じいさんは知っているか?ソード隊ってのを」

 老人の細い身体が、剣も持てそうにない身体が、急に大きくなったように見えた。

「しらいでか」

「俺が元ソード隊の隊員だとしたら、どうするよ」

 老人の身体に闘志がみなぎっていた。今までは剣気を使って脅しをかけていたものが、闘志も加わって、より鋭く研ぎ澄まされていた。老人の細い身体が、抜身の剣を思わせるほどである。

 老人はキュリアスの言葉を疑うことなく、スペリエントの噂に聞く部隊の出身と聞いて、血がたぎっている様子だ。それでも、一応の警告をした。

「わしの話を聞いてなお、嘯くのならば、覚悟ができておろうな」

 老人の声に力がこもっている。咳に中断されることもなかった。

「もとより」

 キュリアスは短く答えると、お手合わせ願えるかなと、付け加えた。

「わしもひとかどの剣客。やるからには、病人と侮るな」

 老人は唸るように言うと、剣を抜いた。口元がほころんでいるところをみると、まんざらでもないことが分かる。ただ、持ち上げた切っ先が僅かに揺れている。支える腕力も衰えているのだ。

 後は技と気迫でどれほど補えるものか。キュリアスは少し残念に思った。が、対峙するからには、同情ばかりしていられない。背中の剣をつかみ、抜き放った。

「さて若造。腕前を見てやろう」

 老人は踏み込む体力もないのだろう。挑発するように言い、切っ先で向かってくるように促した。

 キュリアスの黒い服、黒い髪は、焚火に照らされてなお、影のように黒い。老人は影を見ていた。

 実際にそれは影だった。次の瞬間、キュリアスは老人の背後に立っていたのだ。

 老人は驚いて振り向いた。ただ、取り乱すことはなく、剣を後ろに向かって振っていた。

 キュリアスはその太刀筋を一歩退いて難なくかわした。

「どうやら、戯言でもなかったようだ」

 老人の力強い声が響いた。気迫のこもった声が、剣を後押しする。

 老人の二太刀目を受け流し、キュリアスは踏み込んだ。が、そこで攻め手を止め、いったん下がった。

 キュリアスは蹴りを見舞うつもりだったのだが、相手は剣士で、剣の勝負を挑んでいる。体術を混ぜては失礼にあたると思いいたっての後退だった。

 それに、老人の太刀は鋭かったが、すでに肩で呼吸し、咳まで出始めていた。病で負けたと、悔いを残させないためにも、老人の復調を待つ必要があった。

「病人と侮って手を抜きおったな」

 咳が治まると、老人はキュリアスを睨みつけた。

「先ほどの立ち回りで手を抜いたこと、後悔させてやる」

 老人は腰を落とし、両手を引き、剣を突き出すように構えた。

 キュリアスは森の西の街道に、馬車が差し掛かる気配を察知した。南から来たものだ。

 こんな時に余計なものを察知して。キュリアスは自分自身に毒ついた。が、感覚はそこから離れてくれない。

 馬車が減速している。まだ町に入ってもいない。

 その馬車の向かう先に、マデリシアとシンディがいる。

 ただ旅人がすれ違うだけの、日常によくあるもののはずだ。だというのに、馬車の減速が気になった。

「何だ。やる気がないのか?」

 老人の声に、キュリアスは意識を引き戻された。

「悪いな。これが元々俺のスタイルでね」

 キュリアスは悪びれずに言うと、意識して剣気を放った。普段は洩れないようにし、それが当たり前になっている。剣気を放つには少々手間取った。

 その隙が、老人に立て直す猶予を与えた。

 一度は剣気に押され、切っ先が下がった。しかし、キュリアスが肉薄する時には持ち直し、老人は鋭い突きを放っていた。

 キュリアスは突きをかわした。かわしたはずの背後に殺気を感じて、キュリアスは地面を転がった。その頭上を老人の引き戻す刃が駆け抜けた。

 素早く距離をとる。

「てっきり二段突きか三段突きかと思いきや、引き戻しで払うかよ」

 キュリアスは老人に声をかけた。老人がまた咳をし、片膝をついていたため、待つ必要があった。

「突きの反動で横に振ることなんてできやしないものを、どういう動きをしたのやら」

 キュリアスは驚いたように言ったものの、気配からその答えも分かっていた。

 老人は突きを放ち、かわされたと分かった時にはキュリアスを避けて飛んだ。ただ飛んだだけではなく、突き出した剣を、足元方向に振り降ろす土産付きだった。

 この振り下ろしが、横振りに見えただけである。言ってしまえば簡単なことだが、並大抵のことではこの動作を行うことができない。

 突きの引き戻しを下、足元方向へ引くことをあらかじめ考えていない限り、できない所業だ。そして、老人はキュリアスの動きに合わせて飛んだので、そもそも考えておく猶予などなかったはずだ。

 それでも老人は剣を振った。それも、病魔に侵され、脚力も腕力の衰えた老人が、である。腕力で強引に振った、などと言う訳ではない。

 初めから用意された動きと考えるのが、やはり妥当だった。一連の動作として考案された、技なのだ。決まった動きだからこそ、咄嗟の時に使えた。

 老人の使う剣技に流派があるとすれば、奥義とか、秘剣などと呼ばれる部類の技に違いなかった。

「これで仕留められんとはの」

 老人の咳が落ち着いていた。声も落ち着きを取り戻し、病人のものに戻っていた。

「何だ?もう終わりか?」

 キュリアスはあえて挑発するように言った。

「ほざけ」

 老人は腰を落とし、座り込んだ。

「三度。わしを殺せたものを、三度とも手を抜きおってからに。なおその口の利きようか」

 老人の剣気もいつの間にか消えていた。

「三度?」

「まさか気付いておらなんだのか?」

 老人はキュリアスを睨んだ。

「一度目は、わしの背後をとった時じゃ」

「ああ。あれか」

 キュリアスは頭を掻いた。

「あれはこっちの実力を見せるためだったからな。攻撃する気なんてさらさらなかったぜ」

「食えん若造だわ」

 老人はそう言って笑った。続きを語りたそうに口を開いたが、声を発する猶予はなかった。

「悪いが、街道でトラブル発生らしい」

 キュリアスは言い置くと、抜身の剣を下げたまま、暗い森の中に飛び込んだ。

 シンディは思いのほか、腕の立つ戦士だったことが幸いしている。キュリアスは暗がりで物にぶつかることなく駆け抜け、感知している気配でシンディたちの様子を把握していた。

 馬車から下りた人物が、マデリシアとシンディに襲いかかっている。シンディは自身の武器で凶刃を受け止め、難を逃れようともがいている。

 だが、状況は芳しくない。馬車の中にまだ数人の気配が残っていた。それらが外に出て、全員で二人を襲えば、ひとたまりもない。

 しばらくなりを潜めていた、マデリシアを狙う暗殺者かもしれない。キュリアスはそう考えながら走った。いや、馬車でやってくるあたり、暗殺者というより、討伐隊というべきだろう。

 しばらく襲われることがなかったため、マデリシアも、キュリアス自身も油断していた。

 マデリシアも油断と、急に襲われたことに戸惑っているのだろう。声に宿る魔力で相手を操ることや、声で衝撃波を発生させて吹き飛ばすことも忘れ、シンディの背に守られていた。

 シンディが奮戦しているとはいえ、急がなければ、最悪の事態が発生しかねない。その前にたどり着かねば。キュリアスはさらに速度を上げ、邪魔な枝を一太刀に斬り捨てた。

 その一太刀で衝撃波が発生する。

 衝撃波は他の木にぶつかることなく森を突き抜け、シンディに必殺の一太刀を浴びせようとした人物を捕らえた。

「ちっ」

 キュリアスは舌打ちをすると、森を飛び出した。

 衝撃波にどう気付いたのかは分からないが、襲撃犯は咄嗟に後退して避けていた。衝撃波は襲撃犯の顔を覆っていた頭巾を斬っただけのようである。

 キュリアスは森から飛び出すと、気配で感じ取っていたものを眼で確認した。

 襲撃犯は破れた頭巾に視界を塞がれ、取り払おうともがいていた。

「遅いじゃないの!」

 キュリアスの襲来にいち早く反応したのはマデリシアだった。マデリシアのその叫び声によって衝撃波が発生し、襲撃犯を吹き飛ばしていた。

 初めからそうしていればいいものをとキュリアスは思ったが、口にはしなかった。代わりにもう叫ぶなと、眼で訴えた。キュリアス自身もその衝撃波に巻き込まれ、危うく吹き飛ばされるところだったのを、踏ん張って耐えたからだ。

 襲撃犯を捕らえ、目的を質さなければならない。マデリシアを狙った暗殺にしては、獣染みた襲い方だ。討伐に来たとしても、馬車の中に残った人々が出てこないことも気になる。全員でかかるのが定石であるのに。

 あまりにも偶発的で、突発的で、まるで本能に任せて動くものに襲いかかった獣の襲撃に似ていた。

 疑問の答えは、吹き飛ばされた襲撃犯に質すしかないだろう。

 キュリアスは詰め寄ろうとして、足を止めた。馬車に残っていた人々が武器を手に飛びだしてきたからだ。全員屈強な男で、規律のある動きだった。全員が顔を黒い布で覆い、隠している。

