陽炎
1
新しい木材の匂いが鼻についた。
完成して間もない店は、酒場特有の酒臭さも、すえた臭いもない。心地よい木材の匂いの中に、調理中らしい、食欲をそそる匂いがあった。
風通しがいいのか、真夏の日差しの下から店内に入ると、涼しく感じた。
日差しは高く、大地を焦がしている。酒場に客が入るような時間ではない。ために、店員は奥で仕込みの準備中なのだろう。匂いと小気味良い調理の音が聞こえるだけで人の姿はなかった。
店の中は新しいテーブルと椅子が並んでいる。カウンター席とテーブル席が用意されていた。
入り口から見渡すと、正面奥にカウンターがあり、左右にテーブル席が広がる。左には窓際の席も用意されていた。
左奥には冬に使うのだろう。暖炉が壁に埋め込まれていた。今は蓋で閉ざされている。
暖炉の上の棚に、小さな女性の像が置かれていた。人々を導くような立ち姿をした像は、名も無き女神を彫刻したものだ。
右側には掲示板と、小さなステージがあった。ステージとカウンターに挟まれる角に小さな空間があった。そこから二階へ続く階段がある。
先ほどからいい匂いがする。カウンターの裏側のようだが、壁に仕切られ、様子をうかがうことはできない。
もう一度見渡してみる。新しいことを除けば、どこか、王都セインプレイスにある冒険者の宿と似た雰囲気がある。
似た雰囲気を感じ取ったのは、間違いではない。この新しい店は、王都を拠点に活動した冒険者が、引退後に開いた店なのだ。そして、冒険者に仕事を斡旋する資格を有した、いわゆる冒険者の店である。形はどうあれ、同じものだった。
匂いにつられて、どうにもお腹の虫が落ち着かない。キュリアス・エイクードは店内の観察を止め、カウンターの席に向かった。
隣に立ってキュリアスと同じように店内を観察していたマデリシア・ソングもキュリアスの隣の席に腰かけた。
奥から人が出てくる気配はない。
壁の隙間から覗けるかと身体を傾けてみたが、覗けないように壁を配置しているらしく、全く見えなかった。
キュリアスはマデリシアを見た。眼が合う。その眼が、だめねと呟いているように見えた。
「おい」
キュリアスは壁に向かって声をかけた。しかし、反応がない。
キュリアスは隣のマデリシアをもう一度見た。
マデリシアは頷くと、良く通る声を発した。
「いい匂いね。ローザ」
この声にはすぐに反応があった。カチャリと何かがぶつかり合う音がしたかと思うと、足音が迫ってきた。
キュリアスの知っている人物のはずだが、どうにも足音が重い。動きも鈍かった。引退してそれほど経つわけではない。それほどに身体が鈍るはずもないと訝しんで、相手が姿を現すまで待った。
カウンター裏の壁を縫うようにして、こげ茶色の長い髪をした女性が姿を現した。顔も身体つきも昔と変わらない。が、お腹だけが不自然に大きかった。
女性はキュリアスとマデリシアの顔を見比べると、そばかすの浮かぶ頬を紅潮させ、丸く小さな鼻をひくつかせて、
「あら、マディ!」
と声を上げた。
「久しぶりね!」
女性はそう言いながら、重い身体を引きずるように、カウンターを回り込んだ。
マデリシアはローザ・ストレイダーの大きくなったお腹を見て、慌ててカウンターの端に回り込んだ。
二人が喜びの声を発しながら、抱き合う。そしてすぐに、ローザのお腹を見て何やら笑い合うのだった。
「大きくなったわね?いつ予定なの?」
「後一月くらいよ。旦那に似て大きな子だと思うわ」
「想像できちゃった」
マデリシアはそう言って笑い声を上げ、ローザのお腹にそっと手を当てようとして、手を引っ込めた。その手をローザがとって自分の大きなお腹に触れさせた。マデリシアが驚いたように顔を上げ、ローザと笑顔で見つめ合った。
二人はしばらく抱き合って話した。
その間、キュリアスは手持無沙汰で、カウンターの席に腰かけて様子を眺めていた。
ローザは一年ほど前まで、キュリアスやマデリシアの仲間だった。もう一人、今はローザの亭主に納まっている人物も、元仲間だ。
キュリアスはそのころのことを思い出すと、たいして年月が経ったわけでもないのに、懐かしい気持ちが沸き起こった。
「あ、ちょっと待ってて。鍋を火にかけたままなのよ」
ローザが奥に戻ろうとするのを、マデリシアは手で止めた。
「あたしが行ってくるわ。火から離せばいいのね?」
「そう。じゃあ、お願いね」
ローザの後ろをマデリシアがすり抜け、壁の奥に姿を消した。そこで初めて、ローザはキュリアスに気付いた様子で、あら、久しぶりねと、声を発した。
キュリアスは返事の代わりに眉を動かした。
「また何か壊してきたの?」
「開口一番、それかよ」
「なによ」
ローザがいたずらっ子を叱りつけるような眼で、見つめていた。
「ああそうだ」
キュリアスはため息をもらすと、簡単に説明した。
「町を破壊して、出禁になった」
「ほら、やっぱり」
「うっせぇ」
「何時までたっても変わらないわね。マディに迷惑かけるんじゃないわよ」
「待て待て。迷惑かけてるのはあっちだ」
キュリアスの否定に対し、ローザは疑わし気に睨み付けただけだった。
「まあいい。もう店開けたんだな」
「つい先日ね。まだこの宿場町自体、完成してないわ」
「旦那は?」
「見回りと、町を囲む柵を作る手伝い」
「力仕事ならお手の物だ」
「そうね。誰かさんと違って、頼りになるわよ」
「おっと。ローザも惚気るようになったか」
「あら、悪いかしら?」
ローザに悪びれずに言われてしまうと、キュリアスに言い返す余地はなかった。
キュリアスが言葉に困っていると、マデリシアがトレーを二つ持って現れた。
「ローザ。勝手にパンとスープもらったわよ」
マデリシアはそう言いながら、キュリアスとその隣のカウンターの上にトレーを置いた。どちらにも、スープとパンが乗っている。
「おいしそうな匂いに負けたわ」
マデリシアはそう言いながら、カウンターを回り込んでキュリアスの隣に腰を下ろした。
「お代はいただくわよ」
ローザもそう言いながら、カウンターの席に腰かけた。
「久しぶりにこの匂いを嗅ぐな」
キュリアスは呟くように言うと、スープをスプーンですくって口に運んだ。
「やっぱりうまい」
「あら、ありがとう」
「あたしのも美味しいでしょ?」
マデリシアは対抗するように言ったものの、スープを一口飲んで、悔しい、美味しいと立て続けに言った。
「しばらくここにいるの?」
ローザは微笑んで言った。
「王都は出禁になったからな。せっかくだからここを拠点にしてやろうかと思って」
キュリアスはスープをすすりながら、軽口のように言った。
「あらあら。恩着せがましいことをおっしゃるのね」
ローザの表情が凍り付いていた。顔は笑顔のままだが、眼が笑っていない。
「まだ収益のない店に協力してくださるのね。ええいいわ。しっかりとお代をいただきますわ」
キュリアスはローザのとげのある言い方に気付かないのか、皿に残ったスープをパンの切れ端ですくい取って食べていた。
マデリシアは我関せずを決め込み、食事に没頭している。
「いつものパターンだと、エッジ」
ローザはそこで言葉を切った。キュリアスが振り向くのを待ったのだ。
「お金がないんじゃないのかしら?その食事代も、宿代も、大丈夫なのかしら?」
「食事代くらいあらぁな」
キュリアスはぶっきらぼうに答えた。ただ、遺跡発見の権利で得ていた収入は、王都の修繕やもろもろにとられ、権利を失っている。ローザはそのことを予測して、釘を刺しているのだろう。
「そう、良かった。でも、払えないと、宿も食事もないわよ」
「それはそうだ」
キュリアスはローザの意図には気付かなかったものの、ローザがそう言うからには、何か仕事の依頼があるのかと考えた。善意で言っていると勘違いしているが、話はかみ合うので、どちらも追及することはない。
「ここ、冒険者の店だろう?依頼はもうあるのか?」
「早速働く気になってくださったのね」
ローザは意外だと言いたげに呟いた。重そうに席を立つとカウンターの内側に入り、棚から一枚の紙を手に取った。それをキュリアスの前に差し出す。
「町の柵ができていないの。なのに東の森で奇妙なモンスターが出るというのよ」
「そいつの討伐か?…いや、違うな。森からモンスターが出てくるのか」
キュリアスは素早く依頼書に眼を通して言った。
「そうなの。その奇妙なモンスターが原因なのか、どうなのか分からないのだけれど、東の森からモンスターが出てきて、造りかけの町を荒らすのよ」
「そいつの討伐か。柵が出来るまでの警護依頼も合ったりするのか?」
「お察しの通り。報酬は少ないわよ」
ローザはそう言って、もう一枚の依頼書を棚から取って並べた。
「ないよりはましだろう。よし、腹ごなしに行ってくるとするか」
キュリアスは言うが早いか、立ち上がった。
「食事代は報酬から引いてくれ」
キュリアスは返事も聞かずに外へ向かった。
「呆れた。やっぱりお金がないじゃないの」
ローザは腰に手を当てて、頬を膨らませてキュリアスの背を見送った。
「実はね、出禁で王都出されて、一ヶ月くらい経ってるのよ」
マデリシアは皿の上をスプーンで撫でまわし、一所に集めると、すくい上げて口に運んだ。
「だと思ったわ。王都の話、噂に聞こえていたもの」
ローザはそう言った後、お代わりいるかしらと尋ねた。
「欲しい所だけど、夕食が食べられなくなるし、止めとく」
マデリシアはそう答えたものの、残ったパンの切れ端で皿をきれいにすくって食べた。
ポケットをあさり、お金を出した。
「当分いると思うから」
マデリシアはそう言って、食事の料金と宿代を訪ねた。ローザが答えると、コインを食事代と宿代の枚数ずつ、山を作っていく。その作業を行いながら、マデリシアは近況を語って聞かせた。
マデリシアとキュリアスは王都を出た後、一度この町を訪れた。ただ、その時はまだこの店も未完成だった。
マデリシアは行きたくはなかったが、王都がダメなら仕方ないと、新年祭に参加すべく、北西にある古都ライプに行った。
ライプもセインプレイス同様、新年祭めがけて人の集まる町で、二人がたどり着いたときは旅人でごった返していた。
安宿などとうに埋まってしまい、食事処も割高だった。そして冒険者向けの仕事依頼はというと、祭りを見越して集まった冒険者同士で奪い合う始末だった。そうして稼いだお金は、その日の宿代と食事代には足りず、手持ちが減る一方だった。
マデリシアはそれでも大丈夫だったが、キュリアスは財布が空になり、あえなく町を出る決断をしたのだった。
アレックに援助したからなぁ。マデリシアは頭の中で呟いた。
キュリアスは王都で知り合った新人冒険者のアレック・ヒューイットにライプで出会うと、軍資金だと言って財布の中身の大半を渡してしまっていた。
アレックに渡していなければ、もう少し滞在できたのだが、アレックも仕事がなくて困っており、申し訳なさそうにしながらも受け取った少年の顔を思い出すと、恨む気にもなれなかった。そう思うマデリシア自身も、餞別を渡していたのである。
とにかく、キュリアスの金欠のため、あえなく祭りを前にしてライプを発ち、造りかけの町、イクウィップへ戻ってきたのだった。
「よかったわね。ここが開いてて」
「そうなの。野宿で新年迎えるのは、ちょっとねぇ」
「この時期、虫も多いもの」
「そうそう」
ローザとマデリシアはそう言って笑った。
「うん、これだけまず払っておこうかしら」
マデリシアは並べたコインの大半をカウンターの上に残し、一部をポケットに戻した。
今度はローザがコインを数え、棚から帳面を取り出して何やら書き込んだ。そしてコインを集めて袋に入れ、カウンターの下にしまった。
「部屋は今なら選びたい放題よ」
ローザは重い腰を両手で支えながら立ち上がると、口角を上げて言った。
「じゃ、お言葉に甘えて、選ばせてもらおっと」
マデリシアは言うが早いか、立ち上がった。が、すぐに考えを改め、カウンター上のトレーを手に取った。
「ああ、いいわ。私が片付けるから。その代わり、部屋への案内は、ごめんね」
ローザはそう言って、お腹を抱えてみせた。
「階段大変そうだものね。分かった。片付けも大変なら言って。あたしがやるから」
「ありがとう。その分、マディの家賃は値引きしておくわ」
「あらぁ。ありがとう」
マデリシアはニンマリ笑うと、横の階段を上がっていった。
2
キュリアスが戻ってきたのは、外が赤く染まり、薄暗く変わり始めたころだった。
キュリアスが店に入ると、カウンターに横幅の広い男が立っていた。ジャック・ストレイダーである。ジャックはマデリシアよりも背が低いが、横幅はかなりある。太っているのではない。丸太のような硬くしまった腕、厚い胸板があるためだ。
ジャックの逞しい腕はキュリアスの仲間だったころのままで、現役を引退したとは思えない。
ジャックはキュリアスに気付くと、ようと低い声を発した。
「久しぶり」
キュリアスも答えてカウンターに向かった。
カウンターにマデリシアが腰かけ、食事をとっていた。反対側の端には見知らぬ女性と、その子供と思しき二人組がおり、こちらも食事に手を付けていた。
キュリアスはマデリシアの隣に腰かけると、手を差し伸べた。ジャックも待っていたかのように手を出し、握り合う。ジャックの手はごつく、力強い。
「相変わらず太い指だな」
キュリアスは感想を言った。
「引退したからと縮むものか」
ジャックはそう答えて、キュリアスの手を打った。続けて拳を出す。そこへキュリアスも拳を作って打ち合わせた。
「俺にも飯をくれ。後、上の部屋も」
キュリアスはマデリシアの食事を眺めながら言った。
ジャックが大きな手のひらを、キュリアスに向けて差し出した。
「噂に聞いてるぜ。どうせ金がねぇんだろう?先払いでいただくとしようか」
ジャックはわざと砕けた言い方をした。
キュリアスは舌打ちすると、今日の報酬をすべて出した。
「足りんな」
「あるだろ」
「昼飯も食ったんだろう」
「ああ。少しくらい勘弁してくれ。町の警護の依頼も受けてやるから」
