陰謀の町 前編
1
細い路地が入り組んでいる。
道の両脇は触れば崩れそうな建物がひしめいていた。奇麗に並んでいるわけではなく、壁が道の方にせり出していたり、逆に反対側へ倒れかかっていたりしている。
並んでいるどの建物も、入り口に扉はなかった。暗い口を開けているところもあれば、そこにボロ切れを吊るして目隠ししているところもあった。
建物の中から生活の音や住人の会話が漏れ、辺りは騒然としていた。
赤子の泣き声が響き渡る。
木でできた食器のぶつかり合う音。
けたたましい笑い声。
内職をしている家があるのか、コツコツと定期的な音。
世間話をする女性たちの声。
怒鳴り合う声。
いろいろな声、音が重なり合い、活気のある喧騒が路地を包み込んでいた。
建物から子供が駆け出し、そのままの勢いで路地をかけていく。器用に身体を逸らせ、せり出した壁の脇をすり抜けていた。足元に水たまりがあり、子供はかまわず飛び込んで水を蹴飛ばしながら駆け抜けた。
その子供の背中を、怒鳴り声が追った。
「どこ行くんだい!待ちな!」
その怒鳴り声も辺りの喧騒に飲み込まれた。子供は振り向きもせず、路地を曲がって姿を消した。あるいは聞こえないふりをして逃げたのかもしれない。
別の建物から物が投げ出される。どうやらよくあることのようで、狭い路地には色々なゴミが転がっていた。
だが、中には目的をもって、硬い物が投げ出されることもある。
キュリアスは雑多な情報が頭の中に渦巻き、頭痛に似た症状に悩まされつつも、その中から悪意ある気配をより分け、雇い主めがけて投げられたものを叩き落とした。手にした棒はそのためだった。
狭い路地にも人が集まっていた。後方にボロ布をまとい、薄汚れた人々が物欲しげに付き従っていた。子供から大人、年寄りまでいる。
人の気配が多すぎる。キュリアスの頭に飛び込んでくる情報が多すぎて、頭が破裂しそうだった。
スラム街なんて来るもんじゃない。キュリアスは何度も後悔しながら、護衛対象を守っていた。こんな仕事受けるべきじゃなかったと後悔し続けている。それでも投げ出さないのは、仕事を受けた以上全うしなければと思うと同時に、護衛対象が知り合いの少女だからでもあった。
護衛対象は淡いオレンジ色の髪を風になびかせ、愁いを秘めた表情を浮かべながら、辺りを見渡していた。キュリアスをここに連れ出したのはこの少女、シャイラベル・ハートである。
「貴族様が何の用だ!」
「あたしらの姿みて優越感に浸ろうってか!」
姿を見せないものの、崩れそうな建物の中から、路地の一団に向けての僻みを叫ぶ声も上がった。
シャイラベルの右側をキュリアスが守っていた。反対側に白銀の鎧を着たフラムクリス・アルゲンテースがいる。シャイラベルの前方と後方に三人ずつの女性兵士が配置され、フラムクリスの指示の下、シャイラベルの護衛を務めている。
女性兵士たちは胸当てと脛当て、手甲をつけて、腰に剣を帯びている。フラムクリスの鎧ほどではないが、兵士たちの鎧も手入れが行き届いていて、日の光を浴びて輝いていた。
キュリアスはシャイラベルの指名で護衛に参加している。普段ならフラムクリスが、主人とキュリアスが接することをとにかく反対するのだが、彼女はスラム街の視察そのものには反対したが、キュリアスを護衛に加えることに関しては、反対しなかった。
不測の事態が発生しやすいスラム街にて、先んじて対処可能な能力をキュリアスが有している。フラムクリスは主人を守る観点から、キュリアスのその能力が有効だと考えた結果である。
シャイラベルには別の思惑も介在していた。そっと右手を伸ばし、キュリアスの裾をつまんだ。表情に変化はないものの、内心は不安でたまらない。何かにすがりたい気持ちが、その指に現れていた。そのすがる対象がキュリアスであることを、シャイラベル自身が望んでいた。
シャイラベルは人目をはばかる必要がないのならば、マデリシア・ソングを見習って、キュリアスの腕にしがみつきたいほどであった。あるいはそのチャンスを窺っているのかもしれない。
フラムクリスはシャイラベルのその淡い気持ちを察している。だからこそ、本来はキュリアスを近づけさせたくなかった。
「姫様に変な虫を近づけるわけにはまいりません」
などと言ってキュリアスの接近を拒む。
フラムクリスのその反応を見越してか、シャイラベルは何かとキュリアスとの面会を企てた。
フラムクリスがとがめるような視線をシャイラベルに送った。シャイラベルは軽く口をとがらせて抗議する。それでもつまんだ裾は離さなかった。
キュリアスには二人のやりとりの意味が理解できていない。二人にしか分からないアイコンタクトを取っているように見えて、疎外感を覚えた。そして、シャイラベルの視察とその護衛という仕事中だというのに、何を遊んでいるのかと、苛立ちも覚えていた。頭痛の種のように飛び込んでくる気配の情報が、苛立ちに拍車をかける。
キュリアスは棒を振り下ろした。吸い込まれるように男が飛び出してきて、その肩に棒が振り下ろされている。男は呻き声をあげてうずくまった。その後方にも人々がいたが、狭い路地のため、呻く男でせき止められていた。
苛立ちまぎれに撃ちつけるものじゃないな。キュリアスは少し力が入り過ぎたと後悔したものの、男にはかまわず、シャイラベルを促して先に進んだ。
人がどんどんと集まっていた。
前方も人だかりができた。
彼らは仕事を持たない。それ故に、食事を買う金がない。食べ物を、着る物を、お金を恵んでくれと、迫っていた。
スラム街に住むからといって、皆が恵みを望むわけではない。職を持つが、町の宿に泊まるよりはスラム街の安宿に泊まる方がいいと節約する人もいる。
スラム街に掘っ立て小屋を建て、そこを我が家として、町に仕事に出かける一家もある。
また、川沿いに水を利用する工場がいくつもある。そこで働く人々の多くも、スラム街に暮らしていた。
仕事を失った者、働き手に死なれて途方に暮れる者、口減らしに捨てられた者、家族が多すぎて日々の食事がままならない者などが、恵みを求めて集まっていた。
中には楽に稼ごうと、相手の身なりを見て襲い掛かり、身ぐるみ奪っていく者もいる。キュリアスたちはそう言う不届き者の接近を排除する役目もあった。
全員がそうではないと分かっていても、誰が、いつ襲いかかってくるとも分からない。不安に駆られ、フラムクリスの部下たちは必要以上に警戒して身構えている。
何の変哲もない四辻でフラムクリスが立ち止まった。主人と目配せしている。キュリアスは不審に思い、辺りを見渡した。
路地に向かってせり出している壁がある。触れば崩れそうだ。足元には大きな水たまりがあった。水は濁っている。
狭い路地が交差する場所だ。どちらを向いても、今は人だかりができている。
辺りの壁は水に濡れている。昨夜の雨が湿らせたのだ。キュリアスの視線がとある壁に止まった。黒い点が一つだけあった。間近に見て、それが何なのか、すぐに理解できた。
するとキュリアスの頭の中で、噂話と唐突につながる。
最近辻斬りが横行しているという。ここは四辻で、ちょうど舞台となり得る。詳しく噂を聞いていなかったが、夜のスラム街ならば、犯行も容易いと思えた。そう思うと、壁の黒いシミは飛び散った血の一滴にしか見えない。
路地の先に、すぐに別の路地が見えた。斬った相手が倒れ、大きな物音がするころには、そこに駆け込めるだろう。
シャイラベルが熱心に辺りを見渡している。
彼女の視察は、辻斬りの現場を見て回るものだったのかもしれない。また妙な問題に首を突っ込むつもりじゃないだろうな。キュリアスは自分のことを棚に上げ、シャイラベルの行動に不安を抱いていた。
シャイラベルとフラムクリスが目配せし、少女が頷くと、一向は再び進み始めた。しばらく進み、また別の四辻で立ち止まる。そこは何の痕跡も残っていないのだが、キュリアスは先ほどと同じ殺人現場ではないだろうかと疑っていた。昨夜の雨がなければ、あるいは血の跡がどこかに残っていたかもしれない。
シャイラベルの一行が川沿いの工場が立ち並ぶ一帯に踏み込むと、恵みを求めてついてきていた人々は雑路の中に立ち止まり、一行を見送った。まるでそこに境があり、立ち入ることができないかのように止まっている。
人々が離れると、護衛の女戦士たちは表情を緩めた。護衛対象との距離も広がる。その瞬間を待っていたかのように、キュリアスの脳裏に鋭い気配が飛び込んだ。
キュリアスはシャイラベルの前に飛び込むと、タイミングを計って木の棒を振った。鈍い感触と共に、鋭い気配を発する物が軌道を変え、近くの工場の壁に突き刺さった。
「クロスボウだ!姫をお守りしろ!」
フラムクリスは叫ぶと、自分の身体を使ってシャイラベルを保護した。彼女の配下の兵士たちはどこに向かって警戒すればいいのか分からず、右往左往している。
「城壁の向こうからか。とんでもない奴だな」
キュリアスは気配の先を確認すると、棒を杖代わりについた。
「もう逃げたぜ」
フラムクリスが身体を起こした。それでもシャイラベルを抱きかかえるようにしたまま離れなかった。
「ここから城壁まで数百メートルどころではない。そんなところから正確に狙えるものなのか?」
「さあね。この中の誰かを狙ったものか、シャイラベルを狙ったものか」
キュリアスはフラムクリスにそう答えたものの、クロスボウの熟練者が三百メートル先の標的を狙えると知っていた。ただ、今回は数百メートルどころか、一キロ近い距離ではないかと思える。並大抵のクロスボウでは届きもしないだろうし、そうそう狙える距離でもない。それを狙ってやったとすれば、まさに天才クラスの技量である。
「狙ったとしたら、恐ろしい腕前だ」
フラムクリスもキュリアスと同じ考えに至った様子で、呻くように言った。
「ああ。間違いなく、その道のプロだ。何を追って、狙われる羽目になったんだ?」
キュリアスは自分が狙われたとは思っていない。この中で一番狙われやすいのは、シャイラベルただ一人である。
「分るわけがないだろう」
「フラムクリス。離していただけませんか?鎧が痛いですわ」
「ああ、これは失礼いたしました」
シャイラベルの赤らんだ頬に、鎧に押し当てられてついたと思われる縦線が入っていた。そっと撫でると、弾力のある肌がくぼみを消していき、線がなくなった。
工場の門から体格のいい男たちが現れた。男たちは皆、太い棒を手にしている。スラム街側にたむろしていた人々はその男たちの出現を見るや、悲鳴を上げて散り散りに逃げ出していた。
男たちの中に、背の低い中年の男性が一人混ざっていた。小男の手に棒はない。小男は短い足をせかせかと動かし、壁に突き立っている矢の元へ行くと、下から覗きこむように突き立った場所を観察した。
「あなたたちねぇ。あたしの工場を傷つけるとはどういう了見で?」
小男は耳元に粘りつくような声を出した。棒を持った体格のいい男たちがキュリアスたちを取り囲んだ。
シャイラベルが詫びの言葉を発しようとするのも構わず、棒が振り下ろされた。フラムクリスが間に割り込んでかばったが、その棒は振り下ろされることはなかった。キュリアスの棒が、相手の棒を切断していたからだ。
「問答無用か。いいぜ。相手になってやる」
キュリアスは頭痛の憂さ晴らしにちょうどいいと、男たちの棍棒を、瞬く間に斬り裂いた。ただの棒でそれをやってのけるので、男たちはあっけにとられ、逃げ腰になった。
「おい、もう終わりか?もっと遊ぼうぜ」
キュリアスにとってみれば、憂さ晴らしにもならない。気概を見せて、集団で襲い掛かるくらいのことはしてほしかった。
「ちっ。見てくれだけかよ」
小男の足元に棒を投げつけると、悲鳴を上げて倒れ込んだ。
「大変申し訳ありません」
シャイラベルが頭を下げても、相手はキュリアスに怯えた目を向けたまま反応しなかった。
「姫様。長居は無用です。行きましょう」
フラムクリスはこの隙にと、シャイラベルを促して川縁へ向かった。親衛隊の兵士たちが主人を守って進んで行く。
「あれは何なのですか?」
シャイラベルは振り向きながら尋ねた。その背中をフラムクリスが押して真っ直ぐに歩かせていた。
「あの工場の自警団だろう」
キュリアスが追いついて言った。
「あれじゃ、ものの役にたちゃぁしない」
「お前が化け物過ぎるんだ。自分を基準にするな」
フラムクリスが言下に言い放った。キュリアスは言い返さず、肩をすくめてみせた。
2
マデリシア・ソングは酒を口に含み、味わって飲み下すと、ため息をもらした。安い酒は、安いなりの味しかしない。
店の中は薄暗く、狭い。カウンター席と、その後ろにテーブル席がいくつかある。通路は気を付けて通らなければ、人の背に当たってしまうほどに狭い。
今はテーブル席もカウンター席もすべて埋まっていた。職人仲間と言った風体の男女がテーブル席を占領し、大きな声で話し、時折笑い声をあげていた。
他の席も、職人風の人々ばかりだ。それもそのはずである。この店はセインプレイスの南東部に含まれるものの、中央東側の職人街にほど近い。仕事を終えた職人の御用達になっているのだ。
年季のはいった、腕の太い男がゆっくりと酒を飲んでいる。かと思えば、若く、線の細い男がそわそわと辺りを見ながら、申し訳程度に酒に口をつけていた。酒を飲み込もうとして、むせ返っている。
奥のテーブルに女性の一団がある。適度に引き締まった腕を肩までさらけ出し、豪快に酒を飲み交わしている。
その中で、マデリシアとその連れはどうしても浮いている。客たちが場違いな女二人組を値踏みするように、盗み見ていた。
見られているからといって、動じるマデリシアではない。ただ、ここで視線に応え、歌を披露する、などといういつもの行動は控えていた。さすがにここで騒ぐと、店が崩れそうだ。
「それで?あたしをこんなところに呼び出したのは?」
マデリシアは物憂げに言って、まずい酒を口に運んだ。まずいが、酔いは異常に早く回る。
「いや、姐さんがどうしているかと思いまして」
ローグゼシア・キースヤージは艶のある黒髪を軽く振って何でもない風を装っている。
マデリシアは若草色の自分の髪に指をからませると、連れの顔を覗き込んだ。何か言い難いことでもあるのではないかと感じ取っている。
「ローグ・キーシャ」
マデリシアは彼女の通り名を口にした。
「な、なんでしょう」
「まあ飲みなって」
「あ、はい、いただきます」
ローグは目の前のコップを掴むと、一気にあおった。
「いい飲みっぷりじゃないの」
マデリシアは笑うと、カウンターの中にいる店員にお代わりを頼んだ。すぐに中身を満たしたコップが届き、空になったコップが回収された。
「あんたたち、うまくやってるようね」
「ええ、姐さんの紹介のおかげで、まさかこんな真っ当な仕事にありつけるとは思いませんでした」
「真っ当とも言えないわ。あれだもの」
さすがに仕事の内容は口に出せない。一言で言えば、スパイである。マデリシアが紹介したとはいえ、大衆の面前で、公言できるものではない。マデリシアは濁して言い、酒を口に含んだ。
「いえいえ。私たちの元を考えれば、十分ですよ」
ローグはそう答えると、つまみを口に運んだ。
「あら、美味しい」
「安酒飲ませる店のくせして、つまみはいいのよ、ここ」
「姐さんもよくご存じですね」
「あちこちで出禁になっちゃうから、色々試すのよ」
「アハハ。酔った勢いで騒がないでくださいよ」
「やらないわよ」
マデリシアはむっとして答えると、つまみを鷲掴みして口に放り込んだ。
「あの子たち、うまくやれそう?」
マデリシアの言うあの子たちというのは、ローグが指導係になって育てていた、ルーイット・ディズマとクリス・ディズマの姉弟である。二十年前まで世間を騒がせていた義賊、ディズマ一家の頭領の子供たちだ。
ルーイットとクリスは父親の様な盗賊になろうと日々修行していたのだが、ディズマ一家を引き継いだ古参の幹部に体よくあしらわれていた。命じられ、酒を盗みに入った先にマデリシアが居合わせた。
マデリシアはローグたち三人を自分の目的のために人足として働かせた。その代わりという気持ちもあって、マデリシアはシャイラベル・ハートに三人を売り込んだ。
「この三人ならスパイ活動に重宝するわよ」
単刀直入に売り込み、意外とあっさり、シャイラベルが引き受けたのだった。マデリシアは少々呆気に取られていたのだが、あれから数ヶ月経過して問題がないのなら、紹介したかいがあったと言うものだ。
「クリス様は感情が表に出にくいとは思っていましたが、仮面でもつけたかのように潜入なさいます」
ローグは小声になり、マデリシアの耳元で呟いた。
「ルーイット様は相変わらず顔に出てしまいますが、腕は上がりました。誰にも見つからないように侵入して情報を得ることも、難なくこなしています」
「その割には、こないだ、ヘマしてたわよ」