 軍隊か、どこかの私兵か。キュリアスは統率された一団に舌打ちした。男たちが六人、吹き飛ばされた襲撃犯を守るように立っている。

 この六人は当初、手を出すつもりはなかったのだ。それが状況を見て、襲撃犯を助けに出てきた。男たちは襲撃犯の部下で、手を出すなと言い含められていたのかもしれない。

 あるいは、六人は護衛か。キュリアスが考えに耽っている間に男たちが肉薄していた。

「手を貸しましょうか?」

 後ろからシンディの声がかかった。

 キュリアスはその声で我に返ると思考を頭の隅に追いやり、振り下ろされた刀身を難なくかわした。

「いや、いい」

 下手に手を出して、質の悪い組織に眼をつけられても困る。シンディは巻き込まない方がよさそうだった。

「どうせ雑魚だ。おら、かかって来いよ。すべての敵を迎え撃ってやるぜ」

 キュリアスはあえて大仰に言ってみせた。六人に囲まれてなお、負ける気はまるでなかった。先ほどの労咳の剣士の剣気と比べれば、六人は子供同然だった。統率が取れていることが少々難点であるだけだ。

 一人が斬り込み、その背後から別の一人が向かってくる。横で何人かが別の動きを見せてけん制し、秘かに死角へ入ろうとする一人もいた。

 眼で見えているものを判じて行動していれば、惑わされたかもしれない。だが、キュリアスは気配を感知できる。陽動と分かっている動きに惑わされることはない。死角からの攻撃も、振り向きもせずにかわしてみせた。

 キュリアスは後方で頭巾を外して立ち上がった男を見ていた。よそ見をしながらも、六人の連携のとれた攻撃をかわしつつ、しっかりと反撃までしていた。

 襲撃犯の正体を見極めてやる。キュリアスは好奇心にも似た欲求に駆られ、視線を注いでいた。襲撃犯の正体を知れば、深くかかわることになる。が、黙って見過ごすつもりもない。

 理由のある襲撃にしろ、そうでなかったにしろ、決着をつけるためには相手の正体を知る必要があった。だが、実際のところは、相手が何者で、何のための襲撃なのか、そのことに興味の大半を注いでおり、解決まで考えての行動とは言い難かった。

 キュリアスの反撃で、六人が次々に負傷していった。ある者は腕を切断され、ある者は足を斬られ、武器を折られ、額に傷を負った。無傷の者はいない。

 六人に守られた襲撃犯は覆面を取り払い、体勢を立て直した。ただ、夜の暗がりで、顔は分からない。

 もう一つ気配が近づいていた。森の中からである。キュリアスのおかしな行動が気にかかり、老剣士が追いかけてきたのだ。

 老剣士が森から現れた場所は、六人と戦うキュリアスの前方、襲撃犯の間近だった。

 襲撃犯は森からの物音に反応したのか、姿を現した老剣士を待ち構えていたかのように斬りかかった。

 夜の闇が襲撃犯の顔を覆い隠している。

 傷付いた六人が、執拗にキュリアスにまとわりつき、キュリアスは襲撃犯の元へ向かうことができなかった。顔の確認もできない。

 キュリアスは少々の手傷で六人の男を撃退できると考えていたが、結果として、甘かった。その甘さが、襲撃犯に猶予を与えた。

 老剣士はさすがに剣士であった。出会い頭の頭上より降り注がれた一撃を、咄嗟に横へ飛んで避けていた。さらに、剣を抜きざまに反撃まで放った。

 襲撃犯の二撃目と老剣士の反撃がぶつかり合い、激しく火花を散らした。火花は一瞬、襲撃犯の顔を闇に浮かび上がらせた。

 赤黒い髪。狂気に歪んだ目。笑っているかのような口元。むき出した歯は、今にも相手に噛み付きそうだ。血に飢えた獣の様相である。

 老人が咳き込んだ。

 その隙を襲撃犯は見逃さなかった。重たい一撃を上段から打ち込んだ。老剣士は何とか反応して剣で受け止めたものの、受け止めきれず、肩に食い込んだ。

 鮮血が飛び散る。

 キュリアスはやっとの思いでまとわりつく六人を振りきり、襲撃犯へ飛び掛かった。が、襲撃犯は血の臭いを嗅いで満足したのか、後方へ飛び下がった。



  6


 キュリアスとの戦いに傷ついた六人の男たちが、襲撃犯が乗り込んだ馬車を守るように集まっていた。仲間たちの身体も馬車に押し込んでいる。

 キュリアスは相手が逃げようとしていると分かっても、追うことができなかった。倒れた老剣士に駆け寄り、傷を見たが、肺まで深く達しており、助かる見込みはなかった。

 キュリアスならば、襲撃犯たちを逃がさないようにできたかもしれない。が、しなかった。襲撃犯の顔を見た時から、意識の足枷が、キュリアスをつなぎとめ、追うことができなかった。

 キュリアスの見間違いでなければ、気安く手出しできる相手ではない。殺せば、キュリアスの命の保証はなくなる。捕まえれば、後にキュリアスたちが囚われの身となるだろう。

 手を出す前に、確証が必要だった。そして保険となるものを用意しなければならない。

 幸いにも、襲撃犯を捕まえずとも、相手を確かめる方法がある。

 乱戦の最中、マデリシアがこっそり、馬車の下に潜り込んでいた。彼女はそこで何かを確認したはずだ。その手掛かりから、追跡は可能だと、キュリアスは判断していた。

 気持ちの足枷もさることながら、老剣士の容態が気になったことも事実だった。シンディも駆けつけ、老剣士に治癒魔法を施した。だが、傷が深く、魔法で治せるものではなかった。無駄と分かってもなお、シンディは治癒魔法を使い続けた。

 キュリアスは老剣士の手に触れた。老剣士の眼が開く。

「大丈夫か?」

 キュリアスは自分で間抜けなことを言ったと思った。老剣士は肩から腹部にかけて斬り裂かれている。着衣は赤黒く染まり、顔は青ざめて、唇が震えている。まだ息があることの方が不思議である。

 おびただしい血の臭いが辺りを支配していた。闇に覆われ、におい以外の情報が乏しいために、血の臭いがより一層強く感じられた。

 老剣士の呼吸は肺に届ききらず、どこからか洩れていた。老剣士が咳をすると、大量の血を吐き出した。

「じいさん」

 キュリアスはどう声をかけていいか分からなかった。六人の男をさっさと倒しておけば、こんなことにはならなかった。襲撃犯の顔を確認しようとせず、倒してしまうか、逃げるかすればよかった。あるいは、初志を全うし、老剣士に剣客としての死を与えていれば、このような事態を避けられた。後悔の念が次々とキュリアスの胸を叩いた。

「いいんじゃ」

 老剣士はか細い声で、とぎれとぎれに言った。

「おかげで…剣士…として…死ねる…。最後…良い…ができた」

 老剣士は色を失った顔をゆがめてみせた。笑顔を作っているつもりなのだ。

 老剣士はキュリアスの手を、弱々しく握った。キュリアスは思わず握り返した。すると老剣士は小さく頷き、不意に力が抜け、動かなくなった。

 老剣士は穏やかな表情で、まるで眠りについたかのように見えたが、呼吸は止まっている。

 病気で命を落とすよりも、剣士として死ねることが嬉しかったのかもしれない。だから穏やかな表情になっているに違いなかった。

 老剣士が病に侵されていなければ、振り下ろされた一撃を防ぎ、まだ戦いは続いていただろう。やはり病に死んだとも言える。ただ、本人はベッドの上で死ぬより、斬り合いで死ぬことを望んでいた。そして過程はどうあれ、望み通りの死に方になった。

 シンディが隣で涙を流していた。治癒魔法は元々深手を治すことなどできない。かすり傷程度を治すだけでも奇跡の御業と呼ばれるのに、生死にかかわるものを治せるはずもなかった。それでも治癒魔法を使わずにはいられなかったのだ。

 キュリアスは力を失った老剣士の手を握り、良かったなと、口の中で呟いた。老剣士の望みである、スペリエントの兵士の手、つまりはキュリアス自身の手で送ってやれなかったことが、今さらながらに悔やまれた。

 色々な後悔が頭によぎったが、老剣士の安らかな死に顔を見ると、それも薄らぐ思いだった。老剣士の表情に、キュリアスの心が救われていた。

「じいさん。すまんな」

 キュリアスは詫びとも礼ともとれる言葉をもらし、立ち上がった。

 老剣士は満足していったかもしれない。だが、だからといって、襲撃犯を野放しにするつもりもなかった。キュリアスは近づいてくるマデリシアに目配せした。

「馬車に持ち主の紋章はなかったわ。でも見えない部分に造り主のマークがあるのよね。そこから追跡できると思うわ」

 マデリシアの説明に頷くと、キュリアスは別のことを尋ねた。

「襲撃犯の顔を見たか?」

 この一事が、マデリシアやシンディの今後を大きく変える可能性があった。いや、マデリシアは能力故に簡単に特定され、見ていなくても巻き込まれるかもしれない。

「暗くて見えなかったわ」

 マデリシアは両手を広げてみせた。

「シンディは?」

 キュリアスはうずくまったままのシンディにも確認した。

「私も見えませんでした」

 シンディは老剣士の亡骸を見つめたまま、涙声で答えた。

「何か心当たりでもあるのかしら?」

 マデリシアの勘繰りは正しい。

「見なかったのならいい」

 キュリアスははぐらかすと、シンディの肩を叩いた。

「すまないが、魔術師たちを呼び戻してくれないか。守備隊が来るまでじいさんの遺体を保存したい」

 シンディが振り向いたので、眼を見つめて、頼むと付け加えた。キュリアスはシンディから手を放すと、マデリシアに顔を向けた。

「守備隊を呼んで来いってんでしょ?」

 マデリシアがキュリアスの頼みを先に言った。

「面倒だわ」

「俺じゃ、王都に入れない」

「分ってるわよ」

「守備隊が嫌なら、捜査部に行けばいいだろう」

「ああ。ローレンスね」

 マデリシアは以前の事件でかかわったローレンス・コプランド男爵の名を出した。冒険者に対する偏見を持つ守備隊と違い、彼なら親身に接してくれるはずだ。捜査部も守備隊に属するのだが、冒険者を毛嫌いする守備隊とは一線を画していた。