「警護の人手は欲しいが、恩着せがましい奴はいらん」
「分った分かった。警護いたしますから、どうかおいてやってくださいませ」
キュリアスは気のない声で言うと、マデリシアの皿からチーズの切れ端を奪った。
「ああ!とった!」
マデリシアが声を発した途端に、食器がカチカチとなる。
「叫ぶな」
ジャックとキュリアスの声が重なっていた。
「にぎやかになったと思ったら、やっぱりエッジね」
ローザがトレーを抱えて奥から出てきた。ジャックは飛んでいくとトレーを受け取り、片手でローザの背中を支えた。
ローザはトレーを目配せで、キュリアスに提供するよう示した。頼む前から用意していたようだ。
「さすがローザ」
キュリアスはジャックがトレーを置くのを待って、食事に取り掛かった。その皿から、今度はマデリシアがおかずの一つを奪った。
それをキュリアスはフォークで阻止する。するとマデリシアは器用に空中で放すと、するりとかわして落ちてくるおかずをフォークで受け止めた。
キュリアスはマデリシアの手首をつかんで引き戻すと、そのフォークにかぶりついて奪い返した。
「浅ましいことは止めなさいな」
様子を見ていたローザが嘆いた。
「相変わらず、仲のいいことだ」
ジャックも呆れたように言った。
「どこが!」
マデリシアは叫び声を上げつつも、次の獲物にフォークを突き立て、今度はまんまと奪い去っていた。
キュリアスはマデリシアの叫び声で滑り動いた皿を受け止めるのに手を取られ、マデリシアにまんまと奪われていた。
「てめぇ…」
キュリアスはうなり声を上げた。
「おい貴様ら」
ジャックの太い声が響いた。
「叫ぶな!斬るな」
元冒険者仲間だけあって、キュリアスとマデリシアのこの後の展開が分かるのだろう。ジャックは鋭い恫喝で止めていた。
キュリアスとマデリシアの争いは、それでも止まらないこともあったが、今回は別の所から声がかかり、沈静化した。
カウンターの反対の端に座っていた小さな女の子が、マデリシアの傍にやってきて袖を引いた。
「面白い声ね。マナが乗ってるわ」
丸い顔に笑顔を浮かべた女の子はそう言ってマデリシアを見上げた。
「どうやってるの?声にマナを乗せるのって」
「マナを乗せる?この子、何言ってるの?」
マデリシアは理解できない様子で、きょとんとした表情を浮かべた。それでも女の子に向き直り、椅子から下りて顔の高さを合わせると、お姉さんにもよく分からないのよと答えた。
「自覚ないの?それは興味深いわね」
少女は舌足らずな声で、大人びたことを言った。
マデリシアは驚いた顔をした後、すぐに表情を崩し、この子可愛いと叫んで抱きしめた。
キュリアスは横目で様子を見ながら、食事を続けた。久しぶりに食べるローザの手料理は、どれを食べても美味しかった。普段遠慮しがちな野菜も、なぜかローザの手料理であれば、食べることができた。
マデリシアもローザの手ほどきを受け、そこそこ美味しいものを作るが、やはり本家には勝てないようだ。
「ごめんなさい。娘はあなたが魔術の知識があって、故意にマナを声に乗せてると思ったようね」
少女の母親が少女の隣にしゃがんだ。
少女はマデリシアの抱擁から何とか顔を脱出させた。
「声の振動にマナを絡めて物体を動かしたのよ。衝撃波も出せるはずよ」
いっぱしの魔術師の解説だった。見た目は十歳にも満たない少女で、発音も未発達だというのに、言っていることは大人顔負けである。
「何この子?天才肌?」
マデリシアは感激して言った。
「放してくださる?」
少女は静かに抗議した。これも子供らしからぬ反応だった。大抵の子供なら、喜ぶか、暴れるか、照れて動きがなくなるか、あるいは泣き出すかである。静かに要求するなど考えられなかった。
「賢い子なのね?お名前は?」
マデリシアは抱擁を止めはしたが、両手は少女の肩を掴んだままだった。
「人の名前を尋ねるときは自分から名乗るものよ」
少女は平然と言ってのけた。
「あらごめんなさい。あたし、マデリシア・ソングよ」
「シャロン・ベーヒカよ」
「ベネフィカです」
隣の母親が訂正した。
「私はマリア・ベネフィカと言います」
マリアは名乗ると、娘の頭をそっと撫でた。
シャロンは母親の愛情よりも、目の前のマデリシアに興味津々の様子だった。
「ねぇ。マデーシア」
少女は舌が回りきらないようだ。
「マディでいいわ。なあに?」
「それ、感情も乗せられるの?」
「感情を乗せる?声に?」
「そう。そうね」
シャロンは可愛らしく小首をかしげた。すぐに顔を上げると、歌で人を感動させられるかと言った。
「そいつはお手の物だな」
キュリアスが代わりに答えた。
「聞いてるやつらを操るくらいに。だからこいつ、バンシーって呼ばれてるんだぜ」
「歌声で人を惑わす伝説上の魔物ね」
シャロンは知識も豊富なようで、すらすらとバンシーの由来を語った。
「バンシー言うな!」
マデリシアはキュリアスを見上げて抗議した。建物が小刻みに揺れ、ジャックとローザがマデリシアを睨み付けた。が、マデリシアは気付いていないようだった。
「この美しい歌声の持ち主を捕まえて、ひどすぎると思わない?」
マデリシアは頬を膨らませてそう言うと、一節だけ歌ってみせた。
「素晴らしい歌声ですね」
マリアが言った。その横で、娘は歌よりも、声の方に気が向いている様子で、感情にも影響を及ぼすのねと呟いていた。少女の頬が赤く染まっている。
キュリアスが食事の手を止め、入り口の方に目を向けていても、警戒心の強いマデリシアでさえ、気付かなかった。マデリシアは少女の高揚した表情を見て、かわいいと感激しているだけだ。
キュリアスの次に異変に気付いたのは店の主人のジャックだった。その時にはキュリアスは視線を食事に戻し、無関心を装っていた。
店の入り口に薄汚れたローブ姿の男が現れ、不安そうに中を覗き見ていた。無精髭が顎を覆っている。歳のころは四十代に見えた。
「いらっしゃい」
ジャックは低い声で言った。その声で、マデリシアは初めて入り口のひと気に気付き、横目で確認していた。
「あの、ここ、もうやってる?」
「ええ。営業してますよ」
「ああ、よかった。看板も店の名前も無いからまだかと思った」
男はそう言いながら中に入ってきた。
「まだ店の名前決めてないのか?」
キュリアスは食事の手を止め、ジャックとローザを見た。
「そうなの。まだ考えがまとまらなくて」
ローザが答えた。ジャックは新しい客の対応をしていた。客は、食事と、部屋を借りるようだ。
マデリシアは横目で男を確認しつつ、キュリアスに向かって目配せした。何かを質問するような眼だ。
マデリシアは人を惑わす声を持つため、その声でトラブルを呼び込むことがよくある。声が原因で、貴族や商人に損害を与え、恨まれ、命を狙われることも度々あった。
マデリシアの声は人にはない力でもある。そういうものを権力者は欲しがり、手に入らないとなると、人の手に渡る前に処分してしまおうとする。そういう意味でも、マデリシアは狙われることが多かった。
突如現れた男が、自分を狙う刺客かもしれない。マデリシアはそう考え、キュリアスに目配せしたのだ。
キュリアスは心配ないと、頷いて見せた。キュリアスの感じ取っている気配に、この男に対する警戒すべきところはなかった。
「あの。ちょっと聞いてみるんだけど、エリック・パシュートさん来てません?」
男がジャックに尋ねていた。
「エリック?いえ。宿泊していないと思います。名簿にもありませんね」
ジャックは帳面をめくって答えると、ローザに向かって目配せした。
「私も存じません」
ローザが答えた。
「そうですか。おかしいな」
男はそう言って首を傾げた後、思い出したように顔を上げた。
「じゃあ、マリア・ベネフィカさんは?」
「あ、私です」
マデリシアの横にいたマリアが声を上げ、立ち上がった。
「もしかして…」
「あ、はい。ディグ・コリンズです」
男はマリアに振り向いて名乗った。
「よかった。来てくださったんですね」
「ギルドからの依頼ですから」
マリアはそう答えてほほ笑んだ。
「じゃあさっそくだけど、打ち合わせしましょうか」
ディグと名乗った男はジャックに食事と宿泊の代金を渡すと、テーブル席に移動した。
マリアは娘を見た。
「私はマディの声について調べたいの」
「分ったわ。マデリシアさん、すみませんが、お相手していただけますか?」
「うん。いいよ。こんなかわいい子の相手なら、喜んで」
マリアはマデリシアの返事を聞くと、踵を返してディグのテーブルに向かった。
「シャロンちゃんのママ、ギルドに属してるんだ?」
マデリシアはシャロンの眼を見て尋ねた。シャロンが頷く。
「もしかして、魔術師ギルド?だからシャロンちゃんもマナに興味を持ってるのかしら?」
マデリシアはシャロンに興味津々で、矢継ぎ早に質問を浴びせていた。
「私、魔女だもの」
シャロンは胸を張って答えた。
マデリシアは歓喜の声を上げた後、シャロンの年齢を尋ねた。
「六歳よ」
シャロンは答えた後、頬を膨らませた。
「私はいいの。あなたの声について教えて」
「いいわよ。なんでも聞いてごらん」
キュリアスはローザの手料理を食べ終え、食後の酒を頼んだが、金がないためにジャックに断られ、ふてくされてカウンターに突っ伏した。
宿の回りにまだ店はない。作りかけの店、完成してはいるが、まだ人も商品も入っていない店。空き地も多くある。そのため、キュリアスの感知できる範囲に、人の気配はほとんどなかった。
町を建設する作業員は、近くの村から男手を借りてくるのだろう。今は各村に戻ったようで、監督役の数人が野営しているだけのようだった。
ジャックの店から南へ少し行ったところに、馬とその世話人の気配がある。元々この辺りにはその馬と世話人しかいなかった。町を造るために最近、この辺り一帯を整地したのだ。
馬は国が管理している。要所要所に牧場を置き、伝令はそこで馬を乗り換えて町と町を移動する。
町と町を結ぶ街道も、元々はその牧場の傍で、南、北西、北に分かれていた。それを新設する町の中心部に交差点を移動させた。そのため、牧場は町の南端に位置している。
ジャックの店は交差点の傍にある。なかなかいい所を押さえているようだ。
街道の往来は激しいと言っていい。
街道を南へ向かえば、王都セインプレイスがある。徒歩で二日ほどの所だ。騎乗であれば、数時間でたどり着けるだろう。乗合馬車でも一日でたどり着ける。
北西には古都ライプがある。人類発祥の地だとか、地上初の町だとか言われている。事実かどうかはともかく、ライプの回りでは遺跡がよく発見されていた。
ライプは徒歩で四日ほどかかる。金がなくなったキュリアスはそこから四日かけてやってきたのだ。
キュリアスの足であれば、二日か三日もあれば十分だったが、マデリシアが暑いからとあまり歩かず、四日かかってしまったのだった。
街道を北へ向かうと湖に行きつく。その湖の中ほどに島があり、そこに貴族の避暑地として知られる町があった。アイリットンズレイクと名付けられた町は、入出に厳しい。武器の持ち込みは許されない。また、町で問題を起こすと、すぐに退去させられ、入ることができなくなるほどだ。
アイリットンズレイクはここから徒歩で二日ほどの距離だ。王都から四日。馬車で二日程度の距離とあって、暑いこの時期は、貴族の多くがアイリットンズレイクで過ごし、新年を迎える。
街道はアイリットンズレイクを避けてさらに北へと続く。その先には、国土の大半をスペリエント山脈という険しい山々が占める国スペリエントがあった。
スペリエントはキュリアスの生まれ育った国でもあった。
キュリアスが生まれる以前は、スペリエントとフォートローランスが戦争をしていた。周りの諸国も巻き込んでの戦争だったが、フォートローランスの現国王カークロス・ハートの活躍によって終戦し、同盟まで結束するに至った。
スペリエントは今でもその名残があり、軍事を国の生業としていた。他国からのモンスター討伐依頼や、災害救助依頼を受けて軍を派遣し、見返りに他国から資金の提供を受けて国を成り立たせていた。
一時期、不穏分子の排除にも力を入れ、ソード隊という非公式組織を結成していたことがある。ソード隊は不穏分子を、暗殺という直接的な手段をとって排除していた。
ソード隊はいつしか、金で暗殺を請け負うようになり、それに疑問を抱いたキュリアスと、その兄のような存在であるマルス・ジャストゥースの手によって壊滅したのだった。
キュリアスは物思いから意識を戻し、顔を上げた。マルスと二人でフォートローランスへ逃げた後、ジャックやローザ、それにマデリシアを加えて冒険者をやっていた。
今、マルスを除いた元の仲間がここに集まっている。キュリアスはこの真新しい建物の中が、古巣のように思えた。場違いな感情だとは思うが、それは集まった人から受ける印象でもある。
図らずも、キュリアスの落ち着ける場所が、ここに用意されていたようだ。
シャロンの質問攻めはまだ続いていたようだ。さすがのマデリシアも困惑した表情に変わっていた。どうやら、キリが無いようだ。
マリアとディグという中年の打ち合わせは既に終わっていた。マリアは娘の気が済むまで続けさせるつもりのようで、離れたところから眺めているだけだった。
「せっかくだから物語を語ってみせて」
シャロンが言った。マデリシアは質問に答え続けるよりはと、喜んでと言った。自分の得意分野である語りであれば、惜しむところはないのだろう。
マデリシアはカウンターの椅子に、カウンターに背を向けて座ると、何がいいかしらと呟いた。
様子を見ていたマリアが娘のために椅子を運び、座ることも動くことも忘れたようなシャロンを抱えあげて座らせた。そして自分も娘の隣に椅子を置いて座った。
3
「それは五千年の昔」
マデリシアの語り出しはその文言だった。五千年前と時期を特定する物語は多くあり、冒頭の文言はほぼ同じだ。
マデリシアはゆっくりと、かみ砕くように語った。
「大国が近隣諸国を飲み込んでいた。宗教の名のもとに、人々を開放する戦いだと、大国は主張した」
