腕の中の温もり
1
森の中からマデリシア・ソングが声をかけると、それまで陽気に歩いていたラルフ・フォーティスは飛び跳ねた。声の方向を探して首を回している。
谷間を下る山道で、左右は葉を散らした木々や赤茶けた下草があるばかりだ。中には葉をたたえた木も混ざり、森の奥は薄暗くて見通せなかった。
周りの木々が風よけになるのか、冷たい刺すような風はない。代わりに日差しも届き難いため、動いていないと寒さに震えることになる。
キュリアス・エイクードはマデリシアの居場所に察しがついていた。マデリシアが声を発するまでもなく、そこに潜んでいることは承知していた。いたずら心にそそられて何かしでかすつもりだろうと予測し、キュリアスは素通りを決め込んでいた。
素通りすれば、マディは文句を言いながら出てくるだろう。キュリアスはそう考えてのことだった。
「ちょっと待ちなさいよ」
マデリシアは文句を言いながら、森から下草を飛び越えて現れた。
予想通りの反応に、キュリアスは笑いをかみしめていた。笑ったら笑ったで、マデリシアが喜んで絡んでくるに違いない。そっと笑いをこらえ、背を向けて道を下った。
「何だ。マデリシアさんでしたか」
ラルフは全身の力が抜けるほどの吐息をもらした。
「ちょっとはラルフを見習って驚いたっていいでしょ」
マデリシアはキュリアスの背後に詰め寄った。
「お。びっくりした」
キュリアスは仰け反るように振り向いて声を上げた。
「大根役者め…」
マデリシアは文句を言ってキュリアスを睨んだ。驚いてくれないのは面白くないと、マデリシアの顔が語っているのだが、キュリアスは意に介さない。諦めたマデリシアは振り返って、ラルフの肩を叩いた。
「仕事、うまくいったようね。よかったわ」
「ええ。おかげさまで、初依頼達成です」
「おめでとう!」
マデリシアがラルフを祝福している間、キュリアスは森の中を見つめていた。大半が枯れ木とはいえ、幹や枝が視界を遮って奥までは見通せない。中には常緑樹も混ざる。木々の間に空間があると、そこを埋め尽くすようにシダ植物が勢力を伸ばしているので、なおのこと、森の奥は見通せなかった。
マデリシアは先ほど、一本の幹の裏側に隠れて声を発した。その近くに、キュリアスの視線が止まっている。
「ああもう。あんたの能力は面倒ね。斬っちゃだめよ」
マデリシアは慌ててキュリアスを制止すると、森に向かって出てきなさいと言った。
幹の影から若い男女三人が姿を現す。
「マディの友達か?」
「まあそんなとこ」
キュリアスの問いに、マデリシアは曖昧に答えた。
キュリアスとラルフは今朝、ロッツ村を旅だった。そのロッツ村で村長やその子供たちが十字架に吊るされて発見されるという騒ぎが起こっていた。
その騒ぎの仕掛人がマデリシアであることを、キュリアスは感付いている。しかし、一晩で、一人でこなせる作業ではない。そこに三人の若者の登場となれば、キュリアスにも合点がいく。
「なるほど。そいつらが人足か」
「そゆことー」
マデリシアの手招きに、三人がゆっくりと出てきた。
ラルフより少し年下に見える少年。ラルフと同年代程度の少女。それに、二十代の女性だった。少年と少女は鼻の形が似ている。
「クリス・ディズマとルーイット・ディズマ、ローグ・キーシャよ」
マデリシアは三人を紹介し、三人に対し、キュリアスとラルフを紹介した。
「ディズマ、か…」
「あら?エッジ、知ってるの?」
「解散したのは二十年前だろ。噂話程度には、な」
「その御曹司よ」
「で、組んで盗賊稼業をやろうってか?」
「やんないわよ」
マデリシアは即答した後、この三人は分からないけどと付け加えた。
「ねね。エッジ。聞いてくれる?」
「聞かなくてもしゃべるだろ」
キュリアスは答えると、坂道を下り始めた。それに、話を聞くのなら町の酒場でもいい。酒の肴に話してもらえば聞く方も楽しめる。マデリシアものどを潤すもののある酒場の方が都合もいいだろう。
「ひっどっ!ちょっと相手してよ」
マデリシアは抗議の声を上げたが、三人についてくるように言って、キュリアスに追いすがった。
ラルフとクリスが道の譲り合いをし、その間にルーイットが先んじた。ローグがクリスとラルフを先に行かせた後、最後尾についた。何も警戒することなどないはずなのだが、ローグがしきりに辺りに気を配っていた。
キュリアスは気配を察知して、後ろの様子を確認している。範囲を広げてみても、追手や監視のようなものは感知できなかった。
マデリシアはキュリアスに追いつくと、十字架用の材料を手に入れたあたりから話し始め、どうやって村長やその子供たちを磔にしたか、詳細に語ってみせた。酒場まで我慢できないほどに語りたかったようだ。
そうではないのだろう。後ろの三人のことが、本当に語りたいことではないだろうか。キュリアスは機嫌よく語っているマデリシアを横目で眺めつつ、そう思わずにはいられなかった。
村長たちに追いはぎ行為を働かれた、その仕返しを語りたいのであれば、無理に道中でなくともいいのだ。特に、後ろの三人を同行させる意味がない。もちろん、道中の暇を埋め合わせるために語ることはあるだろうが、連れの説明にはならなかった。
「それでね」
山道を下りきった辺りで、やっとマデリシアは本題を口にするようだ。
「ちょっと頼みが出来ちゃったの」
頼みか。それを言い出し辛かったのかとキュリアスは思った。言い出し難いということは、面倒な頼みに違いない。
キュリアスは足を止め、マデリシアを振り向いた。止まると思っていなかったマデリシアがキュリアスの胸に飛び込む形でぶつかった。マデリシアの反射神経であれば避けられるが、あえて飛び込んだのだ。その証拠に、わざわざ爪先立ちになっている。
キュリアスもマデリシアの行動に気付き、避けるだけの反射神経を持ち合わせていたが、あえて受け止めていた。その時の気分によって避ける場合もあり、そういう時はマデリシアの猛抗議を受けることになる。
「あらあら。あたい彼氏いるのアピール?」
ルーイットが嘲るように言った。
「どう?いい男でしょ?」
マデリシアはキュリアスの胸にすがったまま、ルーイットに返した。ルーイットは二の句を失い、口をパクパクとさせていた。
「それで」
キュリアスは短く催促した。
「そうそう、頼みってのはね」
マデリシアはキュリアスから離れようとはせず、胸にすがったまま、上目遣いに言った。
「簡潔に言うと訳わからないだろうから、初めから順を追って説明するね」
「長くなるのか」
キュリアスはそう言うと、マデリシアを押し離した。マデリシアが残念そうな眼をしているが、相手にしないことにした。
見渡した先に、ちょっとした空き地が見えたので、キュリアスはそこに入った。マデリシアや他の人々も後に続く。
空き地に入ると、マデリシアはさっそく話し始めた。歌でも歌うように、テンポのある話し方だ。
「この子たちね。ドグの酒蔵に盗みに入ったの。酒樽盗んで盗賊修行。と思いきや、人に頼まれたって言うじゃない。どんな奴かと行ってみたら。もぬけの空のからっから~」
マデリシアの声に耐性のないルーイット、クリス、ラルフがテンポに合わせて身体を揺らしていた。ローグも足で拍子をとっている。
「相手は誰だって問い詰めたの。そしたらローグが」
マデリシアがローグを指差すと、ローグは口を動かした。ただ、声は発しない。ローグの口の動きに合わせたかのように、マデリシアの話が続いた。
「ディズマ一家って言うのよね。頭領が、盗んだ酒樽もってこい。できたら仲間と認めてやる。ディズマ一家に入るため。酒樽盗んでパーティータイム」
キュリアスだけが、マデリシアを凝視してじっとしている。彼女の声の力に抵抗を続けていた。抗っているからこそ、眼にも力が入り、凝視する形になっていた。
「終わったか?」
キュリアスの問いに、マデリシアは首を左右に振って答えた。クリスを指差すと、クリスが口をパクパクさせた。どうやら三人と何やら打ち合わせをしてきていたようだ。
「僕たちディズマ。仲間になりたい。でも入れてもらえない」
マデリシアの声が、まるでクリスから発せられているように聞こえてしまう。
マデリシアは次にルーイットを指差した。
「あたいはやらないわよ」
ルーイットはそっぽを向いた。だが、身体はテンポに合わせて動いている。
「ディズマの跡取り。ディズマに戻れず」
「終わったか?」
「まだよ!」
マデリシアが叫んだ。彼女の声に合わせて身体を動かしていたラルフ、クリス、ルーイットの三人はぴたりと動きを止めた。ローグも一瞬飛び跳ねていた。
「ディズマってね、元は義賊なのよ」
今度は普通に語った。
「でも、ここ数年で耳に入る噂は、酷いものよ。盗みに入って皆殺しとか、盗まれた相手が心中するほど、一切合切盗んでみたり、貧乏人だろうとそこに盗むものがあれば入ったり」
「そもそも二十年前に解散したんじゃないのか」
キュリアスは当時を知っているわけではない。二十年前といえば、キュリアスは孤児で、四歳のころだ。その幼い子供が、義賊だ何だと関心を持つはずもなかった。
キュリアスの知識は、後に人から聞いた噂話程度に過ぎない。
「当時の幹部は一人を除いて、皆引退したのよ」
マデリシアも当然、当時を覚えているわけではない。キュリアスの三つ上なので、当時で七歳だ。ただ、そう言う業界の情報を得やすい環境で育ったので、後々、詳しい情報を得たのだろう。あるいは所属しているギルドで得た情報かもしれない。
「その一人がディズマを名乗って盗賊稼業を続けているの」
「なるほど」
「で、ディズマである以上、そのディズマ一家に入りたい二人がいる。当然、親が築いた一家だもの。でも、そこに入れないのも、傍から見るとおかしなことよね」
マデリシアの言葉に、ローグが苦々し気に頷いていた。
「それとは別にね。ディズマがひどいことになっているって、この子たち、知らなかったの。昔の義賊のままで、親の遺志を継いで自分たちも義賊やるって思ってただけ」
「今のディズマがひどいってのも、あんたが言ってるだけで、証拠は何もないわ」
ルーイットが不機嫌そうに口をはさんだ。
「目上の人が言うことは信じるものよ」
「うそでもか?」
「茶化さないで」
マデリシアはキュリアスを睨みつけた。
「あたしはこれでも情報ギルドの一員よ。信用ある情報を、無償で提供してあげてるの」
「あんた自身が信用置けないわ」
「お嬢…」
「混ぜくり返さないでくれる?」
マデリシアが今度はルーイットを睨みつけた。ルーイットがローグに諫められ、口を閉じると、マデリシアは満足げに頷いた。
「とにかく。もっと面倒ごとになりそうなのよ」
「どんな面倒だ?」
「斬ったはったの面倒になると思うわ」
「それで俺の出番か」
「そういうこと」
戦闘になるからキュリアスに護衛して欲しいと、暗にマデリシアは言っているのだ。すると、キナ臭い情報の一つでも入手しているのかもしれない。キュリアスは情報を小出しするマデリシアを促す意味で、一言呟いていた。
「それで?」
マデリシアもキュリアスの問いを察している様子で、懐から小さな包みを出した。包みを広げてみると中に白い粉がある。
マデリシアは期待するような瞳をキュリアスに向けていた。白い粉が何なのかを当ててみろというのだろう。
「何だ?麻薬かと言わせたいのか?」
「もー。少しは乗っかってよ」
キュリアスは頬を膨らませるマデリシアを無視し、小麦粉かと呟いた。
「ぶー。ご名答」
「小麦粉は異常な品薄だ。そんなものを盗賊が?」
「そう。自分たちで用立てるとは思えないから、どこからか盗んだものね。それをこの近くの山小屋に一時保管していたみたい。で、連中、小麦粉と一緒に行方をくらませたの」
「まさか売って稼ぎにしようってわけじゃあるまい」
「そんなかさばる物、普通は手を出さないわね」
「盗賊が、誰かと手を組んでやっていると?」
「そう考えるのが妥当ね」
「だとしても、どうして俺がかかわる」
「もうかかわる気になってるくせに」
マデリシアの皮肉に、キュリアスは少々傷ついた。だが、図星だった。
キュリアスには気にかけている人物がいる。シャイラベル・ハートという少女で、キュリアスたちのいる国、フォートローランスの第二王女だ。
シャイラベルはマデリシア同様、キュリアスが命を狙った、暗殺対象の一人だった。そして、マデリシアと同様に、キュリアスのおかげで命拾いした経緯を持つ。
命を狙った男と、マデリシアもシャイラベルも、奇妙な人間関係を続けている。ただ、女性二人の捉え方は別で、命を救ってくれた恩人と考えているようだった。
命を狙った俺に感謝する必要などないと突っぱねても、二人の態度は変わらなかった。そのことが、キュリアスをなおのとこ、二人のために何かをしなければと思わせるのだった。命を狙った罪滅ぼしをしなくては気が済まない。
そのシャイラベルは現在、小麦粉の入手に奔走している。ディズマ一家が小麦粉を盗んでいるとすれば、シャイラベルの妨害を行っているとも言えた。
シャイラベルの敵対者ならば、排除してやろうと、キュリアスの気持ちは傾いている。
マデリシアは複雑な表情を一瞬浮かべ、すぐに消した。
「どっちにしても、盗賊の仕事じゃないわ。あたしはその辺りを調査して、できるなら、対処したいの」
「俺はその犬役か」
「鼻も利く番犬だもの」
マデリシアは気安く言ったものの、相手が凶悪な盗賊団である以上、戦闘は免れないと思うからこそ、キュリアスを必要としていた。そしてキュリアスの能力があれば、奇襲を受けることはない。これほどありがたい味方はいなかった。
「まあいい。で、そいつらの向かった先は?」
キュリアスはそう聞いておいて、南かと、自分で答えた。気配を察知したわけではないが、なんとなく南だと思えた。自然と視線も南を向いている。
「ご明察」
マデリシアの明るい声が返ってきた。
これは酒どころではなさそうだ。キュリアスは町の酒場に向かっていた気持ちを呼び戻し、ため息を漏らしていた。
2
成り行き上、王都セインプレイスへ戻っている場合ではなくなった。酒に対する未練は、一瞬で消えている。キュリアスの今の懸念は、ラルフだった。
ラルフをハンデルへ連れて行くつもりだし、ここから南へ向かうのであれば、ハンデルの傍まで行くことにはなるだろうと予測された。同じことなのでラルフを同行させてもいいようにも思えるが、ディズマ一家とどこでかかわり合うか分からない。出会い頭に戦闘にでもなれば、対人戦闘に不慣れなラルフの命に危険が及ぶことになりかねない。
キュリアスは考えを巡らせると、ラルフを一人で帰らせることに決めた。やはり危険を避ける方がいい。ここから町までは数時間程度だ。川を渡れば大きな街道に出る。そこまで出てしまえば、人通りもあるので、特に危険のある旅ではない。
「ラルフ。お前は一人で町に帰れ」
キュリアスが命じると、弟子であるラルフは素直に従うものと思っていた。
「いやです」
ラルフの即答に、耳を疑った。聞き間違いではないことを、ラルフは続けて言った。
「僕もついていきたいです」
「いや。待て待て。ゴブリンを相手にするのとはまるで違うぞ。お前の役立つ場面はない」
「そうかもしれません。でも、僕ももっといろいろ経験してみたい」
「お前に対人戦闘はまだ無理だ」
「でも!」
ラルフにキュリアスを説得するだけの材料はない。なので感情的になっていた。感情で訴えるしかないだけに、短い言葉に気迫のようなものがこもっている。
その気迫に、キュリアスは思わず動じてしまった。元々町へ戻ったら、南の町、ハンデルへラルフを連れて行き、そこで剣の師匠をつけようと考えていたので、向かう先は同じである。二度手間を減らせると思ってしまったことが、気後れの原因だった。
その気後れに、マデリシアが気付いてニヤニヤとキュリアスを見つめていた。これで断れば、マデリシアが変なちょっかいを出すに決まっている。キュリアスは渋い表情を浮かべると、投げやりに言った。
「分った。ただし、お前は一切かかわらせない」
「はい!ありがとうございます!」
ラルフは輝くような笑顔を浮かべて答えた。
何が嬉しいのか分からない。キュリアスは頭を抱えながら、補足を付け加えた。