「あれは何者だったのですか?」

 シンディが口をはさんだ。襲撃犯のことを言っている。

「知らない方がいい」

 キュリアスはそっけなく答えた。

「でも…」

「知れば命が無いぜ」

「なるほど。あれは貴族様かぁ」

 マデリシアが反応を示した。

「あたしに恨みを持ったやつかな?それともただの通りすがりかしら?」

 貴族の子息が遊び半分に人を襲う事件は時々起こっている。対等の地位の者が対応に乗り出さない限り、彼らは罰せられることがなかった。

 マデリシアを狙ったにしろ、遊び半分の襲撃だったにしろ、冒険者が容易に手出しできる案件ではなかった。

 シンディはそれと覚ったらしく、顔をしかめて押し黙った。

 マデリシアはキュリアスを見ていた。その眼が、首を突っ込むつもりね、と語っている。

 キュリアスはその眼に笑って答えた。

 マデリシアはとがめるように眉を吊り上げてみせた。が、彼女も首を突っ込むつもりなのである。だからこそ、馬車の製造元を確認したのだ。

「町に戻りましょ」

 マデリシアはシンディを促して歩き出した。

 シンディがエリックとマリアを連れて戻ってきたのは、それから一時間ほど後だった。

 マデリシアはその少し前に、騎乗で南へ向かった。通りすがりにキュリアスへウインクの一つも投げていく。

 さすがにマデリシアは段取りがいい。イクウィップにある、国営の牧場で馬を借りて王都へ向かったのだ。急げば夜明け前に王都へたどり着ける。

「ひどい…」

 マリアの呟きが聞こえた。声が震えている。

 エリックが入念に傷の確認をしていた。

「ためらいの欠片も存在しない斬り口ですね」

 エリックは死体に対して何の感情も抱かないらしく、淡々と分析した。

「守備隊が来るのは明日の夜だろう。それまで…」

「保存できるようにすればいいんですね」

 キュリアスの言葉を、エリックが続けた。キュリアスはああと頷いた。

 夏の最中に腐敗が進まないようにすれば、ローレンス、あるいはその部下が検分する時に傷の詳細が分かるだろう。

 キュリアスがそう思うのは、一つの関係なさそうな事件と、この斬り口が結びつくのではないかと考えていたからだ。まったく関係なく、ただの杞憂なのかもしれない。

 しかし、杞憂でなかった場合、事件の解決への糸口となると同時に、権力構造の中に踏み込んでいかなければならない、困難が待ち受けることになる。

「分りました。あ、でも、僕は壊しちゃうかも」

 エリックが自信なさそうに言うと、マリアが、私がやりますと気丈に言った。

「あの馬車は町で見かけませんでした」

 シンディは悔しそうに言った。目の前で起こった事件だけに、犯人を捕まえたいと思っているのだろう。

「素通りしただろうさ」

 キュリアスには想像に容易かった。

「でも、けが人もいたはずです」

「そのうち、どこかで死体で見つかるさ」

「そんな…」

「そんなものさ」

 キュリアスが答えている間に、マリアは老人の遺体に魔法を施した。遺体が空気に触れないように薄い膜で包み込み、膜の内側を冷気で満たしているようだ。

 キュリアスにも、膜までは感知できた。冷気に関しては、血の付いた老人の服が凍結したので気付けたのである。

「これでしばらくはもちます。維持のために私が遺体に付き添います」

 マリアはそう言って立ち上がった。

「じゃあ、僕が遺体を町まで運びましょう」

 エリックが遺体を魔法で浮かせた。

「現場の保存は?」

 シンディが周りを見渡して言った。

「このままでいいだろ。キマイラとやらが出ても面倒だ。町に戻ろう」

 襲撃犯が戻ってくるとは思えない。犯人は、少数の冒険者風情がどんな証言をしようと、冒険者を不要なものと考える守備隊が信用するはずがないと分かっているからだ。証拠の隠ぺいを図る必要もないし、証拠となる物、男たちの欠損した身体の一部も、男たちを処分してしまえば無用のものになる。

 ただ、襲撃犯の顔を見た可能性のあるキュリアス、マデリシア、シンディは暗殺者に狙われる可能性が無いとは言い切れない。特にキュリアスとマデリシアはその特徴的な能力で特定されやすく、そのために狙われやすい。

 キュリアスは気配感知のおかげで暗殺者に意表を突かれることはない。並大抵の腕では仕留められないことが知れ渡っているので、よほどのことでない限りは狙われることもなかった。

 キュリアスは前を歩くシンディを見て、思い直した。相手が貴族の、それなりの権力保持者であれば、キュリアスと王族とのつながりを知っている可能性がある。カークロス・ハート国王はキュリアスを配下にしたがっていることは隠していないのだ。

 それに、一部の者は、キュリアスと第二王女シャイラベル・ハートとのつながりも知己している。

 王家に情報が伝われば危うくなると考え、なりふり構わずに狙ってくる恐れもあった。

 キュリアスは問題ない。マデリシアも、よほどの相手でない限りは逃げ果せる。

 問題はシンディだ。それなりの戦闘技術を有するようだが、暗殺者に狙われた経験はないだろう。亡くなった老剣士やキュリアスのように気配を察知できない限り、気付いた時にはすでに致命傷を負っていることになる。

 キュリアスが傍にいる時であれば、暗殺者に手出しなどさせない。が、仲間ではないシンディと何時までも共に行動するわけでもない。彼女とは、東の森の探索が終われば、かかわりがなくなる。

 何とかして彼女の身の安全を確保したいが、キュリアスにその方法を思いつくことはできなかった。

 こういうものはシャイラベルに相談するべきか。キュリアスはそう考えて、悩むのを止めた。

 マデリシアが兵士を連れて戻ってきたのは、次の日の昼過ぎだった。予想以上の早さである。

 マデリシアは疲労困ぱいで、寝ると一言言い置いて銀狼亭の二階に消えた。

 マデリシアの連れてきた兵士に、キュリアスは驚きを隠せなかった。

 ローレンス・コプランド男爵その人が来ることは予想の内だったが、アルバート・フェンサーが来ることは予想すらしていなかった。

「なんでてめえが来るんだ」

 キュリアスは思わず言った。

 アルバートは守備隊施設の地下にある監獄の看守だ。所属は守備隊でも、守備隊員ではない。そして、ローレンスの配下でもない。

「なんで貴様がいるんだ」

 アルバートは逆に問い返した。が、答えを望んでいるわけではなかった。

「貴様が行く先々で問題が起こるな」

「俺がやったってのか?」

「自分でやって自分で守備隊を呼ぶバカだとは思わん」

「そりゃどうも」

 キュリアスは文句を言ってやりたいのを我慢した。その分、声色は低くなっている。

「で、どうしてアルバートが来たんだ?」

「バッテン男爵が手を回してくださって、やっと転属願いが受理された」

「ああ。ジェラルドに揉み消されてたやつか」

 王都の守備隊隊長ジェラルド・ソルトン男爵は、キュリアスが王都を破壊した事件の折に不正を暴かれ、ローレンスに逮捕された。

 それまでは、守備隊は貴族階級がなるものと主張するジェラルドによって、平民出のアルバートは申請をもみ消され続けていた。アルバートの剣の腕は並の守備隊員の追随を許さぬほどだが、ジェラルドは認めなかった。

 事件で、守備隊の隊長が変わり、アルバートに対する風当たりが変わったのだろう。看守長のバッテン男爵も後押ししたことがアルバートの言葉からうかがえる。

「てことは、アルバートもついに守備隊か」

「そういうことだ。それも、新任地で着任前に事件だとは…」

「幸先良いね」

「やかましい!」

 ローレンスが遺体の検分を終え、キュリアスの傍に戻ってきた。

 そこはイクウィップの守備隊詰所で、まだ何も持ち込まれていないため、殺風景な部屋だった。部屋の隅に遺体があり、傍でマリアが遺体の腐敗を防ぐために魔法の行使を続けている。

 机も椅子も、何もない。

「あの斬り口、どう思う?」

 キュリアスはローレンスに尋ねた。相手が貴族だろうと、キュリアスはあまり気にも留めていなかった。ローレンスも別に不敬だと怒ることはない。

「相当の腕前だ。そして躊躇が無い」

 ローレンスは私見を述べた。

「人を殺し慣れた人物の犯行だな」

 そこまで聞いて、アルバートも遺体の検分に向かった。

「私を呼んだからには、何か関連があると思ったのだろう?」

 ローレンスはアルバートの背中を眼で追いながら、言った。

「そういう言い方をするってことは、感付いてるな?」

 キュリアスも微妙な言い回しで返す。

 ローレンスは視線を戻し、キュリアスを凝視した。

「関連付けるには情報が足りん。が、太刀筋は似ている」

「やっぱりか」

「何だ?山勘か?」

 キュリアスは答えの代わりに、唸った。ローレンスとの会話から、キュリアスは最悪の事態だと悟った。キュリアスの考えが正しければ、襲撃犯の姿も見間違いではない可能性が高い。