ここまで語るとキュリアスにも、どの物語か分かった。
「人々の病を癒し、ケガを治す尊き力を持った少女が、大国の軍を守り、教義を受け入れた人々を治療した」
マデリシアはそこまで淡々と語ると、そこからは登場人物ごとのセリフを、声色を変え、感情を込めて語った。
聖女と呼ばれる少女が、教義を受け入れた人々を救済する場面。兵士が敵対する人々を容赦なく斬り捨てていく場面。負けてなお教義を受け入れない人々を拘束し、教会の強制収容所送りにする場面。
聖女が軍の行っている残虐な行為に気付き、苦悩する様まで演じてみせた。声だけの演技だというのに、それは真に迫り、聞く者の胸に聖女の苦悩が伝わって共感を生んだ。
以前ロッツ村へ向かう道中で聞いた歌と物語自体は同じだ。しかし、前回のものは歌うような語りで、詳細はだいぶ省かれていた。
今マデリシアの紡ぐ物語は、描写部分は語りであるものの、セリフは感情をこめていた。そして今回は歌とは違い、詳細を語っている。
キュリアスはどちらかと言えば、前回の歌うような調子の方が好みではある。が、こちらはこちらで、登場人物のセリフに一喜一憂させられ、胸の奥に熱くたぎるものを感じるのだった。
マデリシアの語りは収容所の様子に変わっていた。収容された人々が過酷な労働を強いられ、収容所から解放されたかと思うと、奴隷として売られていく。
もはや改宗しても受け入れられず、彼らは奴隷へと身をやつしていくしかなかった。
キュリアスがこの詳細な語りが面白くないと思うとすると、この辺りだろう。うっぷんがたまり、暴れたくなる。なぜ人々が大人しく奴隷に身をやつしていくのか、理解できないためでもあった。嫌ならあがなえばいいのだ。自分なら戦っていると確信していた。
ローザが木製のコップを運んできた。マデリシアとキュリアスの前に置く。中身は明らかに水ではなかった。
キュリアスはローザを見上げた。ローザはウインクしてみせると、唇だけを動かして、おごりだと告げた。
キュリアスは目礼するとコップを受け取り、口に運んだ。普段飲む酒とは違い、果実の風味のある酒だ。甘い口当たりで飲みやすい。リンゴ酒か。キュリアスは自分の味覚が正しいか確認するように、もう一口飲んだ。
マデリシアは語りの合間に、器用にリンゴ酒を飲んだ。のどを潤し、語りを続ける。
場面は移り、一人の青年が強制収容所を襲い、人々を開放していた。青年は寡黙に、ただ人々を開放する。圧倒的力を持って、司祭を名乗る兵士たちを打ち負かしていった。
青年の剣の一振りは、龍の爪痕のごとく刻まれた。
解放された人々の中から、力ある者が青年と行動を共にした。
青年よりも武力に勝る大剣使い。
青年よりも早く走れる少年。
青年よりも寡黙で存在感が希薄な男。
青年よりも華奢ではあるが、絶大な魔法を使う女性。
彼らは各地の収容所を襲撃し、人々を開放していく。
宗教国家も黙ってその様子を見ていたわけではない。実力のある聖騎士を多数派遣し、五人の討伐を画策した。
聖騎士は一人一人が一騎当千の実力者。他国の軍を一人の聖騎士が完膚なきまでに退けてきた。
龍のごとき力を有する青年は聖騎士との接触を避けた。聖騎士の動向を把握していたのか、聖騎士のいない収容所を襲い、捕らえられた他国の人々を開放していった。
しかし、それはいつまでも続かなかった。収容所の数が減り、聖騎士たちは残りの収容所の守りについたからだ。
宗教国家は、収容所を襲い続ける五人が聖騎士を恐れて逃げ去るもよし、収容所を襲って聖騎士に返り討ちに合うもよしとの考えだった。聖騎士が負けることなどあり得ない。相手もそれが分かっているから避け続けていたのだと考えていた。
人々は、五人の活躍に希望を抱いていたものの、聖騎士を避けるがごとき状況に、落胆もしていた。聖騎士を前にして、五人は姿を消すものと噂していた。
人々は落胆した。噂が消えるように、反逆ののろしも消えてしまうのだ。
「おい!聞いたか?」
マデリシアが声を荒げた。続けて声色を変え、迷惑そうに言う。
「何にも聞きゃあしねぇよ。元の退屈な日々さね」
「何が退屈なものか!聞けよ!」
別の声色で答えてみせると、噂話を熱っぽく語る人物よろしく、マデリシアは一つの戦いの場面を語った。
聖騎士の中で聖なる盾と呼ばれる騎士がいた。その騎士は、身体よりも大きな盾で、どのような攻撃も防いで見せた。その聖なる盾の前に、一人の若者が現れた。
金色の髪をたなびかせた青年は、その身長よりも長い大剣を片手で振り回し、聖なる盾に挑んだ。
聖なる盾は振り回される大剣をことごとく防いでみせた。
青年は下がった。力尽き、打つ手がなくなったのか。
そうではなかった。青年は高揚した表情を笑みに変え、大剣を両手で構えなおした。大地を揺るがすほどの踏み込みで、一足に聖なる盾へ迫ると、大剣を振り下ろした。
聖なる盾はその攻撃も防いでみせた。が、次の瞬間、盾と騎士は真っ二つに斬り裂かれ、青年の大剣がその間の地面を割っていた。
これ以後、その大剣使いの青年は、畏怖を込めて、破壊者と呼ばれた。
また別の噂が流れる。
聖騎士の中に、神眼の騎士と呼ばれる者がいた。神眼の騎士は背後からの攻撃も、見ていたかのように避ける技量の持ち主で、何人たりとも、かの騎士に傷一つ負わせることはできないと目されていた。
神眼の騎士の前に一人の若者が現れた。正確には背後に、である。
神眼の騎士は当然のごとく、背後の敵を察知し、悠然と攻撃をかわした後で、忍び寄った襲撃者を亡き者にするはずだった。
ところが、若者には気配がなかった。言葉は口にしない。誰も声を聞いたことがないのだから。その存在もまるで影のないようなもので、あるいは目の前にいても見逃してしまうほど希薄であった。
さすがの神眼の騎士でも、その若者の気配は察知できなかった。若者が繰り出した大鎌の一撃により、首を落とされることになる。
この若者は以後、死神と恐れられた。
さらに別の噂が流れた。
聖騎士でありながら、稀代の魔術師でもある男がいた。男は膨大な魔術の知識を有し、それらを自在に操ってみせた。神から授かった叡智だと豪語し、その知識と力の守り主と、自ら名乗った。故に、彼は叡智の守護者と呼ばれる。
叡智の守護者の前に現れたのは、守護者の子供ほどに年の離れた、うら若い女性だった。
ただ、この女性は若く美しいだけではなかった。叡智の守護者に魔法勝負を挑み、互角に渡り合ってみせたのだ。
強大無比な魔法の応酬は三日三晩に及んだ。二人の魔力は無尽蔵だとでもいうのか、繰り出す魔法は一向に衰えることなく、激しくぶつかり合っていた。
先にマナが切れたのは聖騎士の方だった。彼は自身の評判を落としてでも、女性を討ち果たしにかかった。腰の剣を抜き放ち、最後のマナを使って瞬時に女性の脇に立った。
魔術師である女性はなすすべなく、剣の餌食になると思われた。だが、叡智の守護者の剣は空を切った。そこには女性の幻影があっただけだったのだ。
叡智の守護者は三日三晩、女性の幻影と魔術合戦を繰り広げていたのだ。
愕然と膝をつく騎士の前に、空中から女性が舞い降りた。幻影と同じ姿の女性は、終わりをつげ、騎士に魔法の矢を突き立てた。
女性は以後、畏怖を込めて、魔女と呼ばれる。
別の噂では、神速の騎士と謳われる聖騎士の前に、頼りなげな少年が現れた。
神速の騎士はその名のごとく、人の眼では追うことのできないほどの速さで剣を振るう。少年は身動きすることなく、切り刻まれて終わるはずだった。
少年は騎士の攻撃を避けた。まぐれではなく、何度もかわしてみせた。そして神速の騎士でも捕らえることのできない速度で駆け回り、手にした大型ナイフによって、騎士を倒してしまった。
その様は、騎士が暴風に巻き込まれ、風によって切り刻まれているかのようだった。風の中に悪魔が住い、触れるものを刻むかのようだった。
少年はこれより、風の悪魔と呼ばれることになる。
別の噂では、聖騎士長が反逆者を迎え撃った。現れたのは、人々の開放を始めたあの青年だった。
青年は二本の剣をまるで手足のように操った。片手で繰り出す斬撃でも、大地を割った。
しかし、聖騎士長も伊達ではない。斬撃の一つはかわし、もう一つは自らの剣圧で相殺してみせた。
次の瞬間、青年の姿が消えていた。が、聖騎士長は冷静に、タイミングを計って背後に剣を振ると、そこに青年が現れた。
青年は素早く走り回った。これも聖騎士長には無駄だった。攻撃に向かってくるタイミングに合わせ、巧みに攻撃を繰り出してみせた。
青年の攻撃はことごとく聖騎士長に防がれ、手も足も出ないかに思われた。
青年の身体が光に包まれた。途端に、彼の一振りは山を斬り裂いた。彼の一歩は風よりも速くなった。
それまで優位に戦っていた聖騎士長は、青年の攻撃によって、倒れた。その傷跡はまるで龍の牙が身体を貫いたかのようだった。
青年が龍の化身と呼ばれるのは、この戦いの後である。
ローザが新しいリンゴ酒を運んできた。マデリシアは眼で礼を言うと受け取り、語りの合間にのどを潤した。
解放された人々は武器を取り、仲間の奪還に走った。自由を取り戻すために戦った。各地の収容所は全て解放され、多くの若者が武器を手に歓喜した。
聖騎士団の要を失った宗教国家も黙って見ていたわけではなかった。国に反逆する人々を倒すべく、国中から兵士を募った。討伐軍の指揮は実質的に将軍が握るものの、国の威厳と正義の象徴として、聖女をその軍の総大将とした。
聖女の庇護の下、誰も死ぬことはない。兵士たちは神を信じ、聖女を信じて戦った。恐れを知らぬ兵士が戦場を駆け巡り、敵対者を叩きのめした。
自由を取り戻したと喜んでいた人々は、聖女を信じて突き進む一団に恐怖した。白刃の元に神の名を唱えながら飛び込む兵士は、狂気の様に映り、恐怖心を煽り立てた。
人々は宗教国家の勢力圏から脱出するため、西へ向かった。
聖女の軍は日増しに人数を増やし、逃げる人々を半包囲する形で西へ追い立てた。
聖女の軍が、度々足止めを受けた。五人の強者が各地を転戦し、人々の逃げる時間を稼いでいた。
しかし、龍の化身の牙と言えども、聖女の加護を破れなかった。破壊者の一撃も通じなかった。死神は近づくことすら敵わず、風の悪魔は鳴りを潜めた。魔女の強大な魔法も、聖女の加護にかき消された。
聖女の軍勢は勢いを増した。その軍勢はついに百万に達する。
反逆者たちはもはや風前の灯火だった。宗教国家の勢力圏を出る前に、百万の軍勢に包囲され、打ち滅ぼされるのみである。
だが、時の流れは反逆者に味方した。
討伐軍の進行路から僅かに逸れたところで疫病が発生した。小さな村で、放っておいても大した被害には至らない。将軍はそう判断し、進軍を続けた。限定的な疫病よりも反逆者の討伐が大事と判断したのだ。
ところが、聖女は違った。聖女は軍を離れ、小さな村の苦しむ人々に手を差し伸べた。聖女の献身が、聖女の力が、疫病に苦しむ村人たちを救った。
討伐軍から聖女が離脱したことは、反逆者たちには伝わっていない。ただの偶然に、同じころに決死の追撃阻止に打って出た。
「後ろを止めなきゃ、終わりだ」
破壊者が言った。
「でも打つ手がないよ」
風の悪魔が言った。
死神も、魔女も口を噤んだ。
龍の化身は仲間の顔を見渡した。仲間の眼には、諦めの色などない。言葉とは裏腹に、強い意志が宿っていた。
「ここで迎え撃つ」
龍の化身は短く決断した。
「みんなを逃がす時間稼ぎね。この先を越えれば、勢力圏外だわ。やる価値はあるわね」
魔女はここ以外にないと、龍の化身の意見に賛成した。
「聖女はどうするの?」
風の悪魔が心配そうに尋ねた。
「ぶっ壊してやるさ」
破壊者は自信満々に言い放つ。
「聖女はいない」
龍の化身は後方を見つめて言った。森が切れ、平原になっているものの、まだ追撃の兵は到達していない。
「どうして分かる?」
とはだれも聞かなかった。皆が龍の化身の言葉を信じ、各々武器を確認し、戦いの準備を行った。
五人の変化に気付いた人々が、自分たちも一緒に戦うと主張した。龍の化身は反論しなかった。が、魔女が意を察し、人々を諭して西へ向かわせた。それでも従わない、血気盛んな若者には魔法を使って西へ向かわせた。
地平の先で何かが動いたように見えた。次第にそれは黒く横へ広がり、平地を侵食していった。
兵士の踏みしめる大地は、揺れ、煙を上げた。小さな陰にしか見えない一団の足音が、大地を伝わった。
龍の化身たちは足に伝わる振動をものともせず、押し寄せてくる人の波を悠然と眺めた。
「壮観だな」
破壊者は言った。
「こいつを思う存分破壊できるってのはよ!」
「今日は派手に行こうかしら。あの呪文を試してみるのもいいわね」
魔女は不敵にほほ笑み、物騒なたくらみを巡らせていた。
風の悪魔は少年らしく、怯えたように身体を震わせていた。
「おい坊主!」
破壊者が風の悪魔の肩を叩いた。
「てめぇは遠慮せず、戦場を駆け抜けろ。それで十分だ」
「わ、分かった」
五人の身体が浮き上がりそうなほど、大地が揺れていた。
討伐軍の先陣に、弓隊が配置された。五人の姿を認め、攻撃態勢に入ったのだ。
「で、どうするんだ?」
破壊者は形ばかりに尋ねた。
龍の化身は決まっているだろうと言いたげに、
「すべての敵を迎え撃つ」
と、事も無げに言い放った。
「つまりは、坊主が突っ込んで、俺が破壊して、てめぇらがかく乱するってこったな!」
破壊者は言うが早いか、大剣を頭上に掲げ、振り下ろした。
剣圧が大地を裂き、討伐軍を一直線に斬り裂いていった。それが合図だったかのように、魔女が小さな石を宙から降らせ、各地に甚大な被害を与えていった。
龍の化身が剣を振ると、百万の軍勢に亀裂が走った。剣圧の通り道に居合わせた兵士たちが次々と弾き飛ばされ、倒れていく。
剣圧によってできた隙間に風が飛び込んだ。その風は時に竜巻となり、兵士を巻き上げた。風を止めることは誰にもできない。戦場を自由気ままに駆け巡り、兵士たちをほんろうしていく。