「それと、お前をハンデルへ連れて行って、剣技の師匠をつける」
「え?でも、師匠が教えてくれるんじゃ…」
「俺の師匠に預ける。文句は言わせない」
ラルフは反論しようとしたのか、口を開いたが、キュリアスの師匠と聞いて、興味を引かれた様子だった。口を閉じ、しっかりと頷いた。
「いいかしら?」
様子を見守っていたマデリシアが言った。
「じゃあまとまったところで。奴らはデアダクリ湖を通って入ってきた小麦粉を奪ったと思うの。それを南、ハンデル方向へ運ぶ理由は分からないわ」
マデリシアはそう言った後、空き地から真っ直ぐ南、森の中へ踏み入ろうとした。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
ルーイットが声を荒げた。
「なあに?」
「何、さも当然そうに森へ入ってるの!このまま街道に出て行った方が楽でしょ!」
「遠回りじゃない」
マデリシアはにべもなく返すと、森へ踏み入った。キュリアスも当然のごとく続いた。
「これも修行の一環ですね!」
ラルフは自分を奮い立たせるように言って、後を追った。
「姉さん。行きますよ」
クリスも続いた。
「目的地がはっきりしない以上、追跡の必要があります」
ローグも、不満そうに立ちすくむルーイットを置いて森へ入った。
「ああもう!」
ルーイットは響く声を上げ、皆の後を追った。
「その小麦粉があった場所は?」
キュリアスは木立を巧みに避けながら進み、マデリシアに声をかけた。
「あっちの山小屋。南に向かったのは足跡で確認してあるわ」
マデリシアも木立の間をスルスルと進む。
瞬く間に後続との差が開いていた。
「気配はつかめた?」
「いや。何人くらいだ?」
「ねえ、ローグ。あちらさんは何人いたの?」
マデリシアは振り向いて声をかけた。そのまま立ち止まり、後続が追い付くのを待つ。
「十人ほどです。本来は三十人ほどなので、別動隊がいると思います」
ローグは追い付いて答えた。ラルフやクリスを追い越している。
呼吸を乱しかけたラルフとクリスが追い付いた。立ち止まって数回呼吸を行うと、荒い呼吸もすぐに治まった。
「別のところでも商隊を襲っているかもね」
マデリシアは呟きながら、再び歩き出した。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
ルーイットも追い付いてきたが、休む間もなく進み始めるので不満を述べていた。弟ほどには呼吸を乱していない。
ルーイットは先を行くマデリシアの足元を見て、眼を見開いていた。
「お嬢。あの境地は並大抵ではたどり着けませんよ」
「足音がしないなんて、おかしいわよ」
ルーイットは言葉とは裏腹に、悔しそうに眺めていた。
「もっと恐ろしいですよ」
ローグが歩き出したキュリアスを顎で示した。どうやっているのか、キュリアスの足音も全くない。落ち葉や枯れ枝の散乱する森の中で、足音がないのは、異常である。
「寒気がするわ」
ルーイットは身震いして、後を追った。そのルーイットの足音も、最小限に抑えられている。多少なりと技が身に付き始めていた。
隣を歩くローグも足音は少ない。
対して、ラルフ、クリスの足音は大きかった。枝を折り、落ち葉を踏みつけて歩いていることが、見なくてもはっきりと分かる。
後方の様子を、キュリアスもマデリシアも音で把握できていた。
「何だ。修行でもつけてやっているのか?」
キュリアスはマデリシアに追いつくと、小声で言った。
「そんなつもりはないわ」
マデリシアはそう答えた後、そうねと思案するように付け加えた。
「生意気な子だから、力の差を見せつけてやってるのよ」
「力の差に気付けるだけの力量はあるようだ」
つまりは気付かせることによって指導しているようなものだな、とキュリアスは思ったが、口に出さなかった。
「で、ディズマ一家を見つけたとして、どうするつもりだ?捕まえるのか?倒すのか?獲物を奪うのか?」
キュリアスは小声を止めて尋ねた。
「うーん。分かんない。その時の状況次第。でも、小麦粉はエッジが奪うでしょ」
「おそらくな」
「ま、あたしららしく、行き当たりばったりで」
「計画性のないこって」
「だって、エッジが何でも斬り裂いてメチャクチャになるもの」
「どうせ、お前の声でメチャクチャになる」
二人がそれぞれ、相手に文句をつけていた。互いに睨み合いながらも、谷間を器用に登っていく。
「まあいい」
キュリアスは先に視線を外した。自分を睨みつけていたマデリシアの視線に、熱を帯びた別のものが含まれはじめたことに気付いたからだ。変な絡み方をされる前に話題を戻しにかかった。
「それにしても、三十人か。盗賊団にしては多いな」
「そうね。凶悪なところって、ガラの悪いのが集まりやすいのよ。盗賊の技術とか矜持なんてありもしないわ」
マデリシアは吐き捨てるように言った。盗賊の矜持、技術を重んじており、それらの無い集団に嫌悪感を抱いているのだ。
「ならず者集団と考えるべきか」
「そうよ。だから、捕まえるにしても、討伐するにしても、エッジの力が必要なの」
「倒すならともかく、捕まえるとなると、この人数では無理だな」
「そこはあれよ。エッジのお兄様にお願いするの。ちょうどいい役職に就いたでしょ」
「巻き込むなと怒られるぞ」
「どうせ会いに行くんでしょ?ラルフの件で」
「それはそうだが」
「じゃあ同じこと」
「一緒にするな」
「いいじゃないの。向こうは仕事上での点数稼ぎにもなるんだから、お互いに利益があるわ」
キュリアスは足を止めた。マデリシアも合わせて止まる。
かなり下の方から、ローグ、ルーイット、ラルフ、クリスの順番で登ってきているのが見えた。クリスがだいぶ遅れている。年齢的にもまだ身体が出来上がっておらず、ついてくるのがやっとの様子だった。
山登りは倒木や茨を避けて回り道したり、急な斜面を登ったりと、どうしても余分な体力を浪費してしまう。空気が澄んでいるので最初こそは心地よくても、次第に息が切れ、度々呼吸を整えなければ動けなくなる。
呼吸を整えると、なぜか清々しく感じるが、それも長い距離を歩くとなると、次第に足が重くなって動けなくなる。
この旅は、体力のないクリスのペースで進むことになりそうだ。
「どちらにしても、確実な情報がなければ奴らも動けんだろう」
キュリアスは下の様子を眺め、この先のことを考えながら、ぽつりと言った。
「そうね。まずは相手の根城を見つけて、見取りから人数や盗んだものの隠し場所とか、色々調べなきゃ」
「ディズマ一家の足取りを見つけることからだな」
「そっちはあたしがこの前足取りを追ったところまで行って追跡してみる」
キュリアスの感知能力があるので、別行動をとっても問題なく合流できると、マデリシアは安易に考えているようだ。そして、安易に考えるもう一つの理由が、登ってくる四人だろう。
「俺に御守りをさせるつもりか」
「あら?何のことかしら?」
マデリシアは妙に明るい声で言った。
「白々しい」
「ちゃんとはぐれないで、あの子たちを連れてきてよ」
やはり足手まといを押し付けていくつもりだ。キュリアスは思わずため息を漏らしていた。が、マデリシアの言い分には答えず、別のことを言った。
「食料の調達は?」
「それもやってくださる?」
キュリアスは思わずマデリシアを見つめた。マデリシアも見つめ返す。面倒ごとをすべて押し付けていくつもりではないだろうか。
「おい」
キュリアスは短い言葉で抗議した。
「いいじゃない。どうせ、追いつくのを待つ時間がたっぷりあるでしょ」
マデリシアが下を見て言った。
「野営場所くらいは見つけてあげる」
確かに言われる通りではある。あるが、言われてやるのは癪である。キュリアスは何か一つでもマデリシアに分担を振ろうと考えた。
「薪集めもしておいてもらおうか」
「お安い御用で」
マデリシアは即答で請け負った。それで話がついたとばかりに、一人で山の中へ分け入る。
ローグが追い付いてきたものの、後の三人はもう少しかかりそうだ。
「やれやれ。退屈な山の旅になりそうだ」
キュリアスは胸の中でぼやいた。
最後尾のクリスが追い付くのを待ち、更には彼を休まさなければならない。動けなくなって立ち往生するのが、山の中での最悪の事態を呼び込む原因だ。
単独で行動できれば、自分のペースでどんどん進める。マデリシアが恨めしく思えてくる。キュリアスはもう一度下を眺め、これは安請け合いし過ぎたと、早くも後悔していた。
3
退屈極まりないとの予想は、意外と早くに覆された。
マデリシアと別れた後、数時間山の中を分け進んだ頃に、不穏な気配を前方に察知した。山に棲む獣同士の争いのようだが、感知した気配の主が問題だった。
動きや数、大きさから、大型の狼の群れだと分かった。特に名前がついているわけではないが、人々に恐れられている狼だ。通常の倍ほどの大きさがあり、人の腕や足を軽々と噛み切る。その爪も、革鎧程度なら斬り裂くほど鋭い。
この大型の狼は山奥に暮らすので、旅人と遭遇することはめったになかった。ただ、出会ってしまえば、群れに囲まれ、旅人は一網打尽に遭い、狼の胃袋に納まることになる。
気配から察するに、狼たちが小さな獲物を囲い、いたぶっている。人が襲われているわけではなかった。
気になるのは、獲物を狩る様子ではないことだ。ただ、いたぶっている。気に入らない何かをいたぶり殺すつもりなのだ。
その凶暴で巨大な狼たちが人の接近に気付けば、標的がこちらに変わり、後ろの四人は瞬く間に殺されるだろう。
狼たちの居場所を避けて通ってもいいが、かなりの遠回りになる。疲労の激しいクリスに、遠回りは酷と言うものだ。
キュリアスは追いついてきたローグに、全員揃ったらあちらを目指すようにと指差して指示すると、一人先行した。
「なんでこの斜面をあんな速さで登れるのよ!化け物!」
後ろでルーイットの声が聞こえた。キュリアスの素早い動きに立腹しているらしい。ルーイットは信じられないものを見ると怒る傾向があるようだ。
いや、そもそも怒ってばかりじゃないかと、キュリアスは会って間もないルーイットに対する認識を固めた。
前方の気配が、切迫しつつある。いたぶられている側が追い詰められていた。キュリアスは後方にかまわず、さらに速度を上げて進んだ。最後に幹を蹴って舞い上がる。
大型の狼たちの獲物は岩陰に追い詰められていた。銀の毛色をした、子犬程度の狼のようだった。
「銀狼の子か…。珍しいな」
キュリアスは呟きながら、空中で状況を把握した。
大型の狼の縄張りに、銀狼の子が迷い込んだのだろう。銀狼の親は見当たらない。近くにそれらしい気配もなかった。
大型の狼は五匹いた。まだキュリアスの登場に気付いていない。
キュリアスは木の幹を蹴って軌道を変えると、銀狼の子と大型の狼の間に下り立った。
大型の狼たちが一斉に唸り、姿勢を低くした。おもちゃを奪われまいとしているのか、乱入した新たな獲物に食らいつこうというのか、俊敏に動ける体制をとっていた。
剣を抜き放ち、狼たちを殺すことはたやすい。しかし、キュリアスは剣を抜かず、この場を切り抜ける選択をした。キュリアスにとって、大型の狼は動物であり、倒すべきモンスターとは認識できなかった。できる限り倒さずに収めたい。
元暗殺者であるキュリアスにとって、命を奪うことに抵抗などない。また、殺さずの誓いも立てていない。しかし、キュリアス自身でも不思議なのだが、動物の命となると、奪うことにためらいを覚えるのだった。
モンスターと分類される生き物と、獣との境は曖昧なことも多い。目の前にいる大型の狼などが典型で、人によってはモンスター呼ばわりする生き物だ。倒してしまって問題のない生き物なのだが、キュリアスにはなぜか、躊躇う気持ちが生まれるのだった。
ただ、武器を使わずに退けるとなると、人の領域を大きく外れるほどの技量が必要となる。相手は後ろ足で立ち上がれば人の背丈を優に超えるほどの巨体である。鋭い爪と、凶悪な牙を持つ獣である。そして、俊敏である。
個体で比較しても、明らかに人より戦闘能力に長けている。そのような大型の狼が五匹もいるのだ。例え剣の達人が抜刀して構えても、数匹を道ずれに倒れる結果しか存在しないだろう。
では剣を使わない選択をしたキュリアスは間違いを犯したのかと言えば、そうでもなかった。
剣を振り回すにはどうしても、長さ、重さによって、取り回しに隙が生まれる。俊敏な狼に対して、この僅かな隙が致命となり得る。対して、手足であれば、自身の俊敏さでその隙を最小限にとどめられるのである。
その最小限の隙でも、狼にとって十分な攻撃の間である。
素手である以上、攻撃の間合いは、狼のその間合いとも重なる。狼の巨体、牙、爪といった凶器に触れるという恐怖心とも戦わなければならない。場慣れした戦士でも、臆し、一瞬の躊躇が命取りとなる。
キュリアスはどうか。臆した様子など微塵も感じさせなかった。それどころか、自分から一歩踏み出してさえいた。
大型の狼はその一歩が合図だったかのように、襲い掛かった。一匹が飛び上がり、キュリアスに身体ごと迫る。落下の先にあるのは、キュリアスの首だった。
キュリアスは足を蹴り上げて迎え撃った。キュリアスよりも大きな身体の狼を、その蹴り足がとらえても、巨体に押しつぶされて無駄に終わるはずだった。しかし、結果は違っていた。
キュリアスの蹴りが狼に触れた瞬間、狼の巨体は空中に跳ね返された。
宙に舞った狼の影から、別の狼が迫っていた。さらに、左右からも別々に迫っている。そして、もう一匹が視界から消えていた。だが、キュリアスはその気配を背後に捉えていた。
四方からの波状攻撃に、よほどの達人と言えと、耐えきれるものではない。次々と翻弄され、手足、首に噛み付かれ、絶命するのが定めだ。
キュリアスはさらに動きを早めた。振り上げていた足を踵から、迫る狼の眉間に打ち下ろした。その狼を踏み台よろしく押し込み、身体を仰け反らせて空中で回転した。右からの狼の下顎に拳を打ち込み、反対側の狼の鼻先に裏拳を打ち込んで、それぞれの機先を制した。
キュリアスは横回転も加わったバク転を見事に決め、同時に地面を蹴って、後方の狼に横蹴りを浴びせて弾き飛ばした。
前後の狼は悲鳴を上げて下がったが、左右の狼は頭を振って迫っていた。
一瞬早く迫る右の狼の横顔に、振り向きざまの肘打ちを食らわせた。そしてその狼の大きな腕を掴んで反対側に投げつけた。二匹が激しくぶつかり、悲鳴と身体が絡み合って転がった。
五匹ともいったん間合いを取ったが、逃げ去るようなことはなかった。キュリアスの隙を窺っている。
狼たちは何度も襲撃を繰り返せば、獲物が弱り、食らいつけると知っているのだ。
今までの立ち回りでキュリアスが武器を使っていたとすれば、一匹か二匹は倒せていただろう。そうなれば状況も変わっていたが、五匹がともに健在となれば、狼たちは波状攻撃による持久戦に入るだけでいい。
持久戦に持ち込まれる前に、キュリアスは行動する必要があった。そしてその方法も持ち合わせている。狼に勝てない相手と認識させる術。それは使わないと決めたはずの剣だった。
キュリアスは狼たちが動き出す前に、背中の剣を抜き放つと、横なぎに払った。狼たちとの距離があり、切っ先が届くはずもない。
ところが、狼たちの左右や後ろの立木が、キュリアスの払った剣の軌道上で切断された。次々と狼たちの上に木が倒れ掛かる。
キュリアスは内心ほっとしていた。狙って衝撃波を出せるわけではない。今回はたまたま、狙い通りに出せたにすぎない。加減しようとしたときは特に、運任せになるのだった。
狼たちは俊敏な動きで倒木を避けたものの、得体のしれないものに出会ったかのように警戒し、唸り声を発しながら後退った。
狼たちはそのまま森の中に姿を消した。その気配はキュリアスを迂回して山の奥に向かった。どうやら諦めたようだ。
キュリアスは気配の向かう先をしっかりと確認した後、剣を鞘に納めた。諦め悪く攻められたら、キュリアスも相手を倒さざるを得なくなっていただろう。獣の命を奪うのは、必要な時だけにしたい。そう思うキュリアスにとっては、逃げてくれて助かったというべきだった。