「どうやら、ただの辻斬りではなくなったぜ」

 キュリアスは周りに聞こえないように言った。

 キュリアスの思っている犯人であれば、その周りの人々が辻斬りの事実をもみ消している。王都で辻斬りが始まってかなりの月日が流れても、足取り一つ追えないのは、その辺りに原因がありそうだ。

 そう考えると、キュリアスはあの人物が辻斬りに関心を寄せていた理由が分かったように思えた。それは、闇の中で見た犯人が誰か、答えを教えているようなものだ。

「犯人を見たのか?」

 ローレンスも小声になった。

 キュリアスはローレンスを見返すと、見たと答えた。

「が、知らない方が身のためだ。さすがのあんたも身を滅ぼす」

 キュリアスの言葉に、ローレンスは誰だと追及するのをためらった。そのためらいを自己嫌悪したようだ。

「いや、俺は捜査部の人間だ。犯罪撲滅のために身を粉にして働く所存!」

「それでも届かないものがある」

 キュリアスはローレンスの肩を掴んで落ち着くように言った。

「キュリアス殿には届くというのか?」

「さて、どうかな。場合によっては届くし、届かないかもしれない」

 キュリアスは答えると、ローレンスに折り入って頼みがあると耳打ちした。

 ローレンスは怪訝そうな表情を見せつつも、冷静さを取り戻したらしく、私にできることであれば、と答えた。



  7


 東の森の探索は、ローレンスが王都へ引き揚げた、その翌日まで延期された。

 魔法使いたちやシンディが、先の襲撃犯がまた戻ってくるのではないかと恐れたためでもある。

 冒険者の宿に籠もり、様子を窺っていたが、何も起きないので、探索を再開することになった。

 キュリアスとマデリシアを加え、シンディ、エリック、ディグ、マリア、そしてシャロンの七人という大所帯で東の森へ入った。

 先日足を踏み入れたのと同じ森のはずなのに、暗い雰囲気が漂い、森が押し寄せるかのような圧迫感があった。キュリアス以外はその圧迫感に言い知れぬ不安を抱き、密集し、辺りを警戒しながら歩いていた。

 先頭を行くキュリアスは再々立ち止まって、遅れがちになる後方の集団を待つことになった。

 マデリシアは集団には加わらず、キュリアスの傍にいた。キュリアスの傍が一番安全だと認識していたためだ。ただ、不安はある様子で、キュリアスの袖をつまんで離さなかった。

 後方集団が追い付くのを待つ間、キュリアスはマデリシアに先日の馬車の件を尋ねた。

「あの馬車の持ち主は分かったのか?」

 マデリシアの心は不安に捕らわれていたらしい。キュリアスの言葉をすぐには理解できない様子で、曖昧な声を発した。やっと理解すると、あれねと言った。

「まだ報告が届いていないわ」

 マデリシアは情報ギルドに属しているだけあって、ギルドに依頼すれば、色々な情報を入手できる。もちろん、情報に見合うお金も必要だったが。

 マデリシアは私見を付け加えた。

「あたしが思うに、たぶん、商会の裏取引用の馬車よ」

「根拠は?」

「馬車って持ち主の家紋とか名前とかマークとかを目立つところに入れるものなの。でもそれがなかったってことは、人に見られたくないことに使ってるってことでしょ」

「だからといって、商会とは限らないだろう」

「商会ってだいたい同じ所に造らせるから、似たり寄ったりの形になるのよ。あの造りは、ずばり、アラガント商会と見たわ」

「別のやつが同じ所で作らせたのかもしれないじゃないか」

「ないとは言えないわね。でも、大抵ある程度注文の形が入るものなの。わざと人の馬車に似せて造らせない限りは」

「じゃ、断定しきれないな」

「でもね、似せて作らせるのなら、家紋も似たものにすることが多いのよ」

 マデリシアは納得のいっていないキュリアスの顔をまじまじと見つめた。

「何にせよ、あたしの勘がそう告げてるの」

「そうか」

「それに、近いうちに知らせが来るわ」

 マデリシアは自信たっぷりに答え、後方集団が追い付いたことを目配せで知らせた。

 キュリアスは知らされるまでもなく、気配で分かっていたのだが、マデリシアに頷き返し、再び森の奥に向かって歩き出した。

 森の中で動く気配は、キュリアスたちしかなかった。動物も、モンスターもいない。真夏の太陽を浴びて青々と茂る木々以外に何もない世界は、どこか不気味な雰囲気を漂わせている。

 不気味さは、森の奥へ向かうほどに強まる。

 視覚的に不気味なところは何一つなく、豊穣な森が広がっている。花をつけた木もあれば、熟れる前の実がなっている木もある。

 木々の足元には草花が、花や実をつけて生い茂っている。甘い香りすら感じとれるほどだ。

 しかし、その匂いに誘われて集まるはずの虫や小動物、鳥と言った生き物の気配はまるでなかった。気配の無さが、目の前の景色を異常なものに見せていた。

 目の前に広がる景色は幻か、あるいは見た目とは裏腹に毒をもった植物ばかりなのかもしれない。生き物を食べる植物がいるのかもしれない。

 そこは人の踏み入れてはならない場所としか思えなかった。例えるなら、物語に聞く魔界が、このようなものではないかと思えてしまう。

「不気味な森ですね」

 エリックは一歩一歩、足元や周りを確認しながら歩いていた。行動とは裏腹に、声は落ち着いている。

「マナの流れも乱れているわ」

 シャロンが言った。最年少のシャロンは集団の中央に配置され、皆に守られていた。守られているためか、シャロンに怯えの色はない。逆に、好奇心に駆られているかのように、大きな瞳で辺りを見渡していた。

 対照的に親のマリアは、娘を気遣いつつ、辺りにも警戒の眼を配っていた。

 ディグは魔法を使えないこともあり、顔をこわばらせ、腰が引けた状態のまま歩いていた。不格好な歩き方のために、一番遅れ気味になっていた。

 ディグを守るように、シンディがいた。彼女は森の奥へ急ぎたい気持ちもあるようだ。前方を絶えず睨みつけていた。行方不明の兄の手がかりがあるかもしれないと思うと居ても立っても居られないのだろう。気持ちが急くために、歩調も速くなる。

 シンディから遅れたディグが慌てて駆け寄る。が、木の根に足をからませ、見事に転んだ。すでに何度も転んでいるために、ディグのローブは泥だらけだ。

 転んだディグを待つために、皆が足を止める。こうして、後続は後れを取っていくのだった。

「アラガント商会はどんなところだ?」

 キュリアスは後続を待つ間に、マデリシアに尋ねた。

「いろいろ手を出してるわね。フランク・アラガントが優秀なのよ」

「社長か?」

「いいえ」

「アラガントなのにか?」

「今の社長はエディ・マイザーよ。フランクの父親が興した会社を、エディが引き継いだの。息子ではなく、ね」

 マデリシアはそう言った後、どういう手を使ったのか、黒い噂も多いのよと言った。

「ただ単にエディってやつが優秀だった…」

「そういう訳ではないのよ」

 再び歩き出したが、マデリシアは話を続けた。話をすることで、緊張がほぐれたようだ。いつの間にか、キュリアスの袖から手を放し、何気なく歩いている。

「あくまで噂だけど、先代を殺して乗っ取ったってのもあるほどよ。そんな噂が立つ程度の商才なの、エディは。でも権力者にはコネがあるようね」

「ほう」

「あ、そうそう。前に関わったカウェ・カネム武具店てあったじゃない。あそこに武具を納めていたのも、アラガント商会よ」

「守備隊や王都守護隊の装備品か?」

「そそ」

「あの粗悪品はそこからか」

「今は王都守護隊だけになったようだけど、アラガント商会が直接取引を続けているらしいわ」

「すると、アナベルト・サーカム男爵の子飼いか…」

「そのようね。カウェ・カネム武具店はただの仲介だったのかも」

「あるいは、別の目的があったのか」

「かもね」

「アナベルト・サーカム男爵の目的か、アラガント商会の方か…」

「アナベルト・サーカム男爵の方かもね。表立っては、王都守護隊の隊長にして、独断的に装備品の取引先を選んだり、業務の改革を行ったり…。やり手だと評判の人ね。裏の噂も色々あるのよ。テナクスナトラ派に属していながら、ビトレイアル派とのつながりもあると噂されてるわ」

 森の奥、目指すところが間近に迫っていた。木々に遮られて見えないが、キュリアスには気配ではっきりと分かっていた。キュリアスは足を止め、後続を待った。

 マデリシアも足を止めるが、見えない前方の気配には気付かず、話を続けた。

「飽きたら取引先をつぶしにかかったり、トラブルを部下に押し付けたりって黒い噂も聞くわ。裏で暗躍するために、カウェ・カネム武具店ってカモフラージュに用意していたとしても、疑わないわね。派閥に取り入るために使っていた可能性がありそうよ」