討伐軍の一部で悲鳴が上がった。前線の指揮を執る騎士の首が落ちたからだ。傍にはいつの間にか、死神がいた。
死神が大鎌を振るうと、稲穂を刈るように兵士たちの首が飛んだ。
破壊者と龍の化身の斬撃で、討伐軍の隊列が縦に斬り裂かれる。多くの兵士が倒れ、力尽きる。
百万対五人。
圧倒的な数の有利は疑いようもない。
個の能力が卓越した五人でも、いつかは力尽き、打ち取れるに違いない。討伐軍の兵士はそう考え、楽観もしていた。
だが、死神と龍の化身が前線の将兵を次々と打ち取り、統制が乱れると、様相は一変した。
恐怖を抱いた兵士が後方へ逃げようとする。後方の兵士は前線に出ようと進む。仲間同士でぶつかり合い、進軍が滞る事態に陥った。
人の密集する場所に、破壊者と龍の化身の斬撃、そして魔女の、大地を削り取るほどの、燃え盛る石が襲い掛かった。
僅かでもほころびが生まれると、そこに風の悪魔と死神が突入し、風が兵士たちを翻弄し、指揮官の首が宙を舞った。
百万対五人。
そこにはあり得ない光景が広がっていた。
討伐軍は次第に統制を失っていく。
大剣の一振りで数百、数千の兵をなぎ倒す破壊者。
突如として現れ、指揮官の命を刈っていく死神。
空からは大地を焼く石が降り注ぎ、地上では風が兵士たちを切り刻んだ。
光の龍が現れ、兵士たち軍勢を飲み込み、無人の野を生み出した。龍が着地すると龍の化身に姿を変え、二刀の剣が辺りを斬り裂いた。
討伐軍は後方から続々と兵士が駆けつけた。
逃げる前線の兵士たちと、後続がぶつかり合い、混乱に拍車をかけた。
いつの間にか、総指揮官の将軍まで首をとられ、もはや混乱のるつぼと化していた。
日が沈むころ、平原には死屍累々としていた。百万の軍勢に生き残りはいなかった。
暴れ続けた五人も、魔女はマナが尽きかけ、風の悪魔は疲労に倒れた。破壊者が少年に肩を貸した。魔女は残ったマナで自身に浮遊魔法をかけた。歩く力も残っていなかったようだ。
死神と龍の化身はまだ余力があるのか、平然と戦場を歩いた。残りの三人も合流し、地獄絵図さながらの平原を抜け、西へ向かった。
4
マデリシアの物語りは、夕日に向かって歩く五人の姿を見送って終わりを迎えた。
ため息と拍手が重なった。拍手の勢いが増していき、それぞれが賛辞の言葉を述べた。
「興味深い変化ね」
シャロンのこの呟きに気付いた者はいない。声も拍手にかき消されるほど小さかった。
キュリアスはシャロンが何か呟いたことには気付いた。内容は聞こえなかったので、シャロンを見つめただけだ。皆とように、賛辞の言葉を口にしたと解釈していた。
シャロンはキュリアスの視線に気付くと、少女らしく満面の笑みを浮かべてみせた。
「すごかったわ。兵士の足音が聞こえたもの」
シャロンは、今度は皆に聞こえる声で言った。
物語りの手法として、足音のシーンで足を踏み鳴らすこともある。が、マデリシアはそれをせず、ただ声の抑揚のみで表現してみせた。ただ語っているだけだというのに、聴衆はその足音を聞いたように思えた。
マリアも、ジャックもローズも、離れた席に座って聞いていたディグもシャロンの言葉に頷いていた。キュリアスも胸の奥に響き続けている音の余韻を味わっていた。
マデリシアは声のトーンを変えることで、足音を表現し、その声の振動で大地の震えを再現していた。これはマデリシアの声の力があってこその手法である。
シャロンは赤く染めた頬を突き出すようにマデリシアに迫ると、マデリシアに声の出し方など、質問を始めていた。
娘に劣らず、マリアも前のめりになっていた。
「似たような五人の出てくる話がありますよね」
マリアも娘のように顔を紅潮させ、シャロンと共にマデリシアに迫っていた。
「えっと、あったっけ?」
マデリシアは二人の勢いに押され、その頭に納まるいくつもの物語りから似たものを探す作業ができずにいた。
「龍の化身ではなくて、戦場の亡霊とかファントムと呼ばれてます。後の四人は一緒です」
マリアの説明に、マデリシアは、あれねと頷いた。
「極悪非道の五人として描かれてるけど、確かに似たような状況ね」
「こちらは聖女の所属する宗教国側が正義として描かれています」
「もしかして、同じ物語なのかしら?」
マデリシアの疑問に、マリアは高揚したように声のトーンを上げた。対照的にシャロンは大人しくなり、母親の興奮ぶりを冷めた表情で眺めていた。
「あるいはそうかもしれません」
「こっちは聖女と軍隊は初めから別行動だったわね」
「そうなんです。五人は聖女を人質に、西方諸国へ逃げ込むのでしたね」
「ああ、それ、色々結末あるのよ」
「そうなんですか?」
「人質にとるけど、聖女の従者が助け出して、五人も倒して終わるものと、軍隊が五人を倒して聖女も助け出す話と、後なんだっけ?」
マデリシアは小首をかしげて考え込んだ。
マリアは他には、と続きを期待して待っている。
「ああ、そうそう。西方諸国の一つ、えっと、なんだっけ?度忘れしちゃった。とにかく、その国が五人を捕らえて宗教国家に差し出して終わる話とあったわね」
「宗教国家にも名前、ありますよね?」
「そのはずなのよ。なのに、どの話にも名前が出て来ないのよ」
マデリシアはおかしいと言わんばかりの勢いで返していた。
「コルカルサス」
シャロンが呟いたが、誰も聞き取れなかった。キュリアスも呟きには気付けなかったほど、口も動かさず、声もほとんど発していなかった。
「五千年前の西方諸国と言えば、有名な国が一つありましたね」
マリアは古代史やその伝承が好みのようで、マデリシアと趣味の話で盛り上がっていた。
「魔法王国レムリア!」
マデリシアは指差して答えた。
「そう!レムリアに関する物語も多いですよね」
「そうね。女王エルヴィラ・ツァオベールの偉業を讃えるものが多いわね。魔法の開発とか、スクロールとか、魔導書とか、魔道具もこのころだったわね」
マデリシアは嬉しそうに答え、指折り数えた。
「興味深い話ではあるのですが、旅の疲れがあるようなので」
ディグが半分閉じかけた眼で皆を眺めると、一礼して上の宿へ引き揚げた。
マデリシアと話に没頭していたマリアも、急に冷静さを取り戻した様子で、辺りを見渡していた。娘と目が合うと、慌てたようなそぶりを見せた。
「あら、いけない。娘を寝かせつけないといけないわ」
マリアはそう言い立てると、マデリシアにまた明日、お話ししましょうと別れを告げ、娘の手を引いて二階の宿に引き上げようとした。
「あら。私との約束が先よ」
シャロンは落ち着いたそぶりでそう言い放つと、自分から二階に向かった。マリアもその後を追っていく。
「んじゃ、俺もひと眠りするかな」
キュリアスも立ち上がったが、彼は二階に上がることはできなかった。村の見回りに出ていた有志の若者が店に飛び込んできて、モンスターの襲来を告げたからだ。
キュリアスは渋い顔をしてみせたものの、ジャックの睨みを受けて、分かってるってと投げやりに答えて、外に駆け出していった。
マデリシアはゆっくりとリンゴ酒を飲み干すと、二階に借りた部屋で休んだ。
マデリシアが昼前に起きだしてくると、シャロンが待ち構えていた。マリアは娘に先を譲った様子で、見えるところにはいなかった。おかげでマデリシアはシャロンの質問攻めに悩まされるのである。
シャロンはマデリシアに、しきりに歌わせたり叫ばせたりしたがった。が、その度にローザが邪魔をするので、最後にはシャロンははぶてたように顔をしかめて二階の部屋へ引っ込んだ。
シャロンは次の日も朝からマデリシアを待ち構えていた。諦めたわけではなかったのだ。それどころか、魔道具まで用意する念の入れようだった。
「それなに?」
マデリシアは少女が握る札を指差して言った。
「札のことかしら?それとも札に書かれたもののことかしら?」
シャロンは六歳とは思えない口調である。が、マデリシアはもうそれが当たり前になり、シャロンの物言いをすんなり受け入れていた。
「うん、両方」
「今考えたわね」
「バレた?」
マデリシアは答えて笑った。シャロンは呆れたと返したものの、顔はほころんでいた。
「札に書き込んだものは魔術回路と言われるものよ。ここにマナを流し込むことで、刻まれた魔術が効果を発揮するの」
マデリシアが小首をかしげていると、シャロンは説明を加えた。
「マディって冒険者よね?だったら、魔導書を知ってるでしょ。この札が、その魔導書よ」
「え?魔導書って分厚い本じゃないの?」
「あれは魔術回路を複雑にし過ぎなのよ。もっと簡単にできるのに」
「へーそうなの?」
「そうなの。なのに、無駄にマナまで封じ込めようとするから魔導書も不安定になって、何回か使ったらスクロールみたいに壊れちゃうでしょ」
「あーそだね。もったいないから使わないけど。売った方が金になる!」
「本来の魔術回路は壊れないのよ」
「え?それって、無限に使えるってこと?メチャクチャ高価そう…」
「そんなことはないわ。壊れない代わりに、この魔術回路に刻まれた意味を理解しているものにしか使用できないの」
「えっと、それって…」
「つまりは、魔法使いの素質がないと使えない代物なの」
「あちゃー。金持ちが買っても意味がないってやつね。売るのが難しそう…」
「売らないでくださる?」
「あ。ごめんごめん」
マデリシアは反省した様子もなく、軽い言葉で詫びた。
「でもそれじゃ、魔導書の意味がないじゃん」
「遺跡で見つかる魔導書の方が、間違いなのよ。一回使って壊れるスクロールの方が安全だもの」
「え?魔導書って安全じゃないの?」
「いつ壊れるか分かったものではないもの。それも、封じ込められたマナが勝手に暴走して辺り一帯に効果を発動してしまうこともあるわ。とても不安定な代物なのよ」
「暴走って…?」
マデリシアは言葉を区切り、両手を顔の前に寄せると、一気に両腕を広げた。
「そうよ」
マデリシアの言わんとすることを理解できたシャロンは、頷いて見せた。
「それはやだ…。そんな怖いものだとは思わなかったわ。あたしは使わないけど、決まった魔法が、素人にも使える便利な道具ってくらいにしか思ってなかったもの」
「マディには金になるアイテム、でしょ」
「そう!」
マデリシアは勢いよく答えると、高らかと笑った。すると無人の椅子がカタカタと揺れた。
シャロンが札を顔の前に掲げた。札が淡い光に包まれたかと思うと、辺りの椅子の動きが止まった。
「何したの?」
「魔術回路にマナを流し込んだのよ」
「うん、それは何となくわかったわ。そうじゃなくて…」
「小さな結界を張ったの。この札の半径二メートルくらいに。ここから離れなければ、いくら叫んでも物が壊れることはないわ」
「え?」
「いいから何か叫んでみて」
「いやいや、壊れるでしょ」
「大丈夫だから。私を信じて」
「何この子。グッとくるもの言いね」
「茶化さないでくださる?」
「アハハ」
マデリシアはすぐに真顔に戻った。
「シャロンちゃんの言うことが正しいとして、じゃあ、その結界の中にいるシャロンちゃんは?あたしの声の効果をもろに受けるんじゃないの?」
「お気遣いありがとう」
「どういたしまして」
「でも大丈夫。私はこれでも魔法使いですもの。自分の身体は別でちゃんと保護しているわ」
「おー」
マデリシアは思わず低く唸るような声を発した。普段なら、この声で小さなものが揺れる。
マデリシアの手に握られているコップの中身はしっかりと波打っていた。同じように辺りの小物が揺れていると予想し、見渡してみても、特に何の変化もなかった。
マデリシアは短く声を発した。コップの液体は声の大きさに合わせて揺れるので、自分の声の効果が発揮されていることはよく分かる。
コップの中身と違い、先ほどは揺れた店内の椅子や、花瓶に生けた花まで、全く反応を示していない。
マデリシアはコップの中身を飲み干すと、声のトーンを上げていった。
コップが割れた。それでも周囲に変化はない。通常なら、この段階でローザのお叱りが入るところだが、ローザは奥から出てくる様子もなかった。
シャロンの用意した結界は、声も遮断しているのかもしれなかった。
「何これ!凄い!魔封じの独房よりすごくない?」
「何かとんでもないものと比べられたようだけど、そんじょそこらの魔封じと一緒にしないでいただけるかしら?」
「その札、ちょうだい」
「あげてもいいけど、マディには使えないわよ」
「あ…」
「それに、結界の外に声が伝わらないから、会話にも困るわよ」
「それはやだ!」
「声が漏れると効果も漏れる恐れがあったもの。仕方ないわ」
「あたしの声ってそれほどすごいの?」
「すごいわね。声にマナを乗せているのは、ある意味魔術を使っているようなものよ。それに、言葉そのものにも作用しているようだわ」
「言葉そのものに?」
「そう。少し横道にそれると、言霊って言葉を知っているかしら?知らないわね」
シャロンはマデリシアの表情を読むと、自己完結して説明を続けた。
「強い意志を込めて発した言葉には相手に影響を与えるほどの効果を発することがあるの。言葉に魂が雇って影響する、という考えね。ほら、例えば、威厳たっぷりに座りなさいって言われて、思わず従ったことない?」
「あるかもってか、あたし、それ、普通に人にやってる」
「マディの声は相手の精神に影響を及ぼすほど強力ですもの」
「シャロンちゃんは平気そうじゃない」
「私は魔法使いだって言ったでしょ。マディの声に限定した対抗処置を施してあるの。限定すればするほど効果は絶大になるの。今の私を操ることは不可能よ」
「そう言われるとやってみたくなるわね」
マデリシアはそう言うと、上を向いて、だとか、立ってだとか、思いつく行動の指示を出した。
シャロンは平然と座り続けていた。
マデリシアは意地になり、腹の底から声を発した。
「立って!」
シャロンは微笑したまま、動かなかった。
「うそ…。今のは本気で従わせようとしたのに…」
「やっぱり、多少は自覚して使っているようね」
「ショックだわ…。え?ああ、少しはね。でも大半は無自覚に出ちゃう」
「人を惑わせたり、町を破壊したりした話は聞いたことあるわ」