後ろを振り向くと、銀色の子供の狼が岩かげで震えていた。母を呼ぶのか、物悲しい声を上げている。しかし、応えるものはいなかった。
子狼は動こうとしない。ここで母に呼び掛け続け、迎えが来るのを待つつもりなのかもしれない。だが、それでは、先ほどの狼たちが戻ってきて、なぶり殺されることになるだろう。
「おい。早く逃げた方がいいぞ」
キュリアスは声をかけた。言葉を理解するとは思えないものの、警告を発せずにはいられなかった。
「あいつらの縄張りだ。またいつ襲われるとも限らないぞ」
子狼はつぶらな瞳を上げ、小首をかしげるようにしてキュリアスを見上げた。この場にマデリシアがいたら、歓喜しただろう。
「かわいいー!」
と言って、抱きしめに行くと想像できた。キュリアスでも、子狼のつぶらな瞳に見つめられると気持ちが揺らいだほどだ。
さすがに野生の動物へ、無造作に駆け寄るような無茶はしない。マデリシアならやりかねないな、とキュリアスは思いつつ、しゃがんだ。
キュリアスがじっとしていると、子狼はよろよろと近づいてきた。後ろ足を引きずっている。大型の狼たちにいたぶられ、ケガをしているのだ。
子狼は逃げられないと悟り、母を呼んでいたに違いない。
「そのケガじゃ逃げられんか」
キュリアスは近づく子狼を観察しながらつぶやいた。助けた以上、このまま放置するわけにもいかない。放置するくらいなら、助けなければよかったのだ。
後悔しても始まらない。キュリアスはため息を漏らすと、思案を巡らせた。
子狼はキュリアスの足元まで近づき、においを嗅いだ。小刻みに震えていた小さな身体から、震えが消えたように見えた。においを嗅ぎながら、顔を上げ、キュリアスをまじまじと見つめる。
野生の動物とは思えない、無警戒さだ。まだ人の恐ろしさを知らないのだろう。マデリシアがいなくてよかった、とキュリアスはつくづく思った。良くも悪くも、マデリシアは子狼をもてあそぶ。
キュリアスは子狼の眼をしばらく見つめた後、そっと手を差し伸べた。その手に子狼が鼻を近づけた。においを嗅ぎ、チロリと舐める。
「人を信用しちゃいけないな」
キュリアスはそう言いながらも、指先で子狼の顎の下をそっとなでた。子狼は逃げることも嫌がることもなく、逆に顎を押し付けてきた。見ず知らずのキュリアスにすがり、信頼している様子だった。
キュリアスに記憶はないが、孤児から組織に拾われた時、キュリアス自身もこの狼の子供のように、相手にすがったのかもしれない。そう思うと、キュリアスはいたたまれない気持ちに包まれた。
子狼を近くの小川に連れて行き、傷口を洗って布を巻いた。キュリアスが処置をする間、子狼は抵抗しなかった。抱えあげても唸りもしなかったのだ。
信頼されたものだとキュリアスは苦笑したが、まんざらでもなかった。そっと抱きかかえ、指で身体をさすってやると、子狼は気持ちよさそうに目を細めた。
大型の狼たちがかなり遠くから、キュリアスの様子を窺っていることは、気配で分かっていた。このまま皆の元へ戻ると、餌を提供するようなものだ。大型の狼たちの監視から逃れる必要がある。
キュリアスは目的地とは別方向へ進み、狼たちを引き付けておいて、不意に狼たちの囲みを突破した。さらに、狼たちの感知できない距離まで一気に駆け抜け、やっと目的地へ向かった。
その間、子狼は安心しきった様子でキュリアスの腕の隙間に納まっていた。
かなり遠回りをしたので、ローグたちに追いついた時、別行動していたマデリシアがすでに合流を果たしていた。
「ちょっと。どこほっつき歩いてたのよ」
マデリシアは開口一番、苦情を言った。が、途中から言葉は宙に浮き、視線がキュリアスの腕の中のものに注がれていた。
「きゃーかわいい!」
マデリシアが駆け寄る。
子狼が警戒するように顔を上げた。マデリシアは相手の反応にかまわず、なでようと手を出した。子狼が牙をむき、その手に噛み付く。
噛み付かれる寸前に、マデリシアは手を引っ込め、別方向からなでようとした。その手を追うように、子狼が首を振り、歯が鳴るほど噛み付いた。それもマデリシアは難なくかわしている。
「ほら、こっちこっち」
マデリシアは手を素早く動かし、子狼が噛み付くのを誘った。しばらく続けても噛み付けないので、子狼はうなり声を発した。
マデリシアは素早く、子狼の首根っこを掴むと、キュリアスから奪い取った。そして激しく首を振って抵抗する子狼を地面に押さえつけると、問答無用にお腹をさすった。その間、マデリシアはかわいいだとか、もふもふだとか、歓喜の声を上げ続けている。
子狼は抗えないことを悟ると、首を振るのを止め、クンクンと鳴きながら、なされるがままとなった。
「おー、よちよち」
マデリシアは押さえていた首根っこを放すと、両手を使って子狼の全身を撫でまわした。
狼と見て、怖がり、遠巻きに様子を見ていたローグやルーイットが、マデリシアにあやかろうと近づき、撫でさせてと言った。ところが、子狼が唸り声を上げ、牙をむくので、二人は飛び跳ねるようにして離れた。
「もうおもちゃにするのは止めてやれ」
キュリアスがマデリシアの手を止め、子狼を奪い返すと、子狼は恨めしげな眼で見上げていた。なぜもっと早く助けてくれなかったのかと、抗議しているのだ。
この後、キュリアスとマデリシアは激しい討論をすることになる。
食料の調達の追求から始まり、どちらが調達してくるのかを争った。ただその一点を言い争うのだが、二人とも本心はそこにはなかった。
片方が食料の調達に奔走している間、残った方は銀狼の子の世話にありつける。つまり、銀狼の子の主導権をかけた争いだった。
4
「まったく!野生の狼を奪い合うってどういう神経しているのかしら」
ルーイットは聞こえよがしに言った。
「人になつかない生き物のどこがいいのかしら」
一度は撫でようと試みた人物のセリフとは思えない。表情にも心残りをうかがわせるものがあった。
キュリアスが銀狼の子を拾ってから一週間経っている。
山の中を移動する間、女性陣は何とかして銀狼の子をひと撫でしようと試みたが、失敗に終わっていた。
ルーイットはとりとめ無く、不満を述べた。
「あーパンが食べたいわ!」
山の中でパンが手に入るわけがない。さらに、自然災害のために小麦が収穫できず、小麦製品全般が品薄どころか、入手できなくなっていた。ルーイットはそれを分かっていて、無いものねだりをしているのだ。
「パスタも食べたい!」
「肉と山菜ならいくらでもあるわよ」
マデリシアが鼻歌交じりに答えた。
「パンより肉だな」
キュリアスも主張する。ルーイットの味方はいなかった。
「寒いわ!暖かいお風呂にゆっくり浸かりたい!」
「よし、どこかに穴を掘ろう。湯を沸かして溜めれば風呂になる」
「泥風呂でいいならね。後、言い出しっぺが水を運んでくださる?」
キュリアスが提案し、マデリシアは自分に仕事が割り振られないように、機先を制した。ただ、泥風呂は嫌らしく、話はまとまらなかった。
ルーイットはその他にも、持ち運べる暖炉が欲しいだとか、景色を見飽きたとか、珍しい動物はいないのかだとか、色々言ったが、どれも実りはなかった。
「それにしても、あたいたち、どこに向かってるのかしら?もしかして、迷子なんて言わないわよね」
「エッジ。今どのへん?」
先頭を行くマデリシアは振り向かずに言った。
キュリアスは腕の中の子狼を起こさないようにそっと抱いたまま、辺りを見渡した。南の低い山を顎で示す。
「あそこを越えればハンデルだ」
「なぜ分かるの。でまかせでごまかさないでくれる?」
ルーイットは食い下がった。
山に入らず、街道を歩けば道に迷う心配はない。徒歩で十日ほどかかるが、道中に宿場があり、野宿も必要なかった。
山に入った結果、野宿を続け、すでに一週間だ。幸い、キュリアスやマデリシアが、鹿だ、猪だ、兎だと、獲物をしとめてくるので、食べ物には困らなかった。
マデリシアが川魚を獲ってきたときは、ラルフは食欲がないと辞退した。キュリアスも抵抗を感じたものの、しっかりと食べた。
キュリアスとマデリシアのおかげで、食べ物で不自由することはなかった。小川や湧き水もあり、豊かな山のようだった。
枯れ枝や落ち葉も多いので、それらを集めて火をおこし、湯を沸かして身体を拭いたり、頭を洗ったりすることもでき、比較的不自由なく旅してきた。
しかし、寝泊まりだけは不自由した。寒空の下、落ち葉にくるまって寝たこともあった。洞窟で肩を寄せ合って寝たこともある。
追跡する足跡が山奥に入り込まなかったことが、救いだった。見上げれば、雪に閉ざされた山が見えるが、キュリアスたちの進む辺りに雪はほぼない。たまに岩陰に残雪を見かける程度だった。
ただ、谷を下り、上るという道のりは、景色の変化が乏しい。さらに、谷間を避け、険しい峰を避けて右へ左へと進むうちに方向感覚が狂い、どこに向かっているのか分からなくなる。
居場所の定まらない不安や、ベッドの恋しさも相まって、ルーイットは日増しに不満をもらすようになっていた。それは多かれ少なかれ、皆の気持ちを代弁するものだった。
クリスとラルフは旅の疲れで、口数が少なくなっている。平地の旅とは違い、上り下りを繰り返す山道は、足腰への負担が大きく、身体の出来上がっていない二人には苦痛でしかなくなっていた。
ローグはさすがに平気そうな顔をしているが、彼女も時折、足をふらつかせ、上りともなると荒い呼吸になるのだった。
まるで疲れを見せない二人がいる。マデリシアとキュリアスである。
マデリシアは足跡の追跡に専念していても、方向は見失っておらず、歩いてきた距離から、ハンデルまでおよそ一日程度の距離だと分かっていた。それをあえてキュリアスに尋ねたのは、キュリアスの方が正確な距離を把握していると考えたからだった。あるいは、ルーイットの相手が煩わしかったからかもしれない。
キュリアスは南に見える低い山に見覚えがあった。数年前、その山を越えてハンデルへ入ったことがあった。道なき道を進むのはいつものことなので、方向感覚を研ぎ澄ませておくことと、地形を覚えておくことが習慣付いている。
キュリアスの感知能力でも、さすがに山向こうまでは届かない。もしも届いていれば、山の南側に位置する街道の、往来の気配を感知していただろう。
当分酒を摂取していないためか、あるいは自然の中で生活しているためか、いつもより広範囲の気配を察知していた。膨大な情報量が頭に飛び込み、神経を逆なでするかのように流れ続けていた。
無神経に流れ続ける情報に、キュリアスは苛立っていた。その多くが大して役にも立たないものだ。同時に、近くにいるモンスターや危険な獣の気配も察知できているので、流れ込む情報を遮断するわけにもいかない。もちろん遮断する方法もない。
自分に制御できないものなので、キュリアスは苛立ちを覚えずにはいられなかった。苛立つにつれ、キュリアスの口数も減っていた。
キュリアスの腕の中で子狼が身動ぎした。腕に食い込む足の感触が、その温もりが、キュリアスの心を和ませてくれる。もしも子狼がいなかったら、キュリアスは事あるごとに一行から離れ、憂さ晴らしに駆け回るなり、狩りをするなりしていたに違いない。
「マディ」
先行するマデリシアを呼び止めた。キュリアスの感知しているものに接近していた。
「後一時間程度で前の集団に追いつく」
立ち止まったマデリシアに追いつくと、キュリアスは小声で告げた。
「そろそろだと思った」
彼女も追跡する相手と近づいていることを察知していた。
「あっちでしょ」
南東を指差した。キュリアスが頷くと、マデリシアは遠くを見るように眺めた。木々に埋め尽くされ、何かがあるようには見えなかった。
「その先にアジトがあるようだ」
キュリアスはそう言うと、南東に見える岩山を指差した。
「あそこに見張りがいる」
「いい位置を押さえてるわね」
マデリシアは木陰から窺った後、感心したように呟いた。
「ローグが具体的な位置を知っていればいいのだけど」
「あの岩山の傍に砦の跡がある。そこを根城にしているのかもしれないな」
「よく知ってるわね」
「まあな」
キュリアスは肩をすくめてみせた。マデリシアも理由を追求することはなかった。
「そうね。とりあえずどこか休憩できる場所を見つけましょ。それから見張りに見つからないルートを確保して…」
マデリシアは上の空でぶつぶつと言った。
キュリアスは後方から登ってくるディズマ姉弟とローグを眺めた。
ラルフがいつの間にか、ローグに並ぶほどのペースで歩けるようになっていた。キュリアスは思わず感心した。しかし、すぐにディズマの人々に関心を戻した。
「あいつら、親の作った盗賊団に入ろうとしていたんだろう?」
「え?ああ、そうよ」
「密告される心配は?」
「どうだろう。そうね、せっかく見張りをかわしていけても密告されたら意味ないものね」
マデリシアは考えをまとめるように言葉を口にした。
「今のディズマ一家は矜持を失っているんだけど、人から言われてはいそうですかと納得もできないでしょうからねぇ。駆けこまれないように気を付けておくわ」
「そっちは任せる」
「あれ?いっしょに来ないの?」
「ああ。俺は一度ハンデルへ行ってくる」
「彼に会ってくるのね」
「一応、話はつけておいた方がいいだろう」
「ついでにラルフを預けてくるつもりかしら?」
「そのつもりだ」
「ケビンは連れて行けないわよ」
マデリシアは子狼をケビンと呼んだ。
「勝手に名前つけやがって」
「いいのよ。ねぇ、ケビン」
子狼は薄目を開け、マデリシアをちらりと見た後、キュリアスの腕の隙間に鼻をうずめて眠りに落ちた。
子狼はマデリシアに逆らえないことを理解した様子で、この旅の間、抵抗を止めていた。しかし、ルーイットやローグが触ろうとすると、牙をむいて抵抗する。この差にルーイットが苛立つのだが、子狼はそもそも、マデリシアにも抗いたいのだ。ただ、身体が小さく、マデリシアに敵わないがために、おとなしくしているにすぎない。
子狼は唯一、キュリアスには全幅の信頼を寄せていた。まるで子犬のように付き従っている。命の恩人だと理解している様子だった。食べ物もキュリアスが獲ってくるので、当然とも言えた。
キュリアスは獲物を狩りに行くときも、子狼を連れて行った。時には四つん這いになり、獣のように獲物を襲うマネをしてみせた。子狼に狩りを見せているつもりである。
いつまでも子狼を連れて歩くわけにはいかない。子狼のケガが治り、狩りができるようになれば、野に放たなければならない。キュリアスはそう考えていた。
銀狼は珍しい。珍しい獣を飼いたがる金持ちの眼に止まれば、捕まり、檻の中で暮らすことになるだろう。また、銀狼の毛皮も好事家たちの嗜好心をくすぐる一品だ。
下手に人に慣れ、近づくと、ろくなことにならない。
キュリアスは思わず葛藤した。町へ子狼を連れて行くのはまずいと分かっていても、置いて行くのも気が引けた。
「あたしがしっかり面倒見るわよ」
マデリシアはキュリアスの葛藤を見越して言った。
「いたぶるの間違いだろ」
「ひどっ!ちゃんと可愛がります!」
「おもちゃにするの間違いだろう」
「しないわよ!」
「ほう。じゃあ、わしゃわしゃしないな」
「わしゃわしゃするわよ。だいたいエッジばっかりずるいのよ。ちょっとはあたしにも抱かせなさいよ!」
「嫌がってる」
「嫌がってないわ!」
キュリアスとマデリシアの会話はいつの間にか低俗な言い争いに変わっていた。どちらが子狼のためを思っているかだとか、どちらが懐かれているだとか、子狼を育てるにはどちらが向いているだとか。
「またやってるわ。くだらない」
討論の場に追いついてきたルーイットが顔をしかめた。隣のローグも苦笑している。
「そんな人に懐かない犬っころなんてどこかに捨ててくればいいのよ」
「なんだと」
「なんだって」
言い争っていた二人が急に、声をそろえてルーイットを睨みつけた。
「な、何よ!」
ルーイットは気圧され、後退りながらも声を張り上げた。途端に、マデリシアが駆け寄ってその口を押さえていた。
「あんたね。状況をわきまえてくれる?」
ルーイットがふさがれた口でもごもごと反論している様子だ。何を言っているのかは分からないが、反抗的な眼が多くを物語っている。