「たしかに」

 キュリアスは後半部分を話半分に聞き流した。ただ、黒い噂の一つを、当人から聞いたことがあった。

「ローレンスも被害者の一人らしいな」

「そうみたい。でもあの人は自力で戻って来たわ。さすがね」

 マデリシアは明るくそう言った後、腕を上げた。

「ところでなぜか鳥肌が立つんだけど、何かあるの?」

 キュリアスは改めて、マデリシアの危機感地能力に感嘆した。

 何かあるも何も、目の前の木立の先に、得体のしれない生き物がいるのだ。怖がらせないために、キュリアスは言わないでいただけだ。が、彼女は既に身体で察知しているようだ。

「さて、なんと形容すべきか」

 キュリアスは顎に手を当てて考えた。

「狼の身体に、尻尾が蛇だな」

 マデリシアが変な声を発した。キュリアスはかまわずに説明を続けた。

「頭は三つある」

「何それ…」

「三つ頭の狼なんて聞いたことありませんよ」

 追いついてきたエリックが興奮したように言った。彼は見たことのない生物に対して、非常に興味をそそられる様子だ。森の異常さに対する恐怖心よりも、未知の生物への好奇心が勝るらしい。

「キマイラのお出ましね」

 シャロンも眼を輝かせている。

「幻獣!」

 腰の引けていたディグも、恐怖心がどこへやらで、キュリアスの横をすり抜けて駆け出していた。

 キュリアスは、興奮した魔法使いたちがこぞって前へ駆けだすのを、茫然と見送った。

「まずくない?」

 マデリシアの声に我に返ると、キュリアスは背中の剣を抜きざま、駆け出した。

 シンディ、マデリシアもキュリアスの後に続いた。唯一冷静さを保ったマリアがその後に続く。

 木立を抜けると、広場があった。何者かに踏み固められた土地で、草も少ない。

 広場の奥に小屋が一軒ある。

 小屋の背後の森に川があるのだろう。水の流れる音が涼し気に聞こえていた。

 小屋は、暖かい日差しを受けて、長閑に見える。人里を離れた隠居者の住まいのようにも見えるが、明らかに異質なものが、その建物の前に立ち塞がっていた。

 狼の頭が三つついている。それぞれが別々に吠えて、騒々しい。身体の大きさはよく見かける狼程度だが、三つ首の狼など聞いたためしがない。

 そして、その尻尾は別の生き物のようにうごめく、蛇だ。鎌首を持ち上げ、赤い舌を出していた。

「火を吐いたりしませんか?」

 ディグが興奮した面持ちで言った。

「狼が火を吐くわけないじゃないですか」

 エリックが即座に否定した。

「三つ首と言えば、火を吐く番犬ですよ」

「なんですか、それ」

「地獄の番犬、ケルベロスね」

 シャロンがディグの代わりに言った。

 その三人に向かって、三つ首の狼が突進していた。

 ディグもエリックも、まるで飼い犬を迎えるように、嬉しそうに待っている。シャロンだけは一歩下がり、様子を窺った。

 マナの動きを見ることができたのなら、シャロンとエリックには魔法のシールドが備わっていることが分かり、心配することはなかっただろう。だが、それと分からないマデリシアが危ないと大きな声を発し、シンディが助けに入ろうと駆け出した。

 ディグだけは何の備えもない。故に、シンディの介入も、マデリシアの声による衝撃波も、役に立ったといえる。

 三つ首の狼はマデリシアの声による衝撃波で後方へ弾かれ、空中で一回転して着地した。

 マデリシアの声による衝撃波によって、ディグとエリックも吹き飛ばされていた。二人は離れて行き、木の幹にぶつかって止まった。三つ首の狼方向へ飛ばされなかったことが幸いだった。

 シャロンは空中で杖を操り、衝撃波から上空へ脱出し、体勢を立て直しながら、三つ首の狼の動向をしっかり観察していた。

「見事な身のこなしね。まるで完成された一つの生命体だわ」

 シャロンはそう言うと、すぐには殺さないでと願った。

「約束はできねぇな」

 キュリアスは成り行きに戸惑っていたが、冷静に軽口をたたいて見せ、ゆっくりと前へ進み出た。

「捕縛してください!」

「殺さないで!」

 エリックとディグが叫んだ。二人は打ち付けた腰や足をさすりながらも、三つ首の狼の心配をした。

 キュリアスは二人の願いを無視した。小屋の中で気配が動いている。あまり悠長にしている余裕はなさそうだ。

 唸り声をあげて迫ってくる三つ首の狼を、キュリアスは一瞬、殴り伏せようかとも考えたが、尻尾の蛇が気になり、手首を返して剣を振った。

 狼の身体が半分に分かれて倒れた。真ん中の頭も半分に割れている。それ以外の頭と、尻尾の蛇は、倒れてからもしばらく動き、吠え立て、鎌首を揺らした。

 キュリアスの後ろで悲鳴と嘆きの声が上がった。

 キュリアスはかまわず、尻尾の蛇も斬り裂いて動きを止めた。

 吠え立てていた首も、次第に力を失い、動かなくなる。

「きれいに両断したわね。いいわ」

 シャロンは即座に三つ首の狼のなれの果てに近づいた。エリックとディグも、そしてマリアまで駆け寄って、キマイラの様子を観察し始めた。

 マデリシアは、

「うっわー」

 だとか、

「気持ちわる」

 などと吐く真似をしつつ、キマイラの死体から離れた。

 シンディも顔をしかめて遠巻きに見ている。

 キュリアスは小屋の気配に意識を集中させた。

 気配を感知できているキュリアスにも、小屋の中の気配の数に自信が持てなかった。

 おそらく、三つか。キュリアスは口の中で呟いた。

 大きな塊が動いている気配。同じような気配を遺跡で感じ取ったことがある。その時出会ったのは、ゴーレムだった。番人のように特定の場所を守る、石人形で、物理攻撃が効かず、苦労した覚えがある。

 そのゴーレムに止めを刺したのは自分だと、二人の人間が主張しており、その論争は決着をみていない。

 一人は当然キュリアスで、持ち前の斬撃で斬り裂いたと主張していた。

 もう一人はマデリシアで、その声で粉砕したと、手柄を誇示した。

 どちらの手柄にしろ、ゴーレムは無残に四散した。守っていた宝と思しき残骸と共に、である。

 キュリアスは自分の手柄だと頭の中で主張し、ゴーレムの思い出を記憶の隅に追いやった。

 小屋の中にどういう訳か、馬がいる。ただし、馬の首ではないものがついているようだ。姿が見えないだけに、不気味な気配だ。

 もう一つの気配は人のようだ。

 それ以外にも、不規則に動き回るものがいくつもあるが、どれも統制された動きではない。これらがもしも一斉に飛び出してくると、一飲みにされてしまうかもしれなかった。ただ、表に向かっているのは、キュリアスが目星をつけた三つの気配だけだ。

 キュリアスは躊躇なく、小屋に向かって斬撃による衝撃波を放った。

「ちょっと!いきなり何しでかすの!そこ調べる…」

 後ろで抗議の声を上げたマデリシアの声が、尻すぼみに小さくなった。その原因に、キュリアスも構え直した。

 小屋の入り口付近は派手に切断された。衝撃波は、そこで何かにぶつかったかのようにかき消えていた。

「まさかいきなり攻撃されるとは思いませんでした」

 聞き覚えのない声が響いた。

 小屋の正面に舞い上がった粉塵が収まり、人の姿が現れた。それは人の形をしているものの、身体は金属でできていた。身長は二メートルを超える程度で、体格的には中肉中背なのかもしれない。