マデリシアは言葉にならない声を発して答えた。
「心配しないで。バンシーとは呼ばないわ」
「それはどうも」
マデリシアは唸るように呟いた。
「基本は魔術と一緒だわ。その気があれば、制御できるようになると思うわ」
「本当に?」
「ええ。私が請け負うわ」
マデリシアはシャロンを上から下までじっくりと眺めた後、どんな訓練か尋ねた。
「まずは魔術の基礎から学ぶ必要があるわね」
「めんどー」
「そうかしら?無理強いはしないわ。もしも訓練が必要になったら、私に声をかけて。協力してあげる」
「考えとくー」
マデリシアは気のない返事をした。
「結界を解くわ。叫ばないでね」
シャロンはそう言うと、札をテーブルに置いた。すると辺りの音も遮断されていたようで、急に人の気配が身近に迫った。
マデリシアは咄嗟に気配から遠ざかった。
「何やってんだ?」
気配の主はキュリアスだった。
「何だ…。びっくりさせないでよ」
「よく叫ばなかったわね」
シャロンは平然と言ってのけた。
「分ってたなら先に教えなさいよ!」
マデリシアは抗議の声を上げた。
「マディ!店を壊す気?」
奥からローザの声が響き渡った。
マデリシアは思わず口を押さえていた。
「楽しそうだな。新年を迎える前に、ここを破壊してくれるなよ。野宿で新年を迎えるってのはごめんこうむるぜ」
キュリアスはそう毒つくと、カウンターの席に腰かけた。
「うっさい!」
マデリシアの叫びに呼応するように、奥で何かが落ちて転がる音が響いた。
「マディ!」
ローザの一喝に、マデリシアは小声で詫びていた。
5
シャロンの質問攻めが終わると、待ち構えていたかのように、マリアが現れ、マデリシアに伝承話を持ち掛けた。
マデリシアも伝承や物語は好きなので、前のめりで受けた。
物語や伝承の類は、ほとんどが五千年前のものと言われていた。創作なのか、史実を基にしているのかは分からない。その辺りも二人の探求心を刺激し、昼夜の隔てなく話し合った。
また、五千年前から現在に至るまでの伝承や物語についても話題に上る。が、こちらは有名なものが一つあるだけで、たいして伝わっていないことが、二人の情報交換で明らかになった。
「ドラゴンスレイヤーの物語しかないって、不思議よね」
「そうですね。古代の町が地中にあることについてもまったく伝わっていませんし。まるで故意に記録を残さなかったかのようですわ」
「考えたことなかった。でもそうかも」
二人は真顔で見つめ合うと、憶測を語り明かすのだった。
マデリシアは残り数日となった今年を、こうやって語り明かすのも悪くないと考えていた。
マデリシアは語り部もこなせるし、歌も歌えるので、当然、物語には詳しかった。そのマデリシアをうならせるほどに、マリアの知識も豊富だった。
マリアはしっかりと歴史考察しており、物語一つ一つの理解度で言えば、マデリシアを凌駕していた。
「だとしたら、西に向かうのって間違いのようにも思えるわ」
マデリシアは今まで思っていた物語の展開に、矛盾があるように思えた。
「西にしか逃げる場所がなかった、というのが正解でしょうね。あるいは、もしかしたら、西に当てがあったのかもしれないわ」
「そうなの?」
「つながりを証明するものは何一つないのですけれど」
マリアはそう前置きをすると語った。
「小国の姫が賊に襲われていたところを一人の騎士が救う物語がありませんか。そう、その疾風の騎士の物語。その騎士は人並外れた速さで戦場を駆け巡ったそうです。語られる物語によって、騎士らしく剣を使っていたり、大剣を操るものもあったりしますが、中に、小剣の使いでだったと言うものもあるんです。それって、何かに似ていると思いませんか?」
「何かって…」
マデリシアは食道を下って胃に向かっていくリンゴ酒の感触を味わいながら、頭の中で物語の登場人物に考えを巡らせた。
「小剣、というか、速さで目立つと言えば、風の悪魔しかいないわね」
「その風の悪魔も、小剣使いとして描かれていませんか」
「そう言えば、そうかも。大型ナイフとか、小剣とか…」
「同じ時代なのかどうかも分からないので、ただの偶然の一致の可能性もあるのですけれど」
マリアはそう言って笑った。
「でもそう考えると、ほら、魔法王国レムリアの女王と、魔女も重なるわ」
マデリシアは驚きの発見をしたと言わんばかりに眼を見開いていた。
「そうかもしれませんし、そうではないかもしれません」
マリアは曖昧に答えた。
マデリシアはマリアの変化には気付かず、自分の考えに没頭していた。
「魔法王国レムリアは西方諸国の一つだし、辻褄は合いそう。すると他の三人も…」
マデリシアはコップが空になっていることも気付かず、口に運んだり下ろしたりを繰り返した。
「ウィルトスの将軍!」
マデリシアはコップを下ろすと、叫ぶように言った。
「天下無双の武人だったって!」
「え?ああ、はい。山をも斬り裂いたと言われる武人ですね」
「この将軍が、破壊者?もしかしたら龍の化身?」
「なるほど。一考の価値はあるかもしれませんね」
マリアも面白い考えだと、話に加わった。
二人の語り合う横で、キュリアスが宿を出入りしていたのだが、話に夢中の二人はまるで気付いていないようだった。
キュリアスはいつも、戻るとすぐに冷たい飲み物を頼む。そのため、ローザはキュリアスが戻ったことに気付くと、注文を取る前に飲み物を持ってくるようになった。
「ご苦労様」
ローザが差し出した、冷やしただけの水を、キュリアスは一気に飲み干した。
「さすがローザ。良く冷えてる!もう一杯くれ!」
ローザは微笑んでもう一杯水を運んできた。
「もう少し冷やせるか?」
キュリアスはコップを受け取る前に言った。
「もちろん」
「じゃあ、少し氷が浮くくらいには?」
ローザは返事の代わりに、コップに手をかざした。するとコップから冷気が漂い出る。手を上げると、コップの中に氷が浮いていた。
キュリアスは礼を言って受け取ると、一気に飲み干し、氷を噛み砕いた。
「それにしても、ありゃ何だったんだ?」
キュリアスはもう一杯頼むと、カウンターの席に腰を落ち着けて言った。
「何があったの?」
ローザは水を満たしたコップに、再び魔法で氷を作り出すと、キュリアスに差し出した。
キュリアスはコップを受け取ると、コップを軽く振って氷を泳がせた。
「いやな、変な生き物が出てきやがるんだ」
キュリアスはそう言うと、コップの水を半分ほど飲んだ。
「ウォーピッグに角が生えてたり、シカのような足のウォーピッグもいたな」
「ウォーピッグに角なんてあるわけないじゃない」
離れた席で話し込んでいたはずのマデリシアが呆れたような声を上げた。
「それがいたんだって。なんだったら見てくるか?」
「いやよ。こんな炎天下の中」
キュリアスとマデリシアはわずかな間、睨み合った。その沈黙を破ったのはシャロンだった。
いつの間にか、上の部屋から下りてきていたシャロンは、ウォーピッグって何かと尋ねた。知らないことは尋ねずにはいられないようだ。
「イノシシの気の荒い奴だ」
キュリアスは簡潔に答えた。
「あの丸っこいの?」
「そうだ」
シャロンも姿は知っていたようだ。
「それに角はないの?」
シャロンは確認するようにそう言った。
「イノシシの一種だぜ?角なんてねぇよ」
「角って、シカみたいな?」
「そうだ」
「その角のイノシシに、シカの足がついてたの?」
「違う。別のウォーピッグの足が、シカの足だった」
「丸っこいのに長い足…気持ち悪…」
マデリシアは想像して気分が悪くなったようで、頭を振って考えを振り払っていた。
「おそらくキマイラね」
シャロンはキュリアスの話から結論を導き出したらしく、胸を張って言った。その言葉にマリアや、壁際で大人しくしていたディグが反応し、近くに集まってきた。
「それは東の森の方で出会いましたか?」
ディグが尋ねた。
「ん?ああ、確かに東側だったな」
キュリアスの返事に、ディグとマリアは頷き合った。
「キマイラって何?」
マデリシアが疑問を口にしていた。
「合成魔獣。人工魔獣と言えば分かるかしら?」
マリアが答えた。
「人の手で作り出した魔獣だってのか?そんなことできるのか?」
キュリアスも興味を引かれ、疑問を口にした。
「理論上は可能です。ただ、拒否反応が出てまともに生きていけるはずはないのですけど」
ディグが即答し、考えを述べた。
「拒否反応?」
「ああ、そこは気になさらず」
「魔術で別々の生き物を掛け合わせるの。構想としては昔からあるけれど、成功例はなかったはずよ」
シャロンはそう言って小首をかしげた。言っている内容は子供らしからぬもので、マデリシアとキュリアスは驚いて顔を見合わせた。
「魔術回路を構築して…回路同士を接続させれば確かに…でもマナの供給が途絶えたら崩れるわ。生命としても維持できない…」
「すごいですね、あなたのお子さん。私が想像していた理論を、この子は理解しているようです」
ディグが感心したように言った。マリアは困ったような笑みを浮かべただけで何も答えなかった。
「ねえ剣士さん」
シャロンが顔を上げた。キュリアスを呼んでいるらしい。
「俺か?」
「そうよ」
「キュリアスだ」
「キュ…言い難いわね」
「エッジでいい」
「じゃあエッジ。質問なんだけど」
「なんだ?」
「その生き物、アンデットではなかったかしら?」
「アンデット?」
「そう。動く死体」
「生き物に見えたがな…」
「そう。残念」
「確かにアンデットならば、簡単に作れます。合成に使う生き物の命を気にする必要はありませんし、必要な部分を切ってくっつければいいわけですから」
ディグが物騒なことを呟いた。
「生きた状態でキマイラを合成できたのであれば、それはそれで興味がわくわ」
シャロンは顔を高揚させていた。
「私たちはそのキマイラ出現の噂を聞きつけて、魔術師ギルドより調査に来たのです」
マリアがキュリアスとマデリシアに説明した。ディグもシャロンも本人の興味に意識が向き、キュリアスとマデリシアを置き去りにしていた。そのことを察したマリアは簡潔な言葉で二人の戸惑いを払った。
「あたしもついてってみようかな。そのキマイラ?ちょっと見てみたい」
「もう一人の到着が遅れているので、いつ出発するか分かりませんよ」
ディグとシャロンは考えにふけり、ぶつぶつと理解できない単語を並べ立てていた。その様子を横目に見ながら、マリアが応対した。
「いいのよ。どうせ暇を持て余してるもの」
マデリシアはそう言って、キュリアスを見た。
「エッジは生活費稼ぐので忙しいけどね」
「うるせ」
「暇ならちょうどいいわ」
シャロンがいつの間にか、自分の思考から戻っていた。シャロンはマデリシアに対して新たな質問が生じていた様子で、眼を輝かせてマデリシアを見つめていた。
マデリシアは助けを求めてキュリアスを見つめたが、キュリアスは相手してやれよと、素気無かった。
「いらっしゃいませ」
ローザが声を上げた。
「ごめんなさいね。こんなお腹だから迎えに行けないの。悪いんだけど、こっちに来てくださる?」
ローザの声に、キュリアス以外の皆が入り口に顔を向けた。キュリアスは相手を気配で察していた。店に入る前に通りで見かけた人物と同じ気配なので、確認する必要もなかった。
そこには白地に青い線の入ったローブに身を包んだ女性が立っていた。ローブの胸の辺りに女性らしき姿の絵がある。絵に見覚えがあるように思えるのは、奥の壁に立つ名も無き女神の像と同じポーズだからだろう。
一目で名も無き女神を主神と崇めるローランス教ゆかりの者と分かる。
女性は金髪の長い髪を揺らし、ゆっくりと店へ入ってきた。ローブで体型は分かりにくい。無造作に見える身体運びに無駄がなく、キュリアスはその女性が戦士だと感じ取った。
マデリシアがいつの間にか、キュリアスの隣に移動していた。女性の身のこなしを見て、マデリシアは警戒を強めたのだろう。万が一にも自分の狙う暗殺者だったら困ると、キュリアスを盾にするつもりだ。
まさかローランス教に属しながら、暗殺者ということもあるまい。キュリアスはそう思ったものの、いつでも動けるように、様子を窺っていた。自分の手の届く範囲で、そう易々と暗殺者にマデリシアをやらせるわけにはいかない。
マデリシアは声の力ために、命を狙われることが多々ある。そのために、知らない人間が近づくと、今のように知らず知らずのうちに警戒する癖がついている。
キュリアスもそんなマデリシアを守る気持ちが働いていた。ただ、感じ取っている気配には何らの危険性も見いだせず、ただの宿泊希望者ではないかとも考えていた。
「宿泊かしら?」
ローザが尋ねた。女性は頷くと、ゆっくりとローザの前へ向かって入ってきた。
ローザは目の前まで女性が来るのを待つと、料金の説明をし、宿泊するなら台帳に記名するように頼んだ。
「シンディ・エイティネイトさんね」
ローザは女性の署名を読んだ。
「はい。ところで人を探しているのですが」
シンディは丁寧に尋ねた。自分と同じ金髪で、背の高い男性を探しているという。横で聞いている限り、探している人物はキュリアスと同じくらいの年齢らしかった。
シンディの恋人なのかもしれない。マデリシアはそう思ったのか、警戒の色が消え、興味本位に聞き入っている様子だった。
「私の兄なんです。消息が分からなくなって半年も経ってしまいました」
「あら。それは大変ですね。この辺りで消息が分からなくなったのですか?」
ローザは同情するように言い、質問を返した。
マデリシアは興味の半分を失ったようだ。
「ローザ。リンゴ酒のお代わりもらうわよ」
マデリシアは言うが早いか、勝手にカウンターの仕切りを開けて中に入っていった。
ディグも興味がない様子で、元の壁際の席に戻って、広げていた帳面に何かを忙しそうに書き込んだ。
マリアはシンディの話が気になる様子で、カウンターの席に座りなおして聞き耳を立てていた。
シャロンはというと、戻ってきたマデリシアを待ち構え、自分の前に座らせると、矢継ぎ早に質問を放っていた。