マデリシアは顔をローグに向けた。二人の鼻先が触れそうな距離になる。アルコールで赤らんだ頬が、艶めかしい雰囲気を出していた。
ローグの隣に腰かけている、線の細い若者が、マデリシアとローグの様子に目を奪われ、だらしなく口を開けていた。マデリシアは眼の端にその若者を捕らえると、わざとらしく唇をなめた。視線を上下に動かし、ローグの唇と眼を見つめる。
「あ、姐さん、だめです。そんな。こんなところでは…」
ローグが顔を赤らめ、しどろもどろになった。それでも顔を離そうとはしない。動転して、離せば済むことに気付かないのだ。妙なことを口走っているのは、やはり酔いのせいだろう。
ローグの後ろでコップが倒れた。若者はこぼれた酒を足に浴びながらも、マデリシアとローグに釘付けになっていた。
ローグは音で我に返り、身体を離した。
「こんなところでは?」
マデリシアはさらにからかおうとしたのだが、マデリシアの隣の席の男性が、すまんな嬢ちゃんたちと大きな声を発したので、宙に浮いてしまった。
振り向くと体格のいい男が、そこの若いのが粗相したと詫びた。
「何せ、女に免疫のねぇやつでな」
男はそう言って笑った。そして店員を呼びつけると、この二人にお代わりをと注文した。
「詫びにおごらせてくれ」
「その坊やと知り合いなの?」
マデリシアは酒の礼を言ってから、尋ねた。
「うちの若いのでね。こういう場も初めてだ。そこへ綺麗な姉ちゃんたちの色っぽい所が見れて、興奮しちまったようだ」
男はそう言って豪快に笑った。
若者の方はやっとズボンが濡れていることに気付き、慌てて何とかしようとするものの、腕が空になったコップに当たって下に落とし、さらにまごつくことになっていた。
「何やってんだ、おい」
男は嘆くと立ち上がって若者を席に戻し、コップを拾ってやった。店員に布切れを頼んでズボンを拭いてやったが、途中で顔をしかめた。
「おい、なんで俺が野郎のまたぐらの世話しなきゃなんねぇんだ!」
男が嘆く。
「そっちの趣味に目覚めたのかと思ったぜ」
別の席の男がそう言って笑った。
「ほら、自分で拭きな」
男はそう言って布を若者に投げつけた。
「おら、奇麗なねぇちゃんがいいだぁ!」
男がおどけてみせると、周りの客がどっと沸き立った。
場の勢いに便乗して、席を立った別の男がマデリシアとローグの肩を抱くように倒れ込んできた。だが、この男は触れる前に足の力が抜け、床に倒れ伏した。マデリシアとローグの拳が、奇麗に男の顎をとらえ、ノックアウトしたのだ。
周りの客が面白がって手を叩いた。
「やるねぇ!ねぇちゃんたち!」
「きれいな花には刺があるもんだ」
「はん!こんなガサツな連中しか寄ってこないんじゃ、たかが知れてるわ」
奥に陣取っていた女性が批判的なことを言っても、酔いの回った男たちは、ちげぇねぇや、がさつ一辺倒よなどと笑い飛ばしていた。
マデリシアは自分やローグに対する侮辱だと解釈し、奥の女性に何を言い返そうかと思案していたが、ローグに止められた。
マデリシアは首を左右に振っているローグを見つめ、大きなため息をもらすと椅子に座りなおした。
場が多少なりと治まるのを待って、ローグは切り出した。
「さっきの話ですけどね、お嬢も悔やんでおられました。借りは返すって息巻いてましたよ」
「別にいいわ。無理しなさんなって言っといて」
マデリシアたちはその後も雑談を交えて酒を飲んだ。
いつの間にか客が減り、奥のカウンターに年配の男性が一人、後ろのテーブル席に二人の男がいるだけになっていた。
奥の年配の男性は時折、首がカクッと落ち込みながらも、その度に首をもたげては、コップの酒をちびちびと飲んでいる。
後ろのテーブルの二人は額を突き合わせ、小声で何かを真剣に話し合っていた。
ローグの顔はすっかり赤くなっていた。意識はしっかりしているが、顔に出やすいたちのようで、飲み始めから頬が赤かった。それが今では全体に広がり、耳まで赤い。
マデリシアの顔色に変化はない。やや上気して血色のいい顔をしているだけで、酔いの色は現れていなかった。
「お強いですね、姐さん」
「そう?いつも飲み助の相手してるからかな」
「あたしはまっすぐ歩けそうにないです」
ローグは少しばかり下の回りが悪くなっていた。
「送っていくわよ」
「いえ、姐さんの手を煩わせるほどでは…。この場合は足ですかね?あはは」
マデリシアはちょっと飲ませ過ぎたかしらと胸をチクリと刺すものがあった。それもこれも、ローグがいつまでも本題を口にしないのが悪い。そう独り言ちてみても、ローグの赤い顔を見ると悪いことをしたように思えた。
「実はですね」
マデリシアの気持ちを察したかのように、ローグが切り出していた。
「ルーイット様とクリス様にはもう一人兄弟がいるんです」
ローグの声はかなり小さくなっている。あまり人に聞かれたくないらしい。マデリシアは口を挟まず、耳を傾けた。
「お嬢の五つ上で。彼は妹弟を養うために仕事をしているんです」
情報が抜け落ちる。彼と言うからには兄らしいとマデリシアは察した。そしてその兄が妹弟を養うということは、親は他界したか、稼ぎや貯えがないか、遠くに暮らしているらしい。他界したと考えれば、ルーイットたちがディズマ一家を継ごうと努力していた意味に気付ける。
「若くしてかなりの額を稼がれるのです。どんな仕事をしているのか不思議に思っていました。彼、実はクロスボウの名手でして。まあそんなもの、仕事の役にも立ちませんよね。狩人にでもなっていれば別ですけど。でも狩人で稼げるような額ではないと思うんです」
ローグの話はとりとめ無くあちらこちらに飛び散らかっていた。ローグは喉を潤すように、安酒をあおった。そしてもう一杯と頼む。店員が即座に次のコップを運んできた。
これ以上飲まさない方がいいわね。マデリシアは即座にコップを奪い取り、自分が飲んだ。するとローグはまた店員を呼んで次の酒を頼んでいた。すべてを奪って飲んで行けば、マデリシアが酔いつぶれてしまう。諦めて見ているしかなかった。
「それがですね。彼、すごいんですよ」
ロークはそう言って、離れた的を的確に射るだとか、「彼」の自慢話を始めていた。
マデリシアはうんざりする思いで聞いていたが、ローグの酔いしれるような表情を見ているうちに、恋しているのかしらと疑った。そう疑ったとたんに、恋の話を聞いているような気分になり、それでそれでと、マデリシアから続きを催促するようになっていた。
話は幼いころに戻ってみたり、少年少女のころの出来事になってみたり、つい先日の話になってみたり、あちらこちらへ飛び飛びになった。二人が幼馴染で、ローグが淡い恋心を抱いて育ったことはすぐに察することができた。
ローグは酔いの勢いも借りて、脈絡なく話し続ける。
「クロスボウで離れたところから木のうろに命中させるんです。飛んでいるスズメを射た時には仰天しましたよ」
「え?スズメはいくらなんでも無理でしょ。小さすぎるもの」
「そう思うでしょ?それが当たったんですよ!そのまま丸焼きだって、彼ったら焚火にくべちゃって。気付いたら真っ黒でした」
ローグはさもおかしそうに笑った。いつの間にか、割と大きな声で話している。
テーブル席の二人がうるさそうにこちらを睨んでいたが、諦めて席を立ち、出て行った。
奥の老人は相変わらず、居眠りと飲酒を繰り返していた。
話を聞くのはマデリシアと店員のみとなった。こういう店の店員は聞いたことを語らない。なぜなら、聞いた話を他に漏らしていると、気軽に話の出来る場所ではなくなり、客が集まらなくなるからだ。
マデリシアはローグが何を言いたいのかはまだ分からないものの、特に周りに気を使うことはなくなったと思い、安酒をあおってローグに話の続きを促した。
「彼、この町にいるみたいなんです」
ローグは少し陰りのある表情を浮かべていた。コップを揺らし、波打つ液体を眺めていた。
「どこかで見かけたの?」
「はい。この前見かけました」
嬉しそうに答えるかと思ったら、なぜか、沈んだ声になった。
「どこか人目を避けるようで、別人のようでした」
「声をかけたの?」
「かけられませんでした。人混みの中をスッスーと幽霊みたいに抜けていくんです。いつの間に盗賊の修行をしたのかしら」
「子供のころじゃないの?」
「彼はそう言う修業を嫌がって、もっぱら、クロスボウで遊んでました。もう、すごい腕前なんですよ」
「うん、それは聞いたわ。どんな仕事に就いたとか、聞いてないの?」
「はい、それは聞いたことがありません。定期的にお金が送られてくるだけなんです」
「実は家業を継いでいて、盗んで稼いでるのかも?」
「それはないと思いますよ。だって、クロスボウ役に立たないじゃないですか」
「いや、普通の仕事についても役に立たないけどね」
「クロスボウですよ?すごいんですよ?」
「クロスボウ推しだね」
「あの腕前を見たらわかりますって」
「まあいいわ。その彼について、何か気になることがあるのかしら?」
「姐さん、よく分かりましたね。あたしの心が読めるんですか?」
「ええ分かるわ。あなたが彼に恋していることも」
「そんな!違いますって!あたしは、あたしは!」
ローグは照れて赤いのか、酒で赤いのか、もう見分けがつかなかった。もてあそんでいたコップの中身を一気に飲み干し、お代わりを頼む。店員も心得たもので、すぐに代わりを差し出していた。
「どんなことが気になるの?」
マデリシアはローグが酔いつぶれて帰れなくなるのではないかと心配しつつも、止めさせることができなかった。コップを奪っても次から次へと頼むのだから、無駄である。酔いつぶれたらその辺にでも転がして帰ろうかしらと、無責任なことを考えていた。
「変な話を小耳にはさんだんです」
ローグは安酒でのどを潤すと、そう言った。
「関係ないのかもしれないんだけど、クロスボウを使った暗殺者がいるって。もしかして、彼なのかと思って。でも、人の命を奪うような人ではないんです。とっても優しい人で…」
マデリシアはその先を予測した。
「つまり、その彼が暗殺者をやっているのかどうか、あたしの情報網で調べて欲しいってことね」
「なんで分かるんですか!心が読めるんですね!さすがです!」
ローグはそう言って、マデリシアに抱きついてきた。そのまま大人しくなったかと思うと、耳元で規則正しいいびきが漏れていた。
「うそ…。そのテンションから落ちる?…まったく、やってくれたわね。この子は…」
抱きつかれたまま、身動きが取れない。マデリシアはローグを見捨てて帰ることもできず、途方に暮れて、店員を見た。店員は無情にも、そろそろ閉店ですと、素っ気なかった。
3
その日、どういう訳か、冒険者の宿は閑散としていた。珍しく、皆が仕事や用事に出かけている。
人がいないからと、店主はせっせと店の清掃に取り掛かっていた。居座るキュリアスとマデリシアを無言で隅に追いやる。お前らも仕事しろと言いたげな眼で睨み付け、足元をモップで何度も往復した。
「俺は昨日仕事した」
「だからどうした。皆、毎日仕事をしているんだ。お前も働け」
キュリアスの言い訳に、店主は即座に言い放った。
「ちょっと静かにして」
マデリシアはこめかみを押さえ、顔をしかめていた。
「二日酔いなのよ」
「ご愁傷さま」
キュリアスはそっけなく言い、店主はだからどうしたと睨んだ。
「もう、聞いてよ。イタタ。ローグったら…。あ、だめ、ぎぼぢわるい」
「おい!バカ、そこで吐くな!」
店主が大声を発した。キュリアスは慌ててマデリシアを抱きかけえると、裏へ連れ出した。
もしも店内で吐いたら、掃除させられるに決まっている。それは勘弁願いたいと、キュリアスは咄嗟に行動していた。
裏に面したトイレにマデリシアを押し込んで、背中をさすってやる。マデリシアの嗚咽の声や、臭いに閉口しつつ、キュリアスは介抱を続けた。
マデリシアはひとしきり吐くと落ち着いたらしく、キュリアスに礼を言って店内に戻った。
「マスター。酒ちょうだい」
マデリシアは迎え酒をやるつもりらしい。キュリアスは頭を抱えつつ、店内に戻った。
「ほらよ」
「何これ。ただの水じゃない」
「いいから飲め」
店主とマデリシアが睨み合っている。
「飲みやがれ!」
店主の一括に、マデリシアが飛び跳ねた。すぐにコップを掴んで飲み干す。
キュリアスはその様子を眺めつつ、店の正面に止まった馬車の気配に意識を向けていた。
横幅の広い中年と、対照的に細く背の高い初老の男が入ってくる。横幅の広い男は、栄養の多くが腹部に集中し、背丈には影響しなかった模様だ。
横幅の広い男は身なりが整っている。細い男はその付き人らしく、黒と白を基調とした服に身を固めていた。
「急で済まないが、今から護衛を雇いたい」
横幅の広い男が言った。
「ああ、これはハロルド・ナハトマージ男爵様。急なお出かけですか」
店主は相手の名前を知っていた。
「そうなんだ。まったく。一週間後に向かうはずが、早めねばならなくなった」
「では窺っていた依頼はキャンセルですね」
「いや、そちらはそちらでいつもの物資移動がある。キャンセルせず、護衛を募って欲しい。…それで、護衛に付きそうな冒険者は…」
ハロルドはそう言って丸い顔を動かしたが、酒場にいるのはキュリアスとマデリシアのみだ。二階の宿も物音一つしない。
「あいにくこいつらしかいません」
店主は巨体を縮こまらせて答えた。
「おい、まだ受けるとも何とも言ってねぇぜ」
「あたしは二日酔い。どこにも行きたくない」
「黙れ」
店主は不満をもらす二人を即座に注意すると、ハロルドに向き直って、この二人なら護衛向きですと請け負った。
「特にこちらの男はこれで、相手に奇襲を許さないのですよ」
「ほう」
「こちらの女は盗賊の類の考えを読むのがうまいのですよ」
「腕の方はいかがかな」
「二人ともなかなかのものです。この男に至っては、果たして対抗しうる相手がいるものかどうか。王都広しといえど、カークロス・ハート国王様くらいしか思い浮かびません」
「売り込むのがうまいな。さすがにそれほどでもあるまい」
ハロルドは笑いながら受け流したが、一応は気になる様子で、その男の名前はと尋ねた。
「キュリアス・エイクードと言います」
店主はあだ名を伏せたまま答えた。悪名高いエッジの名は、その破壊の逸話と共に知れ渡っている。伝えない方が商談しやすいと踏んだのだ。
「ほう。確か、エッジと呼ばれている御仁だな」
ハロルドはキュリアスの素性を伝え聞いていたようだ。
「あ、これは、ご存じでしたか」
店主は頭を撫でつけた。冷汗がこめかみのあたりを伝っている。浅はかな目論見が崩れ、下手な商談を打ったと焦っているのだ。
「そうすると、そちらの女性も評価を変えねばならんか。エッジとともにいる女性と言えば、バンシーと聞く」
ハロルドは鋭い眼光を放って、マデリシアを値踏みした。か細い声で、バンシー言うなと、マデリシアが訴えていた。
「伝え聞く腕前であれば、二人で十分だ」
ハロルドは顔をほころばせて二人に近づいた。ただ、眼は笑っていない。
ハロルドは二人の反応にかまわずにまくしたてた。
「今回の旅は片道十日、滞在は二日ほどになる。現地では自由行動とし、宿泊費、食費共にこちらでもつ。一日こんなものでいいか?」
ハロルドは指を立てた。
「いや、お二人の評判では失礼だ。倍支払おう。もちろん危険手当も出す」
通常の護衛任務の倍に当たる金額を示され、マデリシアが転んだ。
「乗った!」
「おい待て。昼夜の見張りを考えると、もう数人いないと辛い」
キュリアスが現実的な問題点を言うと、ハロルドは、ではもう一声上乗せして相場の三倍でいかが、と言ったものだ。
「エッジは引きずっても連れて行きます!」
マデリシアはすでに報酬の虜となっていた。
ハロルドの一行は、馬車一台に納まっていた。御者、ハロルド本人。ここにキュリアスたち二人が加わる。後は少々の荷物があるだけだった。
ハロルドは細い身体の男に、後は頼むぞと言うと、男は打合せ通りに、と頭を下げた。
馬車はセインプレイスの西門から出て石畳の街道を進む。
右手に山と呼ぶにはやや低く、丘と呼ぶには高い地域が広がる。左手には丘が広がり、黄色い花や紫の花が咲き乱れていた。
石畳の道は丘を迂回するように、絶えず緩やかな曲線を描いていた。
右手は森が広がり、左手は丘と、その間に平原が広がるという、対照的な景色だった。平原の中には柵に囲われた地域もあった。柵の向こう側は農地のようで、柵に異常がないか、農夫が馬に乗って巡回している姿が見えた。
農夫の握る手綱の間に小さな子供が乗っている。街道を進む馬車を見つけると、小さな手を振り上げて笑顔をふりまいた。
馬車が揺れた。
マデリシアが移動し、男の子に答えて手を振っていた。
次の丘を迂回して進む。いつの間にか右手の森がなくなり、こちらも草花の広がる丘に変わっていた。黄色や紫の草花の海原を進むかのようだ。