 金属の人間は、唯一、顔の部分が生身のようだ。うつろな表情を浮かべている。その顔の前にガラスでもあるのか、動くと太陽光を反射して光った。

 声の主はその後ろにいた。

「兄さん!」

 シンディが叫び声を上げ、駆け寄ろうとした。が、その足は彼女の意志とは裏腹に、力を失い、草原に崩れ落ちた。そこに現れたのは、兄の顔をした、別のものだった。

 小屋の中から、髭と髪との境の見分けがつかないほど毛に覆われた男と、青年の上半身を持った馬が現れた。

 シンディの視線は馬の青年に向かっている。しかし、馬の青年の眼は虚ろで、シンディを認識してすらいなかった。

「冒険者とはかくも凶暴なものなのですね」

 髭の奥から声が聞こえた。髭が動いているので、その男が声を発していると認識できた。対して、馬の青年の口は半開きのまま動かない。

「こいつがシンディのお兄さん?」

 マデリシアが金属の男を指差して言った。即座にマリアに、指差すものではありませんよとたしなめられた。

「ゴーレムと人を合成したのですか…。無機物と掛け合わせるなんて…」

 ディグが言った。嬉しそうに言った理由をその後に呟くのだが、その場で理解できた者はいない。

「サイボーグみたい!」

「馬と人の合成…。ケンタウロスを創り出したのね」

 シャロンが言った。興味深いわねとも呟いたが、表情は憎悪に歪んでいた。

「あの人物がキマイラの研究者ですね」

 エリックが断定的に言った。彼の視線の先に、髭の男がいる。

 皆がほぼ同時に、口々に言ったため、すべてを聞き取れた者はいない。

「研究者がお兄さん?」

 一瞬の静寂の後、マデリシアの間の抜けた声が響いた。

 口に手を押し当てて震えているシンディは答えない。質問されたことさえ気づいていなかった。

「年齢的に選択すれば、ケンタウロスでは?」

 エリックが言った。

「えー。あの髭剃ったら、案外若いかもよ?」

 マデリシアは思いのほか、髭の男推しだった。最初に金属の男を指差して言ったことは忘れ去っている。

「騒々しいですね。アイアンゴーレム。ハエを払ってください」

 髭の男が言うと、金属の男は虚ろな顔のまま、先頭に出ていたシンディへ向かって駆けだした。

「シンディ!危ない!」

 マリアは短く警告を発しながら、魔法で光の矢を作り出して金属の男を射た。光の矢は金属の男に触れると四散して消えた。

 キュリアスは素早くシンディの前へ割り込むと、金属の男を抜きざまに斬った。

 甲高い音が鳴り響き、火花が飛び散った。しかし、金属の男の足は止まらなかった。それどころか、傷一つ付いていない。

「無駄です。物理も魔法も効きませんよ。私の最高傑作のひとつですから!」

 髭の男が高らかに言い、どういう素材を利用して創ったなどと説明を始めていた。その説明はマデリシアの声にかき消され、誰にも聞こえなかった。

 マデリシアはシンディの前へ飛びだすと、大声を発した。とっさにキュリアスが横跳びに逃げている。

 マデリシアの大声は、高い音域から始まり、すぐに聞こえなくなった。代わりに回りの物が振動している。そして、近くにいた者は皆一様に、耳鳴りに襲われた。その証拠に、キマイラ以外の皆が耳を押さえていた。

 耳鳴りが治まると、元の静寂に戻った。それでもマデリシアの叫びは止まっていない。

 マデリシアの前にいる金属の男に効果があるのか、虚ろな目から血が流れていた。マデリシアの声を嫌うかのように手を振り上げ、マデリシアに向かって振り下ろした。

 キュリアスはすかさず、渾身の力で金属の男の肩を斬った。衝撃波を生み出した斬撃は金属の男の肩から腕を斬り落とした。

 金属の腕は衝撃波を受けて空高く舞い上がった。

 金属の男の眼が赤くなった。鼻や口からも血があふれ出る。ついには吹き出し、男の顔は血の中に消えた。金属の身体はゆっくりと崩れ落ちる。

 金属の男の後頭部に、舞い上がった自身の拳が落下し、地面に頭をめり込ませて動かなくなった。

 マデリシアはそこで発声を止め、肩揺らせて激しく呼吸した。

「バ、バカな…。私の最高傑作が…」

 髭の男は眼前の結果に納得がいかないのだろう。動けだとか、立てだとか、命令を叫び続けた。

「鉄のゴーレムを斬っちゃうなんて、規格外もいい所ですね」

 エリックは嬉しそうに言い、これは研究の甲斐があると喜んでキュリアスを見つめていた。

「声で生身の部分の血管を破裂させたのですね…。そんなことができるなんて…」

 ディグもエリック同様、嬉しそうだ。ディグの視線の先にはマデリシアがいる。

「人間離れした声帯ね。そこに魔力を込めるなんて、面白いわ」

 シャロンまで喜んでいる。

「俺が倒さなきゃ、危なかったぜ」

「あたしが倒さなかったら、大ケガしてたわよ」

 キュリアスとマデリシアの声が重なった。途端に二人はどちらの手柄か言い争う。周りの状況などお構いなく、互いに主張し合い、張り合った。

 照り付ける太陽よりも、二人の熱量が勝った。時折流れ込む川からの涼しい風では、二人の熱を冷ますことさえ叶わなかった。

 呆気にとられ、周りの人々も、ただただ見守るばかりだった。



  8


「ええい!ケンタウロス!蹴散らせ!せっかくの実験体などと言ってはおれん!ただし、何人かは死なせるな!」

 髭の男の声が響いた。二人の言い争いにのまれていたが、早々に自分を取り戻し、事態を収拾にかかった。男の声に呼応するように、馬の身体を持った青年が躍り出た。

 ケンタウロスは風のように駆け、打ち震えたまま動かないシンディに向かって前足を振り上げた。日の光を浴び、輝く金髪のケンタウロスは、足元の、自身と同じ髪色の女性を見下ろしている。その眼に何の感情も宿っていない。

「兄さん!やめて!」

 シンディの叫びは空しく響いた。無慈悲な蹄が彼女の頭上に、うなりを上げて振り下ろされた。

 キュリアスは寸前でシンディに体当たりし、草原を転がった。その背後の地面に蹄がめり込み、地面を揺らした。

 マデリシアの叫びで、ケンタウロスは後方へ吹き飛ばされた。が、ケンタウロスは空中で器用に回転し、四本の足で着地を決めた。

「駄目!やめて!」

 シンディは悲痛な叫びをあげ、這うようにして駆け出すと、マデリシアの前に飛びだした。マデリシアは慌てて声を止める。

「あれは兄さんなの!お願い!やめて!」

 シンディは両手を広げ、背後のケンタウロスをかばった。

「これは面白い…」

 髭の男が高らかに笑った。

 シンディは髭の男を睨みつけると、あの男が元凶でしょうと言った。

「だったら、あの男を罰してください!でも兄さんは助けて!」

 かばうシンディに、再びケンタウロスが襲い掛かった。

 エリックとマリアが呪文の詠唱を始めていた。

「ママ。あっちを」

 マリアはシャロンに声をかけられ、詠唱を中断した。

「人と馬を合成した技術は素晴らしいわ。でも人格を失っている時点で失敗ね。研究は止めてもらいましょう」

 シャロンは子供とは思えない発言をし、髭の男を睨みつけた。

 エリックの作り出した透明な壁によって、シンディに向かって振り下ろされた蹄が空中で制止した。ケンタウロスはすぐさま後退し、別の方向から攻撃を仕掛けるも、エリックの作り出した透明な魔法の壁に阻まれた。

「あの人は殺さないで!聞きたいことがいっぱいあります!」

 ディグが髭の男のことを言った。恐怖で声が震えている。蹄でえぐられた地面の穴の大きさを見て、恐怖を覚えたようだ。

 ケンタウロスはシンディを狙うのが難しいと判断したのか、あるいはディグの声に反応したのか、透明な壁を蹴って空中に飛び上がると、ディグに向かって落下した。

 キュリアスは空中のケンタウロスを斬ろうと身構え、飛び上がって剣を振るった。

「駄目!」

 シンディの声に力がこもったのか、キュリアスの剣はケンタウロスに触れた途端に根元から折れた。

 キュリアスは手元を見て舌打ちすると、身体を回転させてケンタウロスを蹴り、ケンタウロスの落下地点をずらした。

 ゴーレムを斬った時に亀裂が入ったか。キュリアスは即座に原因を悟ると、役に立たなくなった剣をケンタウロスに投げつけた。ディグに向かおうとしていたケンタウロスの機先を制する形で、剣の柄が当たった。

 シンディがケンタウロスをかばうために走り出した。先ほどから彼女は「止めて」とか「兄さん」とか「駄目」とか、短い言葉を叫び続けている。眼には涙を浮かべ、歯をむき出し、金色の髪を振り乱している。

 必死にかばうシンディの言葉は、ケンタウロスに届いていない。無表情に得物を狙うだけだ。ケンタウロスを止めにかかるキュリアスたちにも響かなかった。

「ケンタウロス!私を助けなさい!」

 髭の男の声が響いた。男の足は盛り上がった土に飲み込まれ、身動き取れなくなっていた。その土はマリアの魔法によって動いたものである。

 マリアはさらに呪文を唱え、髭の男に電撃を流して気絶させた。

 髭の男の命令にしたがおうとしたケンタウロスの前に、キュリアスが躍り出た。さらにその前にシンディが飛び込む。

「どけ!」

「いやです!」

 キュリアスは気配で、ケンタウロスとシンディ以外にも気がかりが増えていることに気付き、焦りを覚えていた。しかし、武器を失った今、手早く事態を片付けることはできそうにない。かといって、他の誰かが対処できるかというと、ケンタウロスの機動力が高すぎて難しく思えた。

 やはり自分はここから離れるわけにはいかない。素早く判断すると、キュリアスはマデリシアを頼った。

「マディ!マリアとシャロンが小屋に入った!後を追ってくれ!」

「え?いつの間に?」

 マデリシアは驚いた声を発したものの、任せといてと言い置いて小屋に向かった。

 その間にもケンタウロスはシンディに攻撃を仕掛けたり、回り込んで髭の男の救出に向かおうとしたりした。

 キュリアスはそのたびに回り込み、力強い蹴りで阻止したり、行く手を塞いで進路を断ったりして対処した。その都度、シンディが阻止に入る。

 ディグが地面を這いながらも、失神している髭の男の元へ向かった。腰が抜けても、好奇心は抑えられないらしい。駆けつけたエリックと共に、気絶している男に質問を浴びせた。

 質問の内容は、キマイラの製造方法だ。彼らにはこの場を収める手段を聞き出す、などと言う考えはないらしい。

「ええい!収集つかねぇな!」

 キュリアスは吐き捨てるように言った。皆が皆、好き勝手に行動されては、対処が追い付かない。

 ケンタウロスは主人の元へ向かおうとする。その行く手をキュリアスが塞ぐと、すかさず、シンディがキュリアスの前で両手を広げた。シンディは優秀な戦士らしく、キュリアスやケンタウロスの機動力にかろうじて追随していた。それが返って、事態を硬直させる結果となった。