状況がどうこう言う割に、自分たちは散々言い争いをしていたのだ。あんたらは良くてあたいはダメって、そんな理不尽な事あるわけないわ。ルーイットの眼が、そう語っているようだった。
マデリシアは相手を変え、言い争いを続けた。
ラルフが追い付いてきた。呼吸は乱れているものの、初めのころとは違い、倒れ込むようなことはなかった。だいぶこの山旅に慣れてきたことがうかがえた。
キュリアスはラルフの様子に小さく頷いた。短期間とはいえ、ラルフの体力作り、足腰の筋力アップに一定の効果が見て取れた。
クリスはだいぶ遅れて追いついた。疲れ切っている様子で、彼は立ち止まるなり、地面に倒れ込んで、肩で呼吸した。足も痛むらしく、しきりにさすっている。
クリスはディズマ一家という盗賊団に入ろうとしている。自身の親が造った盗賊団なので、親と同じ道を歩みたいと考えているのだろう。盗賊ならば、山道のような悪路でも平然と進めるような足腰が必要と思われるが、クリスにはまだ備わっていない。
盗賊の技術に関して詳しくないキュリアスでも、クリスは未熟だと分かる。これでは真っ当な盗賊団でも、入団を渋るのではないか。人殺しもいとわない凶悪なディズマ一家ならば、なおのとこ、足手まといを嫌うと思えた。
「ローグ」
キュリアスが振り向いて声をかけると、ルーイットとマデリシアの言い争いを見守っていたローグは顔を向けた。
「ディズマ一家の入団の条件とかあるのか?」
「酒を盗んでくれば考えると言われたわ」
ローグの表情が望み薄だと付け加えている。
「ま、同じ盗賊やるにしても、もう少し修業が必要そうだ」
「そうかもしれません」
「しかし、ディズマ一家じゃないとだめなのか?無理して入ることもないだろう」
「ディズマの姉弟ですよ」
「新しいディズマ一家を造ればいい」
「いえ、え、でも、すでにあるのですよ」
キュリアスの何気ない提案に、ローグは珍しく動揺を見せた。ただ、すでにある名前を名乗れば、後にトラブルになることも想像に容易い。
「ディズマの矜持を継ぐのはどちらか、体現してみせればいいだけだろう」
キュリアスがいとも簡単に言ってのける言葉に、ローグは何も言い返せなかった。
「まあそれはいいさ。俺の関わる問題じゃない」
キュリアスは話題を終わらせると、顎で南東を示した。
「あっちにディズマのアジトはあるのか?」
キュリアスは砦の跡地があることを知っていたが、それでもディズマ一家に関わるローグが何か知ってはいないかと、念のために尋ねていた。
ローグはキュリアスの示す方向を振り向き、自分の見た方向が間違いないのかを、キュリアスを見て確認した。今度は木陰まで移動して覗き見た。
「私は知りません。ただ、見張りがいるようですね」
木陰から戻ったローグが言った。
「よく分かったな」
「岩場の上で何かが動いていましたから」
「俺たちが追っていた連中が行きつくころだからな。見ていたんだろう」
キュリアスの腕の中で、子狼が顔を上げた。
「起こしちまったか。すまんな」
そっと耳の後ろを撫でてやると、頭をその指に押し付けてくる。こういう時の子狼は野性味の欠片も感じさせない。キュリアスはキュリアスで、押し付けてくる感触が心地よく、耳の後ろを掻いてやるのだった。
後ろでマデリシアが不満の声を上げ、ルーイットが羨まし気に見つめていても、キュリアスはお構いなしで、子狼を相手にしていた。
5
町のあちこちに明かりが灯っていた。ハンデルは小さな町ながら、王都に負けず劣らず、整備が行き届いていた。石畳の道に、街灯まである。火を灯したランタンをあちらこちらに吊り下げていた。
王都セインプレイスのような外壁はない。出入りも自由に行えたが、要所要所に守備隊の詰め所があり、数人の兵士がたむろしていた。
日が暮れてしばらく経つというのに、通りを歩く人の数は多かった。
キュリアスは通りかかった人に声をかけ、守備隊の本部の場所を尋ねた。
「この先の、ほら、あそこを右に曲がったら真っ直ぐだよ」
酔っているらしく、顔を赤らめている中年男が親切に教えてくれた。キュリアスが礼を述べて立ち去るのを、男は手を振って見送っていた。
「何か、すごい所ですね」
ラルフは辺りを見渡しながらつぶやいた。セインプレイスでも、そこら中にランタンを配置していない。夜は家から洩れる明かりのみだ。
ハンデルは小さいながらも、セインプレイスより明るく、それだけで華やかに見えた。
「貿易の拠点だからな。商人が町の整備に援助しているのかもな」
キュリアスは物悲しく腕をさすった。山を歩く間、ずっと抱えていたものが無くなると、手持無沙汰だ。
教わった道に入ってしばらく進むと、行く手を阻むように塀があった。塀の奥に広い庭があり、その先に質素な二階建ての建物が見えた。所々の窓から明かりが漏れている。
夜分なのでさすがに人は見えないが、昼間なら、この塀の内側の庭で、兵士が訓練しているに違いない。
塀を回り込んで門を探す。石畳に明かりを投げかけている場所があり、すぐにそれと分かった。
門の両脇に鎧姿の兵士が立ち、かがり火が勢い良く燃えていた。
門の横に明かりの洩れる場所がある。兵士の詰所のようだ。
近づいてきたキュリアスたちを、兵士が睨みつけた。詰所からも別の兵士が顔を覗かせる。
「何か用か」
詰所から顔を出した男が言った。
キュリアスは名乗ると用件を告げた。
「マルス・ジャストゥースにキュリアスが来たと伝えてもらえるか」
「マルス?誰だ?」
兵士があざ笑うように言うと、門脇に立っていた兵士たちも笑い声をあげた。
「ほら、金で地位を買った成り上がりがいただろ。あいつじゃないか?」
門脇の片方が言った。
「ああ、あいつか。そんなご立派な名前だったとは知らなかったぜ」
詰所の兵士が言うと、三人ともに笑った。
「あのエセ貴族なら、いないぜ」
笑いが収まった後、そう答えて、再び笑った。
「どこへ行ったか教えてもらえるか?」
キュリアスは感情を押さえ、行き先を尋ねると、兵士たちの笑いが一斉に止んだ。
「任務にかかわることでね」
詰所の兵士がキュリアスとラルフを見比べた。
「冒険者風情に教えることはできん」
そう言って腰の剣に手を添えた。これ以上尋ねるのなら、権力に物を言わせると、態度で示していた。
キュリアスならばもちろん、この程度の兵士の数人、どうということもない。ただ、いざこざを起こすと、マルスに迷惑が及ぶので、キュリアスは大人しく引き下がった。
詰所から見えない路地へ入る。
ラルフは黙ってついてきた。
マルスは仲間にまるで信用されていない様子だった。キュリアスは自分が蔑まれたような気持ちになり、腹が立った。あのまま詰所の前に残っていたら、兵士たちを殴り倒していたかもしれない。
マルスはキュリアスより九つ年上だ。孤児だったキュリアスをマルスが組織に引き入れた。そして、キュリアスに剣技を教えた。
身寄りのないキュリアスにとって、親身に接してくれるマルスはいつしか、兄のような存在になっていた。
その兄を侮辱されて平静でいられるわけがなかった。ただ、マルスは自分の立場を悪くしてでも、キュリアスを守ってくれた。そんな彼の立場を悪くするようなことは、弟として、できるはずもなかった。
キュリアスがマデリシアやシャイラベルの暗殺依頼を拒絶し、逆に暗殺を請け負った組織を壊滅させようとしたときも、マルスはキュリアスに加担し、共に組織を壊滅させた。
共に冒険者となり、仲間として旅をした。数ヶ月前、遺跡を発見して、マルスともう二人の仲間が冒険者を引退するまで、キュリアスと共に行動していた。
マルスは国に残してきた家族を引き取るためにも、真っ当な職業について生活の基盤を作りたいと、兵士になる道を選んだ。
また兵士になるのかよとキュリアスが笑っても、マルスは動じなかった。
「今度は仕える相手も選ぶ。間違ったことには間違っていると主張するさ」
マルスはそう言って、キュリアスのもとを去っていった。
マルスは不安を抱えていなかったわけではない。
キュリアスと共につぶした組織はある国の一機関だ。それ故に、マルスはその国へ戻ることが叶わない。家族を迎えに行くことができないのだ。
国に痛手を負わせたので、あるいはマルスの家族は捕らえられているのかもしれない。天涯孤独のキュリアスは残してきたものなどないので気楽なものだが、マルスは違った。日々、妻や子供の安否を気にかけていた。
マルスの妻や子供が捕まっていなければ、秘かに出国させ、共に暮らそうと、マルスはその工作費を稼ぎ、後の暮らしまで考えて行動していたのだ。
もしもマルスの家族が投獄されていた場合でも、金を積めば、逃がしてくれる手合いもいる。幸いなことに、最後に発見した遺跡の身入りはかなり良く、脱獄させる費用も賄えるだろう。
できることなら、キュリアスがマルスの家族を連れ出しに行きたかった。だが、キュリアスもその国から追われる身だ。下手に動けば、逆にマルスの家族に害が及ぶ。指をくわえて見ているしかなかった。
キュリアスの知る限り、マルスは家族想いで、責任感が強い。キュリアスの引き起こす騒動も加わって、今まで多くの苦労を、その背に負ってきた男だ。そろそろ報われてもいいだろうと思うのに、新たな職場でも歓迎されていない。
マルスほどの男を嘲るような兵士は、殴り倒してわきまえさせた方がよかったのではないだろうか。そんな感情に流されそうになる自分を、キュリアスは拳を握りしめることで何とか抑えていた。
キュリアスの静かな怒りをラルフは感じ取っているのか、押し黙ったままだった。
キュリアスはラルフの視線に気づき、苦笑した。
「とにかく宿だな」
キュリアスはそう言って歩き出す。ラルフも従った。ただ、気になることは口に出した。
「あの、盗賊団のことを伝えなくてよかったんですか?」
「あの様子じゃ、聞く耳持たんだろ」
「でも」
ラルフは盗賊を取り締まるのも守備隊の仕事と考えており、盗賊の情報は当然守備隊に知らせるべきと真面目に考えている様子だ。
「止めておけ。ただでさえ冒険者を蔑んでいる連中だ。冒険者が何を言おうが取り合うまい」
「じゃあどうするんです?」
「マルスが捉まれば問題なかったんだがな…。さて、どうしたものか」
「明日の朝、もう一度行ってみましょう」
「いや、マルスの行き先を探すか、マディの元へ戻ってあっちを手伝うか、だな」
「そのマルスって人の行き先をもう一度聞きに行くんですか?」
「いいや。守備隊の一部が動いているとなるとどこかに噂の一つや二つあるだろう。酒場を覗いてみるか。駄目なら、俺たちで盗賊狩りだ」
ラルフは追及しなかった。キュリアスがラルフをハンデルまで伴った理由は剣技の師匠をつけるためだった。そのことをキュリアスが忘れているようなので、これ幸いと触れないようにしていた。ラルフはキュリアスに教えてもらいたいのだ。その願いに近づきそうで、期待の笑みを浮かべていた。
ハンデルにも冒険者の宿があった。セインプレイスのそれと同様、一階が酒場で、二階に宿泊用の部屋がある。
酒場は繁盛しているようで、ほぼ満席だったが、運よく一つのテーブルが空いており、酒場へ入るなり、キュリアスはさっさと最後の空きテーブルを占拠した。
給仕の女性が店内の隙間を慣れた足取りで近づいてきて、キュリアスたちの注文を取った。喧騒の中で同じ言葉を何度か繰り返してやっと注文を終えた。
給仕の女性の後姿を見送って、キュリアスは辺りの喧騒に耳を傾けた。
ラルフは落ち着かない様子で辺りをきょろきょろと見渡しては、視線を逸らしていた。
今日の仕事がどうだったとか、どこの誰それがどうしただとか、世間話や噂話が聞こえてくる。
「また小麦を運ぶ商隊が襲われたらしい」
「パンに飢えた村人に襲われたんじゃないのか」
「俺もパンが食いてぇ!いっそのこと、襲っちまおうか」
笑い声が沸き起こった。おう、やれやれなどと無責任な声も聞こえる。
「この前、山が真っ二つになったのを見た」
別の声が聞こえた。
「あたしは知らないわね。そんなの噂にも聞いたことないわ」
「つい最近の話でね。まだあまり噂になってないのさ」
「へー。そうかい」
相手の女性はそう言った後、話の展開を予想した。
「どうせまたエッジってやつの仕業っていうんだろう?」
「どうして分かるんだ!」
「真っ二つといや、エッジさ」
「そういやそうだ」
「しばらく前にもセインプレイスの半分を斬り裂いて倒壊させたってあったわね」
「あったあった!しかも再建費用を全額エッジが出したってんだから、とんでもねぇ野郎だ」
「金のあるところにはあるもんさ」
どうやら、キュリアスの噂のようだが、山の話は身に覚えがなかった。それに、セインプレイスを倒壊させたのはマデリシアの声だ。俺はあくまで斬り裂いただけだと、頭の中で反論していた。
「猫型のゴーレムがあるんだと」
また別の声が耳に入った。
「何だそりゃ。そんなもの何の足しになるってんだ」
「さあな。魔導科学研究所とか言うところが作って売ってるらしいぜ」
「売れんのか!そんなものが!」
「貴族や金持ちに売れているらしい」
「信じられねぇ!」
キュリアスもそんな噂を小耳にはさんだなと思った。おかげで、動力源となるマナの結晶が売れる。そして、そのマナの結晶が豊富に眠る遺跡の発見者が、キュリアスやマデリシアを含む五人だった。マルスもその内の一人だ。
もう一度セインプレイスを破壊しても、まかなえるだけの収入がその遺跡からの分配にあるなと、キュリアスは算段していた。
事故で何かを斬り裂いてしまうことはよくあることだ。町の一つも、その範疇だから仕方ない。キュリアスは思わず言い訳がましいことを思い浮かべたが、すぐに考えを打ち消した。
「破壊するっていえばアグリクルツで活動する冒険者にもいたわね」
「ん?ああ、あれだろ、拳で何でも壊しちまうやつ!」
「そうそいつ!国を囲む壁を殴って穴を空けたとか」
「えっとなんだっけ?そうそう!剛腕の!」
「マシュー!」
名前を口にする声が重なっていた。
「おい、知ってっか」
後ろの席から聞こえた。程よく酔いが回っているらしく、少し舌が空回っていた。
「近々、小麦が入ってくるらしいぜ」
「どこからって聞くまでもないか」
同席の男が言った。こちらはあまり酔っていないようだ。
「ここにってことならメルカトゥーラからだ」
「そうそう」
「それなら先日もデアダクリ経由で入ったんじゃないのか?」
「それがよ。盗賊に襲われて奪われちまったんだってよ」
「おいおい。またか」
何気なく聞き流していたキュリアスも、盗賊とまたかの言葉に引っかかりを覚えた。
「じゃあ今度は…」
「そうよ。今度はラグマントの南を回り込んで入ってくるんだと」
「また遠回りな陸路でか。ご苦労なこって」
「ところがどっこい」
「ん?まさか、襲われたのか?」
「まだだよ。襲われるんじゃないかって噂さ」
「どこ情報だ?」
「だってよ、守備隊が護衛に向かったらしいぜ」
「守備隊ってあれか?この前の」
「そうそう」
「新兵二十人ばかりだったじゃないか。あんなのくその役にもたちゃあしない。それに、新任の隊長様だろ?もし本当なら、返り討ちにあって終わりだ。ただの訓練だろ」
「でもよう。そこに第二王女様も加わったって聞いたぜ」
「何?あの白銀の鎧の騎士もつれてか?」
「らしいぜ」
「あながち、護衛ってのも間違っちゃいないのかもな」
「新兵だけどな」
呂律の回らない声で言うと、役にたちゃあしないと笑った。
「あの女騎士には死んでほしくねぇな。どうせ死ぬなら、一度俺の相手をしてからにしてくれ」
相手がそう言って笑った。下卑た笑いが広がる。
給仕の女性が飲み物と食事をキュリアスとラルフの前に置いた。キュリアスの差し出した料金とチップを受け取り、笑顔を残して離れた。
「その護衛が出発したのはいつだ?」
キュリアスは身体ごと後ろに向いて声をかけた。後ろの二人組が怪訝そうな顔をしていたが、キュリアスに運ばれてきた酒を、酔いの回った赤ら顔の男に差し出すと、嬉しそうに受け取った。
「今日の昼間だよ」
気安く答えて、酒をあおった。
キュリアスは離れて行く給仕の女性に声を張り上げて、手ぶりを交えて後ろの席に酒を頼んだ。