海原の向こうに馬車が五台、連なっているのが見えた。
街道とはいえ、西へ向かうこの道の利用者はそれほど多くない。普段は馬車の一、二台も見えれば、いるなと思う程度である。
前方の集団の御者台で、太陽の光を反射して光るものがあった。兵士の身を守る鎧だ。五台共に、御者台に兵士が座っていた。
兵士の一団となれば、モンスターに襲われても何の問題もなく対処するだろう。こちらの護衛任務も楽になるに違いない。キュリアスはそう判断し、御者に声をかけ、あの集団に追いつこうと提案した。
ハロルドが窓から前方を確認した。
「あれは囚人の護送だな」
様子を窺っていたハロルドはそう言い、腰を落ち着けた。
「あれについて行けば、モンスターや野盗に悩まされることもなかろう」
キュリアスの意図を察したようで、ハロルドはそう言って御者にキュリアスの提案に従うよう指示した。
前方の護送団は、セインプレイスの守備隊が捕らえた囚人のうち、鉱山での労役を科された者を、鉱山のある西のフォーディンへ運ぶものである。
ハロルドの目的地はそのフォーディンとの中間地点にある町テルーだ。つまりは、テルーまでは護送団と同じルートをたどることになる。
ハロルドは商人として、そのフォーディンへ物資を売り、帰りの便で鉱石を仕入れて帰る商売を行っていた。今回はその商売上のトラブルに対処するため、テルーまで出向き、また現地の担当者をテルーまで来させ、そこで打ち合わせを行う予定だった。
最初の森に差し掛かるところで、前の集団が脇に寄せて止まった。ハロルドの馬車もその後ろに追随して止まった。
すると、前の集団から兵士が下りてきて、様子を窺いにやってきた。兵士たちに警戒する心持が働いている様子で、腰の剣の柄に手を置いていた。
向かってくる数人の兵士の中に、キュリアスの見知った顔があった。
「よう、アルバートじゃねぇか」
キュリアスは御者台に身体を乗り出すと、手を上げた。
アルバート・フェンサーは眉をしかめた後、ため息をもらした。同僚に、大丈夫だと言って、柄から手を放した。
「護送任務か?ご苦労さん」
「エッジは護衛任務か?」
「そうだ。方向も同じだ。しばらくよろしく頼むぜ」
「邪魔はしてくれるな」
「当然」
キュリアスの安請け合いに、アルバートはもう一度ため息をもらすと仲間内で話し合い、引き返していった。
「やったね。これで公認でついていけるわ」
マデリシアは楽ができると喜んでいた。
実際、大幅に楽になった。時折モンスターと遭遇しても、兵士たちが対峙してくれた。十日の旅の間、キュリアスが兵士たちに手を貸したのは一度きりだった。
山奥で暮らすはずの巨大な狼の集団が駆け降りてきたのをキュリアスは気配で察知し、出会い頭に数頭斬り捨てて難を逃れた。
これにはハロルドも驚き、しばらく賛辞の言葉をキュリアスに送り続けたほどだった。
それ以外には大した変化のない、退屈な旅路となり、景色を楽しむくらいが娯楽となった。
森を抜けて再び畑や農村が広がる。また森に入ると視界が遮られ、圧迫感を抱く。森の木々の枝が道の上にせり出し、薄暗くなると、いよいよ得体のしれないものが現れてきそうで、不安に襲われる。
その森を抜けると、視界の広がりとともに、得体のしれないものから解放された感覚を味わった。
キュリアスたち冒険者は一般の人々に比べて森の暗がりを怖がりはしないものの、不測の事態に備えてどうしても気が張る。その気持ちも、森を抜けると解きほぐされるのだった。
森を抜けると景色が変わっていく。
湖や川沿いを進むようになったり、丘を越えていく道になったり、谷間を見下ろしながら進む道になったりした。
夜は宿場に泊まった。街道には一定間隔で宿場が設けられていた。国が管理する牧場と、その周りに宿屋があり、さらにその周りを柵と門で囲んで外敵の脅威を排除し、安心して寝泊まりできる空間を提供していた。
宿場は受け持ちの貴族の私兵が守備している。外敵にはその私兵が当たる。内側でトラブルが起こった時も、その私兵が介入して収めるのである。
無用なトラブルを避けるためと、管理を楽にするために、そのような宿場は日が沈むと門を閉ざす。そうなると中に入ることができず、宿の明かりを恨めしげに眺めながら、野営する羽目になった。
宿場と宿場の感覚は意外と広い。馬車の旅路であれば、通常であれば日が暮れる前にたどり着けるものの、護送団は度々休憩するので、閉門に間に合わないことも何度かあった。
護送される囚人たちは面白がって、やれトイレだ、やれ気分が悪いだと言って、その都度、進行を止めようとした。初めのうちは囚人の要求を受け入れ、休憩をとっていたが、二度、閉門によって野宿させられた後は、兵士たちも囚人の主張を受け流すようになった。
旅路は日を追うごとに山道になっていった。森の中にいることが多くなる。たまに麓までの遠景を眺めることができる場所に出ると、かなたまで見渡せる景色に目を奪われた。
森が途切れ、ただの岩場に差し掛かった時も、景色の違いに心が躍ったものだ。キュリアスにとって、岩場は幼少期を過ごしていた辺りの地形に似ており、僅かに望郷の念が働いたのかもしれない。
十日の旅路はさしたる支障もなく、中間地点のテルーへたどり着いた。十日目は順調に進んで、日が暮れる前にたどり着いていた。
護送の一団は町で一泊すると、さらに西へと旅を続けた。
ハロルドはテルーに着くと、よく知った町のように一軒の宿に入った。宿の方もハロルドをよく知っている様子で、いつもより早い御着きですねと迎えていた。
宿泊の手続きを済ませ、ハロルドは単身、商談に行くと出かけた。町での護衛は必要ないと、キュリアスたちを宿に残していった。
「テルーって来たことある?」
マデリシアは雇い主の身の安全よりも、町に興味がある様子だった。
「いいや。フォーディンは初めてだ」
「あたしもなの。ね、ね。散策してこよ?」
マデリシアは眼を輝かせ、キュリアスの返事を待たずに袖を引いた。キュリアスも興味がないわけではないので、引かれるままに町中を歩いた。
山脈と山脈の間の僅かな平地に造られたテルーは、やたらと東西に長かった。南北は二区画程度しかないところもあるのに、東西はどこまで続くのかと思われるほどだった。
町を西へ向かうほどに徐々に登っていく。坂道の途中に町の端を示す門が現れた。街道の石畳はそこで終了し、後は踏み固められた土の道だった。道は谷間をぬうように折れ曲がってさらに登っていた。
門の前で振り向くと、森と森に挟まれた町並みを見渡せた。町並みは森に押される形でやや左に折れ曲がっている。その先は左側の森の陰に入って見えない。東門があるのはその見えないあたりだろう。
町の建物はどれも、とがった屋根を持っていた。街道沿いに大きな建物が並び、その裏手にこじんまりした建物が、所々に空き地をはさみつつ、密集して建っていた。
裏手の路地に石畳はなく、どこもむき出しの地面だ。路地自体も細く、坂上から見渡していても、ほんの一部しか確認できなかった。
こじんまりした建物の裏はすぐ森になっている。枯れ木もあれば、淡い緑を抱えた木もあり、青々と生い茂っている木もある。中には白い花を咲かせているものもあった。色彩鮮やかな景色は娯楽に飢えたキュリアスの視線を引き付けた。
森との境には、西門から続く柵があるが、それを坂上から見ることはできなかった。その柵が、森の生き物やモンスターの町への侵入を防いでいる。門脇に見える柵を見る限り、手入れが行き届いている様子だ。どこかの村のように途切れていることもないだろう。
「わりといい景色ね」
マデリシアが呟くように言った。
自然を切り開いた町、というよりは、町に森が迫り、飲み込まれかけている。忘れられた町のようにも感じられて、どこか寂しさも漂う。
しかし、街道沿いには馬車も人の通りもあって、森の浸食を妨げる程度に賑わっていた。
街道沿いに宿屋や食事処、商店が並ぶ。住人向けの生活用品や食料品店も、街道沿いにあった。鍛冶屋も何軒かある。とある鍛冶屋の前に馬車が止まっており、車輪止めを手直ししていた。
宿屋がまとまってあるかと思えば、商店が並び、また宿屋になる、といった風に街道沿いに変化を与えつつ、並んでいた。
キュリアスとマデリシアはどちらからともなく、その街道の坂道を下った。
宿屋と宿屋の間にある小さな路地を曲がり、裏通りに入った。路地を抜ける風が冷たいと思ったら、裏手には黒くなった雪の塊があった。
雪は建物と建物の間の空き地に集められていた。雪が降るほどには冷え込んでいないので、寒い間に降って積もった雪の残りなのだろう。キュリアスの眼の高さまで積み重なっているところをみると、この辺りの降雪量はかなりのものなのかもしれなかった。
それともここに集められて山になっていただけかもしれない。キュリアスはふと、育った山岳地帯を思い出し、除雪ということに思い至った。すると、この空き地の意味が分かったように思えた。
狭い路地を進む。
どの家も、壁に厚みがあるように見えた。人の気配のない家が多いところをみると、家主は宿屋や商店で働いているのだろう。
マデリシアが身を寄せてきて、キュリアスの腕にすがった。
「寒い寒い」
そう言ってキュリアスの腕で暖を取ろうとしていた。
王都セインプレイスでは日中であれば生暖かい風が吹く季節に入り、過ごしやすかった。それが十日ほど旅しただけで、こうも季節が逆行するものなのかと、痛感せずにはいられない。
森が近いせいか、空気は冷たいながら清らかで、心地いいものだった。都会の喧騒を忘れさせ、心安らぐものがある。
人工物の間を歩いているというのに、ふと山歩きに似た感覚に襲われた。今は山を下っているのと同じなのだ。
キュリアスは少し前まで、山に籠もっていた。そのころのことが懐かしく脳裏に浮かんでくる。
「ケビン、どうしてるかしら」
マデリシアも同じことを思い出していたようだ。キュリアスと二人で三ヶ月の間、山に籠もり、ケガを負った銀狼の子を育てた。その銀狼の子をマデリシアはケビンと呼んだ。
三ヶ月かけて、銀狼の子のケガを治癒させ、狩りの仕方を見様見真似で覚えさせた。キュリアスはわざわざ四つん這いになって獲物に忍び寄り、喉元に噛み付く真似までしてみせた。実際には見えないところでナイフを突き立てている。
そのかいあってか、銀狼の子はぎこちないなりにも、何とか獲物を狩れるようになった。一匹で生きていけると分かるまで、二人は面倒を見たのだった。
別れは辛いものになった。キュリアスにすっかり懐いていた銀狼の子を、振り切るように逃げてきた。心まで置いてきたようで、キュリアスの胸の中に大きな穴が開いたままだ。
マデリシアは一人残ろうとした。彼女も銀狼の子から離れがたくなっていたのだ。キュリアスは心を鬼にして、マデリシアを引き離した。こちらの判断に悔いはない。
「元気にやってるさ」
キュリアスは山の方を見上げながら答えた。内心、ケビンではなくシルバーだと言い添えていた。口に出せば言い争いになる。無用な争いの種をまく必要もなかった。
路地が終わり、建物と建物の間を抜けると、街道に戻った。すぐそこに東門がある。
街道を横断して反対側の裏道へ入る。先ほど歩いてきた路地と大差なく、ただ上っているだけの道に思えた。違うのは、町が薄く幕をかけたように色が失せたことくらいだった。日が沈みかけているのだろう。谷間の町からは日の入りは見えなかった。
「戻ろっか」
マデリシアの言葉をきっかけに、二人は宿に戻った。
次の日もキュリアスは暇を持て余した。冒険者の宿でもあれば、朝から一杯ひっかけるところだが、テルーは町と言っても、宿場を大きくしただけに過ぎない。酒を提供する店も、宿泊客が集まる夕方以降にしか開店しなかった。
マデリシアは退屈しのぎにどこかへ消えた。キュリアスも仕方なく、町をぶらつくのだが、一度見て回れば十分で、面白みに欠ける散歩となった。
唯一、西門からの眺めだけは、何度見ても飽きなかった。とはいえ、西門傍にずっと立っていることもできない。通行の邪魔だし、門番に睨まれていた。
他に移動すると、それこそ見るものが無く、退屈におぼれてしまう。
退屈過ぎて、ちょっとした動きがある度に、新たな変化を求めて飛びついた。通過する馬車。徒歩の旅人。買い物らしい住人。馬に乗った細い身体の男。
キュリアスは素通りしかけて、もう一度振り向いた。馬上の男は黒と白を基調とした服の、初老の人物だった。この人物に、キュリアスは見覚えがあった。ハロルドの付き人だ。
ハロルドがセインプレイスに残してきた付き人が、なぜここにいるのだろうか。キュリアスは好奇心を刺激され、ハロルドの付き人の後を追った。
付き人は迷うことなく、裏路地へ入り、狭い路地を乗馬のまま進んだ。そして空き地で馬を降りてつなぐと、傍の民家に、無造作に入った。
付き人が家に入るのを待って、キュリアスは入り口前まで忍び寄り、音もなく、屋根へ舞い上がった。人の気配の集まっている辺りを見越し、上から接近する。そこは小さな庭に面した一室だった。庭に向かって森の木が枝を広げている。枝一杯に、淡い赤い花が咲いていた。
キュリアスは屋根の端に陣取り、耳を澄ませた。
「首尾は?」
聞こえてきた声は、ハロルドのものだった。こんなところにいたのか、と思う一方、民家で商談というのもおかしなものだと、訝しんだ。だからこそ、キュリアスは好奇心にかられ、屋根と一体になって聞き耳を立てた。
「先日のトム・コリンズは予定通り、ジェラルド・ソルトンと接触させました。トム・コリンズの言い分を信じ、事件を解決すると息巻いておりました」
キュリアスは初めて聞く声だったが、これが追いかけてきた付き人の声だと理解した。
「ふん。追いはぎの言い分を信じるとは浅はかな男よ」
「ハロルド様の読み通りでした」
「所詮、ジェラルドは雑魚よ。それで?」
「例の男は、クロスボウの矢を胸に受けました」
「私の提案を拒絶したばかりか、上に報告するとのたまいおったからな。当然の報いだ。それにしても、あの小男、存外に腕のいいクロスボウ使いであったか」
「はい。あの男は使えます。今度も役に立つことでしょう」
「さもありなん」
下の部屋にはあと一人、気配があるものの、三人目の声は聞こえなかった。
付き人が他にも報告を続けた。その内容は物騒な物が多い。貴族社会での根回しや、敵対者の排除の報告である。他にも、商売上の報告も含まれていた。
「報告が足りんな」
ハロルドが不機嫌な声を発した。
「失礼しました。進展がありませんでしたので…。アナベルト・サーカムは手強い相手です。隙を見せません」
「しかし、ジェラルドと一緒に失脚させることができれば、テナクスナトラ派に打撃を与えることができる。新進気鋭のサイモン・ビトレイアル卿に取り入るために必要なことだ」
政治に疎いキュリアスでも、テナクスナトラとビトレイアルの名は聞いたことがある。
ルキウス・テナクスナトラは侯爵で、長年培ってきた人脈と博識を持って国の統治に携わってきた重鎮だ。商業、農業への高い見識を持ち、庶民の代表とまで言われていた。ただ、近年ではシャイラベル・ハートの提案にことごとく異を唱える堅物になったとの見方もあった。
また、ルキウス・テナクスナトラはフォートローランス王国の世継ぎに、第二王子のライオット・ハートを推している。病弱な第一王子サイラス・ハートの身体を案じて、との主張だが、結果として、第一王子派、第二王子派という対立を生み出していた。
サイモン・ビトレイアルは若いながらも指導力に長ける。情勢を読み解く才があり、時に豪快に、時に繊細に対処してみせた。立場的には貴族主義で、ルキウス・テナクスナトラと対照的な人物だ。
サイモン・ビトレイアルの推す後継者は第一王子のサイラス・ハートだ。無用な後継者争いを生むことはない。長兄が国を継げば何の混乱も生じないというのが主張だ。
ここでも対照的な二人である。
ルキウス・テナクスナトラもサイモン・ビトレイアルも関係なく、元々、第一王子派、第二王子派は存在していた。一方は、王国のためを考え、健康的な第二王子が王位につくべきだと主張し、一方は、第一王子は身体が弱くとも、秀才と知られ、決断力もある。また公明正大な性格ゆえに、国を正しく導く王になると主張した。
一方は、第一王子ではいつ倒れられ、国政を取り仕切れなくなるか不安だと言い、一方は、剣の腕前ばかり立つ第二王子では、政治に向かないと言った。
互いに主張し合う第一王子派と第二王子派は次第にビトレイアル派とテナクスナトラ派とに置き換わり、公式、非公式問わず、何かと火花を飛ばし合っていた。
ハロルドはビトレイアル派に与するべく、暗躍しているようだ。
「根回しの方はどうだ?」
「そちらは問題なく。ただ、やはりハロルド様が欠席なされたことに不信を抱かれた様子でした」