 魔法使いたちは自分たちの研究に夢中で、マリアとシャロンは勝手に小屋に踏み込み、エリックとディグは気絶した相手に質問攻めときた。

 剣が折れたキュリアスは、わりの合わない仕事の上に、不合理な事案に悩まされた。守るべき魔法使いたちは好き勝手をして対処しきれない。敵を倒そうにも、シンディが阻む。

 その敵は守られていることにもお構いなしで、シンディを踏みつけて通ろうとしていた。

 キュリアスはシンディを突き飛ばすと、ケンタウロスを蹴り上げた。キュリアスの頬を、ケンタウロスの蹄がかすめる。

 ケンタウロスは器用に空中で体勢を立て直すと、見事に着地を決めた。

 ただの馬より厄介そうだ。馬なら空中に蹴り上げられた時点でパニックを起こし、地面に叩きつけられたに違いない。

 シンディの兄のなせる技なのか、それともケンタウロスになったがための身のこなしなのか。前者であれば、多少なりと人の感情が出てもおかしくないのに、ケンタウロスは無表情で、しかも実の妹の声にも反応を示さない。

 後者であれば…。キュリアスは頭によぎる考えを振り払った。そんなことは研究熱心な魔法使いたちに任せればいい。

 キュリアスはただ、目の前の危険を排除すればいいのだ。

 キュリアスはケンタウロスの前に立ち塞がった。

 シンディが割り込む。

 シンディはあろうことか、腰の剣を抜き放っていた。煌めく刃を、キュリアスに向けている。

「バカやろうが…」

 キュリアスは思わずうなった。一つ深呼吸をする。

「刃物を向けるからには、死ぬ覚悟ができているのだろうな」

 キュリアスの言葉は低く、小さかった。だが、取り乱しているシンディにも十分聞こえたようだ。キュリアスの殺気とも言える鋭い気配にシンディは怯えの色を現した。

 シンディの後ろで、ケンタウロスもキュリアスの殺気に怯え、横に飛んだ。キュリアスを避けて回り込み、主人を助けるつもりのようだ。

 次の瞬間に起こった出来事を、その場で理解できた者はいない。

 気付くと、ケンタウロスが人の身体の部分と馬の部分に分かれ、人の身体は宙を舞い、馬の胴体は草むらをもんどりうって転がった。

 シンディが冷静であったならば、あるいは気付けたのかもしれない。取り乱したうえに、キュリアスの殺気に当てられて怯えた彼女は、自身の手から剣が消えていることにも気付かなかった。膝をついていることにも気付いていなかっただろう。

 キュリアスはシンディの剣を草むらに突き立てた。

 シンディはそこでやっと変化に気付いた。目の前の剣と、キュリアスに怯えて尻餅をついた。

「なんてことを!兄さんを殺したわね!」

 シンディは怯えながらも、キュリアスを睨んだ。這うようにして兄の形をとどめた上半身の元へ駆け寄った。

「元に戻す方法があったかもしれないのに!」

 シンディは亡きがらを膝の上に抱え、再びキュリアスを睨んだ。

「恨みたきゃ勝手に恨め」

 キュリアスは投げ捨てるように言うと、小屋へ足を向けた。が、思わず足が止まる。

 マデリシアと分かる悲鳴が響き渡り、大地が揺れた。同時に、小屋の中にあった複数の気配が壁にぶつかって動かなくなっていくのを感じ取っていた。

「あのバカ…」

 気配を探ると、マリアとシャロンは無事のようだ。小屋も崩れる気配はない。

 キュリアスは思わずため息を漏らしていた。マデリシアの声によって小屋が倒壊していたら、彼女たちの救出は困難を極めただろう。粗末な小屋に見えるが、予想を裏切り、堅牢な作りだったようだ。

 小屋からマデリシアが飛び出してきた。そのままキュリアスの元まで駆け寄った。

「気持ち悪い!サブイボ立った!」

 両腕をさすりながら、何かから隠れるように、キュリアスの背後へ回り込んだ。マデリシアは何度も気持ち悪いと繰り返した。

 キュリアスは自分勝手に行動する護衛対象たちに対して苛立っていたが、マデリシアの様子を見ているうちに、その気持ちは薄れ、逆におかしくなってきた。単純にマデリシアの反応が面白いということもあるが、気絶している相手を質問攻めする奇妙な光景も現実離れした光景で、笑いを誘う。

 気持ちが解れると余裕が出るもので、キュリアスはマデリシアをからかいにかかった。

「何があったんだ?」

「何が、じゃないわよ!わかってたわね!」

「何のことかな?」

「こんのぉ!とぼける気ね!あれがいると分かってて、あたしに行かせたでしょ!」

「自分から任せてと言わなかったか?」

「知ってたら言うものですか!」

 マデリシアの叫び声に、キュリアスの身体が数メートル吹き飛ばされた。離れて不安になったのか、マデリシアが追いかけてくる。

「何あれ!虫と何かのキマイラがうじゃうじゃいたわよ!思い出しただけで気持ち悪い!」

 ただ文句を言いたくて追いかけてきただけのようだ。キュリアスは聞き流すと、マリアとシャロンはどうしたと言った。

「二人なら小屋の中を調べるって残ったわよ。あの気持ち悪いのも平気そうに…」

 マデリシアは両腕をさすって、これだから魔法使いってとぼやいた。

「虫は全部潰したのか?」

「潰れたと思う。分かんない。聞かないで」

 マデリシアはそう言って身震いした。

「それにシャロンちゃんがいれば大丈夫よ」

「どうして?」

「あの子、ほら、あの、フランベルジュ?あの女に襲われた時もシャロンちゃんのおかげで助かったもの」

 マデリシアの口から、急にフランベルジュの名を聞き、キュリアスは戸惑った。そして、数日前のことを思い出していた。あの女と遭遇して無事だったのは、不可解だったが…。キュリアスは頭の中で思い浮かべていた。

 フランベルジュはフェム・ファタルという女性のコードネームで、キュリアスと同様、暗殺を主に行っていた軍事組織の一員だ。残虐で殺りくを好む傾向のある女だった。

 フェム・ファタルであれば、キュリアスに対するあいさつ代わりに、死体の一つや二つ、平気で転がしていく。それが彼女のユーモアだった。

 フェム・ファタルは非常に危険な人物で、できることならば、ソード隊を壊滅させたときに倒しておきたい一人だったが、彼女は任務に出ており、倒すことのできなかった一人でもある。

 フェム・ファタルはサム・ガゼル同様、キュリアスが倒すべき標的の一人だ。ソード隊を壊滅に追いやったキュリアスにとって、心残りになっている懸案である。フェム・ファタルが生きている限り、無用な殺生が繰り返されると分かっていた。ソード隊を潰したのなら、この殺りく好きの女も潰しておかなければならない。

 だが、これまで、フェム・ファタルの消息に関わる情報は一切なかった。

 その危険人物がキュリアスの近辺に姿を現した。キュリアスにとって、過去の清算を行うころ合いなのかもしれない。

 キュリアスに一つ気になることがあった。それは、先日フェム・ファタルが現れた際、誰も傷つくことなく、立ち去っていたことだ。

 姿を現した以上、いくつかの死傷者を出すのがフェム・ファタルのやり方だ。ところが、マデリシアも、ローザも、シャロンも、無傷で切り抜けた。

 気配を感知していたキュリアスにも、不思議でならないことが起こった。フェム・ファタルは確かに攻撃しているのに、三人にかすり傷一つなかったのだ。

 マデリシアはキュリアスの顔に疑問が浮かんでいることに気付き、シャロンの魔法に寄って助かったのだと、その時の状況を詳しく語った。

 マデリシアは語ることで平静を取り戻した。震えが止まり、腕をさするのもやめた。

「あの女の子が、か…」

 キュリアスは話を聞き終わると、驚きを隠せずに呟いた。だからあの女が関わったにもかかわらず、ケガ人も死人も出なかったのかと。

 ローザも魔法使いだが、防御魔法はそれほど得意ではなかったと記憶している。マデリシア一人ならば逃げ果せたかもしれないが、他を守ることなどできない。消去法でも、シャロンしか残らないのだ。キュリアスは納得いかないものの、マデリシアの話を信じるしかないと分かっていた。

 世の中には天才というやつがいるものだ。キュリアスはシャロンに対して、認識を新たにしていた。

「ところでエッジ」

 マデリシアが後ろを指差した。

「すんごい恨まれてるみたいだけど、何やったの?」

 マデリシアはキュリアスを睨み付け、まさか手を出したんじゃないでしょうねと、妙な疑いを向けた。

 シンディは髪を振り乱したまま、草地に座り込んでいた。その膝の上に兄の上半身がある。衣服も乱れており、片方の肩があらわになっていた。透けるような白い肌は、強い日差しを浴びて、輝いているようにも見える。

「シンディの兄を斬っただけだ」

 キュリアスは淡々と答え、シンディが抱えているものに目配せした。

 マデリシアは酷いと言いながらも、安堵した表情を浮かべた。



  9


 アルバートは、お前が関わるとろくなことが無いなとこぼした。

 キマイラを生み出した人物、ジョシュア・ナリッジの亡骸を横目に、守備隊として駆けつけたアルバートは現場の捜索を行った。

 捜索と言っても、魔術師たちがあらかた調べ終わった後なので、たいした発見はない。行方不明者の持ち物らしいものを見つけ、所有者の特定を、今後行っていくことになる。その煩わしさを、キュリアスが作り出したかのような口だった。