後ろの席から、ありがとよと声がかかる。キュリアスは手を上げて答えた。ふと思いついて、もう一度後ろに尋ねた。
「その商隊はいつ頃ここに来る予定なんだ?」
「さあ」
呂律の回らない男は一言で終わった。
「迎えに行ったんだから今日明日ってわけじゃないだろ」
もう一人が考えを述べる。
「それもそうだな。いや、邪魔して悪かった」
キュリアスは礼を言うと自分のテーブルに戻り、食事にかかった。
シャイラベルが関わっていると聞いて、気持ちが急いている。キュリアス一人ならば、食事も放り投げて飛びだしていただろう。
テーブルの反対側に座るラルフには食事と睡眠が必要だ。しかし、キュリアスが飛びだせば、彼も追いかけてくるだろう。ついてくるなと言っても、必死に追いかけてくるに違いない。
夜、ラルフが眠ってから旅立つか。置いていくのならば、これが一番手っ取り早い。書き置きの一つも残しておけばいいだろうとキュリアスは考えた。
しかし、残されたラルフはどう思うだろうか。キュリアスのことを師匠と呼び、慕ってくれる少年は、見捨てられたと思うのではないだろうか。書き置きなど、ただの言い訳に過ぎない。
そこまで急がなくていいのかもしれない。守備隊や第二王女の一行も夜は移動しない。また、新兵を連れての行軍となると、ペースはどうしても遅くなる。
明日の日の出前に出発すれば、夜には追いつけるのではないか。遅くてもその次の日には追いつける。
盗賊の方が待ってくれないかもしれない。今晩、あるいは明日の晩辺りで襲っている可能性は否定できない。ただ、マデリシアが追跡した、ディズマ一家が関わっているとすれば、少なくとも今晩というのはないと思えた。
ディズマ一家は今日アジトに到着したばかりだ。身体を休め、早くても明日出発、あるいはもう一日後に出発すると考えるべきだ。
明日の晩、あるいはそれ以降だなと、キュリアスは考えた。そこで一つの疑問に行き当たる。
ディズマ一家が襲うと仮定すると、かの盗賊団は小麦を運ぶ商隊の動きを把握していることになる。街道の傍にアジトがあるのならば、手当たり次第襲えばいいが、どうも小麦を運ぶ商隊に狙いを定めているように思えた。あくまで、小麦を限定して狙っていると仮定して、の場合ではあるのだが。
商隊がいつごろ、襲いやすい場所に差し掛かるか見当をつけているのではないか。
商隊の積み荷を知り、旅の行程まで把握しているとなると、盗賊団以外の誰かが関わり、情報を流している可能性もあるのではないか。
この可能性が、キュリアスの頭に警鐘を鳴らしている。だが、キュリアスにその先を考察する材料など持ち合わせていない。
皿の上が空になっていた。口の中に何の味も感じない。
守備隊は襲撃されると分かっているから、新兵を送ったのか。守備隊も盗賊団に情報を流している側と疑える。形ばかりの護衛を送って世間体を取り繕う。新兵ばかりなので、盗賊団の邪魔にはあまりならないはずだ。新任の隊長がそこで死んでしまうことを望んでいるのではないかと思えた。
疑えば疑うほどに、疑問が膨らんでいく。
襲う側にとって、マルスは想定外の人物となるだろう。だが、マルスとて、新兵を率いてとなると、自分たちの身を守ることで精一杯だ。
同じく、シャイラベルに付き従う白銀の鎧の騎士、フラムクリス・アルゲンテースも襲撃者の計画を狂わせる逸材だ。シャイラベルがいるならば、彼女も必ずいる。そして、命に代えても、シャイラベルを守る。
ほんとうにそうだろうか。フラムクリスとて、多数の敵に囲まれてしまえば、シャイラベルを守り切れないのではないだろうか。
マルスもそうだ。足手まといになる新兵を指揮して、果たしてまともに戦えるだろうか。新兵をかばってマルスが傷付き、あるいは倒れることもあるのではないだろうか。
いや、フラムクリスほどの腕前なら、盗賊程度、どうということもない。マルスもしかりだ。キュリアスは不安を取り除くように、二人の力量を考えた。
キュリアスが急行しなくても、シャイラベルは無事だろう。そうは思うものの、もしものことが脳裏を過り、キュリアスは居ても立っても居られなくなるのだった。
商隊には別に、冒険者などを雇った護衛が付いている。その護衛は新兵などよりよほど戦力になる。新兵が物の数に入らないとしても、護衛と、マルス、フラムクリスとその部下が、戦力となるはずだ。少々の盗賊など、返り討ちにすると思われた。
しかし、襲撃者の人数次第では、どうなるか分かったものではない。それも、襲うなら、夜陰に紛れての奇襲攻撃になる。初動で混乱させられると、守る側は圧倒的不利に追い込まれる。
やはり今すぐに後を追うべきではないか。
キュリアスは顔を上げた。切羽詰まった表情をしていたのだろう。ラルフが不安そうに見つめていた。食事の手も止まっている。
少年の眼が、置いていくなと訴えているように見えた。その非難の視線は、キュリアスの思い過ごしなのかもしれない。が、訴える眼だと感じた初見を覆すことはできなかった。
どちらにしても今日は大丈夫だ。
キュリアスは頭の中で、自分に言い聞かせた。
「ラルフ。今日は早く休め。明日は日の出前に出発する」
気持ちが揺らぐ前に言葉にしておいた。
「はい」
ラルフは連れて行ってもらえることに喜んでいた。食事を急いで口の中に放り込み、ほとんど飲み込んでいた。
6
マルス・ジャストゥースは困っていた。
新兵たちはまだいい。新兵たちは立場上、マルスの言葉に従う。しかし、副隊長は事あるごとに不平を述べ、指示にも従わない。あまつさえ、勝手な命令を出す始末だ。
このままでは新兵たちの中にも副隊長を見習って、マルスの言葉を聞かず、自分勝手なことを始める可能性がでてくる。
放っておいてもいい。いざ戦いとなると、そういう身勝手な奴から死んでいくだけだ。身勝手な連中の身の安全まで、隊長であるマルスが責任を負う必要はない。
だが、隊長である以上、身勝手に死なれても責任を問われてしまう。特に、マルスのことを快く思っていない、副隊長以下、ハンデル守備隊の隊員たちから非難を浴びせられる。彼らはマルスをその地位から引きずり降ろしたくて手ぐすねを引いて待っている。その機会をこちらから示すのも面白くないことだ。何とかしなくてはならない。
副隊長の指示で、再々、行軍が止まる。ただ商隊を迎えに行き、護衛するだけのはずが、
「そこの薮で物音がした。調べてこい」
だとか、
「あそこは地形が悪い。斥候を放って伏兵に警戒しろ」
などと、副隊長はもっともらしく理由を上げて行軍を止めていた。
街道を行きかう旅人が、兵士の挙動や副隊長の怒声を横目に、不思議そうな表情を浮かべて通り過ぎた。
ここは戦地ではなく、人の往来のある、街道である。守備隊の軍事行動さながらな進軍は、周りから見ると滑稽に映るようだった。
旅人の歩く横で、薮を槍でつついてみたり、数人の兵士が丘を回り込んでみたり、岩壁があると回り込んで登ってみたりしていれば、ただの不審者にしか見えなかっただろう。
戦地であれば、必要な行動だ。だが、民間人が気軽に旅する横で、一体何を警戒しているのかと、訝しむのは当然のことだ。
そもそも、護衛対象の商隊と合流しなければ、盗賊への警戒も無意味なのだ。盗賊は兵士を襲ったりしない。兵士に喧嘩を売るくらいなら、商隊に飛び込む方を選ぶだろう。
護衛の兵士を足止めしておいて、商隊を襲うということはあるが、商隊と合流していない今、足止めも考慮する必要はなかった。
マルスに言わせれば、
「昼間の街道で何を警戒する必要があろうか」
であった。
合流する前に商隊が襲われては、この任務は無意味となる。ならば、一刻も早く合流を目指すべきだ。
「おい!そこの森が怪しい!斥候を出せ!」
副隊長の声が響き渡っていた。
マルスはため息をもらし、茶色い髪をかきむしった。ちらりと横の人物の様子を窺った。
マルスの傍で、淡いオレンジ色の髪の少女が意味ありげにほほ笑んでいる。その隣を行く白銀の鎧の騎士も、事態を面白がっている節があった。
マルスは胃液が逆流でもするのではないかと思えた。胃がキリキリと痛む。
「まったく、査察でも受けている気分だ」
マルスは声にこそ出さなかったが、口の中でぼやいていた。
淡いオレンジ色の髪の少女はシャイラベル・ハートだ。マルスの新たな仕官先、フォートローランスの第二王女である。
隣の白銀の騎士は、第二王女専属の護衛で、フラムクリス・アルゲンテースという名の女騎士だ。
シャイラベルは言うまでもなく、マルスより地位が上で、いわば雇い主の側である。また、フラムクリスは衛兵扱いで、兵士の中でも位は上位にあたる。つまり、フラムクリスもマルスの上官に位置することになる。
マルスは軍のお歴々を迎え、行軍訓練を行っているような気分に陥っていた。査察相手に醜態をさらしている現状に、隊長のマルスがどう対処するのか。それをシャイラベルもフラムクリスも観察しているに思えた。その結果如何で、マルスの今後が決まるのだ。
マルスはまごつく新兵の様子から、査察官の視線を少しでも逸らせようと、脈絡もなく、世間話を振った。
「ラグマントも眺める分にはいい所ですね」
マルスは前方に見える山脈のことを言った。
東方と分断する険しい山脈が、山頂を白く飾り、神々しく視界を塞いでいた。美しい光景ではあるが、そこは人を寄せ付けない険しい山岳地帯でもある。
ラグマント山脈があるが故に、東方の国との貿易は、北か南に迂回せざるを得ない。
山脈の北側にデアダクリという巨大な湖がある。商隊の多くはこの湖を、渡し船を利用して通行する。当然ながら、渡し船は運賃が必要だ。また、渡し船を待つため、湖畔の町に泊まることにもなる。そう言った町の宿泊費は、割高であった。
山脈を南に大きく迂回する陸路もある。こちらは日数が余分にかかってしまうことを除けば、費用は削減できる。ただ、陸路の上、日数が増えるので、モンスターや害獣、盗賊に出会う危険も増してしまうのが難点だった。
マルスたち、ハンデル守備隊が迎えに行く商隊は小麦を運んでいる。小麦を運ぶ商隊は今まで、国の事情を顧みて、時短経路を選択していた。
フォートローランスは昨年、収穫期前に大雨による自然災害に見舞われた。結果、小麦の多くが収穫できず、枯渇することになった。国民食でもあるパンも在庫が尽き、食生活を脅かす状態だった。そういう事情から、早急に運び込めるデアダクリ湖経由が選択されてきた。
ところが、湖を渡った後に、商隊のことごとくが盗賊に襲われた。どういう訳か、盗賊は小麦を狙うようになった。あまりの頻度に、小麦をあえて狙っているとしか思えなかった。南方の国からの小麦の輸入も同様に、盗賊に襲われ、一粒として入荷できずにいた。
国内の小麦の備蓄は底をつき、僅かばかりの小麦を取り合って、異常な高値になっていた。国民食のパンが、庶民には手の出せない、高級食材に早変わりしていた。
政治経済にかかわる貴族や王族たちは、小麦の入手に奔走していた。第二王女もその一人である。
だが、成果は皆無に等しかった。
それだけに、今回の商隊、特に積み荷の小麦は重要だった。この商隊が小麦を持ち込めば、庶民の暮らしを、食を守ることができる。その思いでシャイラベルは行動しているはずだと、マルスは見ていた。
重要な使命を帯びたシャイラベルはきっと、この遅々として進まない行軍に苛立っているに違いないと、マルスは恐縮する思いだった。少しでも気持ちを和らげておこうと、景色の話をしてみたものの、間が悪かったように思えてならない。
「雪化粧もいいですが、夏場の景色も心洗われますよ」
シャイラベルはラグマント山脈を眺めて答えた。
内心は遅々と進まない行軍に不満があるはずだとマルスはシャイラベルの横顔を見たのだが、彼女の表情に焦りの色は見当たらなかった。景色を楽しんでいるらしく、落ち着いた笑顔を浮かべていた。
出発前に、迎えに行く商隊がどの程度の位置まで来ているのか確認していた。急げば、明日にも出会えるはずだが、このペースでは、明後日になるかもしれない。
商隊との合流が遅れれば遅れるほど、護衛対象が消失するという任務不能が発生しかねない。逆に、合流さえできれば、新兵と言えど、商隊を守る役には立つはずだった。
もしも、間に合わなければ、第二王女の顔に泥を塗ることになる。小麦を運ぶアラガント商会からも、苦言を呈されるだけでは済まないだろう。
間に合わなければ、俺は着任早々、首になるな。マルスは頭の中で苦笑した。首になることは別に構わないが、現状、苦笑の種が多すぎる。
フォートローランスにとって貴重な小麦を運ぶ商隊の護衛という、とても重要な任務だというのに、ハンデルの守備隊は新任のマルスに対する反感で、新兵を派遣した。まるで失敗すればいいと考えているかのようだ。
確かに任務に失敗すれば、マルスの立場は足元から瓦解する。しかし同時に、小麦の輸入を手配した第二王女の立場を危うくすることに、古参の守備隊員たちは気付いていないのだった。
怒りを通り越して、苦笑するしかなかった。それでも、新兵たちがマルスの指示に従うのなら、何とか守り切れる可能性はあった。商隊と合流さえできれば、の話である。
もう一つの苦笑すべき事案は、副隊長の存在そのものだった。彼はマルスが間に合わず、失敗することを願っているかのような行動を繰り返していた。いや、ようなではないな。明らかに遅延行為を行っている。マルスはそう考えて、やはり苦笑するのだった。
いっそのこと、こいつらを置いて一人で向かった方が守れるな。マルスは思わずそんなことを考えていた。第二、いや、第三の人生設計をいきなり壊すことはないと考えを改めた。
それにしても、である。元冒険者というだけで、守備隊からこうも邪険に扱われるとは思いもしなかった。ぽっと出の男がいきなり隊長というのも気に食わないのだろう。
古参の守備隊員たちは気心が知れず、信用のおけないマルスをとにかく排除したがった。しかし、そのようなことを気にしている場合ではないはずだった。一丸となって、枯渇した小麦を入荷し、庶民の食事を守らなければならない。そうでなければ、国が揺らぐ。
民を守るのが守備隊の仕事のはずだ。ならば、今は何を成すべきか理解できようというものだ。それが理解できないのが、今の守備隊である。この任務に成功しても、今後が思いやられると、マルスはなおのこと、苦笑せずにいられなかった。
副隊長がまたもや行軍を止め、北側の林を調べるように兵を派遣した。
困ったな。マルスはため息が漏れそうになるのを耐えた。
ハンデルの守備隊から人員を出すように依頼した第二王女が、この状況によく我慢しているものだ。マルスはシャイラベルの顔色を窺いながら、この事態をどうしたものかと思案した。
その矢先に、マルスにとっては幸運な事態が発生する。副隊長にとっては、不幸な出来事と言える。
何か影のようなものが視界の隅を抜けると、副隊長が崩れ落ちた。マルスは咄嗟に腰の剣の柄に手を伸ばして身構えたが、すぐに構えを解いた。
「まだこんなところで油売っていやがったのか」
影が言葉を発した。
「まあ、おかげで追いつけた」
日中の、人の前に出てなお、その人物は影と見紛うほどだった。だが、マルスはすぐにその人物の正体に思い至った。
「キュリアス!」
「マルス」
キュリアス・エイクードは頷くように答えた。
マルスとキュリアスは互いに歩み寄り、握手を交わした。
やっと異変に気付いた兵士たちが顔を見合わせ、動揺した声を発していた。何人かは腰の柄に手を伸ばしたまま、固まっていた。
「キュリアス様!」
シャイラベルは眼を見開き、満面の笑みを浮かべた。第二王女に向かって、キュリアスは軽くお辞儀をしてみせた。
「貴様!性懲りもなくこんなところにまで現れおったか!」
白銀の騎士、フラムクリスはシャイラベルの斜め前に立ち、低い声でうなった。
「フラムクリス・アルゲンテース」
キュリアスは白銀の騎士の名を口に出し、彼女に向き直った。
マルスはその間に新兵たちを集めた。足元にのびる副隊長は意識がない。キュリアスの手際もなかなかのものだ。内心歓迎しつつ、それが微塵も表情に現れないよう心掛けながら、集まった兵士に指示を与えた。
「負傷した副隊長をタンカで運ぶ。できるだけ運びやすいタンカを作るように。お前たちは斥候を呼び戻せ」