「まったく。タイミングの悪いことこの上ない」
「そいつは横から手を出してきたアラガント商会に言ってくださいよ、旦那」
初めて三人目の声が聞こえた。乾いた響きが耳にまとわりつく。
「アラガント商会でしたか」
付き人が言った。
「フランク・アラガントが出てきたのであれば厄介ですね」
「それがね、エディ・マイザー直々のお出ましでしたよ」
三人目が答えた。
「ふん。雇い主一家を殺して会社を乗っ取った程度のやつに何が出来よう」
ハロルドが吐き捨てるように言った。
「あくまでも噂ですよね。先代の息子であるフランクは生きているわけですし」
「さあな。だが、エディ・マイザーに商才がないのは事実だ」
「ええ。あそこはフランク・アラガントあってこその商会ですから。それにしても、アラガント商会がどうして…?」
「そこは不明だ。が、私の鉱物をかすめ取っていきおった」
「そのまま商売に割り込む算段でしょうか」
「向こうはそのつもりだろうが。おい、説明してやれ」
「はいはい、お任せを。あちらさん、目利きにジョンのやつを使ったんですよ。酒におぼれて鑑定眼を落としたやつなんでね。奴が鑑定した後に、こっそりただの石ころを混ぜてやりましたよ。するとアラガント商会はこんなガラクタに金が払えるかと猛抗議で」
三人目がカラカラと笑った。
「飲んだくれジョンの面目は丸つぶれ。あたしらを裏切った鉱夫も金は入らず、裏切った負い目だけが残ってますぜ。アラガント商会も金さえ出しておけば今後があったでしょうに、もう誰も相手しないでしょうよ」
「中々にいい気味ではないか」
「さすがでございます」
「だが、保険をかけておかねばならん。いくつか対策を授けておくことにしよう」
「ハハ。旦那には勝てませんな。よござんす。指示をいただければ、万事抜かりなく取り仕切りましょう」
「なるほど。では私は取り急ぎ戻りまして、こちらの件を円滑に進めてまいります」
「うむ。任せたぞ」
気配が一つ、部屋を立ち去った。そのまま外に出て馬にまたがる。
キュリアスもその気配に紛れるように、屋根を伝って離れた。
「まったく、派閥だ陰謀だと、好きなことで」
キュリアスは話の内容にそこまで興味を引かれなかった。雇い主がどんな人物だろうと、金払いがよければそれでいい。人殺しなど、悪事を要求されるのなら話が別だが、誰にも害のない護衛任務であれば、相手が悪人だろうと聖人だろうとどちらでも構わなかった。
4
ハロルドはもう一日テルーに滞在した後、帰路に就いた。帰路は便乗する一団がなく、キュリアスとマデリシアは互いに交代しながら見張りに付くはめになった。
とはいえ、馬車一台の旅路を邪魔するものは、希に遭遇するモンスターくらいだった。野盗といったたぐいのものは、実入りが少なそうと見たのか、現れることはなかった。
キュリアスもマデリシアも、別に野盗に襲って欲しいわけではないが、見張っているのに何も出て来ないのも、おもしろくなかった。何も起こらないと、退屈で、緊張感の維持が難しいのだ。
マデリシアは一度、見張り中に転寝してしまい、危うくモンスターの襲撃を見逃すところだった。幸いにもキュリアスがモンスターの気配を感知し、飛びだして事なきを得た。
モンスターと言ってもこの辺りで出会うのは、ゴブリンか、小型のイノシシに見えるウォーピッグくらいのもので、どちらも馬車の速度を上げて逃げることも可能だった。
ウォーピッグの方は、運が悪いと馬車の車輪に体当たりを食らい、横転して損害を被ることもあるが、それほど強い相手ではない。ゴブリンともども、一対一であれば子供でも勝てる可能性のある相手だった。
それでもあえて飛びだすのは、単に退屈を持て余していたからにすぎない。
マデリシアの方には別の考えもあった。そういう小さな戦闘でも行っていれば、危険手当を増やせると、金勘定をしていたのだ。だから、転寝でモンスターを見逃したことに悔み、その後は熱心に見張ることになった。
一行は十日の行程でセインプレイスに戻った。町に近づくほどに、マデリシアは不機嫌になった。見張りを真面目に行えば行うほどに、何の問題も発生しなくなっていたからでもある。退屈にうんざりし、実入りがなく無駄な努力となって、不満をため込んでいた。
とはいえ、基本の報酬自体が通常の三倍である。追加分があまり望めないだけであった。不機嫌だったマデリシアもハロルドから報酬を受け取ると、顔をほころばせて、今夜は飲み明かすわよと息巻いた。
世辞の言葉を並べるハロルドと別れると、キュリアスとマデリシアはすぐに冒険者の宿へ向かった。
久しぶりに眺める町の景色は、目新しいものに見えたが、それは夕日に紅く染まった町並みが幻想的だったせいかもしれない。日が暮れるとどこか冷たい雰囲気の漂ういつもの町に戻り、町に入った時に感じていた妙に浮足立つ気持ちが薄れた。
「一杯やりたいな」
侘しくなった気持ちが、言葉を誘った。マデリシアは飲み明かすつもりだったようで、キュリアスの呟きに、即座に賛成した。
だが、二人は酒にありつくことができなかった。
冒険者の宿はすでに宴会が始まっており、仕事を終えた冒険者たちが酒をあおって騒いでいた。キュリアスもマデリシアもすぐに紛れ込むつもりになっていたのだが、店主が大きな身体で行く手を塞いだ。
「何よマスター!」
マデリシアが不満の声を上げる。
「お前らが戻ったらすぐによこしてくれって依頼でね」
店主は悪びれずに言った。
「ローレンス・コプランド男爵様がお呼びだ」
「ローレンスが?俺たちに何の用だ?」
キュリアスの問いに、店主はさあなと手を広げた。
「夜遅くまで仕事しているからそちらへ来てくれとのことだ。場所はお前らが知っていると言っていた」
「ええ、ええ、ええ。知っていますとも」
マデリシアは頬を膨らませ、騒ぐ冒険者仲間を恨めしそうに見つめた。
「ねぇ。一杯だけやっていこう」
「できるだけ早く来させろってことなんでね」
店主はその巨体を使って、キュリアスとマデリシアを外に追いやった。
「あによ!一杯くらいいいじゃないのさ!けちっ!」
マデリシアの大声に、辺りの建物が揺れた。
「よせ」
キュリアスは頭を左右に振りながら、短く言った。顔を上げ、店主を見上げると、いつ来たんだと尋ねた。
「十日前だ」
店主は腕組みをし、入り口に立ち塞がった。店主の巨体で入り口は完全に塞がり、中に入ることができない。
呼ばれてからかなりの日にちが経っている。だからこそ、店主は追い立てるようにキュリアスたちを向かわせようとしているのだ。
キュリアスは分かったと手を上げると、くるりと向きを変えた。
マデリシアは店主に向かってさらに文句を言っていたものの、キュリアスが歩き始めると、足だけはキュリアスと同じ方向に向かった。身体と口は相変わらず、店主に向かったままだ。
辺りはすっかり暗くなっていた。登って間もない満月の光は、まだ町の建物に遮られ、闇の方が色濃い。空はちりばめた光に彩られている。時折影がその光を覆う。
僅かに吹き付ける風は、もう冷たくなかった。ハロルド・ナハトマージ男爵の護衛で町を離れるころは、夜ともなれば、やや肌寒かったのだが、今はどちらかと言えば、心地よい涼しさだった。
マデリシアも寒いとは感じないらしく、キュリアスの腕に絡みついてくることはなかった。それはそれで物足りない思いもよぎるが、だからといって常時抱きつかれるのも鬱陶しく思うキュリアスだった。
暖かくなったためか、人の往来は多かった。飲みに出かけたり、賭博、ゲームを催す娯楽施設に出かけたり、仲間や恋人との会食を楽しみに出かけたりと、人々は楽しげに話し込みながら移動していた。
その人通りも、町の北西部に入ると途端に減った。北西部に歓楽街はなく、夜に向かう場所ではなかった。守備隊の宿舎や、魔術師ギルド、商業ギルドなどがあり、更に北へ進むと貴族屋敷が立ち並ぶ。
その他にも、中央の王宮付近には王国軍の詰め所がいくつか点在する。そして王宮を囲むように門と城壁がある。その城壁に弓矢を携えた衛兵が巡回している。
不審者と間違われて矢を射かけられてはたまらないので、夜は誰も近づかない場所だった。
キュリアスたちは守備隊の建物を目指していた。目的地に近づいたころには、辺りは静まり返っていた。周囲の建物も明かりの灯っているところが少ない。まるで深夜のような静けさがあった。
深夜に出歩いていれば、冒険者など、すぐに不審者に間違われかねない。案の定、守備隊施設の門番は目ざとくキュリアスたちを見つけ、近づいてくる二人に視線を集めていた。
キュリアスは開口一番、ローレンス・コプランド男爵に呼ばれてきたと告げ、取次を頼んだ。ローレンスは執務室に籠もっていたらしく、すぐに通された。
二階の一番奥にある扉をノックし、返事を待たずに開け放った。不作法なキュリアスを迎えたのは、部屋の中の異様な熱気だった。マデリシアが恐る恐る覗き見るほど、異様な雰囲気がそこに漂っていた。
「や、これはキュリアス殿にマデリシア殿。良く来られた」
ローレンスが立ち上がって二人を出迎えた。顎に不揃いな髭が生えている。部屋を満たす明かりのせいか、眼には異様な光が宿っているように見えた。その眼の下に黒いクマができている。
一つしかないテーブルをローレンス以外に三人の男たちが取り囲んでいた。ローレンス同様に、皆胸当てを身に着けている。三人とも、顔に疲れの色が濃く現れ、黒ずんで見えた。そして三人とも、何かにとりつかれたかのように、熱心にテーブルに向かっていた。
もう一人、ローブ姿の男がいた。微動だにしないので何か大きなものが置かれているのかと思えたが、確かにローブを着た一人の男だった。
テーブルに差し出されたローブの男の手の上に、魔法で作り出した映像が表示されている。胸当ての男たちはその映像に顔を近づけ、必死に手元の紙に書き写していた。
「おい、少し休憩しよう」
ローレンスが言うと、男たちがため息をもらし、腰を叩いた。
「君たちは休憩してきてくれ。ああ、君は残って」
全員がキュリアスの脇を抜けて出ようとするのを、ローレンスはローブの男の肩を掴んで呼び止めた。
「さあ、中に入ってくれ」
ローレンスの声が妙に上ずっている。キュリアスは一抹の不安を抱きつつ、中に踏み込んだ。マデリシアがキュリアスの背中に身を寄せて様子を窺っていた。警戒しているようだ。
「彼はヘンリー・スローンだ」
ローレンスがローブの男を紹介した。よく見ると、男はまだ若い。キュリアスよりも若いのではないかと見受けられた。
ヘンリーは視線を泳がせていた。キュリアスとマデリシアから視線を逸らそうと足掻いているようにも見えた。
「あ。変態だ。変態がいる」
マデリシアがキュリアスの背後から手を伸ばし、ヘンリーを指差していた。彼女は持ち前の動物的勘で、ヘンリーの存在に気付いていたのかもしれない。キュリアスの背に隠れ続けていた理由が分かったように思えた。
「変態…ああ。あの時の覗き魔か」
「覗き魔だなんて失礼な!あなたたちには美を鑑賞する心意気が分からないようですね!」
「人のスカートの中を見るのが鑑賞か?」
「ほう。そのことも詳しく聞きたいが」
ヘンリーが何か言い返そうとする前に、ローレンスが割って入った。尋問する険しい表情になって、ヘンリーを見つめている。
「いや、あの、覗きするつもりでは…」
ヘンリーが上ずった声で言い分けするのを、ローレンスは手で制した。
「アース・ファクタムの協力で彼を派遣してもらっている。それがね、アーサーのお手柄だったのだよ」
ローレンスは興奮したように言った。ヘンリーの行為を追求するよりも、キュリアスたちに伝えたいことがあるようで、顔を高揚させて言葉を続けた。
「あの子の見たものが保存されていると知った時は、攫った犯人を見ているだろうと、記憶の確認をしてみたんだが、あの子ときたら、私が作っていた資料もこっそり見ていたらしくてね。おかげで、あの資料の復元ができる。今総がかりで書き写していたところなんだ」
「あら、よかったわね」
「ああ。アーサー!でかした!」
ローレンスは恍惚とした表情で天井を仰ぎ見た。
キュリアスは先を促さないとそのままローレンスが浸ってしまいそうに思え、声をかけた。
「それで、俺たちを呼んだのは?」
「ん?ああ、そうか、すまん。ヘンリーくん。あの映像を見せてやってくれるか」
ローレンスの言葉に従い、ヘンリーが手の上にある石に向かって意識を集中させた。するとその石の上に映像が現れた。
廊下の床付近と思われる映像だ。映像が動き、ゆっくりと前へ進む。急に止まると、横の扉を見上げた。
アーサーの視界だと、ローレンスが注釈した。
アーサーが見つめている扉がゆっくりと開いた。そこから現れたのは、白い上着にピンクのズボンという派手な格好の男だった。
キュリアスは思わず、ローレンスの顔と映像の顔を見比べたが、まるで別人だった。ローレンスも、私ではないと否定した。
「こんな派手な服を着るものか」
映像はまだ続いていた。派手な服の男が手を伸ばし、アーサーを捕まえた。顔の高さまで持ち上げたところで映像が暗くなった。
「ここまでです。袋にでも入れられたのでしょう」
ヘンリーが私見を述べた。
「ちょっと戻してもらえる?できるかしら?」
マデリシアはいつの間にか、キュリアスの隣に移動し、映像に見入っていたらしい。
ヘンリーは返事の代わりに映像を表示させた。暗がりから男の顔が現れ、徐々に離れて行く。
「止めて止めて」
マデリシアが慌てたように言うと、映像は止まった。男の顔が表示されている。その顔を、マデリシアは食い入るように見た。
マデリシアの反応を見て、キュリアスもどこかで見たことがあるように思えたものの、まるで思い出せなかった。思い出せないということはたいした奴じゃないなと、早くも結論付けていた。
「その男に見覚えがあるのかね?」
ローレンスの声が上ずった。期待のこもった声である。
「ちょっと待って」
マデリシアは前のめりになるローレンスを手で止めると、映像を後ろから前から、横からと眺めた。そして顎に手を当て、じっくりと考えこんだ。
部屋の明かりに揺れがない。ランプの炎ならば揺らぎがあるものなのに、それがないことに、キュリアスは気付いた。今更ながらに見渡すと、天井に魔法で施した光が灯っていた。おそらくヘンリーによるものだろう。
天井の光はかなり強く、じっと見つめると網膜が焼けてしまいそうだ。キュリアスは視線を下ろし、映像とマデリシアを眺めた。
「この派手な服、どっかで見たような気もするのよねぇ」
「そうか?俺は記憶にないな」
マデリシアの呟きにキュリアスは答えた後、ふと思い当たるものがあった。
「そう言えば、黄色いズボンのやつに会ったことはあるな。あれは派手だった」
「それだ!」
マデリシアが声を張り上げ、手を叩いた。
「こいつ、カラーよ!」
マデリシアが映像を指差し、キュリアスを見上げた。キュリアスはカラーと言われてもピンとこず、眉をしかめていた。
「ほら、暗殺者の。アーノルドを狙ってた」
「ん?ああ、あいつか。右手がどうのって」
「それそれ!」
「暗殺者?」
ローレンスが眉間にしわを寄せた。
「暗殺者が泥棒に身をやつしたのかしら?」
「だとしたら、落ちぶれたもんだ」
マデリシアとキュリアスはローレンスの呟きを無視して、思い出したカラーについて語り合った。
「暗殺者?」
ローレンスはもう一度言った。
「そうなのよ。こいつ、派手な服を着て人を殴り殺す暗殺者よ。カラーの通り名なの」
「ほう。そんな奴が私のアーサーを盗んだのか?」
「誰かの依頼じゃないのかしら?この後に映像はないの?」
「ありますよ。もう一度この男が出てきて、殴りつけられて、土の中に埋められるところが映ってます」
ヘンリーが答えた。
「見せましょうか?」
「必要ないわ」
マデリシアは即座に断った。ローレンスもヘンリーに向かって頷いて、必要ないと示した。
「君たちが知っているのなら頼みやすい。実は来てもらったのは、この男を見つけ出してもらいたくてね」
「確かに、守備隊所属では、闇の住人を見つけるのは困難ね。あたしの出番かしら」
「そのようだ」
キュリアスが他人事のように言うと、マデリシアはあたしの護衛よろしくと引きずり込んだ。
「あいつ、弱いぜ?マディでも大丈夫だって」
「いいから。か弱い女の子を守るのが男の務めでしょ」
「都合に合わせてか弱くなるな」
「うっさいわね」
「まあいい。ローレンス。カラーを見つけるだけでいいのか?」
「できるならば、捕まえてほしい。殺さずにな」
「殺さずか…。まあ、何とかなるだろう」
「では、すまないが、よろしく頼む。この男が捕まれば、誰がアーサーを盗ませたのか分かるだろう。必ず犯罪者は捕まえてみせるぞ」
ローレンスは息巻いていた。