 ジョシュアは魔術師ギルドに所属する魔法使いで、古代魔法を研究していたようだ。キマイラの製造方法についての資料は見つからなかったが、多数の古代魔法に関する文献が見つかっていた。

 ジョシュアはマリアが気絶させるために放った電撃で、運悪く心臓が止まったらしく、泡を吹いて息絶えていた。

 そうとは気づかず、エリックとディグはジョシュアから話を聞き出そうと、延々と質問し続け、今は放心したように黙り込んでいた。

 マリアとシャロンはアルバートが駆けつける直前まで小屋の中を調べ回っていたが、今は外に出て木陰で涼んでいた。

 シンディは、泣き叫ぶのは止めたが、兄の亡骸を抱きしめたまま、キュリアスを睨み続けていた。

「行方不明者がどの程度いるかも分からん…。まったく、着任早々仕事を増やしてくれる…」

「老剣士の身元は分かったのか?」

 キュリアスはアルバートの愚痴を聞き流し、質問をした。

「いや。身元につながるものは何も持っていなかった。死出の旅だったようだ。ほとんどなにも所持していなかった」

「そうか」

 労咳に侵され、死に場所を求めてスペリエントを目指していた老人だ。病に倒れて連れ戻されることのないように、身元の分かるものは全て置いてきたのだろう。

 キュリアスはせめて名乗り合っておくべきだったと後悔した。いや、対峙した時は自分が冥土に送ってやるのが手向けだと思っていたのだ。殺すつもりがあったのに名を聞かなかったのは、そもそも興味がなかったからにすぎない。

 老人がたまたま他人の、それも通りすがりの襲撃犯に殺されたがために、キュリアスの胸中に後悔が浮かび上がった。それだけのことだ。

 キュリアスは自分に言い聞かせるようにため息をもらすと、自分を刺し続けている視線に眼を向けた。

 マデリシアは暗くて見えなかったと言ったが、襲撃犯はそう思わないだろう。顔を見られたと考え、キュリアス、マデリシア、シンディの命を狙ってくるに違いない。

 だが、シンディはキュリアスの助けを受け付けようとはしないだろう。彼女にとってのキュリアスは、兄の命を奪った仇でしかない。仇の差し伸べた手にすがるほど弱い人間ではないだろう。

 とはいえ、キュリアスはシンディも守らなければと考えていた。それは必ずしも自分である必要はない。

 キュリアスはマリアとシャロンの元へ向かった。この場にいる人間で、シンディの手助けが出来そうな人物は、この二人しか思い当たらない。

 マリアとシャロンはキュリアスの話を黙って聞いた。

「亡骸を連れて帰るでしょうね」

 マリアはシンディを見つめて言った。

「しばらくは情緒不安定でしょうね」

「あたしたちにも責任があるわ」

 シャロンは大人びた表情で言った。

 マリアは娘を振り返ると、頷いた。頷く前に、一瞬戸惑った表情が浮かんだものの、すぐに取り繕っていた。

「そうね。私たち魔術師の同胞が起こした事件ですもの。その犠牲者であるシンディは、私たちが保護します」

「そうか。頼めるか。すまない」

 キュリアスが頭を下げると、マリアはすぐに、あなたが気に病むことではありませんと言って、キュリアスに頭を上げさせた。

「それにしても、キマイラだったか?作り方を知りたがってたようだが、もういいのか?」

 キュリアスは頭を上げると、アルバートが入っていく背中を追って、小屋を眺めた。

「ジョシュアが亡くなってしまった以上、これ以上調べようがありませんわ」

「資料もなさそうだもの」

 マリアが言うと、シャロンが付け加えた。

 キュリアスがもし冷静であったならば、マリア、シャロン親子のやり取りにどこか違和感を覚えたかもしれない。しかし、キュリアスはシンディの凍てつく視線にどうしても気を取られ、周りをあまりよく見ていなかった。

「あまり気に病むことはありませんよ」

 マリアは気を利かせて言った。それほどにキュリアスの表情が沈んでいたのだろう。

「シンディの兄に魂はありませんでした」

「肉体はまだ生きていたけど、あれではアンデットをつなぎ合わせたのとたいして変わりなかったわ」

 再びマリアの言葉を補足するように、シャロンは大人びた解説を行った。

「何らかの魔術で魂を抜き取ったの。その時点であの人は死んだも同然だわ」

「死人を斬ろうが、生きていようが、どちらにしろ助けることはかなわなかったんだろ?自分のやったことに後悔はしてねぇぜ」

 キュリアスはうそぶいて見せた。ただ、半分は事実そう感じていた。もう半分は、剣を折ってしまったことに対する感情だった。

 新たな剣を作るには相当な費用が必要だ。が、キュリアスにその持ち合わせはない。よって、当分は腰につけている万能ナイフで依頼をこなさなければならないという憂鬱もある。

 さらに、キュリアスの剣を打った鍛冶屋の老人は、また剣を折ったことに対し、激怒するに違いない。そうと分かっているからこそ、気が重かった。

 そこにシンディの敵を見るような眼である。気持ちも塞ぐと言うものだ。

「釈然としない事件になってしまいましたね」

 マリアはキュリアスの言葉を信じず、キュリアスがシンディの視線に耐えかねていると受け取ったようだ。

 キュリアスは訂正しなかった。よくあることだと答えて二人から離れた。

 草むらの中に落ちていた折れた剣をつかみ上げた。鍔元付近で刀身は途切れている。そこから緩やかに曲線を描いて刀身が伸びている姿は、キュリアスの脳裏に残っていた。

 刃を研ぐと独特の模様のように波打つ。そこに光が当たると宝石のように輝いた。

 キュリアスの愛用していた剣は貴族の間で装飾品として愛用されるほどの美しさだった。

 美しかった刀身も、今は折れてなくなり、輝きを失っていた。

「また折っちゃったのね」

 マデリシアの声が聞こえた。足音はないが、キュリアスは近づいてくる気配を把握していた。

「気が重い」

 キュリアスは振り向かずに答えた。ため息をもらすと、マデリシアがあのじいさん怒るわねぇと半分面白がるように言った。

「あ、お金もないじゃん」

 キュリアスが振り向くと、マデリシアは貸さないわよと先に言った。

「しばらくはこいつを使うさ」

 キュリアスは自分の腰に付けているナイフを軽く叩いた。

「そう言えばナイフ持ってたわね」

 マデリシアは言いながら、首をかしげた。

「それ、あんまり使わってないわよね。気に入ってないの?それとも逆に大事で使えないの?」

「大事ってわけじゃないが…」

 キュリアスは腰のナイフを抜いた。肉厚の刀身で、刃渡りは三十センチほどあるだろうか。

 狩りや、料理に使うこともあれば、進行上の邪魔な枝を斬るナタの代わりにしたこともあった。

 キュリアスが冒険者になってからはあまり使っていないが、手入れは怠っていないので、刀身に曇り一つなかった。

「いや、大事か」

 キュリアスは日の光を浴びて輝くナイフの刀身を眺めて呟いた。

「こいつは元々サム・ガゼルの得物だったんだ」

 キュリアスは正気を保っていたころのサムを思い出していた。

 キュリアスの師匠であり、養父であったサムは、その類まれなる脚力を生かして敵に肉薄する戦法を得意としていた。その戦い方では大きな剣を振り回すのは不便だった。サムは取り回しの楽な小剣や大型ナイフを好んで使った。

 今キュリアスが持っているナイフはサムが鍛冶屋に特注した品だ。通常のナイフより何倍も肉厚の刀身を持つ。強度と切れ味を両立させた一品で、背の部分にはのこぎり状の刃を付けて、ソードブレイカーの役目まで持たせていた。

 キュリアスにとって、このナイフはある意味、サムの形見でもあった。サムが正気を失って姿をくらませた時、このナイフを置いて行った。以来、キュリアスがこのナイフを持ち歩いている。

 そのサムは、キュリアスが王都の町並みと一緒に斬り裂いた。

 サムは狂気に陥って殺りくを繰り返していた。そこから救い出すには殺すしかないとキュリアスが思い至った結果である。

 今もキュリアスに、サムを斬ったことに対する後悔はない。後悔が残っているとすれば、それは、狂気に落ちる前にサムを止められなかったことに尽きる。

 その後悔の残滓が、このナイフだった。ナイフを見ると、キュリアスは日々険しい表情になっていくサムを思い出し、胸を締め付けられた。あの時、自分が何かできていれば、違う結果になったのではないかと、どうしても考えてしまう。このナイフは、その思いを呼び起こす。

 だからといって、ナイフを手放すこともできない。サムの形見であり、優しかった当時の面影を呼び起こすきっかけにもなる。キュリアスにはこのナイフにサムの魂が宿っているように思えた。

 キュリアスにとって、親と呼べる存在がいるとすれば、それはサムしかいない。親の形見を無下に扱うなど、できようはずもなかった。

 キュリアスに複雑な感情を彷彿させるナイフを、これからは使っていくことになる。使う度に、後悔の残滓に見舞われ、親への想いを脇起こされる。キュリアスは抑えの利かない自分の感情を持て余しつつも。

 キュリアスの気持ちを知ってか知らずか、ナイフは日の光を反射して美しく輝いていた。

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