マルスは簡潔に言い終えると、皆を行動に移らせた。
「貴様…嫌がらせか?出会う度に私のフルネームを…」
「いや、響きがいいからつい言いたくなる」
マルスの後ろでフラムクリスとキュリアスが言い合っていた。その争いをシャイラベルが断ち切る。
「あら。私の名前も響きがいいと思うのですけれど、呼んでくださいませんか?」
「シャイラベル・ハート」
「ほら。自分で言うのもなんですが、いい響きでしょ?」
「姫さま!下賤の者に名を呼ばせてはなりません!」
「あら。響きはよくありませんか?」
「そんなことはありません。美しいお名前です。ですが名を呼ばせるなど…」
フラムクリスが言葉を選び選び、たしなめようとするのだが、シャイラベルに効果はないようだった。
姫もお人が悪い。マルスは横目で見ながら、兵士たちにテキパキ動くように指示を飛ばした。
「そう?私はシャイでもシャイラでもベルとでも呼んでいただきたいのですけれど」
「相変わらずだな。シャイラベル」
「キュリアス様にこのようなところで出会えるとは思いませんでしたわ」
「俺はマルスに用があって追いかけてきた」
「あら。私を追いかけてきてくださったのではないのですね」
キュリアスは笑い声をあげて返事の代わりとした。
キュリアスのことだ。姫の噂を聞いて急いで追ってきたに違いない。俺の用の方が次いでだろう。マルスはそう見抜いていたが、追及しないでおいた。
「俺に用とは?」
部下たちを追いやると、マルスはキュリアスに用件を尋ねた。
「ああ。どれから話そうか」
「語り明かすほどか?」
「それは今度酒でも飲みながらにしよう」
キュリアスはそう言うと、街道のハンデルの方向へ眼をやった。街道を行きかう馬車や人の姿が僅かばかりある。
マルスたちがすれ違った馬車が遠巻きに見えた。その脇を冒険者風の若者が駆け抜けてこちらに向かってくる。
「お。思ったよりもだいぶ早かったな」
キュリアスは感心するように言うと、冒険者風の若者を呼びつけた。
若者はまだ少年と言える年齢だった。マルスよりもやや濃い、茶色の髪だ。幼さの残る口を大きく開け、激しい呼吸を繰り返している。
少年はキュリアスの前にたどり着くと、両膝の上に手をついて、身体を上下させて呼吸した。身体から湯気が立ち昇っている。
「ラルフ・フォーティスだ。マルス。こいつに剣技を仕込んでやって欲しい」
「は?」
マルスは予想外の頼みに、自分でも間抜けだと思う声を上げていた。
「俺が守備隊に入ったことを分かったうえで言っているのか?それもこの状況で」
マルスは周りの兵士を見渡して言った。任務中であることは一目瞭然である。
「もちろん」
「こいつを守備隊に入れるのか?」
「いいや」
マルスは黙ってキュリアスを見返した。
「いいじゃないか。仕事の合間でいいからさ」
呆れるやつだとマルスはキュリアスを見た。
ラルフが喘ぎながら、キュリアスとマルスを見比べていた。不安そうな表情を浮かべている。
「そんな用件で追いかけてきたのか?」
マルスの言葉に、ラルフの表情が幾分明るくなったように見えた。
「いいや。別の用もある」
キュリアスはそう言った後、こいつのことはおいおい考えてくれと付け加えた。
「別の用件とは?」
マルスは考えるとは答えず、次を促した。
「商隊の護衛任務だってのは本当か?小麦を運ぶ商隊の護衛じゃないかって噂だった」
「どこで聞いた噂か知らんが、その通りだ。姫もそのためにお越しになられている」
「なんとしてでも小麦を持ち込みたいのです。食を守ることが国を守ることにつながりますもの」
シャイラベルは大人びた声で主張した。
キュリアスは頷くと話を続けた。
「盗賊が狙っているらしいな。もしかしたら、その盗賊、ディズマ一家かもしれない」
「ほう。何か知っているのか?」
「まだ何も。だが、奴ら、デアダクリで盗んだらしい小麦を持ってその山の向こうまで来たからな」
「いやに具体的だな」
「別件で用があってな。そいつらを追跡してきた」
「マデリシア絡みか?」
キュリアスが頷くと、マルスは胸騒ぎを覚えた。
「そう嫌そうな顔をするな。元冒険者仲間じゃないか」
「キュリアス。頼むから、俺たちの生活を壊さないでくれよ」
「俺かよ!」
「お前らだ!」
「ひどい言われようだ」
シャイラベルが口元に手を当てて笑い声をあげた。明るい音色がマルスたちにも笑顔を運んだ。
「まあなんだ。俺が思うに、そのディズマ一家って盗賊団が、どこからか小麦の輸送にかかわる情報を得て襲っているんじゃないかと」
「またえらく飛躍した話だな。証拠でもあるのか?」
「俺もそう思うが、どうもこいつが頭に浮かんでから離れてくれない」
キュリアスは首を左右に振って言った。
「あながち間違った考察ではありませんわ」
シャイラベルは大人びた表情を浮かべてマルスたちを見上げていた。先ほどまでの少女然とした雰囲気が消えている。
「小麦を運ぶ商隊が確実に襲われています。情報が漏れている、あるいは誰かが故意に襲わせているとみるのが妥当でしょう」
「そのディズマ一家とやらが関わっているのならば、捕まえて問い質すまでだ」
フラムクリスがキュリアスに詰め寄り、その盗賊団のアジトはどこだと迫った。
「まあ慌てるな。先に大事な小麦を守らなきゃならないだろう?」
フラムクリスは言葉に詰まり、一歩下がった。
「よし、まずは商隊との合流。襲ってきた相手を返り討ちにした後で、そのアジトを攻めるとしよう」
マルスは話をまとめた。作戦は単純に、そして完結に限る。そして、その決断も早いに越したことはない。
シャイラベルは同意するように頷いた。
「キュリアス。ここまで来たついでだ。協力しろよ」
「そのつもりだ」
キュリアスはシャイラベルを見つめながら、力強く答えた。
7
守備隊の新兵たちが集めた木材と、野営用の毛布で即席のタンカを作ると、副隊長をタンカに乗せた。
「少々乱暴に運んでも落ちないように縛るといい」
キュリアスの言葉に、マルスは賛同すると部下に縛らせた。
「気付いて騒いだら困りますわ」
シャイラベルが面白そうに言った。
「口を塞いでおかなくてもよろしくて?」
遅々として進まなかった行軍に不満があったことが、副隊長に対する冷たい態度で知れようと言うものだ。
「それはその時に考えましょう」
マルスは笑って答えた。
「何だ。えらく仲良くなってるな」
キュリアスはマルスとシャイラベルを眺めて言った。
「あら?妬いてくださっているのかしら?」
シャイラベルがキュリアスを見上げた。どこか嬉しそうな顔に見える。キュリアスは思わず眼をそらした。
鈴が鳴るような笑い声が、キュリアスの胸の奥をくすぐる。
「遊んでないで行くぞ。皆、遅れるな!」
マルスの号令を合図に移動を再開した。
新兵を五人一組のグループに分け、一班がタンカを運ぶ。足を止めずに次の班が受け取り、行軍を続ける。さらに次の班が受け取り、移動を続ける。これを繰り返すことで、タンカを運ぶ負担を分担した。
途中で目覚めた副隊長が当然のごとく騒ぎ立てたが、モンスターが寄ってくるから静かにしてもらえるかとマルスが言うと、一時期は黙った。しかし再び騒ぐので、シャイラベルの提案通り、布で口を塞いでしまった。
行軍のペースは一変し、旅行く人々を追い抜いた。その多くが、彼らを追い越して行った旅人で、何事かと物珍しそうに眺めていた。
タンカが目立つようで、視線はそこに集まる。
「ケガ人を運ぶにしては、逆方向だよな」
そういう声も聞こえたが、一向はかまわず、足早に進んだ。
「姫。私の背に」
「いいえ。私は大丈夫ですわ」
フラムクリスの提案を断り、シャイラベルも自分の足で走った。
「そう言えばお前の部下は連れてこなかったのか?」
キュリアスはシャイラベルの脇を足早に歩きながら、フラムクリスに声をかけた。シャイラベルの親衛隊はフラムクリスただ一人という訳ではない。なのにフラムクリス以外の親衛隊が一人も見えないのはおかしいと感じていた。
「別件で動いてもらっている。姫様の護衛は私一人でもこなせる」
「さすが白銀の騎士様。おっと、そう睨むな」
キュリアスはそう言って、フラムクリスとの間にシャイラベルが来るように位置をずらした。
フラムクリスは主人を睨むつもりはない。すぐに前方へ視線を戻し、主人の進む先に小石でもあれば、すぐに排除した。
キュリアスはフラムクリスの行動を、過保護で行きすぎだと思いつつも、黙認した。シャイラベルがケガをしないことに越したことはない。それに、もう一人庇護下に置くべき人物が後方にいる。キュリアスは後ろのラルフを見守る必要もあった。振り向くとラルフも小走りについてきている。
「だいぶスタミナが付いたな」
キュリアスが声をかけると、ラルフは嬉しそうに、はいと答えた。
「師匠に言われてからずっと、走り込みを続けています」
ラルフは呼吸を乱すことなく、会話までする余裕を見せた。
「いいことだ」
キュリアスはそう言い置いて横に視線を戻した。シャイラベルが必死に走っている。彼女はもう言葉を発するのも難しそうなほど、荒い呼吸をしていた。いよいよとなれば俺が抱えていくか。キュリアスはそう考えていた。
シャイラベルを抱えでもしたら、フラムクリスがまた怒りそうだ。想像すると、キュリアスは笑いが込み上げてきた。
フラムクリスが怪訝そうに睨み付けている。キュリアスの思惑に気付いたのかもしれない。次の瞬間にはフラムクリスがシャイラベルの前へ滑り込み、ぶつかってきたシャイラベルをそのまま背負った。
息の上がっていたシャイラベルは抵抗することなくフラムクリスの背中に寄りかかった。マントをかき集め、鎧との間のクッションにする。
フラムクリスが勝ち誇ったような顔をキュリアスに向けた。やはり先を越されたか。キュリアスはそう感じたものの、表情に出ないように心掛けた。
「周囲の警戒はよろしいのでしょうか?」
兵士の一人が遠慮しながら、マルスに尋ねていた。少し前まで、再三にわたり、斥候を出すなど警戒を密にして行軍していた。それが一変して全力に近い移動を行っていると、どうしても周りが気になるのだろう。
「必要ない。キュリアスがいれば奇襲に遭うことはない」
マルスはそう答えると、キュリアスに目配せした。
「任せておけ。獣一匹、飛びださせはしない」
キュリアスは易く請け合った。マルスの立場を守るためにも、キュリアスは能力を発揮する必要があった。そして結果として、シャイラベルを守れる。キュリアスにも気合が入ろうと言うものだ。
キュリアスは行動も起こした。唐突に隊列を離れたかと思うと、茂みの陰にいたモンスターを仕留めた。また、飛びだしてきそうになっていた獣を追い払いもした。
行軍は日が落ちてからも続いた。マルスは遅れを一気に取り戻すつもりのようだ。だが、さすがに新兵たちに疲労の色が見え始めていた。ラルフは新兵よりはましといった程度で、やはり疲れている様子だ。
平気な顔で移動を続けているのは、キュリアス、マルス、フラムクリスの三人だけだった。フラムクリスの背にいるだけのシャイラベルも、フラムクリスの鎧の当たる場所が痛むのか、時々、身体の位置を変えていた。
辺りの色が失われて行き、闇に閉ざされると、今までのようなペースで進むことが難しくなる。
ランタンが用意され、前後や足元はよく見えた。しかし、ランタンの明かりからは少しでも外れると、分厚いベールに覆われ、そこに何があるのかまるで分らなかった。
街道脇の林で何か物音がすると、僅かな音のはずなのに、やけに鮮明に聞こえた。何かがうごめいているような音に聞こえ、それがいつ道へ出てくるのか、一体何がいるのか、などと警戒せずにはいられなかった。
皆が皆、キュリアスのように気配を感知できるわけではない。ともすれば、前方の闇にも何かが潜んでいそうに思える。そこに何がいるのか、いないのかも分からないと、警戒する気持ちが強くなり、どうしても足の動きが鈍るのだった。
足早に進んでいた一行も、ついにはゆっくりと、恐る恐る歩くようになっていた。
ペースが落ちるにつれ、キュリアスは焦りを覚えていった。周囲に人の気配を察知している。
そのいくつかは、街道沿いの村や宿場にたどり着けず、やむなく野営をする旅人のものだ。実際に、道外れの空き地に焚火が勢い良く燃え、周りに人が集まっているのを目撃したこともあった。
街道の前方に複数の人と馬の気配を察知した。目的の商隊かもしれない。あるいは別の商隊が野営をしているのかもしれない。争っているような気配はなかった。
「少し先行する」
キュリアスはマルスに告げると、ラルフに姫の護衛を頼んで走り出した。瞬く間にランタンの明かりの外に飛び出し、闇に溶け込む。
月が出ていない。雲っているのか、星も見えなかった。そうなると、街道は闇に閉ざされ、視界を奪われたような中で進むことになる。
キュリアスはその闇の中でも周りが見えているかのように疾走した。実際に見えているも同然だった。僅かな風があり、揺れる木々の存在はすぐに分かった。
少し走ると眼が闇に慣れ、僅かに道らしき輪郭は分かるようになる。
今夜は襲いやすいな。キュリアスは辺りの様子を窺った。月がなく、星も見えないとなると、盗賊日和とも言えた。
前方の気配に異常はない。目指す商隊がその気配の元であるのならば、襲われる前にたどり着けたようだ。が、その予測はすぐに甘いと察した。
野営していると思われた森の奥の気配が集まってきていた。森の中を進む気配の向かう先が、どうやらキュリアスの向かっている商隊のようだ。すると、マルスたちが護衛すべき商隊に間違いないと思われた。
森の中の気配が前方の商隊を囲み、徐々に範囲を狭めていた。
まだ商隊の人々は起きて活動している。森の中から囲んでいる気配は、ある程度まで接近すると、人々の寝静まるのを待って、襲い掛かるに違いない。
ギリギリ間に合ったな。キュリアスは軽くため息をもらした。
後方に置き去りにしたマルスたちも、何とか間に合いそうだ。キュリアスは気配でそこまで確認すると、この先どうするかを思案した。
二十人からの兵士が商隊に押し寄せれば、商隊の護衛とひと悶着することになるだろう。商隊からすれば、闇から兵士がやってくるのだ。警戒するなという方が無理な話だ。
もめていると、盗賊はその騒ぎを利用して襲ってくる可能性もある。すると、商隊ともめることなく、たどり着き、囲まれている状況を説明して備える必要がある。それも、僅かな時間で手際よくできなければ、準備の整う前に襲われることになる。
キュリアスが単身で商隊に乗り込んで知らせることも可能だが、やはり敵ではないことを理解させるまでに手間取る。逆に罠だと警戒され、護衛と争いに発展する可能性の方が高い。
キュリアスが商隊に忍び込むことも可能だ。が、それでは余計に信用を得ることが難しくなり、混乱と騒ぎを引き起こすことにつながる。
混乱し、騒ぎが起きれば、盗賊が有利となる。ここでまた小麦を盗まれるようなことになれば、マルスは責任を取らされることになるだろう。シャイラベルも自ら出てきている以上、立場を失いかねない。
森の中の気配に尋常ではないものが混ざっていることも、気に留めなければならない。下手な手を打てば、損害ばかり大きくなるだろう。
やはりマルスの考えを聞くべきか。キュリアスは行動を控え、マルスたちの到着を待った。
ランタンの明かりにキュリアスの姿が浮かび上がると、兵士がざわめきかけた。キュリアスは唇に指を当てて、空いた手を下に向かって動かした。
察したマルスは手の合図で兵士たちに休息を指示し、自身はキュリアスの傍に寄って状況はと、耳元で囁いた。
キュリアスはこの先に商隊が野営していること、そこを盗賊団らしき気配が囲んでいることを、街道脇の地面に枝で書いて示した。
「ここにもう一つ、不気味な気配の奴がいやがる」
キュリアスは地面に書いた図面の更に北側を指し示して言った。声は小さく、耳をそばだてていても聞き取れるかどうかといった程度だった。
「不気味、か」
返すマルスの声も、微かな音でしかない。
「殺気を垂れ流してやがる」
「素人か?」
「いいや。おそらく、俺やマルスでないとまともに戦えない」