マデリシアがそのローレンスを捉まえ、報酬の交渉を済ませるまで、一時間は要した。ローレンスは資金不足なのだと再三言い訳したが、マデリシアはなかなか妥協しなかった。最後はローレンスがやけくそに言い放った金額に、マデリシアが、それで勘弁しておいてあげるわと、高飛車に言ってのけたのだった。
キュリアスとマデリシアが部屋を出て扉を閉めると、ローレンスの声が聞こえてきた。
「それで、ヘンリーくん。覗きとやらは、どういうことか説明してもらおうか」
腹いせなのか、単に犯罪を見過ごすことができないのか、ローレンスの冷たい声が廊下に響いていた。
5
守備隊の施設を出た足で、マデリシアは情報ギルドに向かった。向かったのはギルドの集まる北西部ではなく、南東部の歓楽街だった。
いくつかの酒場が立ち並ぶ中に、割と大きな店構えの酒場があって、その酒場の奥が情報ギルドになっていた。
町の北西部にある情報ギルド会館と、こことでは面持ちがかなり異なる。北西部の会館は、いわば正規の情報屋組織である。そしてこちらは裏の事情も取り扱う組織で、中には盗賊ギルドと揶揄する人もいるほどに、裏で暗躍する人々の元締め的役割を担っていた。
集まった情報は、ここでも北西部の会館でも同じものを買うことができる。だが、こちらが実は本部ではないかと疑われる節はある。
この酒場の情報ギルドに登録していない盗賊が、町で盗みを働いた場合、組織員がその盗賊を追い、取り締まる。また、登録している盗賊に対しては、見逃したうえで、盗品の売買の手助けまで行う。こちらはそう言った非合法な事柄を主に扱う組織の窓口だった。
非合法に手を染めているからこそ、多数の情報が集まる。だから黙認されているという人もいれば、そもそもこの酒場の奥について知らない人も多い。
この酒場はうまい酒を出すし、艶美なダンサーも取りそろえたショービジネスでも知られている。ただ酒とショーを楽しみに来る客が大多数だった。そういう人々は、奥のことを知らない。
キュリアスはマデリシアが奥へ通されるのを眺めた後、カウンターに腰かけた。
店の中は多くの客でにぎわっている。
近づいてきたバーテンダーに酒とつまみを頼むと、キュリアスは身体を回して奥の舞台を眺めた。
多くの客の視線が集まるそこは、床を叩く造ってある。光を集めた中で、線の細い女性が艶めかしいダンスを披露していた。引き締まった腰を支点に臀部が動く。かと思えば、しなやかな足が開き、身体が沈み込んでいく。両手が豊満な胸のラインをなぞるように流れた。
どこからか、ダンスに合わせた曲が流れている。
後ろのカウンターに頼んだものが届いた。金を差し出すと、バーテンダーはそっと受け取った。
バーテンダーは素早く、絡みつくような視線をキュリアスに送っていたが、キュリアスは気付かないふりをした。彼もただのバーテンダーではなく、ギルドの組織員に違いない。抜け目なく、辺りの細かな変化をチェックしているのだ。
キュリアスは酒を口に運んだ。
値段が高かっただけあるのか、噂通りにうまい酒だ。それだけに、つまみのナッツ類が手抜きに感じた。それでも、ナッツをかみ砕き、酒を流し込む。
舞台のダンサーが入れ替わっていた。
ショーの舞台脇に冒険者の宿の主人を思わせるような屈強な男がじっと立っている。観客を監視しているのだろう。酒に酔い、踊りに興奮した客が舞台に上がろうとすれば、この男が乱入者をつまみだすのだ。
他にも、店の奥の暗がりに男が立っている。こちらは細い身体つきだが、刃物を連想させる冷たい気配があった。この男にからむと、店からつまみ出されるだけでは済まなそうだ。
マデリシアはその細い男の後ろに消えている。すでに一時間近く経っているだろうか。
舞台の上では男女二人が絡み合うような踊りを披露していた。
「あんなのに興味があるの?あたしが個人的に披露してあげましょうか?」
奥から戻ってきたマデリシアが、キュリアスの視線をたどり見て言った。
「必要ない」
キュリアスはマデリシアのダンスに多少興味を引かれたものの、顔には出さずに答えた。それだけに、素っ気なさが強まった言い方だった。キュリアスは内心勘繰られそうだと警戒しつつ、コップに残っていた酒を飲み干した。
マデリシアがあのダンサーたちのようなあられもない姿をし、妖艶に踊ったとすれば、やはりその大きな胸に釘付けになるに違いない。
マデリシアがキュリアスの顔を覗き込んだ。キュリアスの妄想に感づかれたのかもしれない。
キュリアスは内心焦りかけた。が、マデリシアは不満そうに、あたしの酒はと言った。どうやら勘繰られずに済んだようだ。
キュリアスは逃げ出すように店を出た。
マデリシアはキュリアスの視線に気付いていたのか、追いついてくると腕をからませ、身体を押し付けてきた。柔らかい感触が腕に押し付けられている。
またからかうつもりだな、とキュリアスは警戒を強めた。
あれはいつだったか。初めてマデリシアが腕を絡めてきた時、キュリアスは驚き、戸惑った。その反応が面白かったらしく、マデリシアは笑い出し、しばらくからかわれたものだ。
事あるごとに絡みつくので、キュリアスもさすがに慣れた。慣れたら慣れたで、マデリシアは反応が悪いと文句を言う。文句を言う割には、未だに、こうして腕を絡めてくるのだった。
マデリシアは、新しいからかいのネタを仕入れたと言わんばかりに、怪しい笑みを浮かべて寄り添っている。
微かにマデリシアの身体の匂いが漂ってくる。キュリアスはその匂いに引き込まれそうになるのを、必死で耐えた。我慢できずにマデリシアを抱きしめでもすれば、それこそ彼女の思うつぼで、散々からかわれることになる。
反応したら負けだ。キュリアスはマデリシアの声の魔力に対抗するときと同じように気持ちを引き締め、マデリシアの色香に抵抗した。
マデリシアの女の部分を強く意識するとき、キュリアスの脳裏にはもう一人の女性も浮かんでくる。淡いオレンジ色の髪の少女、シャイラベル・ハートだ。少女の顔が脳裏によぎった途端に、マデリシアの呪縛から解放される。
キュリアスの緊張が解けたと分かるのか、マデリシアは残念そうな表情を浮かべた。が、すぐに顔をキュリアスの肩に押し付け、しがみつくように歩くのだった。
それほどからかえなくて残念なのかと、キュリアスはマデリシアに対して怒りを覚えたものの、追及はやめた。
月が雲に隠れ、路地は闇に沈んでいた。辺りにひと気はない。近隣の窓から洩れる明かりの数も減り始めていた。
「それで、どうだった?」
キュリアスはマデリシアが情報ギルドで何か仕入れていないかを尋ねた。
「ひとつ面白い話が拾えたわ」
マデリシアは上機嫌に言い、キュリアスの顔を仰ぎ見た。キュリアスの腕に絡みついたままである。
マデリシアは屈託ない笑みを浮かべている。口角を上げ、薄く口を開いている。彼女の唇は月明かりを受けて怪しく輝いていた。
その唇に、キュリアスは釘付けになった。キュリアスの感情を、その唇が吸い寄せている。
キュリアスは顔を背けると、話の内容を要求した。
「どんな話だ?」
「要約すると、カラーが時々、カウェ・カネム武具店に出入りしているって」
「あいつ、武具を身に着けていたか?」
「いなかったと思うわ」
「だよな」
「ね。何かありそうな気がするわ」
「カウェ・カネム武具店と言えば、シャイラベルも気にかけていた…」
「そうなの。だから、面白そうなのよ」
「暗殺の斡旋の疑いがある店に、現役の暗殺者か。できすぎだ。もしも本当なら、軽率過ぎるだろ…」
「あのカラーならそんな軽率、やりそうじゃない?脳筋だったし」
「かもな」
月明かりが路地を照らし出した。青白い光の帯が降り注いだ。光の帯が路地を清め、闇が這うように逃げだしている。
光の帯を追いかけるように、闇が押し迫る。
キュリアスとマデリシアはちょうど境目を歩いていた。一歩進めば光の中に現れ、次の一歩では闇に飲み込まれた。さらに次の一歩で光の中に現れる。
マデリシアが手を伸ばして光と闇の境を探った。手のひらに月光を受け、手首から影に入り込んでいる。光をその手に掴むように指を折り曲げ、そっと影の中に引っ込めた。
マデリシアは、最近は冒険者として暮らしているが、元々は自分を狙う暗殺者を避け、影に暮らしていた。光の下にいると、暗殺者に見つかり、命を狙われる。闇の中であれば、彼女を隠してくれる。
闇は恐ろしいものの隠れ潜んでいるが、逃げ隠れする身にとっても、その存在を隠してくれる。暗殺者や未知の恐怖が宿る闇も、匿ってくれる闇も、同じものだった。そして、それはマデリシアにとって、常にともにある恐怖と安らぎという相反するものを内包した。
今までに習慣付いた感情が、マデリシアを陰に引き止める。そこにいれば、少なくとも、生き延びることはできた。
マデリシアは光の筋に手を差し伸べた。まるで光の下に憧れているかのようだ。
キュリアスにもその気持ちは、分からないでもない。組織に属し、暗殺者として闇に生きた。とはいえ、キュリアスには逃げも隠れもするつもりがない。光の下だろうと、平然と歩く。
マディだって歩いていい。キュリアスはそう思って、マデリシアのしがみついている腕に力を籠め、歩く速度を上げて、光の下へ引っ張り込んだ。
マデリシアは一瞬、戸惑ったような表情を浮かべたものの、キュリアスの腕により強くしがみついただけで、表情はすぐに和らいだ。
普段はなんともないそぶりで生活しているマデリシアも、時々感傷的になるようだ。特に夜ともなると、命を狙われることが多かった時間帯だけに、本人の自覚を伴わずに、警戒する気持ちが働いているようだった。
キュリアスが傍にいるときは、多少強引でも光の下に連れ出してやる。少なくとも自分がいる間は誰にも手を出させない。キュリアスはそういう意思を、言葉で伝えたこともあるが、大抵は態度で示し、彼女を光の下へいざなった。
マデリシアは眩しそうに夜空を見上げていた。手の力が抜け、キュリアスの腕にそっと寄り添う。
闇を恐れる一因を、キュリアスが作り出した責任がある。だからこそ、キュリアスはマデリシアが腕を組んでくることを拒まない。闇を恐れる彼女を目の当たりにするからこそ、守ってやらねばと思うのだった。
辺りは静まり返っている。住民も眠りについたのだろう。遅くまで酒場に入り浸る飲み助はともかく、出歩く者はいなくなる。キュリアスたちのような例外も多少はいるものの、月に照らし出された町の路地に、人の気配はほとんどなかった。
ただ、キュリアスは不快なものを感じ取っていた。寝静まるセインプレイスで、闇にうごめくものがある。貴族同士の駆け引きで、相手の弱みを握ろうと密偵を放ち、また相手はその密偵を捕らえようと暗躍する。そのような、密偵や、捕縛の手のものと思われる気配がいくつかある。
キュリアスたちと通りを隔てた路地に駆け込んだ気配があった。どこかの密偵らしい。素早い身のこなしで、路地を素早く進んでいる様子だ。その人物は気付いていないようだが、その後ろを追う気配がある。こちらも身のこなしは軽い。一定の距離を保ち、前の人物をつけていた。
前を行く人物が路地を曲がった。キュリアスの進む前方ですれ違うはずだ。キュリアスは無用なトラブルを避けるために、咄嗟にマデリシアを抱えあげると、隣の塀を飛び越えて身を隠した。
マデリシアは何を勘違いしたのか、嬉しそうにキュリアスにしがみついている。
足音はほとんどなかった。軽い足取りで、小柄な人物が路地を横切った。キュリアスはその人物が女性であること、そして、見知った人物であることを見逃さなかった。
少し間をおいて、もう一人が路地を横切った。こちらは見知らぬ若い男だった。それなりに訓練された身のこなしに見え、物音一つ立てずに尾行していた。
状況からすれば、見知った人物を助けるため、尾行を妨害すべきだったのだろう。ただ、キュリアスは尾行者の表情に戸惑い、行動に移れなかった。決してマデリシアがしがみついていて動けなかったわけではない。
尾行者は苦悩する表情だったのである。尾行する相手を殺す、あるいは敵対する、といった冷たい表情とはかけ離れていた。どうしたことか、キュリアスは放っておいても大丈夫ではないかと思えた。その気持ちが二の足を踏ませていた。
「ねえ、ここなら誰もいないわよ。遠慮することないわ」
マデリシアが耳元でささやいた。キュリアスの背中をまさぐっている。
キュリアスはマデリシアを離した。抱きかかえられていたマデリシアの身体が落ちるが、両手でキュリアスにしがみついていたため、下まで落ちることはなかった。
「もう、乱暴にしたいの?いいわよ」
マデリシアはそっと爪先立ちになると、鼻先をキュリアスの唇に近づけた。
「ばかやってないで離れろ」
キュリアスはそっけなくマデリシアの肩を押して引きはがした。
「今ルーイットが走っていった」
「もう、遠慮することないのに。ほら、その手をこの胸に…え?ルーイット?」
「ルーイット・ディズマ」
「ああ、あの子。あの子がどうしたの?まさかあんな小娘に手を出そうってんじゃないでしょうね?」
「あほか」
キュリアスはうんざりして言った。軽々と塀の上に飛び上がり、遠ざかっていく気配を確認した。ルーイットの気配に別の気配が合流した。男の尾行もまだ続いていたが、様子を見ているだけのようだ。
尾行者が何者か、気になるところではある。
「あの子、今夜もどこかに忍び込んで情報を集めていたのかしら」
マデリシアも軽々と塀の上に飛び上がった。
「でも、それがあの子たちの仕事でしょ。そんなことよりも、ね、もう一度抱っこして」
マデリシアの関心事は別にあった。
「さっきは急だったからじっくり味わえなかったの。ね。お願い」
甘ったるい声を発し、キュリアスの袖にすがり付く。
またからかい始めたか。キュリアスはマデリシアの態度の急変に閉口した。キュリアスをからかうためであれば、闇への恐れも消え失せるらしい。
ルーイットの気配はゆっくりと遠ざかっていた。つかず離れず、男が尾行しているが、それ以上は何もする素振りはない。特に危険な気配は感じなかった。
ルーイットも今は仕事をしているのだ。トラブルの度に他人が口をはさむのも、あまりよくない。キュリアスは言い訳のようにそう考えると、後を追う考えを捨てた。
今はそれよりも、まつわりつくマデリシアを何とかしなければ、何をしでかすか分かったものではない。キュリアスは塀から飛び降りると冒険者の宿を目指した。
目的地を冒険者の宿に定めた途端に、酒が恋しくなった。キュリアスはマデリシアをまつわりつかせない意味も込めて、足を速めた。
「あ、待ってよ!」
マデリシアがまだ甘ったるい声を発していた。
「ねえ、待ってってばぁ」
キュリアスが無視して進んでいると、マデリシアは追いすがり、キュリアスの腕を掴んだ。何か文句を言っているらしいが、嫌な感じは受けなかった。どちらかと言えば、キュリアスの胸に甘く染み込む音色だった。
マデリシアは甘えるような声で何かを言い続けていたが、キュリアスには別の言語のように聞こえ、意味を理解できなかった。ただ、胸に響く甘い音に酔いしれていた。
6
セインプレイスの中心部から東西に向かう道がある。中心部からこの道を東に向かうと装飾品や武具などの工場兼販売店が並ぶ。日常生活で必要な道具の多くもここで作られ、売られている。衣服、手芸品もこの一帯にあり、小さな縫製工場もいくつかあった。
機織りの規則正しい音が聞こえる。その音を乱すように、木工加工の音や、熱した鉄を叩く音が混ざる。日中のこの辺りは騒々しい場所である。
騒々しいのは何も作業の音だけではない。買い物客でにぎわっており、作業の音に負けず劣らず、声を張り上げて会話を繰り広げていた。
通りを一本北側に入ったところも似たような状況で、騒々しい音の中を人々が行き交い、店員と交渉を行っていた。その中にカウェ・カネム武具店の看板を掲げた店があった。武具店と銘打つだけあって、剣や槍、弓などの武器全般、そして革鎧、鉄製の鎧、くさび帷子などの鎧、さらに盾などの防具を取り扱っていた。
店を利用するのは冒険者や兵士が主である。度々買い替える品物ではないし、値段もそれなりに張るので、周りの店に比べて客足は少なかった。かといって、儲かっていないかというと、そうでもなさそうである。
カウェ・カネム武具店は工場を兼用しておらず、商品の並ぶ店舗とその奥に倉庫がある様子だ。二階に事務所らしきものもある。
商品は定期的にどこからか運び込まれていた。逆に、倉庫から商品を運び出し、どこかへ運ぶこともあった。
個人客よりも、まとまった装備一式を複数組届ける商売が多い様子だ。訪れる客もそれをうかがわせた。
貴族の使用人と思われる人物が訪れ、二階で商談を行い、手ぶらで帰っていく。注文の品がそろうと、荷馬車を用意して納品するようだった。
そのまとまった注文で成り立っている商売のようでもあった。取引先は、王都の外側に対する備えである王都守護隊や、王都内の警備にあたる守備隊、それに貴族の私兵だった。