キュリアスの興味も、マリア同様に、シンディに向かっていた。コップの水をちびちびと口に運びながら、ローザとシンディの話を聞いていた。
シンディはローザの質問を受けて、兄がいなくなったころの事情を話した。
シンディの兄も名も無き女神を信奉するローランス教徒で、異端者の噂を聞きつけて調査にやって来たと言う。
その調査先が、この町の東に広がる森だと分かると、マリアの眼の色が変わっていた。キュリアスは東の森にさしたる興味はなかったが、マリアのそのわずかな変化に気付くと、ふつふつと好奇心の虫が騒ぎだしていた。
キマイラと呼ばれる奇怪な生き物も、その東の森にいるようだ。ローランス教が異端者の摘発に向かった場所も、同じ森だという。
東の森に何かがある。そう思うと、キュリアスの冒険者としての好奇心は引き付けられ、離れ難くなった。
しかし、キュリアスが東の森へ探索に入るには、町を囲む柵が出来上がり、モンスターや害獣の脅威がある程度緩和されなければならない。
キュリアスは内心、さっさと柵が完成すればいいのにと、焦りにも似た考えを抱いていた。
6
「馬車がよく通るのね」
冒険者の店の窓から小さな頭を覗かせていたシャロンが、頭を引っ込めて言った。店の一階にはマデリシアしかいない。が、マデリシアはカウンターの席でリンゴ酒を飲んでおり、距離が離れているので、彼女に向かって声をかけたわけではなかった。
マデリシアはシャロンの独り言が耳に入ったので、シャロンの疑問に答える気になった。
「北に向かう馬車でしょ」
「そうよ」
シャロンが振り向いて答えた。
「なぜ分かったのかしら?」
マデリシアは音で、と答えたいところだったが、知識としても知っていることで、そちらの影響が強かった。
「北に行くと湖の中に町が浮かんでいるところがあるの。アイリットンズレイクって町」
「浮かぶ?島でもあるのかしら?」
「そう。そこって貴族の避暑地なのよ。お偉いご貴族様たちが、暑い夏を避けて、避暑地で新年を迎えるの。そこへ向かう貴族の馬車とか、そこへ届ける食品を積んだ馬車がよく通るのよ」
「荷馬車だったわ」
シャロンはもう一度外を眺めて、先ほど見た光景を思い出そうとして小首をかしげていた。馬車についていた印を呟いた。
「それはきっとアラガント商会ね」
「貿易商かしら?」
「そう。食料から生活物資、それに魔力石も運んでいるかも」
「マナストーン?なぜそんなもの…」
シャロンは言いかけて、魔道具ねと自分で答えを見つけていた。
「ところでシャロンちゃん。窓際にいて暑くないの?日差しにあたって焼けちゃうわよ」
「大丈夫よ。ちゃんと対策してあるもの」
シャロンはそう答えると窓際の席を立ってマデリシアの傍にやってきた。そして右手を差し出した。指に大きな指輪があった。
「大きな宝石ね…」
マデリシアは指輪についている石に興味があるようだった。
「よく覗いてごらんなさいな」
シャロンは指輪をさらに掲げてマデリシアに近づけた。
シャロンの人差し指にはまった指輪には淡い水色の石が付いている。マデリシアはその石に顔を近づけてじっくりと観察した。
石の奥に何か模様のようなものが見えた。
「模様のある宝石って…え?…あ、これ、魔法の術式ってやつ?」
「そう。この石は宝石じゃないの。マナと相性のいいクリスタルではあるけれど。クリスタルに術式を書き込んだ…」
シャロンの説明を聞き流してマデリシアは指輪をまじまじと眺めた。
「魔道具の一種ね」
「そういう見方もできるわね」
シャロンは曖昧な答え方をすると、腕が疲れたらしく、指輪を引き戻して下ろした。
「どういう効果があるの?」
「紫外線カットと冷気の循環ね」
「紫外線…?」
「日焼けしないで済むってこと」
「何その便利アイテム!あたしでも使えるの?どこで手に入るの?」
「ちょっと落ち着いてくださる?」
「ちょっと貸して!使わせて!あたしにちょうだい!」
シャロンは勢い込んで迫るマデリシアを、眼を丸めて見つめた。両手を広げ、天井を仰ぎ見る。
マデリシアの勢いは止まらず、一言発するごとに身体をシャロンへ近づけていた。
シャロンは黙って指輪を外すと、マデリシアの目の前に差し出した。
「ありがとー!」
マデリシアは素早い手つきでシャロンの手から指輪をむしり取った。自分の指にはめ、手のひらをクルクルと回して指に納まった指輪をうっとりと眺めた。
マデリシアの緩んでいた頬が引きつる。
「どうやって使うの?」
マデリシアは疑問をすぐに口に出していた。
「マナを流し込むの」
「あたし、魔法使いじゃないの」
マデリシアがシャロンを見返した。が、シャロンは当然の結果だと言いたげに、そうねとだけ答えた。
「つまり、才能ないから使えないって言うのかしら?」
マデリシアは不満の声を発した。指輪をはめた手を眼の高さにあげ、動きなさいよと指輪に文句を言った。次の瞬間、マデリシアは驚いた表情を浮かべていた。
「動いて」
指輪に語りかける。
シャロンは眼を細めてマデリシアを見つめた。シャロンも少し驚いているようでもある。
マデリシアはシャロンの視線に気づかず、指輪に語りかけては、何かを確認するように首をかしげる作業を繰り返した。
「あたしにも魔道具が使えるってこと?」
「そのようね。声をかけている間だけ」
シャロンは冷静に、分析を語った。
「驚きだわ」
「声かけないと暑いじゃないの」
シャロンの声は興奮気味に変わったのに対し、マデリシアの声は沈んでいた。
「ほらー。手を下ろしてたら反応しないじゃないの」
「対象に声を当てないと意味がないわ」
「冷静に言わないでくださる?」
マデリシアの抗議を受けて、シャロンは口を閉ざした。代わりに手を差し出した。軽く突き出して催促する。
「ああそうね、こんな状態だともらっても意味ないわね!」
マデリシアは指輪を外すと、シャロンの突き出された手のひらに置いた。
「呆れた。本当にもらっていくつもりだったのね」
シャロンはそう言ってマデリシアを睨み付けた。指輪を自分の指に戻す。
「そんな便利アイテム、欲しいに決まってるじゃない!あたしでも使えるようなもの作れないの?」
マデリシアは自分の要求が不可能だと分かっていてなお言ってのけた。シャロンの指に納まった指輪は古代魔法文明のころの技術で作られた物だと推察される。現代の技術では作れないものなのだ。
現代にも魔道具を作る人々はいるが、指輪ほどの小型化の例は、マデリシアも聞いたことがない。
「そんな魔術式を構築するよりも、マナのコントロールを覚えた方が早いわ」
シャロンはにべもなく言ってのけた。
たとえ魔術式を構築できたとしても、何倍もの大きさになって、最悪、身につけるどころではなくなる。故に、コントロールできるように修行した方が早いという結論だと、マデリシアは解釈していた。
マデリシアは奇声を発した。
マデリシアの前にコップが置かれた。
「大人しくお代わりでも飲んでらっしゃい」
お腹を片手で支えるようにして、ローザが立っていた。
「ここでマディに叫ばれたらたまったものじゃないもの」
マデリシアは返事の代わりに唸り声を上げ、コップをひっつかんで中身を一気にあおった。
「話は聞こえていたわ。私、これでも魔法使いなの。私に譲ってくださらない?」
ローザもシャロンの指輪を狙っていた。
「いやよ」
シャロンはマデリシアのようにむしり取られては困ると、指輪をした手を後ろに隠した。
「残念」
ローザはあっさりと手を引っ込めた。
「世の中の女性全てがその指輪を欲しがると思うわ。人には知られないようにしなさい」
ローザは忠告を残し、重い身体を片手で支えながら、奥の厨房へ戻っていった。空いた片手で自分に向かって風を送っていた。
シャロンはローザの様子にため息をもらした。
次の日、シャロンはローザを見つけると、四枚の木札を渡した。
「都合のいいもの持ってたからあげるわ」
シャロンはそれだけ言うと、母親と一緒に一つのテーブル席に座った。
ローザは初め、何をもらったのか理解できなかった様子で、手渡されたものをしげしげと見つめてはシャロンに視線を移していた。
そのローザの表情が急に変わった。
階段を下りながらその様子を眺めていたマデリシアはすぐにローザの傍に行くと、手元を覗き込んだ。
「それ、なに?」
「魔術式よ」
ローザはそう言って一枚の木札に描かれた模様をマデリシアに示した。
「地下遺跡で同じ模様を見たことない?」
「線がいっぱいで分からないわよ」
「同じものがあったの」
「そうなの?ローザが言うなら同じなのね」
マデリシアはあっさりと言ってのけた。
ローザは自分の発見がマデリシアに伝わっていないと分かり、マデリシアを睨み付けていた。
「何よ」
「遺跡にあったのは、これの何十倍もの大きさよ」
「そうなの。小さく書き写したのかしら?」
「あんな複雑な術式をここまで小さく?」
ローザは人差し指で空中に大きく円を描き、続いて木札を指した。
「無理ね。少なくとも今の技術では」
「じゃあ、何?その木札がアーティファクトだというの?」
マデリシアは新しそうに見える木札を見て訝しんだ。もしもアーティファクトであれば、五千年は昔のものになる。どう見てもそれほどの年季が入っている代物には見えなかった。
「木札自体はそれほど古くないわ」
ローザも認めた。
「でも、書かれたものは、古代の技術よ。断言してもいいわ」
「じゃあ、お金になるわね。どうやって手に入れたの?」
「シャロンちゃんにもらったの」
「えー。そんな高価な物、くれるわけないじゃない。やっぱりアーティファクトじゃないわ」
マデリシアは決めつけるように言った。カウンターへ向かって歩き出し、足を止めた。
「それ、効果は?」
ローザは重い身体を引きずってマデリシアの横まで進むと、使ってみるわと言った。
「え、大丈夫なの?」
「ええ。おそらく、マディも喜ぶはずよ」
ローザはそう言うと、一枚の木札に意識を集中させていた。マデリシアには見えないが、マナを流し込んでいるのだと分かる。
マデリシアの肌に涼しい風が当たった。
マデリシアが目を丸くしてローザを見つめると、ローザは頷いて見せた。
「周りを冷やす術式?いいじゃない!」
「違うわ。おそらく、周りの気温を調節する術式よ」
ローザは喜びの声を上げるマデリシアの考えを訂正した。
「そしてこれを四枚使うことで…実践した方が早いわね。マディ。一枚ずつこの建物の端に置いてくださる?そこと、あそこと、あっちと、もう一枚は厨房の奥」
「何かよく分からないけど、置いてくればいいのね」
「模様がある方を内側に向けて」
「はいはーい」
マデリシアは軽く答えると、ローザの手から木札を受け取った。そしてローザが指し示した、宿屋の入り口脇の壁に一枚置いた。
続いて階段の奥に一枚、店の奥の名も無き女神の像の横に一枚、そしてカウンターをくぐって奥の厨房に行き、裏口傍に置いた。
「置いたわよ」
マデリシアは建物の中を移動しただけで汗をかいていた。滴る汗を手の甲で拭いながら、ローザに声をかけた。そして急いで店内へ戻る。
ローザは自身のマナを操り、四枚の術式に、均等にマナを送った。
マナの流れが見えないマデリシアには、ローザが意識を集中させ、両手を広げてくるっと回っただけに見えた。
何も変化がないように思われた。
ローザは近くの椅子を引き寄せて座った。身体が重く、立っているだけでも疲れるようだ。
マデリシアには経験のないことで、どう対処していいのか分からず、ローザの大きなお腹を見つめながら、隣に椅子を運んで座った。
外は昼間に差し掛かり、石畳の道が焼けている。熱気のために石畳が揺れて見える。
マデリシアは外を見ただけで、暑いと思ったのだが、思ったほどには暑くなかった。
「効き目が出てきたようだわ」
ローザはそう言ってほほ笑んだ。
「これはいいわ。汗疹ができて困っていたもの」
「涼しくなってきた!」
マデリシアは大きな声を発すると、勢いよく立ち上がり、建物の外へ駆けだした。
外は強い日差しに焼かれ、下からの熱に足の裏まで焼かれた。
陽炎で石畳の上の景色が歪んで見える。
マデリシアは一足に建物の中へ飛び込んだ。そこはひんやりと心地いい空気に包まれていた。
「いいわね」
「ええ。これでこっそりお尻をかかなくて済むわ」
ローザは「お尻」の部分だけを小さな声で言った。
マデリシアとローザは顔を見合わせて笑った。
「中々のマナコントロールですわ」
マリアが席を立ってローザの前に来ると、ローザの技術を褒めた。
「これだけでもあなたの魔術師としての力量をうかがい知ることができます」
「いえいえ。私はたいした成果も残せませんでした。もう引退して、今はただの宿屋の女将ですから」
「ご謙遜を。身重でなければ、東の森の調査に同行願いたいほどですわ」
マリアはそう言ってから、お腹に触ってもいいかと言った。
「どうぞ」
ローザは気安く答えた。
「え?触っても大丈夫なの?」
マデリシアは驚いて尋ねた。
マリアはそっとローザのお腹に触れ、眼を細めた。自然と笑顔になっている。
「大丈夫よ。マディも触ってごらん」
マデリシアはローザに笑われても、壊れ物に触れるようで、恐る恐る指を伸ばし、触れる前に引っ込めていた。
ローザがマデリシアの手を掴んで、お腹に触れさせた。
マデリシアの手のひらに、ローザの身体の温もりが伝わった。気のせいなのかもしれないが、マデリシアにはローザ以外の温もりも感じたように思えた。
マデリシアの手のひらを突き上げるような衝撃があった。マデリシアはびっくりして手を引っ込め、ローザを見つめた。
「元気なお子さんですね」
マリアが嬉しそうに言った。
「よくお腹を蹴るのよ、この子」
ローザも笑いながら答えた。
「お腹が破れたりしないの?」
マデリシアは不安そうに尋ねた。マリアとローザが互いに顔を見合わせ、噴き出した。
「ちょっと、笑わないでくれる?」
マデリシアがふてくされたように言っても、マリアとローザの笑いは止まらなかった。マリアはローザのお腹から手を放すと、無言でマデリシアの手をつかみ、ローザのお腹に触れさせた。