キュリアスの答えに、マルスは眼をみはった。
「おいおい。まさか」
「そのまさかだ」
キュリアスとマルスはこれだけで、相手が元同僚であることを察し合っていた。存命している元同僚のうち、誰かはマルスに見当がつかない。
「誰だ?」
「ジャックナイフ」
キュリアスは気配から、該当する人物に思い至っていた。キュリアスの師であり、父親代わりの人物だ。優しき男が任務で返り血を浴びるうちに、狂気に囚われ、行方知れずとなった男だ。
「サム・ガゼルか」
マルスの言葉にキュリアスは頷いた。
「なぜ奴がこんなところにいやがる」
マルスは唸るように言った。
「さあな。盗賊団に関わりあるのか、偶然居合わせているだけなのか」
「何にしても、奴が動いたらお前に任せるぞ。乱入されてこちらが数人やられてからではまずい」
不意をつかれずに対処できるのはキュリアスしかいない。だから対処を任せると、マルスは言っていた。
キュリアスは頷くと、この事態にどう対処するか尋ねた。
マルスはしばらく思案し、辺りを見渡していた。その視線がシャイラベルで止まる。
「姫様。フラムクリス殿」
マルスは小声で呼びかけながら、二人に近づいた。キュリアスもその後ろに従う。
シャイラベルはフラムクリスの背から降り、道端の石の上に腰かけていた。その脇にフラムクリスが従い、ラルフも傍に座り込んでいた。
マルスはシャイラベルの前へ片膝をつくと、小声で言った。
「この先に目的の商隊がいるようです。盗賊団もすでにいます」
「では急いで駆けつけなければ」
シャイラベルは腰を浮かせた。それをマルスは手を上げて制すると、すでに一歩踏み出していたフラムクリスに声をかけた。
「お待ちを。フラムクリス殿」
「まだ襲われてないぜ。囲まれているだけだ」
キュリアスはフラムクリスの前に立ち塞がった。
「キュリアスの言う通りです。騒ぎも聞こえないでしょう?」
シャイラベルは分かりましたと頷くと、フラムクリスの手を取った。
「それで、私に何をさせようというのです?」
シャイラベルは落ち着いて微笑んでいるが、身体は僅かに震えていた。緊張しているのだ。察したフラムクリスは主人の手を包み込むように握った。
マルスが声をかけてきた意図を察し、シャイラベルは先を促した辺りは場慣れした政界の人間である。が、やはり少女であることも否定できない。そこにすがることのできるフラムクリスという存在は、彼女にとってありがたい護衛だった。
キュリアスはシャイラベルの手を握って落ち着かせる役が、自分でないことにやるせない思いを抱いたが、今この場で考えることではないと、頭の隅に追いやった。
「姫様には申し訳ないのですが、先に商隊と合流していただきたい」
「盗賊団に囲まれた商隊に行けというのか!」
フラムクリスが抗議の声を上げた。さすがに声を張り上げるようなことはなかった。ただ、小声なのに、気迫がこもっていた。
「護衛にキュリアスをつけます」
マルスは動じることなく答えた。
「それは心強いですわ」
マルスの提案を、シャイラベルは受け入れる覚悟があるのか、静かに言った。反論しようとするフラムクリスを眼で抑え込んでいた。
「どういう作戦か教えていただけますか?」
「商隊側の混乱を最小限に抑えるには、一目で味方と分かる人物を送るに限ります」
「それが私だということですね。確かに適任です」
シャイラベルは即座にマルスの意図を見抜いていた。
「我々は盗賊団を包囲し、盗賊団が動き出すころ合いに襲いかかります。そのまま商隊まで駆け抜け、反転して護衛に当たるつもりです」
「獲物に飛びつこうとする獣の背中を襲うのですね。なるほど。効果はあるでしょう。そのための引き付け役も、この役目の一つという訳ですね」
「貴様!一国の王女を囮に使うとは何事か!」
フラムクリスはシャイラベルの制止を振り切って言った。叫びはしなかったが、語気は強い。
「お前と俺がいれば、十分守れるだろう」
「僕もお守りします」
ラルフも遠慮がちに言った。
「ラルフ」
「止めても行きますよ!」
ラルフがキュリアスに食い下がった。キュリアスの視線を受け止め、じっと見上げている。
「いや、止めはしない。ただしだ…」
キュリアスはそう言って、弟子にアドバイスを行った。
「貴様はどうするのだ!」
フラムクリスはマルスへ迫っていた。隊長だからといって、後方から指揮をとるとは言わせないと、その鋭い眼が告げていた。
「自分はここから盗賊団に斬り込みます」
マルスは地面に、先ほどキュリアスが書いて見せた通りの図面を書き、その中の一点を示した。そこはサム・ガゼルから商隊への直線状に位置していた。
非常に危険な位置取りだが、フラムクリスはサム・ガゼルの存在を知らない。フラムクリスの表情は、明らかに不満を浮かべていた。
「なあ、マルス。ふと気付いたんだが、その作戦、まずいだろう。お前にしちゃ、配慮が足りないんじゃないか」
キュリアスは口をはさんだ。指揮能力に定評のあるマルスらしからぬ作戦に思えた。
「ほう。言うようになったじゃないか」
マルスは食って掛かるように言ったが、何か腑に落ちないものがあるのか、足元の図面を見直した。
連れてきているのは新兵で、野戦の経験など乏しい。対する盗賊団は闇夜の戦闘に慣れている。不慣れな兵士が盗賊団を包囲殲滅など、無理だと予想できる。しかも、兵士の数が少なすぎるのだ。
「確かにボケていたようだ。盗賊団の包囲は止めだ。ここから二隊に分けて、こう、横から攻め込み…」
マルスは図面の商隊の下側から、商隊の左右に線を描いた。
「襲いかかる盗賊団の側面をつく。そのまま駆け抜け、二隊が入れ替わる格好で商隊の護衛につく」
「何が違うというのだ」
フラムクリスは不満そうに言った。シャイラベルの処遇が変わったわけではないので、そのことが不満のようだ。
マルスはフラムクリスの不満に気付かなかったのか、言葉通りを受け取り、答えていた。
「ここにいるのは新兵です。盗賊団に気付かれず、逆包囲など無理でしょう。それに、人数も不足しています。ならば、盗賊団が襲い掛かったタイミングで横から不意をつく、ということです」
「商隊の護衛と連携できれば、挟撃にもなりますね。現状ではそれしかないようです」
シャイラベルは現状とマルスの作戦を理解した様子で、静かに言い、私が盗賊団を引き付けてごらんに入れますわと息巻いた。
マルスたちと別れたシャイラベル、フラムクリス、キュリアス、ラルフの四人はランタンを掲げ、商隊に近づいた。
ランタンの光に気付いた商隊の護衛が身構えていた。しかし、先頭を進む少女の姿を見るや、周りに声をかけて人を集めた。構えは解いている。
「アラガント商会の方々でしょうか」
シャイラベルは商隊へ近づきながら声をかけた。その声に応えるように、一人の男が進み出た。
四十代くらいの、頭髪に白いものが混ざる男で、旅に明け暮れているのか、日に焼けた黒い顔をしていた。
「そうです。まさか第二王女様が直々にお迎えくださるとは…」
男は恐縮したように言い、頭を下げた。
「話し込んでいる暇はございませんわ。ここは盗賊団に囲まれていましてよ」
シャイラベルは敢えてよく通る声で伝えた。森に隠れる盗賊たちにも聞こえるように、である。
商隊の人々に動揺が広がった。しかし、男が一喝して収めると、戦闘準備に取り掛からせた。
護衛らしき冒険者がそれぞれ配置に向かう。商隊の人間らしき人々も馬や荷を守るべく動いた。
配置が完了するよりも早く、森の中で何かの動く気配が迫った。落ち葉や枝を踏み鳴らす音が次第に迫ってくる。
物音が暗い森から飛び出してきたように見えた。それは黒い影となり、焚火やランタンの明かりの縁をすり抜けていく。
焚火から移しとったたいまつが広く配置されると、影が明かりの中に姿を現していった。
影は屈強な男たちに変わった。その手に、冷酷に輝く抜身の剣があった。男たちは身だしなみには気を使っていない様子で、髭に覆われた顔だったり、脂か汚れか見分けがつかないほど頭髪がテカっていたり、黒く煤汚れていたりした。
汚れて黒ずんだ服を着ているので、明かりの中に飛びだしても、影が差しているかのように黒く見え、不気味だった。
矢が馬車に突き刺さった。
次々と矢が撃ち込まれ、商隊の数人が倒れた。矢は暗がりから打ち込まれているようだ。
護衛の冒険者たちは武器や盾で矢を防いでいた。
シャイラベルにも矢が群がるように来襲していた。それらをフラムクリスとキュリアスの二人が、剣を巧みに振って、空中で叩き落としていた。
このまま矢を射続けられたら、商隊の人数を削られ、盗賊にせん滅させられるだろう。盗賊たちはそう思っていたのか、ニヤニヤと笑みを浮かべ、刀身をもてあそびながら商隊に歩み寄っていた。
わっと鬨の声が上がったかと思うと、鎧に身を包んだ兵士たちが駆け込んだ。めったやたらと剣を振り回し、盗賊たちどころか、近くの木まで斬りつけて駆け抜けた。
マルスだけが的確に、弓を持った盗賊を斬り裂いて進んでいた。
新兵の錯乱したような突進でも、突然の横やりに、盗賊団は動揺し、乱れが生まれた。
キュリアスは矢の途絶えたその一瞬に進み出ると、瞬く間に盗賊たちを斬り捨てた。
余裕を見せていた盗賊たちが血相を変え、白刃を振るって迫った。だが、キュリアスは恐れることなく進み、流れるように動き回った。その跡に、盗賊の死体が並んでいく。
運良くキュリアスの脇を駆け抜けた盗賊が、フラムクリスの細剣に貫かれた。
馬車を回り込んで後方からシャイラベルに迫る盗賊たちがあった。その間にラルフが果敢に飛び込み、道を塞いだ。そのわずかな隙に、フラムクリスは細剣を突き出して盗賊を仕留めた。
ラルフは迫る盗賊の斬撃を冷静に避けていた。キュリアスのアドバイスに従い、とにかく避けている。
ラルフを攻撃して体勢を崩した盗賊に、フラムクリスが細剣を突き込んで仕留めていく。
「フラムクリス。楽だろう」
キュリアスは戦場を駆け巡りながら声をかけた。
シャイラベルに迫る盗賊をラルフが足止めし、フラムクリスが仕留めるという構図が出来上がっていた。キュリアスのアドバイス通りにラルフが動いている結果である。同時に、キュリアスの思惑通りに自分が立ち回らざるを得ないことに、フラムクリスは苛立っていた。
「貴様もろくな使い方をしないやつだ!」
文句を言いながらも、フラムクリスは一突きごとに一人の盗賊を仕留めていた。
たどたどしい足取りで新兵たちが戻ってきた。兵士同士で壁を築き、商隊を守る。
「一班前へ!二班左へ!」
馬車の反対側からマルスの指示が聞こえた。新兵とはいえ、マルスの戦術通りに動くことができれば、後方は問題ない。
キュリアスは後方をあまり意識しないように心掛け、乱雑に迫る盗賊団を一太刀ごとに仕留めて行った。
キュリアスの予想通り、馬車を回り込んで迫る盗賊はいなくなった。さすがはマルスだ。キュリアスは後方の憂いがなくなり、より激しく戦場を駆け巡った。
一つ、懸念すべき気配がある。が、その気配は森の奥から動こうとはしなかった。
この乱戦に飛び込んで来られたら、キュリアスでも少々厄介だ。下手を打つとシャイラベルに害が及ぶと考えていたが、その心配も杞憂で終わりそうだった。
盗賊たちは死傷者が増え、更には新兵とはいえ、堅牢な守りを見せ始めたため、攻めあぐねていた。
ふと動きが止まったかと思うと、盗賊たちは一人、また一人と、森の中へ逃げ込んでいった。
盗賊が逃げ出すと、新兵たちが歓喜の声を上げていた。
森の奥に居座った不気味な気配も、盗賊たちに寄り添うように移動を始めていた。
キュリアスはサムとの対決を望んだわけではないが、こちらに来なかったことにも不満を抱いていた。狂気に陥ったサムが目の前に現れたのなら、自分が止めてやると、覚悟はできていたのだ。その覚悟を見透かされ、肩透かしにあったような気分で、キュリアスは暗い森を見つめていた。
8
「一班、負傷者無し」
「二班、軽傷二名」
「三班、軽傷一名、重傷一名」
「四班、軽傷一名、重傷一名、行方不明一名」
マルスに各班の班長が報告していた。
「行方不明?」
キュリアスは周りに聞こえないように呟いた。
「たいしたことない戦闘だったのに逃げたやつがいるのか」
一班、二班と三班、四班で被害に差があるのは、マルスが直接指揮した側とそうでない側の違いだ。
キュリアスに回りの兵を気遣いながら戦う器用さはない。逆に周りごと斬ってしまう場合があり、近くにいると返って危ない。今回はたまたま味方に被害を与えずに済んでいた。
商隊の方は、御者二名、護衛の冒険者一名が死亡していた。矢を受けてうずくまっている負傷者も数人出ているが、幸いにも荷物は無事だった。
「よし、一班は置いてきた副隊長を迎えに行ってくれ」
マルスは早速指示を飛ばした。
「負傷者の治療をし、夜明けを待ってハンデルへ戻る」
マルスの言葉に、兵士たちの顔が緩んだ。明らかに足が震えて、立っているのもやっとという兵士もいた。
マルスはこまごまとした指示を一通り伝える。
「行動に移れ」
その言葉を受けて、兵士たちがきびきびと動き出す。本人たちはそのつもりなのだろう。しかし、半数はふらついたり、身体が重そうにしていたりと、疲労の色が濃く見えた。
「キュリアス様」
シャイラベルはキュリアスの隣に立って兵士を眺めていた。目の前を通る兵士に、ご苦労様ですと声までかけている。
「貴方がいてくださって助かりました。これほどあっさりと、首尾よくいくとは思いませんでした」
「ハンデルに戻るまでは油断禁物だ」
「そうですね」
シャイラベルは同意したものの、キュリアスを見上げる眼には別の想いがこもっていた。思いが言葉として漏れ出る。
「盗賊団のアジトを攻めるのでしょう。私も同行します」
「それはダメだ」
「私の護衛はフラムクリスと、そちらのラルフ様を貸していただければ問題ありません」
「ラルフをえらく評価してくれているようだ。が、さすがにアジト攻めには連れて行けない」
キュリアスは反論しようとするシャイラベルを制して付け加えた。
「俺とマルス、マディ辺りの少数で攻めた方が確実だ」
「しかし」
「俺やマルスでは役不足だとでも?」
「まさか!とんでもございません。おそらくお二人で十分かと思います」
シャイラベルは言葉と裏腹に、心配そうな表情を浮かべた。
「でも、心配になってしまうんです」
「俺を心配してくれるとはお優しい」
「茶化さないでください」
「すまない」
キュリアスは笑って詫びた。しかし、シャイラベルの拗ねたような顔が可愛らしく見えて、思わぬ幸福な気分を味わっていた。
「ひどい人」
シャイラベルはもう一言苦情を付け加えた。はにかむように笑っている。こうして見ると、十七歳の年相応に見える。若々しく、身体の内から光輝いているように見える少女だ。
シャイラベルはキュリアスの前を離れ、王女の表情に戻ると、負傷した兵士に声をかけて回った。
口から布を外された副隊長が騒ぎ立てた。その副隊長にマルスが何かを言うと、次第に収まり、敬礼までしてみせた。
副隊長が離れるのを待って、キュリアスはマルスに声をかけた。
「何を言って黙らせたんだ?」
「ん?ああ。商隊の護衛を任せた。商隊を守って町に戻ればお前の手柄になると、な」
「手柄か。確かに小麦を持ち帰れば英雄扱いだろうさ。それにしても、現金な奴だ」
「そんなものだろう」
マルスは兵士たちの動きを観察しながら、キュリアスに尋ねた。
「で。アジトを攻めるんだろう?」
「よくお分かりで」
「なぜか、お前はそう言うごたごたに首を突っ込む癖があるからな」
「そうか?」
「まあいい。少数でやるか」
「そのつもりだ。シャイラベルも町へ戻らせる」
「お前、姫様への礼儀と言うものがあるだろう」
「俺に礼儀を求めるな…」
「こんなガサツな弟に育てた覚えはないんだがな」
「兄の教えが悪かったんだろうよ」
「言ってくれる」
マルスがキュリアスの肩を小突いた。
「その不肖の弟にも弟子ができるとはねぇ」
馬車の車輪を背もたれにして転寝しているラルフを、マルスとキュリアスは眺めた。
「剣技を仕込んでやってくれるか?」
「あの回避能力はお前仕込みか?」
「見ていたのか」
「ああ。あれだけは熟練戦士並みだ」