マデリシアの調査でも、王都守護隊、守備隊の取引が分かっていた。どちらも、現在の王都守護隊隊長のアナベルト・サーカム男爵がカウェ・カネム武具店を利用するように改革し、現在もその取引が続いていた。
守備隊も王都守護隊も、以前は色々な業者から納品を受けていたのだが、現在はカウェ・カネム武具店だけになっている。アナベルト・サーカム男爵の差配である。
「まるで賄賂のやり取りがあったみたいな変化なのよね」
マデリシアは情報ギルドで仕入れた情報から、癒着の疑いを感じ取っていた。
「ローレンスの調べって、このことなのかも」
「調べって?」
キュリアスはあまり関心のない様子で言った。視線はカウェ・カネム武具店の様子を窺い続けている。
「ほら。アーサーが見たって資料の。あれって、過去の守備隊の取引についての資料が多かったの。後、王都守護隊のも」
「そうか」
キュリアスは気のない返事を返し、マデリシアの肩を押して通りに出ると、買い物客に紛れて歩いた。マデリシアも合わせるように歩きだした。
キュリアスは買い物客に紛れてカウェ・カネム武具店を見張るうちに気付いたことがあった。
今も、カウェ・カネム武具店の二階の窓から誰かが通りを覗き見ている。
先ほど店に入った客が二階に通された。すると、二階にいると思われる店主はいつものように、外の様子を窺い、厚手の布で窓を覆った。二階に客が通されると、必ず行う一連の動作だった。
店主は神経質なのか、必ず外を確認する。警戒しなければならない、何かが存在するのかもしれない。
客に扮して店舗に入ったこともある。キュリアスとマデリシアは一見して冒険者と分かるようで、店員が警戒することはない。ただ、冒険者はなかなか買わないことが多いので、面倒な客が来たと、あからさまにいやな顔をされるのだった。
展示品は汎用品が多く、どちらかといえば一点物を好むキュリアスには、手に取ってみる価値もない品物ばかりだった。触らなくても、耐久性の悪いものが多いと分かる。
よくこんなものを守備隊の正規装備品にするものだと、キュリアスは呆れる思いだった。例えば、壁にかかっている安い剣は、鉄の盾に撃ちつければ、折れ曲がる程度の強度だ。さすがにもう少しいいものを使っているとは思うものの、程度はしれているだろう。
値段は確かに安い。数も集めてみせるのだろう。だが、前線で戦う身として、ここの装備で矢面に立ちたくないと、キュリアスは思った。
店自体は特に変わったところがあるわけではなかった。二階の店主の神経質さに気付くまでは、ここに何があるのかと疑問に感じたほどだった。
キュリアスは気配を感知できる。そのおかげで二階の様子に気付き、監視していることを気づかれる前に移動して事なきを得た。
マデリシアの仕入れた情報によると、店主の名はロナルド・カウェ・カネムという。小柄で太鼓腹の中年だ。頭髪はなく、頭皮が脂ぎって輝いている。
先ほどもその光る頭を窓辺に見せたため、キュリアスはマデリシアを促して移動したのだった。
二階に通された客が表に出てきたのは、それから二時間ほど経った夕刻だった。町に暮らす庶民のふりをしているようだが、気品のある顔を隠せていない。どこかの貴族がお忍びで来ていたのだ。
お忍びの貴族は辺りを用心深く見渡した後、夕日に向かって歩き出した。
武具の注文であれば、使用人を送れば事足りる。さらに、左右を気にかける必要も、身分を偽る格好も必要ない。
当人は用心のつもりなのだろうが、返って怪しさを増していた。
「怪しい商談だったみたいね」
近くの商店の軒下で、品物を物色するふりをしながらカウェ・カネム武具店を見張っているマデリシアは呟くように言った。視線をカウェ・カネム武具店に向けることはない。
「メモでも残してないかしら」
キュリアスはマデリシアの言葉から、彼女が忍び込んでみるつもりになっていると悟った。
キュリアスは手に取って見ていた商品を棚に戻した。店員がキュリアスとマデリシアを見張るように睨んでいる。買うつもりのない客だと判断して、盗みでもしないかと見張っているのだろう。商品を戻した途端に店員の頬の緊張が解けた。
キュリアスはマデリシアを促して通りに出た。
マデリシアがカウェ・カネム武具店に忍び込むのを止めるつもりはない。もしもシャイラベルが疑うように、そこが暗殺者の斡旋所だったとしても、マデリシアならば問題を起こすことなく忍び込み、調査することができると知っていた。
「俺も行こう」
キュリアスも同行するつもりになっていた。まさかここに所属しているとは限らないが、サム・ガゼルがここにいたときは、さすがにマデリシアでは逃げ切れない。
サム・ガゼルはキュリアスの師であり、父親代わりの人物だった。若者に教えることに喜びを見出すような好人物で、人の命を奪うことに抵抗を抱いていた。
だが、サムが属した組織は、工作のために人の命を奪った。キュリアスも同じ組織に属し、後期には暗殺も多数行っていた。サムも実戦に駆り出され、奪いたくない命を奪っていくうちに、正気を失った。
狂気に陥ったサムは組織の命令を無視し、人を殺めた。組織を抜け、狂気のままに人を殺し歩いた。今も、どういう経過分からないが、暗殺を請け負っている様子だった。
キュリアスが関わった金貸しのフランシス・バーグの一件で、サムが現れ、フランシス・バーグの命を奪って逃げた。そのときに見た彼の眼は、狂気に支配されたままだったことを、キュリアスは確認していた。
師であり父であるサムを、狂人のままにしておくつもりはなかった。キュリアスはサムを見つけ出し、たとえ命を奪うことになったとしても、サムを狂気から救い出してやりたかった。そしておそらく、命を奪うしか、解決の術がないことにも、感づいている。
キュリアスはサムと出会っても、躊躇することはない。冷酷かもしれないが、サムに引導を渡すのは自分しかいないと、覚悟ができていることでもあった。
「都合のいい証拠があればいいんだけど」
マデリシアがキュリアスの腕にすがり、小声で言っていた。キュリアスの覚悟が伝わったのか、キュリアスの険しい表情を和らげるように、そっと笑みを浮かべて見上げていた。
キュリアスは深呼吸を一つすると、微笑した。マデリシアが満足そうに眼を細め、前を向いた。
「それにしても、陰謀のにおいしかしないわ」
嬉しそうに呟いているところをみると、マデリシアはカラーを捕まえるという本来の目的を忘れ去っているようだ。貴族が暗躍しているとなると、裏に何が現れるのかと、期待で眼を輝かせていた。
先ほどの客が暗殺の依頼だったとすれば、暗殺者との接触を見張る方法もある。それが本来の捜査だろう。地道で、手間のかかる方法だが、接触先の身元から調べて行き、怪しい所を特定していく必要がある。
その手間を大幅に省ける方法があるとすれば、それは明確な証拠を得るために侵入することだ。成功すれば、時間短縮になる。失敗すれば、命を落とすか、運が良くても相手に警戒され、その後の調査が難しくなる。
それでも侵入という危険な方法を選択するのは、理由がある。地味な捜査は時間と、人出が必要になる。キュリアスとマデリシアだけでは手が足りないのだ。また、手間をかけていては、報酬と見合わなくなる。
キュリアスたちは別に正義のために働いているのではない。自身の正義感からでもなかった。報酬と、好奇心が主である。そこに、自身の過去が絡む、しがらみが少々あるだけである。
カラー一人を見つけて捕らえるだけならば、このまま見張りを続け、当人が現れるのを待つか、カウェ・カネム武具店がカラーと接触するのを待てばいい。
しかし、マデリシアは陰謀のにおいにつられ、深入りしたがっている。キュリアスもキュリアスで、サム・ガゼルを見つけられるかもしれないとの期待があるため、手っ取り早い侵入という手段に賛同していた。
だが、そう都合よく証拠が見つかるとも限らない。侵入しても何の成果も得られない可能性もあるのだ。
暗殺の斡旋が事実だったとして、それは表に出せない事柄だ。相手もそんな裏稼業の証拠を残すような下手は打たないだろう。
キュリアスは一つの期待を抱いている。侵入をしくじることだ。それによって後の調査は難しくなるのだが、あれだけ外を警戒する店主であれば、そして暗殺者という手段を持つ店主であれば、キュリアスたちに牙をむいて暗殺者を差し向けるのではないかと考えていた。
襲われれば返り討ちにすればいい。そして反撃と称して、ロナルド・カウェ・カネムを襲えばいい。危険で安直な考えだが、意外と有効な手段であると、キュリアスは考えていた。
マデリシアがキュリアスの腕を引いて通りを急ぎだした。忍び込むとなると深夜だ。それまでの時間つぶしを思いつき、キュリアスを連れまわすつもりになっているのだろう。
案の定、マデリシアは表通りに出ていくつかの店で夏物の服を物色して回った。身体に押し当て、キュリアスに感想を求める。キュリアスが飽きるほどに繰り返した挙句、最初の店に戻り、今度はいくつか服を買って回った。
感想を聞いた意味があったのかと、キュリアスは呆れた。呆れはしたが、文句は言わず、黙って荷物持ちに徹した。
冒険者の宿に戻った時はすっかり日が暮れており、一階の酒場では宴会が始まっていた。マデリシアは買い物の荷物を二階に借りている部屋に投げ込むと、酒場の喧騒に飛び込んでいった。酒を一気に飲み干し、歌を披露する。
冒険者たちがはやし立て、よりにぎやかに騒ぎ立てた。
マデリシアが一曲歌い終わったところに、食事が運ばれてきた。キュリアスが先に頼んでおいたものだ。マデリシアは当然のごとく、その食事に手を付けた。
二人が食事をしながら、後ろの喧騒に耳を傾けていると、最近話題の事件のことが口に上っている様子だった。
スラム街で辻斬りが横行しているというものだ。
辻斬りが何人殺したかというだけで、議論が勃発していた。五人だと一人が主張すれば、別の一人が十人だという。
「いやいや、そんな生易しい人数じゃないぜ」
「何人だってんだ?」
「なんと千人越えだとよ」
まるで人数を競うように数が増えて行き、千を越えたあたりから、訳が分からなくなっていった。面白がって思いつく数字を言い合う始末である。
犯人像についても論争に及ぶ。
「聞いたか?絶世の美女が犯人らしいぜ」
「何言ってるのよ。天を突くような大男だって話よ。何せ、五メートルはある刀身を片手で振り回すって話だもの」
「俺は誰も持ち上げられないほど重いハンマー使いだって聞いたぜ」
鈍器の時点で、辻斬りの呼称に疑問が生じるのだが、勢いに乗った冒険者たちはお構いなしに、より恐ろしい犯人像を想像していくのだった。
角が生えていただとか、耳がとがっていただとか、背中に大きな羽があって空から舞い降りただとか、どんどん現実離れしていく。まるで辻斬りなどただの噂話で、空想なのかと思われるほどだ。
セインプレイスの東門を出るとあばら家がひしめく。町に仕事を求めてやってきた人々が勝手に小屋を建て、住みついた。安宿ができ、低賃金で人を雇う工場が乱立した。スラム街である。そのスラム街で人殺しが続いているのは事実である。
呼び名の通り、狭い辻で出会い頭に斬り殺す手口で、情報通のマデリシアに言わせれば、被害者は十三人だ。ただ、見つかっていない死体もあるのではと考えられていた。
以前、同じ辻斬りが試し斬りしたと疑われる動物の死骸が、数ヶ月にわたって川に流された時期があった。その中に人の死骸が混ざっていたとしても、不思議ではない。
シャイラベル・ハートも辻斬りを問題視し、スラム街を視察した。その時点で、五人の死者が確認されていた。それからまだ一月と経っていない。被害者の増加ペースから、徐々にエスカレートしていることがうかがえた。
シャイラベルよりも先に、ローレンス・コプランド男爵が捜査をしていたが、当のローレンスは別件で忙しくなっている様子だった。ローレンスを含めて四人か五人程度しかいない捜査部では、仕方ないのかもしれない。また、スラム街で起きている事件で、ローレンスにとってそれほど身につまされる事件ではないのかもしれない。町の外なので、王都守護隊の管轄だということもあるのだろう。
初老の冒険者が騒動の中から抜け出し、宿の外へ向かった。
「おい、オールド・ヤング」
キュリアスも抜け出すと、初老の冒険者の背中に声をかけた。
頭髪が白く変わった男は、ジャック・クリント・ヤングという。ただ、仲間内では皆、オールド・ヤングと呼んだ。冒険者としてはかなりの高齢になるが、それでも熟練の技は鋭く、並大抵の戦士ではオールド・ヤングに手も足も出ない。
「何だ?俺との勝負を受ける気になったのか?」
「口を開きゃ、それかよ」
オールド・ヤングは強い奴に会いたいと公言するタイプであった。そしてキュリアスは目下とのところ、オールド・ヤングの標的になっているのだ。
「やる気はねぇよ。それより、こんな時間にどこか行くのか?」
「何だつまらん。ん?ああ、ちょいと野暮用でね」
「老体に鞭打つねぇ」
「やかましいわい。酒でも飲んでくだまいてろ」
オールド・ヤングは投げやりに言うと冒険者の宿を出て行った。
「ご老体、ご出勤?」
後姿を見送っていると、マデリシアがやってきた。
「そうらしい」
「時々出かけるのよねぇ。誰も何をやってるか知らないのよ。ねぇ、後をつけてみる?」
マデリシアはそう言いながらも、素早く店の中に戻り、近くのカウンターに腰かけた。口には出してみたものの、そこまで興味があるわけではないのだろう。
「何かの仕事だろう?放っておくさ」
キュリアスもマデリシアの隣に座る。
後ろの喧騒は酒の酔いも加わって、独特の雰囲気を醸し出している。キュリアスたちもこの後に予定がなければ、加わって騒ぎたいところではあるのだが、もう少し町が寝静まるのを待って出かけなければならない。
「マスター。水ちょうだい」
マデリシアがカウンター越しに店主に声をかけた。店主は巨体を持て余す格好で、木製のコップを片付けていた。その手を止めて、マデリシアを見つめた。
「おい。どうした。熱でもあるのか?」
店主は、天変地異でも起こるのではと眉をひそめていた。
「こいつがこの時間に酒以外のものを頼むとは…。何かの災厄の前触れか?」
「うっさいわね!早く頂戴な」
「おっと。叫んでくれるな」
店主はそう言い置くと一度奥に入り、コップに水を満たして戻ってきた。
「これからちょいと、仕事でね」
店主がマデリシアの顔を窺っているので、キュリアスは簡単に説明した。
「そうか。で、お前も水か?」
「いいや、俺はいい」
店主はキュリアスの返事を聞くと、もう一度マデリシアを眺めて作業に戻った。
「何よ。ちょっと水飲んだっていいじゃないのさ」
マデリシアはぶつくさと文句を言いながら、合間に水を飲んだ。
戸口から見える外は闇に沈んでいる。そろそろ出かけてもいいころ合いだろう。キュリアスは名残惜しそうに後ろの喧騒を見やった。ここの喧騒はまだまだ続きそうだ。
「そろそろ行くか」
「そうね。早く終わらせて、飲みなおしましょう」
二人はどちらからともなく立ち上がると、連れ立って外に出た。誰にも見咎められることはない。喧騒に加わっている冒険者たちは酒と議論に集中しており、二人が出て行ったことに気付いていないのだ。
東の空に下弦の月が昇っていた。月明かりで町の輪郭が浮かび上がっている。家々の窓は暗くなっており、寝静まっている様子だ。
深夜でも、僅かに吹き付ける夜風が暖かかった。初夏の深夜としては、温かい部類に入るだろう。仕事をする上では申し分のない気温だった。
石畳や近くの壁が月の光を受けて、青く見える。そのすぐ脇は黒々とした闇が支配していた。闇との境が曖昧になり、視界に映るすべてのものがぼんやりと、かすみがかったように見えた。
夜道を歩く人は見当たらない。キュリアスにとってもその方がありがたかった。これから行おうとすることは違法行為だ。見つかれば、守備隊に追われることになる。無用なトラブルを避けるためにも、人がいない深夜を選んだのだから、通りに人がいてもらっては困る。
ただ、冒険者が町を歩いていると、どうしたことか、守備隊がすぐに嗅ぎつけて後についてくる。今夜だけはそのような事態を避けなければならない。
手っ取り早い方法は、人の目に留まらない道をたどることだ。マデリシアもそのことに思い至った様子で、近くの塀に飛び上がり、そこを踏み台にして最寄りの屋根へと飛び上がった。マデリシアは屋根に手をついて身体を引き上げる。
キュリアスも後に続く。一足で塀へ登り、そこからすっと飛び上がると、軽やかに屋根の上へ降り立った。
マデリシアがキュリアスを見つめていた。こういう時の彼女は、
「何?当てつけ?かっこつけて登ってから」
と不機嫌に言う時と、
「いつ見ても見ほれちゃうわ」