「そこに命がはぐくまれているのを、肌で感じるでしょ」
マリアが優しい声で言った。マデリシアは手のひらに伝わる、不自然な衝撃に驚きつつも、手の感触を味わった。
「シャロンもこうやってよくお腹を蹴ったものだわ」
マリアはどこか恍惚とした表情で言った。
「シャロンちゃんのように元気であってくれればいいわ」
ローザもマリアと同じ表情になっている。
マデリシアには二人の気持ちを理解しきることができず、戸惑った。が、手の感触に慣れてくると、不思議と嬉しさが沸き起こってきた。
何が嬉しいのかマデリシアにも分からない。分からないが、ローザの大きなお腹の中で動きがある度に、言い知れない幸福感のようなものが溢れ出し、自然とマデリシアの頬を緩めた。
「あら?マディも欲しくなっちゃった?」
ローザがからかうように言った。マデリシアはドキリとしたことに、自分で驚いた。子供が欲しいと思ったことも考えたこともなかった。しかし、ローザのお腹に触れていると、子供っていいなとも思えた。
時々暗殺者に狙われるような状況では考えも及ばなかったことだ。今も狙っている暗殺者はいるのだろう。だが、キュリアスと行動を共にするようになって、狙われることはほぼなくなっていた。
そろそろ子供を考えてもいいのかもしれない。マデリシアの脳裏に、そんな考えが浮かんでいた。
あたしの子供、と考える。相手はと、そちらにも考えが及ぶ。浮かんでくるのは一人だ。キュリアス・エイクードしか考えられない。
「お?涼しいな」
唐突にキュリアスの声が聞こえ、マデリシアは思わず飛び跳ねていた。顔が真っ赤になっている自覚があり、キュリアスの方を見ることができない。
「何やってんだ?」
キュリアスの声が背後から聞こえた。
「うっさいわね」
マデリシアは思わず、不機嫌に答えていた。今は何としても、赤くなった顔を見せるわけにはいかない。
横でローザが声を殺して笑っている。面白がっているのだ。マデリシアは腹が立った。おかげで恥ずかしさが幾分消えてくれた。
「おかしな流れがあるな」
振り向くと、キュリアスが空中を眺めていた。
「それ、斬っちゃだめよ」
ローザが答えていた。椅子から立ち上がるのを、マリアが手助けしていた。
「それにしても、エッジって、マナの流れも見えるのね」
「見えるというか、感じるというか…」
キュリアスは曖昧に答えると、カウンターの、最近よく座る椅子に腰かけた。自分の席と決めているらしい。
「冷たい水をくれ」
「はいはい、分かってますよ」
ローザは片手でお腹を支え、カウンターの奥に入っていった。
マデリシアは何食わぬ顔を装って、キュリアスの隣に座り、そっとキュリアスの顔を窺った。
気配を察知できるキュリアスは、マデリシアが見つめていることにも気付いているのだろう。が、素知らぬ顔でカウンターの奥を見つめ、冷えた水が届くのを待っていた。
キュリアスの子供。マデリシアはキュリアスの顔を見つめながら、そう考えた。何の根拠もないが、やはり自分が生むとしたら、彼の子しかないと確信した。
髪は黒かな?女の子なら、顔立ちはあたしに似て欲しいな。マデリシアはとりとめのない妄想を始めていた。ふと我に返り、恥ずかしくなって頬を染めた。
それに、想像を現実にするには、キュリアスの気持ちをこちらに向けさせなければならない。
それが難しい。彼女は難敵だわ。マデリシアはライバルである少女を思い浮かべた。身分違いで、可愛さも次元が違う、難敵だ。しかもキュリアスの気持ちはその難敵に向かっている。
難しい戦いになる。マデリシアはそう考え、どう攻略したものかと、思案した。だが、歌や盗みのことなら豊富な経験からすぐに戦略が浮かぶのに、こういったことに関しては疎く、何の対策も思いつかなかった。
とにかく、傍にいるアドバンテージを生かさなければ。マデリシアはそう考えると、無意識に胸元を広げていた。
7
マデリシアは人並み以上に豊満な胸を有している。その胸元をはだけさせれば、ただでさえ目を引きつける代物が、より強調される。
キュリアスは思わず視線をそらした。マデリシアの方を向けば、どうしてもその胸元に視線が行ってしまうからだ。
またからかう気か。キュリアスは警戒する意識も働いていた。
マデリシアは時々、キュリアスの反応を確かめるように、胸元を強調してみせたり、キュリアスの腕に押し付けてみたりする。
キュリアスの方が照れて戸惑う。当のマデリシアは戸惑うキュリアスを見て面白がっているのだ。キュリアスにはそう思えていた。
実際、初めのころはあからさまにからかわれていたのだ。
その点、シャイラベル・ハートは慎ましい。マデリシアにもその半分でいいから、慎ましさを学んで欲しいと思えた。
キュリアスはローザが差し出したコップを受け取ると、氷の浮かぶ水を一気に飲み干し、氷も口に入れてかみ砕いた。
隣のマデリシアの気配が不穏な様相を呈していた。キュリアスが反応しないので不満なのだろう。こういう時は相手にするべきではないと、キュリアスは無視を決め込んだ。
「ずっとマナの流れを操っているのか?」
キュリアスは隣のマデリシアから意識を逸らすためにも、ローザに声をかけた。
「いいえ。起動と、遮断はコントロールする必要があるけれど、後は大気中のマナが勝手に流れに乗ってくれるの」
「で、その流れた先にあるやつが、この冷気を生んでるのか?」
「そうよ」
「マナさえあれば、自動か。便利なもんだな」
「だから遮断しないでよ」
「俺は魔術師じゃないぜ」
「エッジの剣はマナの流れも切断するでしょ」
「そうなのか?」
「そうなの」
ローザは語気を強めて言った。
「その気になれば、魔法も斬れるはずよ」
「試したことはないな」
キュリアスは答えると、空になったコップを差し出した。
「おかわりいる?」
「いや、すぐに出る」
ローザは頷くと、コップを持って奥に戻った。
「このマナってやつは、魔法を使えない俺からも出ているよな」
「そうよ。生物はみんな体内でマナを生成して、汗のように皮膚から排出しているの」
キュリアスの問いに、ローザは声だけで答えた。
「てことは、近くに人がいれば、この冷気はずっと供給されるってわけだ」
「何その永久機関。すごすぎ」
不貞腐れたようにしていたマデリシアが声を発した。
「マディも叫ばないでね」
ローザの声が忠告した。
「なんで?」
「あなたの声が、近辺のマナを吹き飛ばしてしまうからよ」
「そなの?」
「二人ともはた迷惑な能力だと自覚して」
ローザが声とともに姿を現した。両手でお腹を支え、不審そうな眼で、キュリアスとマデリシアを見比べていた。
「ひどい言いがかりだわ」
マデリシアは即座に抗議した。
「ねえ、エッジ」
彼女は先ほどまでキュリアスをからかおうとしていたことを忘れ、えん罪を受けた仲間としてキュリアスに同意を求めていた。
「駄目だわ。二人の能力を封じる結界術式も必要そうね…」
ローザは天井を仰ぎ見て言った。
「ローザったら失礼ね!」
マデリシアが抗議していた。
「この場のマナの量では結界は一つしか維持できないわ」
シャロンの声が聞こえた。
「そうなのよね。この涼しさを味わったら、こっちを優先したくなるわ」
ローザは顔を下ろすとそう答えていた。
マデリシアは抗議を続けていた。
結界、などと言われると、キュリアスにはよく分からない話だ。ローザとシャロンの会話は聞き流した。
「マリアの連れ…」
キュリアスはマリアに声をかけようとして、名前を思い出せなかった。
「ディグ・コリンズのことかしら?」
マリアが気を利かせて答えた。
「そう、そのディグだ。彼と、シンディが東の森に向かったぜ。マリアは行かなくてよかったのか?」
「女の名前は覚えてるのね」
隣で不穏な声が聞こえたが、キュリアスは無視した。
「奥までは行かないはずです。それに、もう一人合流する方がいますので、誰かが待っていないと」
「そうか」
キュリアスは短く答えた後、もう一度マリアを見た。
マリアは娘と一つのテーブルに座り、互いに別々の書物に眼を通していたようだ。
もうすぐ新年を迎える。親は新年に向けてお祭り気分になり、子供もつられてはしゃぐものだ。が、この親子にはその様子は微塵もなく、新年を迎えることに関心がないようだった。
確かにこの町では祭りの雰囲気自体がなく、新年を迎える気分にはなり難い。
町を囲う柵は、何とか年を越えずに完成しそうだ。だが、町を造ることが忙しく、新年祭の準備は全く行われていなかった。
他の町では、今頃前夜祭の真っ最中だ。新年を迎え、一週間ほど祭り騒ぎが続く。前夜祭も合わせれば、二週間ほども祭りが続くことになる。
キュリアスは懐事情さえ問題なければ、祭りで騒ぎ、酒を飲み明かしたかった。が、王都を破壊したことで収入減を断たれ、その日食うに困る境遇まで落ちぶれた。
誰を恨むこともできない。自業自得だ。
幸いにも、建設中の町を警護する仕事にありつけた。炎天下の中、駆けずり回らなければならないが、宿と食事の代金にはなる。ベッドと、ローザの食事にありつけるのは、非常にありがたい。
キュリアスも、新年祭どころではない境遇だった。
しかし、目の前にいる健全な親子が、特に小さな子供が、新年祭に心動かされていない様子は、キュリアスにとって、違和感でしかなかった。
「新年を親子で祝わないのか?」
キュリアスは疑問を口にしていた。
「新年は毎年来るものよ。祝うほどのものではないわ」
答えたのはシャロンだった。子供らしからぬ返答に、キュリアスは面を食らった。
「お前、幾つだ?」
キュリアスは思わず聞いていた。
「レディに歳を聞くなんて失礼ね」
シャロンの答えに、キュリアスは開いた口がふさがらなかった。
「あらあら、女の扱いが下手だこと」
マデリシアが隣で嘲笑っていた。
「私も気になるわ。いくつなの?」
ローザがカウンターの中で椅子に腰かけながら言った。シャロンはローザの質問にため息をもらすと、来年で七歳よと答えた。
「うそ!今六歳なの?それでその魔術知識なの?」
マデリシアが驚きの声を上げていた。ローザも眼を見開いて少女を見つめていた。
「六歳らしく、祭りではしゃがなくていいのか?」
「子供扱いしないでくださる?」
キュリアスの言葉に、シャロンは即答していた。
「おいローザ」
「なに?」
「お前たちの子供は祭りを楽しめる子供にしろよ」
キュリアスは後ろを振り向いて言った。ローザが不思議そうにキュリアスを見返している。
「子供が祭りを楽しめないなんて、寂しすぎるだろ」
「どういう価値観かしら」
ローザは呆れたように言って笑った。
「失礼ね。じゃあエッジは祭りをどう楽しむのかしら?」
シャロンはご教授くださるかしらと付け加えた。
「酒を飲んで騒ぐ!」
キュリアスの答えに、マデリシア以外の全員が嘆いた。
「え?ダメなの?」
マデリシアもキュリアスと同様の考えだったようだ。
「こんな大人に育てちゃダメよ」
シャロンが諭すように、ローザに向かって言った。その言い方が妙に大人びていたため、皆の笑いを誘った。
「新年…。あと三日かしら?」
シャロンは不機嫌そうに言うと、振り向いて窓の外を見た。
「こう暑いと、新年という気分ではないわ。それに、知っているかしら?新年を冬に向かえる地方もあるのよ」
「大人をからかわないで。新年は夏に向かえるものよ」
マデリシアは反論すると、笑い声をあげた。
キュリアスは山岳地帯で育ったため、新年はここほど暑くなかった。ただ、やはり夏に新年を迎える。キュリアスにも、冬の新年は想像できなかった。ただ、そういう変わった地方があるのであれば、一度は旅してみたいと思った。
「一面銀世界に包まれ、音も閉ざされた新年祭は、それはそれは厳かな雰囲気があるの」
シャロンはまるで見てきたように言った。天井を見つめ、何かを思い描く様子でもある。
「あ、何かの物語かしら?」
マデリシアは勘繰りを入れた。物語りであれば、興味がわくのだろう。
雪は確かに周囲の音を吸収するかのように、静寂を呼び込む。キュリアスは山岳地帯の冬を思い出していた。ただ、同時に風が吹き荒れることも多い。音が閉ざされ、荘厳な雰囲気というものは想像できなかった。
「暖炉を囲んで家族で新年を迎える。別の国では広場に集まって、大勢で新年を迎える。さらに別の国では神の社に参って新年を迎える」
六歳の子供が語る状況に違和感はあるものの、その紡ぎだす物語には情緒があり、自然と皆が情景を思い描いていた。
「冬の絵が思い浮かばないわ!」
マデリシアが大きな声を発していた。
「ねえローザ。雪だして」
「バカ言わないで。魔法で何でもできると思わないでよ」
「できるじゃない。ここだって涼しくなったし」
「マディだって剣よりナイフの方が得意でしょ?斧とか使えないでしょ?」
「当然でしょ。この非力な腕で斧振り回せたら化け物だわ」
「それと同じなの」
「何が?」
「あなたって時々、そうよね」
ローザはため息をもらし、両手を広げて天井に向けた。
「得意不得意があるって話だろ」
キュリアスは指摘しながら、マデリシアを横目に見た。どうやら、胸元を広げてこちらに見せるのは止めたようだ。彼女の関心は雪に移っている。
「そう。私は攻撃魔法一般に関しては、無難にできるわよ」
「ちょっと待て。つまり、お前がここで雪を降らせると…」
キュリアスはそこで言葉を区切って、ローザを見返した。ローザが頷いている。
「ブリザードか?真夏に凍死はごめんだぜ」
「おかしいわよ。マナコントロール?うまくできるんでしょ?」
「それとこれとは違うの」
「水に氷だって作れるじゃない」
「あれは水って媒体があるから簡単なの」
ローザとマデリシアは半分言い合いのように口論していた。
シャロンが呆れた表情で大人二人のやりとりを眺めていた。物語は興が醒めたようで、口を閉ざしている。
シャロンと視線が合った。シャロンはキュリアスに向けてウインクしてみせると、手のひらを差し出した。
シャロンの小さな手のひらの上に、きらめく雪の結晶が浮かんでいた。
シャロンはすぐに手を握りしめて結晶を消した。
周りでシャロンが雪の結晶を作り出したことに気付いた者はいなかった。
キュリアスにだけ見せたようだ。そのことの意味が理解できず、キュリアスは片方の眉を吊り上げた。
シャロンが小さな手を振ってキュリアスを手招きした。
キュリアスは怪訝に思いつつも席から滑り降り、シャロンの前に膝をついた。シャロンの手はまだ振られている。キュリアスはもう少しにじり寄った。
するとシャロンはキュリアスの耳元へ顔を近づけた。
「後十年待ってね」
耳元で囁いた声はそう言っていた。
キュリアスには何のことかさっぱり分からない。問い返そうとしたとき、後ろで気配が動くのを感じた。マデリシアだ。
「あたしのエッジに何か用かしら?シャロンちゃん」
どこか刺のある言い方だ。そして、キュリアスの襟の辺りを掴むと強引に引っ張った。
察していたキュリアスは引かれる勢いを利用して後ろに立ち上がった。
「マディったら、何子供にムキになってるのかしら」
ローザはそう言って笑い声をあげていた。
マデリシアとシャロンが似合見合うのを横目に、キュリアスは出口へ向かった。
キュリアスは事態を理解できていなかったが、何かしらの火の粉が飛んできそうだとは察しており、仕事を言い訳に逃げ出したのだ。
外は刺すような日差しが待ち構えていた。陽炎で景色も歪んで見える。
中の冷気は恋しいものの、怪しい雰囲気に近づいて火傷したくない。キュリアスは意を決すると、町外れに向かって歩き出した。
8
マデリシアが俊敏な動きでカウンターの裏へ飛び込むのと、宿屋の表に馬車が止まるのとがほぼ同時だった。
その日はマリアも外出していたため、マデリシアとローザとシャロンでカウンターの席に集まり、雑談していた。
話の途中でマデリシアが急に動いたため、ローザもシャロンも身体を硬直させた。視線だけがマデリシアの隠れた辺りを追いかけていた。
ローザとシャロンは入り口に足音が聞こえて、初めて表に馬車が止まったことに気付いた様子だった。
入り口に立ったのは身体のほとんどを露出しているのではないかと思われるほど布面積の少ない服を着た女性だった。
マデリシアに匹敵するほど豊満な胸は、少ない布の端からこぼれ落ちそうだった。
綺麗な素足をさらして歩く。その歩みに合わせて、ウェーブの効いた金色の髪が揺れ動いた。金色の髪は時折、光の加減で赤くも見えた。
鼻筋が通り、赤く熟れた唇。目は切れ長で鋭さがあるものの、それが美しくもあった。
この場に男性陣が残っていれば、女性の優雅に歩く姿から目が離せなかったに違いない。
「あ、いらっしゃいませ」
ローザは慌てて声をかけた。
「ごめんなさい。これなので遠くから」
ローザは自分の大きなお腹を指差して笑った。
「あら、ご立派だこと」
女性は感心なさそうに言うと、腰に手を当てて立ち止まった。その腰に剣がある。
マデリシアはローザの長いスカートの裾をつまむと、首を左右に振った。マデリシアの感性に、危険を告げるものが触れ続けている。だが、逃げ出せないことも理解していた。
逃げだせば命がないと思えるほどの危険なにおいが立ち込めている。だというのに、ローザもシャロンもその危険に気付きもしていなかった。
ローザは怪訝な顔つきで下のマデリシアが左右に首を振るさまを一瞥すると、客に笑顔を向けた。
「それで、お泊りですか?」
「いいえ。ちょっと聞きたいことがあるの」
女性はゆっくりと言うと、ローザとシャロンを値踏みするように見た。
「どういったご用件でしょう?」
ローザは笑顔を絶やさずに言った。ただ、彼女もマデリシアの異常さを受けて、警戒する気持ちが生まれたようで、声のトーンが少し落ちていた。
「ここにエッジがいると聞いたのだけど」
「申し訳ありません。エッジとはどなたのことでしょうか?」
「あら、意外」
女性は怪しげな笑みを浮かべてローザを見つめた。そしておもむろに腰の剣を引き抜いて、ローザの目と鼻の先に切っ先を向けた。
その剣はどうしたことか、刀身が波打ったように蛇行している。まるで炎が剣になったかのような刀身だ。装飾品のように美しくもあるが、その美しさが返って寒気を誘った。
「これで答えてくださるかしら?」
「答えないとどうなるのかしら?」
ローザは笑みを消し、即座に切り返していた。ただ、魔法使いであるローザに、目の前の剣より先に行動を移すだけの余裕はなかった。何より、身重で逃げることも叶わない。
「あら。私と遊んでくださるのかしら」
女性はそう言って嬉しそうに笑った。
ふいに剣を動かした。切っ先がローザの頬に触れるはずだったのだろう。ところが、空中で不自然に止まった。
女性の表情が僅かに曇った。が、すぐに怪しげな笑みに戻ると、剣をシャロンに向かって振り下ろした。
「この子がどうなっても知らないわよ」
女性は言葉とは裏腹に、警告ではなく、剣を振りきった。が、その剣が空中で何かにあたったかのように止まっている。
「たかが剣で私に傷付けられると思ったのかしら」
不敵に言い放ったのはシャロンだった。シャロンへの攻撃も、ローザへの危険ないたずらも、止めたのはシャロンだったのだ。
「驚いたわ。こんな子供が、まさか、物理攻撃より先に魔法のシールドを展開するなんて」
女性は怪しい笑みを深めると、無造作に剣を一太刀、また一太刀と振った。そのすべてが空中の壁にぶつかるようにして止まった。
「面白くないわね」
女性は呟くと、カウンターに向けて剣を突き立てようとした。
殺気を感じて、マデリシアは飛び上がると、ローザの後ろに隠れた。しかし、女性の剣はカウンターにも触れることなく、止まっていた。
「私がいる限り、あなたは誰も傷付けれないわ」
シャロンの言葉に、女性は切れ長の目を細めて少女を見返した。笑うと、剣を鞘に納めた。
次の瞬間、女性はどこからか小瓶を取り出してシャロンに投げつけた。小瓶は空中で透明な壁に当たって割れると、中身が飛び出し、怪しげな煙へと変化した。
その煙は周りに広がるかに見えたが、渦巻くように一点に集まり、見る間に薄れて消えた。
「毒も効かないわ」
シャロンは女性に笑顔を向けた。
「小憎らしい子供ね。いつかその顔を切り刻んであげるから覚えてらっしゃい」
女性はシャロンを睨み付けると、顔を上げた。切れ長の目がマデリシアを見、そしてローザを見た。マデリシアとローザの怯えた表情に満足したのか、女性は怪しげな笑みを浮かべた。
「エッジによろしくね」
女性はそう言うと踵を返した。
去り際に、また遊びましょと言い残して外に出た。
表の馬車が動き出し、車輪の音が聞こえなくなるまで、マデリシアとローザは硬直していた。
やっと恐怖から解放され、力が抜けたところへ、人が駆けこんできたものだから、マデリシアは頭からカウンターの裏に飛び込み、ローザはよろけて倒れた。倒れた先にマデリシアの身体があり、クッション代わりとなって無事だった。
「無事か?」
キュリアスは冒険者の店へ駆け込むなり、叫ぶように言った。
ローザの身体が倒れるのを目撃した。
キュリアスは素早くカウンターに駆け寄り、中を見下ろして、安堵のため息をもらした。
マデリシアのお尻がローザを器用に受け止めている。代わりにマデリシアは顔を床に押し付ける形になっているが、こちらはキュリアスの見る限り、平気そうだ。
シャロンだけはカウンターの席に座ったまま、平然としていた。
「無事だな」
キュリアスは確認するように呟くと、外に向かって駆けだした。
「無事じゃないわよ!」
マデリシアの声がキュリアスの背を追いかけてきたが、キュリアスは横へ向かって駆けだし、かわした。
石畳の路地を南へ向かって駆けた。
怪しげな気配は南へ向かっている。
その気配は、キュリアスの知っているものと同じだった。数年前まで同僚だった人物の気配だ。
その人物は残忍で危険極まりない。あの性格からすれば、マデリシアやローザ、それにシャロンが無傷だとは信じがたかった。
急いで確認した限りでは、三人ともケガはしていなさそうだった。キュリアスはそのことを不思議に思いつつも、気配の主を追った。
できることならば、追いついてケリを付けたい。今回は無事だったが、その人物のために、キュリアスの周りの人々が傷付くことなどあって欲しくなかった。
相手の気配が速度を上げた。馬車を急がせているのだろう。
まだ追いつける。キュリアスはそう考えて走った。
が、間の悪いことに、行く手にジャックと数人の若者が姿を現した。
「おう!エッジ!そんなに急いでどこ行くんだ!」
ジャックが大きな身体を使って行く手を阻む。キュリアスは答えず、路地を外れて空き地を走った。
前方の気配がさらに速度を上げた。どうやら、騎乗で先を急ぐらしい。
キュリアスは造り立ての町の門まで駆けると、遠くに小さく見える馬車を眺めた。
「くそっ!」
悪態をつき、足を止める。
横で門番についた若者が、キュリアスに不安そうな目を向けていた。
「おい、さっきの馬車、どこのものか分かるか?」
キュリアスは若者に尋ねたが、若者は声をかけられると思っていなかったらしく、聞いていなかった。もう一度同じ質問をすると若者は慌ててしどろもどろに答えながら、考え込んだ。
どうやら当てにならないようだ。キュリアスはすぐに見切りをつけ、踵を返した。
「貿易商の…アラガント商会です」
後ろから声がかかった。
キュリアスは振り向くと、オウム返しにアラガント商会と呟いた。
「そうです。あの商会のマークは間違いなく」
若者は自信ありげに答えた。
「そうか、すまん。助かった」
キュリアスは若者に手を上げて礼を言うと、宿に向かって引き返した。
冒険者の店に戻ってみると、ジャックと数人の若者が宴会を始めていた。町を囲う柵がやっと完成し、その打ち上げだという。
「エッジもこっち来て混ざれ!」
ジャックは陽気に言った。
キュリアスは眉を吊り上げたマデリシアに阻まれ、ジャックの傍に行けなかった。
「あの女、誰!」
マデリシアは妙な怒りを眼に湛えていた。
「あんな美人がエッジを探しに来るなんて!誰なの!」
先ほど、怖がって隠れていたはずのマデリシアは、恐怖心が消えてなくなると、猜疑心に囚われ、怒りに燃えていたのだ。
キュリアスはマデリシアの怒りの意味が分からず、戸惑った。同時に、美人という言葉にも理解が追い付かず、誰のことを言っているのかさえ、分からなくなった。
すぐに先ほどの気配の持ち主だと考え至ったが、キュリアスはその相手のことを美しいと思ったことはない。毒蛇くらいにしか思えず、美人という言葉には当てはまらなかった。
キュリアスはマデリシアを店の隅に連れて行くと、耳打ちした。
「あれはフェム・ファタルだ」
「あらご存じの…」
マデリシアが怒りを込めた声で言いかけるのを、キュリアスは手で口を塞いで止めた。
「元ソード隊。コードネームはフランベルジュだ」
ソード隊とは、キュリアスが以前属していた組織で、主に暗殺を行っていた部隊だ。そのことはマデリシアも知っている。知っているが故に、マデリシアはすぐにおとなしくなり、キュリアスの説明を聞いた。
フランベルジュはフェム・ファタルの持つ剣の名前でもある。波打つ刀身で斬りつけられると、傷口は複雑に斬り裂かれ、回復し難くなる。
フェムは自身の剣で相手を刻み、苦しむ様を眺めて楽しむ性癖の持ち主だった。さらに、毒まで用いて相手をいたぶる、残忍極まりない性格だった。
キュリアスの説明を聞くうちに、マデリシアはキュリアスの身体にすがり付いた。足が震えているらしい。顔も蒼白だった。
マデリシアは天性の勘で、相手の危険性に気付き、いち早く隠れたのだが、相手がいなくなると別の感情に支配され、当初の恐怖を忘れていた。が、キュリアスと同様、元暗殺者と聞かされ、その残虐性を聞くうちに、恐怖が戻ってきた。
「マディが狙われているわけじゃないだろう」
キュリアスは安心させるように言った。
「あいつの性格だ。俺にちょっかい出して遊ぶつもりだろうぜ」
「じゃあ、エッジから離れていた方がいいの?」
マデリシアは言葉とは裏腹に、キュリアスの腕を強くつかんだ。二度と離すまいと考えているのか、その力は強かった。
キュリアスは考えこんでから答えた。
「いや。それはかえって危ないだろう。俺の傍にいろ。あいつに手出しさせはしない」
キュリアスはそっとマデリシアの手に、自分の手を重ねた。
マデリシアはそれで安堵したのか、手の力を緩めた。が、離れようとはせず、キュリアスの袖をつかんで離さなかった。
マデリシアはフェムの怖さを理解したものの、キュリアスと元同僚の美人という考えも捨てきれず、過去に二人の間に何かあったのではないかと、妙な不安が頭を支配していた。キュリアスの袖を離せずにいるのは、恐怖のためだけではないようだった。
キュリアスにはマデリシアの感情をそこまで理解することはできなかった。恐怖が込み上げ、袖にしがみついていないと不安なのだろうと解釈し、振り解くことをせず、掴ませたままにしておいた。
キュリアスは袖をつかまれたままカウンターのいつもの席に着くと、ローザに食事と冷えた水を頼んだ。酒を頼みたいところだが、予算がない。
今夜には新年を迎えるというのに、酒も飲めないんじゃ、やるせないな。キュリアスは表情には出さず、頭の中で不平を漏らしていた。
キュリアスとマデリシアの前に食事が用意された。食事と一緒に木製のコップも添えられた。一目で水とは違うことの分かる液体で満たされている。
キュリアスは思わず顔を上げた。
見返したローズはジャックのおごりだと言った。
「連日お疲れ様でした」
「ありがてぇ」
キュリアスはコップを掴むと一気にあおった。隣でマデリシアも一息に飲んでいた。久々のアルコールはキュリアスの喉を焼き、食道を下って胃を熱くした。
「しみわたる…」
キュリアスがしみじみと呟く横で、マデリシアは長く深い吐息をもらした。傍から見ていても筋肉まで緩む吐息で、マデリシアの緊張が解けたと分かる。
キュリアスはマデリシアを見てほほ笑み、コップに残ったアルコールを喉に流し込んだ。