と、うっとりと言う時とある。キュリアスにはその差が何なのか、まるで分らなかった。同じ状況で、なぜ真反対のことを言うのか、不思議で仕方ない。
「あらすてき」
今回は後者だったようだ。ただ、この反応の時は要注意だ。意味もなく引っ付きたがる。隠密行動の必要な状況において、迷惑以外の何物でもなかった。
キュリアスはすっと横移動してマデリシアの射程を外すと、さっさと屋根から屋根へと移動していった。
「あ、ちょっと。人が惚れ直してるんだから、もうちょっと愛想よくしてよ」
マデリシアが追い付いてきて不満を言った。さすがに小声になっている。キュリアスはかまわずに先に進んだ。相手をしてからかわれてはたまったものではない。
「ああんもう…。でも、その背中もいいわ。あたしに見せつけてくれてるのね。引き締まったお尻も、いいわ」
マデリシアが後ろで、おかしな声色で何かを言っているが、キュリアスは無視を決め込んだ。
7
星明りの元で路地を見下ろすと、闇が口を開けているように見えた。底なしの穴がそこにある。地の底まで通じているようだ。
闇の向こう側に建物がある。向こう側の屋根まではかなりの距離があった。それもそのはずだった。下の路地は馬車がすれ違ってもまだ余裕のある道幅である。
闇の向こう側に目指すカウェ・カネム武具店があった。星明りでも看板の文字が見えた。建物の窓に明かりはない。誰もいないはずだった。
しかし、キュリアスは異様な気配を感じ取っていた。忍び込むべき建物の様子をじっくり観察する猶予はなかった。
「トラブル発生だ。乱入する」
キュリアスはマデリシアにそれだけ告げると、通り一つ隔てた先にあるカウェ・カネム武具店へ向かって飛んだ。
キュリアスの身体が放物線を描き、カウェ・カネム武具店の二階の窓へ突き当たる。キュリアスは両腕で顔をかばい、身体を丸め、窓を突き破って飛び込んだ。
マデリシアはキュリアスの意を察したようで、向かいの屋根の上にうずくまって気配を隠していた。いくら身軽だとはいえ、マデリシアには飛び越えられない距離だったことも、身を隠す選択肢につながったのだろう。
キュリアスはちらりとマデリシアの様子を確認すると、背中の剣を抜きざまに振った。
金属のぶつかり合う音が響き、火花が散った。火花の中に浮かんだのは、覆面をつけた白髪の男だった。キュリアスと鍔迫り合いするその力は相当なものだ。
部屋の中に、気配はもう二つある。一つは縛られてうめき声を発している。もう一つはいつの間にか、キュリアスの背後に回り込んでいた。
キュリアスは咄嗟にしゃがみこみ、背後からの斬撃をかわした。背後からの斬撃と、白髪の男の剣がぶつかり合う。その間にキュリアスは身体を床近くまで滑り込ませ、白髪の男の背後を取った。
「後ろから斬りつけるとは、サム・ガゼルも地に落ちたな」
キュリアスを背後から襲った男は覆面すらつけていない。が、顔を見るまでもなく、キュリアスには相手が分かっていた。キュリアスの師であり、父親代わりを務めた男の気配を読み間違えるはずもなかった。
サム・ガゼルは返答代わりに、弾かれたように飛び込んできて、斬りつけた。キュリアスはそれを剣で受け止め、蹴りを放った。蹴り足が届く前に、サムは後退していた。
後退したはずのサムが目の前に迫った。先ほどとは違い、剣が左手に握られており、蹴りの動作で体勢の変わっているキュリアスでは、剣で受け止めることができない。
キュリアスは床を蹴ってサムから遠ざかりながら向きを変えた。その鼻先をサムの切っ先が通過した。
休む間もなく、横から白髪の男の剣が迫る。サムの剣がいつの間にか右手に移動しており、その剣もキュリアスに向かって戻ってきた。
キュリアスは前へ踏み込んで白髪の男の剣を鍔元で受け、足でサムの手元を蹴った。サムはその寸前に、後方へ飛んで避けていた。白髪の男も飛び下がる。
分が悪い。
キュリアスは姿勢を低くして身構えた。サムの力量は知っている。その脚力を生かして突飛な動きを生み出し、更には左右どちらでも剣を振れる。
「私がジャックナイフと呼ばれるいわれは分かるか?」
正気だったころのサムの言葉が脳裏によぎった。あれはキュリアスがまだ十歳になったばかりのことろだった。当時、キュリアスはサムの元で基礎訓練を受けていた。
山岳地帯を駆けまわり、足腰を鍛える。また、サムのサバイバル技術を教わり、実践するという日々だった。
その日のことはよく覚えていた。初めて山頂に登り、険しいスペリエント山脈が隠し通してきた北側の景色を眺めた。どこまでも広がる海と、その海を囲うように両手を広げた山脈。見下ろせば目がくらむような世界が広がっていた。
海と言うものも始めてみた。遠く、よく分からないものではあったが、その大きさに震えた。その青さに驚いた。
「お前にこの景色を見せたかった」
サムはそう言って横に立った。細かい会話の内容はもう覚えていない。ただ、キュリアスはその時初めて、はしゃいだ記憶がある。サムがまぶしそうに自分を見ていた記憶もあった。
「もっと強くなったら、こんな景色を見て回れるようになるのかな」
キュリアスはそんなことを言ったはずだ。強くなり、部隊に配属されれば、他の国に出て行き、活動することもあると聞かされていたからだ。
サムはもちろんだと答えた。その表情が曇っていたことに、子供のキュリアスでも気付いた。それでも、キュリアスは壮大な景色を前に、他の景色も見てみたいとの欲求に背中を押される形で、強くなるにはどうすればいいのかと聞いた。
「サムのような戦い方をすればいいの?」
サムは笑った。そして答えの代わりに、
「私がジャックナイフと呼ばれるいわれは分かるか?」
と問うたのだった。
サムは独特の戦闘スタイルだった。その健脚で変幻自在な動きを生み出し、相手をほんろうする。そのことをキュリアスが拙い言葉で言うと、サムは笑って答えた。
「答えは一つではない」
サムは通常のものと比べると少し刀身の短い剣を抜き放つと、右に持ち、左に持ち、また右に持ちと、移動させた。身体を一回転させると、今度は左手に移っている。
「足と、これがあるからこそだ。このすべてをお前がマネできるのならば、止めはしないが、無理だろう?」
「うん。できないと思う」
キュリアスは小さな自分の両手を広げて見比べながら言った。
「足腰は鍛えるべきだ。才能あるお前なら、私の動きを再現できるかもしれない。しかし、その必要もない」
「じゃあどうすればいいの?」
「お前自身の戦い方を見つけることだ」
優しい表情で言ったサムは、今、狂気に歪んだ眼でキュリアスを見つめていた。キュリアスはサムに言われた通り、自分の戦い方を見つけた。体術と剣術を合わせた自己流である。
迫りくるサムに、キュリアスは自分から踏み込んで斬りつけた。サムはその太刀筋を難なくかわして持ち替えた剣を振り下ろそうとする。そこへキュリアスは身体を投げ出すように飛び込み、後ろ回し蹴りを当てた。
着地と同時にキュリアスは白髪の男に向かった。が、咄嗟に横跳びに逃げた。白髪の男がキュリアスの動きに反応し、斬撃で迎え撃っていたのだ。
キュリアスは二人の動きを窺った。
一対一ならまだしも、二対一では、苦戦を強いられる。そして何より、白髪の男の力量も、かなりのものだと推察できた。初太刀の重さ、鍔迫り合いの力強さ、そしてその後の身のこなしが、そのことを雄弁に語っている。今の斬撃も、生半可にできるものではなかった。
キュリアスは右にサム、左に白髪の男を迎える形となっていた。
キュリアスは剣を下段に構えた。咄嗟に右へ避けた。先ほどまで立っていた場所に矢が突き刺さっている。
「三対一かよ」
キュリアスは口の中でぼやいた。しかも、矢の出所が、人の気配を察することのできるキュリアスにも分からなかった。感知できる範囲外からの射撃である。
酒を飲んできたことが悔やまれる。僅かでも酔いがあると、感知できる範囲が狭まるのだ。頭に流れ込む情報を減らす上では役に立つのだが、こういう時に困る。酔っていなければ、矢の出所も分かったかもしれないと思うと、自分自身に舌打ちしたくなると言うものだ。
サムが一瞬で間合いを詰めてくる。同調するように、白髪の男も迫っていた。
キュリアスは舌打ちと同時に、下段から剣を振り上げ、サムをけん制すると、そこから無理やり身体を横に振って、振り上げた剣を白髪の男に向かって斬り下げた。
サムが窓際まで後退していた。白髪の男も、キュリアスの斬撃をかわして後退している。間が空けば、またどこからか矢が飛んで来ないとも限らない。変則的な動きをするサムも、次は何をしでかすか分かったものではなかった。
キュリアスはこの僅かな間を利用して、足元に倒れている人物を掴み、あろうことか、サムへ向かって投げていた。次の瞬間にはキュリアスがその下をかいくぐり、サムを斬りつけていた。
サムは横に飛んでかわすと、振り向きざまにキュリアスを斬りにかかったが、その時はすでに、キュリアスは窓の外へ飛び出していた。
投げた人物もろとも、暗がりの路地へ落ちていく。その空中を狙ったのか、矢が飛んできた。キュリアスは剣を振って何とか矢を防いだ。そして縛られている人物を掴む。かろうじて着地前に掴むことができた。
路地に着地すると、マデリシアも傍へ降り立った。
「逃げるぞ!」
キュリアスは言うが早いか、人を荷物のように肩に担いで走り出した。
「ちょっと!ルーイットじゃないの!」
後ろからマデリシアの声が追ってきた。肩の荷が何かうめき声をあげている。
矢の飛んできた方向を考え、キュリアスは射線に入る路地を避けた。後ろに追ってくる気配もあった。
細かい路地へ入り込み、塀の上へ上がって建物の間を駆け抜けた。マデリシアは何とかついてこれている様子だ。
追手の気配が遠ざかるまで走り続けた。幸いにも、サムは追ってこなかった。彼が追ってきていると、逃げ切るのは難しかっただろう。次第に追手との距離が開き、見失ったらしい追手が、諦めて引き返すのを気配で察知した。
キュリアスはやっと足を止めた。それでも建物の陰を選んだのは、矢が飛んでくるかもしれないと恐れたからだった。
射線は避けた。建物と建物の間を抜けもした。さすがにこちらを見失っているとは思うものの、相手の気配を探り当てられなかったので、確信をもって狙われることはないと考えることができなかった。
マデリシアも隣へ駆け込み、荒い呼吸を続けていた。荷物を抱えて走り続けたキュリアスの呼吸はそれほど乱れておらず、深呼吸を数回繰り返しただけで元通りだった。
キュリアスは肩の荷を下ろすと、手に持ったままだった剣を鞘に戻した。
荷物がうめき声をあげている。何かを訴えている様子だ。
キュリアスは眼を閉じ、辺りの気配に集中した。
人の気配は多い。特に左手方向だ。ただ、皆、僅かな動きしかない。眠っているのだ。
路地を移動している気配がある。三人一組でゆっくりと動く様子から、守備隊の巡回と分かる。
多に動いている気配は、動物のものを除けば、無かった。
キュリアスは眼を開け、闇に光る眼で、呻く荷物を睨んだ。相手は気付かないのか、訴えるように呻き続けていた。
マデリシアの呼吸が落ち着きを取り戻していた。すると辺りに静寂が訪れる。時折、何かのはぜる音が聞こえる。ここからそう遠くない場所に、町の外壁があり、かがり火が焚かれているためだ。その音が、微かに聞こえている。
「ここ、どこ?」
マデリシアは物陰から辺りを覗いたものの、判別できなかった様子で、小声で尋ねた。
「東門の傍だろう」
キュリアスは簡単に答えた。そしてため息をもらす。
「マディ。うるさいからそいつを何とかしてくれ」
「ルーイットね」
マデリシアは暗がりに身体を下ろした。
「ちょっと、じっとして。あら、思ったよりも胸あるわね。あ、こら、暴れるな」
「どこ触って…!」
猿ぐつわが外れたのだろう。ルーイットが甲高い声を発した。ただ、最後まで言い終わる前に、口をふさがれてもごもごとなった。
「騒がないでくれる?あら、可愛らしいお尻。ほら、どけて。手が解放できないわよ」
「遊んでないで早くしろ」
キュリアスは下でじゃれ合う様子に苛立ち、文句を言った。が、即座にからかうような声が返ってきた。
「そう言いながら、耳をそばだててるくせに」
「言ってろ」
「もう。もうちょっと反応してよ」
マデリシアはその言葉をキュリアスとルーイットのどちらに向かって言ったのかは分からない。きっと両方だろうとキュリアスは思い、そっと後ろへ下がった。
マデリシアの、キュリアスへ向かって伸ばした手は空振り、ルーイットに伸ばした手は彼女の身体に触れた。ルーイットの口から、少女とは思えないうめき声が漏れた。
「あら、いい反応」
マデリシアは面白がっている。彼女が後ろに飛び下がった。ルーイットが拳を振り上げたからだ。
「追手が来たらどうするつもりだ」
キュリアスが小言を言っても、マデリシアは、エッジが気付くから大丈夫よと事も無げに言ってのけた。
「それで、ルーちゃん。あんなところで何してたのかしら?」
マデリシアの問いに、ルーイット・ディズマは沈黙で答えた。
「あら。身体に聞いて欲しいのかしら?」
「触らないでくれる?」
早くも沈黙は破られた。
「じゃあ教えて」
暗がりでルーイットが身動ぎした。そこへマデリシアが一歩近づくと、ルーイットは観念したように話した。
「暗殺斡旋の証拠があるって情報を得たから侵入したの」
「どこから?」
「どこだっていいでしょ」
「今夜しかないって言われた?」
「そうよ!」
ルーイットの投げやりな答えに、マデリシアとキュリアスは顔を見合わせた。暗がりで互いの表情は読み取れないものの、呆れているのは分かった。
「はめられたわね」
「はめられたな」
二人の声が重なった。
「そんなはずはないわ!」
「声を落とせ」
「ごめんなさい」
キュリアスの指摘に、素直に詫びるルーイットだった。ただ、はめられたと言われたことに対しては認めがたい様子で、信用のおける情報源だと言い張った。
「そういうものよ。情報源なんて、金さえもらえれば、なんだってするものよ。次から用心する事ね」
マデリシアに言われるとなおのこと腹に据えかねるようで、ルーイットは唸り声を上げた。
マデリシアは動じることなく、さらに追い打ちをかける。
「これで貸しいくつかしら?ルーちゃんのヘマのおかげで泥棒に間違われたこともあったわねぇ」
ルーイットの唸り声が弱まった。
「今回もせっかく調査に行ったのに、無駄になっちゃったわ」
ルーイットは黙り込み、闇に同化した。
「無駄ではなかったな」
「ちょっと、エッジ。小娘の味方をするつもり?」
「いいや」
マデリシアの責めはキュリアスにも回ってきた。しかし、キュリアスに引け目はない。
「味方はしないが。…あそこに誰がいたと思う?」
「知らないわよ。明かりもほとんどなかったんだから」
「サム・ガゼルだ」
「え…」
「もう一人は分からん。それと、どこからか矢を放っていたやつもいたな」
「矢の方はたぶんクロスボウだわ。あれが噂に聞く姿無き射手ね」
「何だその名は?」
「知らないわよ。誰も姿を見たことが無いから、そんな呼び名なの。腕前は天才的らしいわよ」
「そのようだ」
キュリアスは思い返しても、背筋が凍る思いだった。咄嗟に避けられたが、次はどうだかわかったものではない。自分の感知外からの攻撃は、事前に分からないだけに、恐ろしいものがある。
「なんにせよだ。サムがあそこにいたってことは、カウェ・カネム武具店も関係あると言っていいだろう」
キュリアスと対峙した白髪の男も、暗殺を稼業とする剣士だとすれば、納得のいく腕前だった。動きに無駄がなく、一撃一撃に必殺の鋭さがあった。
カウェ・カネム武具店にマデリシアも一緒に飛び込んでいたら、誰か死ぬことになったのではないか。マデリシアなのか、ルーイットなのか、はたまた自分なのかは分からないが、そう思えてならなかった。
ルーイットも無事に連れ出せたことは、たまたま運がよかったのだと思える。それほどに、キュリアスとサムとの腕前は拮抗していたし、白髪の男も相当な達人と見て取れた。
「カラーがあそこへ出入りしていたって噂も真実味を帯びたわね」
マデリシアは考えを口にした。
「捕らえるとしたら、やっぱりカラーね。狂人を生け捕るなんて御免だわ」
「あいつらは無理だ」
「あたし、あの部屋に飛び込みたくなかったもの」
マデリシアのその野生の勘とも言える感覚が、今まで生きながらえることのできた大きな要素である。暗殺者に狙われて生き延びるのは、生半可なことではない。そのことをマデリシアは身をもって知っていた。
「正解だ」
キュリアスはマデリシアの勘の正しさを認めていた。
「何よ。あんな奴ら、怖くないわ」
ルーイットが向こう見ずなことを言った。
「無鉄砲よ。いいからあいつらの前には立たないこと」
マデリシアが諭すように言っても、ルーイットは怖がりなのねと笑い飛ばした。
「いいわ。今度あんたたちがあいつらとやり合っていたら、あたいが援護してあげる。ちょろちょろ逃げ回って邪魔してやるくらいできるわ」
「よせ。俺はあいつらと対峙したくないね。もしそうなったとしたら、逃げる」
もちろん多対一の時は、である。一対一であれば、キュリアスも逃げるつもりはなかった。が、そのことはキュリアスの胸の内にしまっておくことだ。ルーイットに告げるとややこしくなるだけだ。
「だから出てくるな」
キュリアスは自分も逃げるのだからと、ルーイットを諭したが、彼女には伝わらなかったようだ。鼻息を荒くしただけである。
8
「ハロルド・ナハトマージって男爵が捕まったってよ」
冒険者の宿の一階にある酒場で、常連の冒険者が声を上げていた。キュリアスはカウンターに腰かけ、後ろの話し声を聞くとはなしに聞いていたのだが、聞き覚えのある名前が挙がって、思わず振り向いた。
「誰に捕まったって?」
冒険者の一人が言った。
「守備隊にほら、なんか新しいのできただろ」
最初に言った冒険者が頭を掻きむしりながら言った。
「捜査部とかいうやつか」
「そうそれ。そこに捕まったってよ」
「どういうことだ?」
「何でも、その捜査部?がクロスボウの使い手を捕まえたんだってよ。で、そいつが男爵に頼まれて人を暗殺したって言ったんだと」
「え?そいつ、姿無き射手とか呼ばれている奴じゃない?」
別の冒険者が声を上げた。
「さあ、知らんけども。とにかく、そいつの証言を基に男爵を捕まえて、関係者を次々に捕らえているんだと」
「貴族同士で暗殺し合うって、よくあることだろ?そんな騒ぐことかい?」
「いやいや、今まで誰か捕まったことあるか?ないだろ?せいぜい、暗殺者の遺体が見つかって終わるのがオチだったじゃないか。それが、首謀者が捕まったんだぜ?すごい話じゃないか」
「すごいかどうかは知らねぇけどよ、何があったのか分かりゃ、話の種にはなりそうだな」
「でも、その姿無き射手って、誰も姿みたことなかったんじゃない?どうやって捕まえたのかしら?」
「新しい魔法を開発したとか?」
「矢の起動から撃ったやつを見つける魔法とか!」
「見えないものを見つける魔法!」
「探し物を見つける魔法!」
話に興味を持った冒険者たちが話に割り込む。次第にとりとめのない方向へ進み、聞いていても得るものはなさそうだった。
「あの射手が捕まったって?」
マデリシアがキュリアスの隣に腰を下ろした。
「そうらしい」
キュリアスは簡潔に答えた。頭の中では、自分を射た相手のことを考えていた。シャイラベルを狙った相手に想いを馳せていた。
かなりの射程を、正確に狙う技量の持ち主だ。それ故に、誰にも姿を見られたことがないと言う。その射手を、どうやって特定したのだろうか。それほどの人物が無抵抗に捕まったのだろうか。大きな捕り物があったのなら噂話に上るものだが、それもないとなると、何か裏のあるようにも思えてしまう。
それに、捕まった暗殺者が雇い主や仕事の内容を軽々しく打ち明けるとも思えない。だからこその、裏があるのではとの疑いだった。
マデリシアの陰謀論が伝染したかなと、キュリアスは自嘲したものの、考えは消えなかった。
捕まったのがハロルド・ナハトマージ男爵だと言うのも、訝しむ元である。キュリアスとマデリシアは男爵の護衛をしてテルーまでの往復を旅した。
キュリアスはふと思い出すことがあった。ハロルドがテルーで陰謀を巡らしているかのような密談現場を盗み聞きしたのである。
キュリアスは聞いた会話の内容を思い返していた。
「例の男は、クロスボウの矢を胸に受けました」
「私の提案を拒絶したばかりか、上に報告するとのたまいおったからな。当然の報いだ。それにしても、あの小男、存外に腕のいいクロスボウ使いであったか」
「はい。あの男は使えます。今度も役に立つことでしょう」
ハロルドとその使用人の会話だった。今回の騒ぎと照らし合わせると、ハロルドが姿無き射手を使って、誰かを暗殺したと解釈できる。この件で捕まることになったのならば、ハロルドは自業自得である。
キュリアスはハロルドにあまり興味が持てなかった。やはり気になるのは、捕まったクロスボウ使いの方だ。遠距離から自分を狙ったあの正確性、かなりの遠距離からシャイラベルを正確に狙ったあの腕前。どれほどの人物か、興味がわいていた。
「捜査部か…ローレンスに頼んで、その射手に会わせてもらいたいな」
「あら。暗殺者に興味があるのかしら?」
「いや。あの腕前の持ち主に興味がある」
「あらら?まるでオールド・ヤングみたいな反応」
マデリシアはそう言って笑った。
キュリアス自身も気付いていなかったが、あるいはそうなのかもしれない。達人と目される射手に、どうしても興味を引かれるのだった。それは達人と腕試しをしたいと言う、オールド・ヤングの考えに似通うところがあるのかもしれない。
「興味がわいちまったんだから仕方ねぇ」
キュリアスはため息交じりに、乱暴に言ってのけた。
「へいへい」
マデリシアは仕方ないわねと言わんばかりの表情で両手を広げた。
「じゃ、さっそく会いに行きましょうか」
そう言って立ち上がる。マデリシアも興味がある様子だった。
「人のこと言えねぇじゃねぇか」
キュリアスは呆れ顔でマデリシアを見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
「正確無比な射手だもの、きっと、眉毛が濃くて凛々しい顔立ちの男よ」
「何のイメージだ」
「きっといい男だと思うから、見て見たいの」
「はいはい、さいですか」
冒険者の宿を出ると、一瞬暗くなった。正面の壁が赤く染まっている。冒険者の宿が夕日を遮って、目の前を薄暗くしているのだった。
影を離れると、赤みを帯びているとはいえ、まだまだ明るかった。日向に出ると、日差しの熱も感じられる。
マデリシアはできるだけ日陰を選んで歩いていた。どうしようもなくなると、キュリアスの影に飛び込む。
「何遊んでんだ」
「日焼けしたくないの。この美肌を保つ心得よ」
「自分で言うか」
「あら。これが美しくないとでもおっしゃるのかしら?」
差し出された腕は白かった。キュリアスはわざと、その白い肌に指を這わせる。ほのかな温もりが指先に伝わった。肌の弾力がキュリアスの指先を押し戻していた。
「もっとしっかり触ってもいいのよ」
マデリシアはどうした訳か、こういう触れ合いを好む傾向にある。こういう時は機嫌がいいので、その機嫌を損ねないためにも、軽く触れた方がいいと、キュリアスは経験上学んでいた。
しっかり触れるとからかいが始まり、後が面倒なので、それ以上は深入りしない。
「もう。あたしたちの仲じゃない。遠慮しなくていいのよ」
「言ってろ」
キュリアスはぶっきらぼうに言うと歩く速度を上げた。マデリシアも影を追いかけて飛び込む。
「この時間も暑くなってきたわね。もうすぐ夏かぁ」
夏には年末年始の大きな祭りがある。暑さに対する懸念と、祭りへ向かう高揚感とが微妙に混ざり合い、嬉しそうな、それでいて憂いのある表情になっていた。
「何だ。祭りが楽しみか?」
「それも楽しみではあるんだけどねぇ。あ、今から予約ね。祭りは一緒に行くわよ」
「気が早いな」
「こういうのは早いに越したことはないの。先手必勝」
「何の話だ?」
「ううん。こっちの話。いいから約束よ」
「分かった分かった」
セインプレイスの中央に、町を東と西とに分け隔てる大きな通りがある。南北に向かう街道で、北には夏の避暑地や古都がある。その更に北の山岳地帯にスペリエントと言う国があった。
街道を南へ向かえば、貿易の盛んな町、ハンデルがある。さらに南へ向かうと、アグリクルツと言う農業の盛んな国に行きつく。
街道を利用する旅人も、この町を二分する道を通過する。町を素通りする旅人は少なく、街道沿いの商店を利用したり、宿を利用したり、街道より西側にある中央広場へ立ち寄ったりする。
そのために、街道はいつも人や馬車で賑わっていた。気候も、旅に適しているので、なおのこと人出が多い。
夕日がまぶしくて、街道を渡った先の様子がはっきりしない。この時間にも、街道を南北へ行き来する人や馬車が引っ切り無しに行き交うので、逆光で見え難いうえに行き交う人で、僅か数メートル先の商店の様子すら把握できなかった。
キュリアスとマデリシアは波のように流れる人や馬車の中へ飛び込み、南へ流され、北へ流されと繰り返し、やっとのことで渡り切るのだった。
渡る先に、キュリアスたちの動きに合わせるように南へ、北へと移動する一団があることに、途中で気づいた。後僅かで道を渡りきれるところまで来て、その一団が、ローレンス・コプランド男爵とその配下三人の兵士だと分かった。
「よう、ちょうどよかった。あんたに会いに行くところだった」
キュリアスは陽気に言ったものの、ローレンスの表情が硬いことに気付き、疑問を抱いた。兵士たちが腰の剣の柄に手を置いている。
「それは奇遇ですな。私もお二人に会いたいと願っていました」
ローレンスも陽気に答えてみせたが、やはり表情が硬い。
「どうかしたの?」
さすがにマデリシアも違いに気付き、探るように言った。
「いえいえ、そちらの用件からどうぞ」
「用件ってほどじゃないのよ。いいからそっちから言って」
「いえいえ。ここはレディファーストで」
ますますおかしな状況に陥っていた。
キュリアスはここの状況とは別に、はてなと思わざるを得ない気配を察知していた。いくつかの気配が、まるで統率されたかのように、周りを囲み、近づいていた。ただ、ローレンスの所属する捜査部には目の前にいる人員しかいない。この気配は別の組織ということになる。
「もう、なんなのよ」
マデリシアは頬を膨らませて唸ったものの、押し問答も面倒と思ったのだろう、自分たちの用件を伝えた。
「ちょっとした興味本位なのよ。クロスボウ使いを捕まえたんですって?そいつを見せて欲しいの」
「クロスボウ使い…ああ、あの男ですか」
「で、そっちの用件は?」
「私の方もその男のことなので、都合がよろしい。私に同行してくださいますか」
「いいわよ」
進み出るマデリシアを、キュリアスは肩を掴んで止めた。
「少しは緊張を隠したらどうだ」
キュリアスはローレンスの後ろに控える兵士たちに言った。マデリシアが足を止めた途端に、兵士たちはいつでも抜刀できるように腰を落としていた。
「同行すると言うわりには、殺気立ち過ぎだ」
「これはお恥ずかしい。しかし、どうか穏便に、同行願いたい」
ローレンスの額に汗が光った。
「クロスボウ使いのことで俺たちに用がある、か」
キュリアスはローレンスを窺いみた。その様子に、マデリシアも警戒心が働いたようで、街道を行きかう人混み方向へ下がっている。
「どうか、穏便に願います」
「大人しく捕まれ!」
後ろの兵士が我慢できずに声を発した。ローレンスが部下を睨んでも、もう遅かった。
「俺たちを捕まえる?どういう罪状で?」
ローレンスは部下を睨み付けた後、キュリアスとマデリシアに向き直り、二人を交互に見比べた。頬に伝い下りた汗をぬぐうと、観念したように言った。
「ハロルド・ナハトマージ男爵の手先に働いていたとの情報でね。大変申し訳ないが、お二人を拘束しなければなりません。どうか、同行を」
「そいつぁ俺たちも初耳だ」
「あたしたちをはめて誰が得するのかしら?」
マデリシアは即座に、陰謀のにおいを嗅ぎ取ったらしく、そう言って考えにふけっていた。
「俺たちは男爵の旅に護衛として雇われはしたが、それだけの付き合いだ」
「それは、同行いただいて、じっくりとお伺いしましょう」
ローレンスはできるだけ穏便に済ませようと必死になっていた。キュリアスとマデリシアの評判を知っており、抵抗されれば、この人数では押さえられないと分かっているのだろう。
「よく分からないけど、これ、捕まったらまずそうよ」
マデリシアがキュリアスの耳元で囁いた。
「そのようだ」
キュリアスも小声で返す。
「いた!あいつです!あそこ!」
北側から大きな声が上がった。途端に、人の流れを強引にかき分けて、兵士の一団が姿を現した。南側も同様だ。すると街道の流れが寸断された。キュリアスたちの背後、東側にも兵士の一団が姿を現した。
全員統一された全身鎧を身に着けている。中に、顔中テラテラと光らせた中年男と、その横にマントをつけた兵士が混ざっていた。
マントの男はジェラルド・ソルトン男爵だった。するとこの兵士の一団は守備隊である。それも総動員された様子で、すっかり取り囲まれていた。
マデリシアがキュリアスの背後に隠れていた。後ろから、ジェラルドの隣に立つ中年を指差した。
「追いはぎ村長!」
マデリシアの言葉を、キュリアスはすぐには理解できなかった。
「ほら、ロッツ村の!」
「ああ、あのくそやろうか!」
ロッツ村からゴブリン退治を依頼され、出向いてみれば、装備品を略奪された。その首謀者である元村長が、ジェラルドの隣に立つ、脂ぎった顔の中年男だ。確か名前はトム・コリンズと言った。
トム・コリンズは、マデリシアの復讐に合い、村で磔にされ、村長の座をはく奪された。
「あの二人です!あたしの家を破壊し、あたしを村に住めないようにした悪党です!」
トム・コリンズはまくしたてるように言った。その隣で、ジェラルドが不敵な笑みを浮かべていた。
「貴様らをやっと投獄ではなく、罪人として坑道送りにできる!町の害獣め!」
ジェラルドの冒険者嫌いが、牙をむいていた。
「全員抜刀しろ!抵抗するなら、斬ってかまわん!」
ジェラルドの声に、兵士たちが一斉に抜刀した。刃の鳴る音が重なり、背筋を冷たくする。
「どうか同行を!私はあなた方を死なせたくない!」
ローレンスが手を差し伸べていた。
「こいつぁ、どうにもならんな」
キュリアスは陽気に言ってのけた。マデリシアの、キュリアスにしがみつく手に力がこもっている。
「さあ!」
ローレンスの催促を打ち消すように、者どもかかれ!と号令が響き渡った。兵士たちの雄叫びが上がる。
「おい!」
キュリアスは大声を張り上げた。その気迫のこもった声に、兵士たちの足が止まる。
「俺に敵対するんだな?いいぜ。すべての敵は迎え撃つまでだ」
キュリアスがゆっくりと背中の剣を抜き放つと、兵士たちの間に緊張が走った。
「ここら一体、斬り裂いてやろうじゃないか!」
キュリアスはふと思い立ち、あからさまに言った。マデリシアに向かって目配せもする。
兵士たちの顔が一様に青ざめた。キュリアスが剣を振れば、この辺り一帯の建物がなぎ倒されると想像したためだ。
キュリアスの前にいるローレンスは青い顔をしながらも、早まるなと叫んで事態の収拾策を探している様子だった。
「すまんな」
キュリアスはローレンスに詫びた。もう手遅れだと、分かっていた。マデリシアがキュリアスの意図を悟り、叫ぶわよと大きな声を発した。そうなるように目配せをしたのだ。もはやローレンスの手に負える状態ではなかった。
「ほら、叫んじゃうわよ!あ、やっぱ叫ぼう!大きな声出すって、気持ちいいわよ!」
脅しという本来の目的をすぐさま忘れ、マデリシアは愉快そうに声のトーンを上げていった。
キュリアスもマデリシアも、飄々としているが、冷静ではなかった。冷静であれば、マデリシアに、「道を空けろ」だとか、「家に帰れ」などと言わせれば、兵士たちはマデリシアの声の魔力に操られ、道を空けたはずである。いつもなら使うような簡単な手段に思い至らない。それほどに、切羽詰まっていた。
「止めろ!バカ女!」
兵士の誰かが叫んでいた。
「誰がバカ女ですって!」
マデリシアが言い返した途端に、彼女の叫んだ方向にいる兵士の数人が後方へ尻餅をついた。
どよめきが走る。
「怯むな!取り押さえろ!叫ばせるくらいなら首をはねてしまえ!」
ジェラルドの怒号が響き渡ると、兵士たちは気を取り直し、キュリアスたちへ殺到した。
「バカ!やり過ぎだ」
キュリアスはマデリシアを口汚く責めた。
「うっさいわね!もういいわ!本当に叫んでやる!」
空気を胸いっぱい吸い込むマデリシアのお腹に、キュリアスは肩を押し当てて担ぎ上げた。マデリシアの小さな悲鳴が上がった。
「ローレンス、悪いな!」
キュリアスは目の前に詫びを入れると、抜刀したローレンスの部下たちを足蹴に飛び上がった。壁を蹴って隣の屋根まで、さらに飛び上がる。
屋根に上がるとマデリシアを下ろし、剣を鞘に戻した。
「できれば、探してくれるな!」
キュリアスは下に向かってそう言ったが、兵士たちの叫び声にかき消され、相手に届いたか分かったものではなかった。
マデリシアはさすがに叫ぶのを止めたものの、下に向かって舌を出していた。
兵士たちが待てだとか卑怯者だとか叫んでいた。
キュリアスとマデリシアは悠然と踵を返すと、真っ赤に染まった西を目指して光の中へ消えて行った。