「あれはラルフの天性のものだ。肌で感じ取っているらしい」
「なるほど。あの能力を生かすなら、お前のようなハチャメチャ剣法ではなく、正規の剣技を、ということか」
「そういうこと。ラルフなら後の先を取る戦いもできるだろう」
「また難しい所を追及させる気だな」
「まあ、できるかどうかはラルフ次第だしな」
「まあいい。引き受けよう。俺としても前途有望な若者がおかしな色に染まる前に、訂正しておきたい」
「俺の様に破壊魔になってもらっても困るからか」
「自覚があるのか」
「うるせぇ」
キュリアスとマルスは連れ立ってラルフの元へ向かうと、揺り動かして起こし、マルスに弟子入りとハンデルへ戻ることについて、説得にかかった。
マデリシアは木陰から、砦のような建物を眺めていた。おそらく本当に砦なのだろう。旧時代の遺跡を利用している。
石造りの砦の半分は崩落し、一部は足元から傾いている。崩落した側は切り立った崖になっており、侵入者を拒むことができるので、まだ砦として役立つようだ。
石造りなのだが、風化が激しく、崩れているところも目についた。
「これ、旧時代の遺跡ね」
マデリシアは感想を述べた。傍にいるルーイットは不機嫌そうな顔を向けただけで何も言わない。
「でも驚いた。旧時代の遺跡って地下にあるものとばかり思っていたわ」
人々の先祖は地底人だったと言わんばかりに、すべてが地中にあった。町そのものが、地下に見つかることもよくあるのだ。だが、地上に露出した遺跡は、マデリシアは聞いたことも見たこともなかった。
ルーイットの眼が、そんなことはどうでもいいと告げていた。
砦の入り口は一つしかない。かがり火を焚き、見張りの男が二人立っている。砦は二階建てで、上の回廊にも時折巡回らしい、たいまつの光の移動が見えた。
ディズマ一家はよくこんな場所を見つけたものだとマデリシアは感心していた。山中の砦は、未だに守りに適しているようだ。見張りの眼をかいくぐって侵入するなど、並大抵のことではない。
入り口の男たちはかがり火に寄り添い、暖を取っている。二階の巡回も一定の間隔で建物内に戻っていることから、そこで暖を取っているのだ。
夜明けにはだいぶ時間がある。東の空も暗く沈んだままだ。日が昇ったとしても、しばらくは冷え込みが強くなるばかりだ。今でもすでに刺すような冷気が漂っている。これ以上冷えたら凍えてしまいそうだ。
マデリシアは懐に残っている、暖かかった感触に思いを馳せた。キュリアスと別れた後、ずっと抱きしめていた銀狼の子、ケビンの温もりである。
マデリシアは喜んで抱きしめていたが、ちょっと肉球をつついていたら、ケビンは逃げ出していった。感触だけが残り、寂しさを誘っていた。
ケビンが逃げ出したことを、キュリアスに知られると怒られそうだ。そうは思うものの、逃げたものは仕方ないじゃないの、とマデリシアは開き直っていた。
マデリシアのお尻は少し暖かく感じた。座っている木の幹が熱を発しているのかもしれない。周りを覆う葉も、冷気を遮ってくれているようだ。
マデリシアの後ろで、ルーイットが仏頂面を下げて、砦を見張っていた。彼女も木の葉の陰に隠れている。
ルーイットが不機嫌な原因は分かりきっていた。クリスとローグに置いて行かれたからだ。だが、置いて行かれて当然だ。ルーイットは感情が表情に出過ぎる。交渉事には向かない性質だった。
クリスとローグは砦の中を確認するため、中に入っていた。侵入したのではなく、入団を希望するディズマの子として向かったのだ。彼らは見張りの男たちに嘲笑われながらも、中へ消えて行った。
それから丸一日が経過していた。一向に出てくる気配はない。
ルーイットは置いて行かれてからずっと、仏頂面である。そこに心配する気持ちを加わって、複雑な表情に変わっていた。
マデリシアはルーイットの顔を見ると笑ってしまいそうになる。ふくれっ面に心配するような眼が加わっただけで、これだけ面白い顔になるのかと、感心していた。事情を知らない人が見ると、変顔でも作っているのかと思われるに違いない。
ルーイットの顔を見ると、お腹が震えてくる。が、笑ってしまうと、隠れている意味がない。マデリシアは笑わないように、そしてできるだけ後ろを見ないように心掛けていた。
それに笑っている場合でもなかった。ルーイットではないが、やはりマデリシアもクリスやローグが心配になってくる。一日くらい戻ってこなくても問題はないと分かっていても、彼らが侵入している砦にいるのは、人殺しもいとわない凶悪な盗賊団だ。もしものことが起こらないとも限らない。
盗賊団の多くは夕方に出かけている。手薄となった砦から出てくるのは難しくないはずなのに、クリスとローグのどちらも出てくる様子はなかった。
今の盗賊団はクリスやローグが疎ましくなり、処分する気になったのだろうか。だとすれば、砦を出る前に手を下している可能性すらある。
妙な胸騒ぎが胸を過る。それは時間が経過するほどに増していた。
マデリシアが見張っていることが、二人から露見したのではないか。もしそうなら、今頃屈強な男たちが迫っているはずだ。そういう事態に陥っていないところをみると、クリスやローグが疑われ、捕まったとも思えない。
二人、あるいはどちらかが失態を犯し、捕まったのかもしれない。彼らは今、救出されるのを待っているのではないか。
闇の中でじっと様子を窺っていると、妄想とも言える不安が次々と浮かび上がってくる。その不安は頭の奥で疼くようである。かきむしることのできない疼きは苛立ちを誘い、マデリシアに焦燥感も運んできた。
マデリシアはその疼きを、意味のない焦りだとは考えなかった。それは今まで、虫の知らせのように、マデリシアに危険を知らせてきた現象の一つであったのだ。
何か問題が発生している。
マデリシアはそう確信していた。
夜明けまでにはまだ間がある。
出て行った盗賊団もまだ戻ってくる気配はなかった。
行動に移すには、今しかないと思えた。マデリシアにはどんな状況からも逃げだす自信があった。ならば、やはり行動すべきだ。その意思を、口に出す。
「やるなら今しかないわね」
それは自身を鼓舞するものでもある。
微かな囁き声だったのだが、ルーイットには聞こえていたようだ。
「何をやるのよ」
ルーイットは複雑な表情のまま、追及した。
マデリシアはルーイットの顔を見て思わず気持ちが緩んだ。
嫌な気分に支配されていた身体が楽になる。その表情で救われたわ。マデリシアは内心そう感謝しつつ、顔にも言葉にも出さず、太い枝の上に立ちあがった。枝が細くなって途絶えた先に、砦の二階の回廊がある。
「あそこから入るわよ」
「はあ?何言ってるの?そんなことしたら弟たちが危ないじゃないの」
「今は手薄よ。それに、出て来ない二人が気にならないの?合図すらよこさないのよ」
「そ、それは…」
ルーイットの表情が、心配一辺倒に変わった。置いて行かれた不満は消し飛んだらしい。
「あんたはここに残ってもいいのよ」
マデリシアはあえて軽く言い放つ。すると、あたいも行くに決まってるじゃない、とルーイットは予想通りに突っかかってきた。
暗がりの中、タイミングを待つ。
巡回の男が通り過ぎ、たいまつの明かりが見えなくなるのを待ってから、マデリシアは枝の上を駆けた。揺れる枝を逆に利用し、距離のある砦まで跳躍した。着地の音はない。
ルーイットもマデリシアの後に続いた。枝が激しく揺れたものの、彼女も身軽に飛び越えた。着地で僅かに音が立つ。
物音を不審に思ったのだろう。砦の入り口を見張っていた男が、砦を回り込んで様子を見に現れた。しばらく辺りを見渡していたものの、特に変化はない。男は寒さに震え、暖かい篝火の傍へ戻っていった。
マデリシアは回廊の曲がり角まで行くと、そこでしばらく待った。巡回の男が再びたいまつを片手に現れ、いつものように、マデリシアから離れて行く。巡回の方向が決まっているようで、マデリシアにとっては都合のいいことだった。
巡回が向こう側の回廊に消えるのを待ち、マデリシアは忍び足で走り出し、砦の中へ侵入を果たした。
砦の二階と思われる部屋の一室に、焚火が燃え盛っていた。暖炉ではなく、部屋の中央である。巡回の男が暖を取るために燃やしているのだろう。
ルーイットも侵入を果たし、さっそく焚火にあたっていた。
殺風景な部屋だった。回廊へ続く口に扉はない。朽ちてなくなったのだろう。窓やその跡らしい穴もない。反対側に、こちらも扉のなくなった、砦内へ向かう入り口があるだけだった。
木材は朽ちてなくなったのか、初めから使われていなかったのか、蜘蛛の巣や風に乗って舞い込んだ木の葉くらいしかない部屋だった。
炎の暖かさに後ろ髪を引かれながら、マデリシアは内部を窺った。そこは廊下のようだ。殺風景な石造りの通路が続いていた。所々に部屋の入り口らしきものがあるが、どこも明かりは灯っていなかった。
マデリシアは忍び足で廊下に出ると、薄明かりの見える左手へ進んだ。廊下の先に、うっすらと明かりがある。下から差し込むような明かりだ。
入り口らしき暗がりを通り過ぎながら、マデリシアは抜かりなく中を一瞥した。暗がりに、寝袋に包まった髭面があった。盗賊の一部がそこで寝ているらしい。
マデリシアが素通りしていくのを、追いついたルーイットは袖を捕まえて、顎をしゃくるように、入り口らしき暗闇を指し示した。
各部屋を確認しようというのだろう。
マデリシアは必要ないと、唇だけを動かして伝えた。盗賊と仲良く寝ているとは思えない。調べるべきは別の場所だった。マデリシアの見当が外れた時、初めて各部屋を調べて回ればいいのだ。それまでは誰にも見つからないよう、手早く調べる必要があった。
ルーイットも手間をかけるべきではないと理解している様子で、すぐに手を放した。彼女もマデリシアに一日の長があることを、不本意ながらも認める気持ちになっているようだった。
隠密行動中でなければ、マデリシアはルーイットをからかって遊んでいたところだ。今はそれどころではないので、すぐに踵を返し、薄明かりの洩れている場所を目指した。
そこはマデリシアの予想通り、階段だった。階下の明かりがここまで洩れている。
階段に人の気配はなかった。
マデリシアはルーイットに、待つように手で合図すると、物音一つ立てずに階段を降りた。踊り場まで進み、そっと下を覗き込む。
階段の下は砦の出入り口に面したホールのようだった。その昔、ここで兵士たちが勢ぞろいし、出陣したのかもしれない。
勇猛果敢な王子が先陣を切り、民を虐げる悪しき軍勢に挑む。あるいは囚われの姫を助けに行く一団なのかもしれない。こうした何でもない場所から、物語が生まれていくのだ。
伝承が好きで、語り部も歌い語りもできるマデリシアにとって、このような物語に出てきそうな場所は、胸躍る思いで、重なりそうな伝承を思い描くのだった。
圧倒的兵力に攻め込まれ、劣勢ながらも果敢に戦う男たち。十分に物語になりそう。伝承でもありそうだと、マデリシアはワクワクしながら物思いにふけっていた。
階下で人が動いていた。
マデリシアの意識を現実に引き戻した人の気配は、入り口から血相を変えて飛び込んできた盗賊たちだった。一瞬、マデリシアに気付いて飛び込んできた男かと、焦りを覚えたが、どうやら違うようだと、すぐに察した。
屈強な男たちが次々と飛び込んでくると、怯えたように、入り口に向かって武器を掲げていた。
下の男たちは大声で叫んでいるものの、言葉になっていない。マデリシアに気付いてはいないが、これだけ騒げば、上で寝ている盗賊たちが起きだしてくる。
マデリシアに状況を把握する時間も、逃げ出す時間も、すべてがなかった。とっさにルーイットを呼び寄せると、マデリシアは大胆な行動に移った。
もはやどういう行動を選んでも、誰かの目に留まるのは間違いない。ならば、よく分からない騒動を利用して、今のうちに目的を達成すべきだと、マデリシアは考えたのだった。
マデリシアはホールで喚く男たちの背後を堂々と歩き、さらに下へ降りて行った。
ルーイットはおっかなびっくり、マデリシアに続いていた。普段なら、大声で文句の一つもわめいていただろう。さすがに男たちに振り向かれては困ると分かっているのか、声だけは発しなかった。
マデリシアの脳裏に虫の知らせのような刺激が走った。とっさにしゃがみこみ、入り口を見た。
外の闇に紛れて、曲刀を掲げた男がゆっくりと進んでいた。かと思うと、次の瞬間には数メートルも離れたところに立っており、その脇で盗賊が力なく倒れ込むのだった。
曲刀を持ち、影のような男は、キュリアスかと思った。が、マデリシアはその考えが間違いだと、すぐに気付いた。
男の眼が狂気に輝いている。キュリアスならば、眼の光も消え、影と一体となっている。
そう思ってマデリシアはもう一度見直した。
男は顔にしわが刻み込まれている。そのしわを不気味にゆがめ、次から次へと盗賊を切った。
中年の男。そしてキュリアスのような存在。そこから、マデリシアの脳裏に一つの答えがよぎった。キュリアスの元同僚。つまり、暗殺者の類だ。
そこでマデリシアの思考は途切れた。目の前に曲刀が迫っていた。
マデリシアは地下への階段へ飛び込んで、何とかかわしていた。
間違いない。サム・ガゼルといったかしら。
マデリシアは階段で身体を打ち付け、落下しながら、数日前に山中で出会った不気味な男のことを思い出していた。フランシス・バーグの傍に立ち、狂気に歪んだ眼をしていた。
キュリアスの同類。マデリシアに対処できない力量の持ち主だ。ここは逃げの一手しかなかった。ルーイットのことを気にかける余裕もない。
幸いにも、サムはマデリシアを追ってこなかった。盗賊を狩るのに忙しいらしい。そう思った油断が相手に伝わったのか、気付くとサムがマデリシアに向かって飛んでいた。
「いやっ!」
マデリシアは身の毛がよだつ思いで、叫び声をあげていた。自分で自分の声に、驚いていた。叫んだ自覚すらなかった。
声に押されたかのように、サムの身体が後方へ弾き飛ばされた。マデリシアの声に宿る力の影響だった。
ルーイットが階段に飛び込んできた。
「何なのよ!あれ!」
ルーイットは頭を何かから守るように押さえ、叫んでいた。
「行くわよ!」
マデリシアは答えを後回しにし、地下へ急いだ。石段で打った身体が痛むのも、かまっていられない。
ルーイットも追及する余裕はなかった。言葉にならない声を発しながら、必死に走っていた。彼女も命の危険を察知しているようだ。
もはや、マデリシアにも逃走経路を考えるような余裕などなかった。やみくもに、クリスやローグがいるだろうと目星をつけた地下を目指したに過ぎない。
二人が地下にいなかった場合など、想定のしようもなかった。
後方で怒鳴り声と、金属のぶつかり追う音が響き渡った。悲鳴も次から次へと起こる。
あそこは二度と通りたくないわ。マデリシアはそう考えていたが、他に脱出経路があるとも思えない。
地下の廊下に人相の悪い男が二人いた。上の騒ぎに気付き、階段付近まで様子を見にやってきていたようだ。マデリシアはその二人の間を素早くすり抜けた。
男二人は驚きの表情を浮かべ、振り向こうとしたが、できなかった。ゆっくりと崩れ落ち、動かなくなった。
マデリシアの手に、いつの間にか、ナイフが握られていた。
倒れた男たちの周りに赤黒いものが広がっていった。
「ちょっ!血が付くじゃないの!」
ルーイットは調子を取り戻したのか、文句を言いながら、広がる血を避けて飛んだ。しかし、足が震えているのか、着地でふらついた。
マデリシアはルーイットが倒れないように支えた。ナイフは現れた時と同様に、いつの間にか、消えていた。ルーイットが一瞬驚いたようにマデリシアの手を見たが、そこに何もないと分かると、震える顔をほころばせていた。
マデリシアはやっと落ち着き、辺りを見渡す余裕を取り戻していた。ルーイットが転ばないように手助けしたことで、落ち着けた。
男たちが明かりを残したのだろう。廊下の奥に明かりの洩れている場所があった。マデリシアはそこに目星をつけて、足早に進んだ。
廊下を曲がった先に、鉄格子が並んでいた。かがり火が焚かれている場所がある。
マデリシアは各鉄格子を眺め見るだけで素通りし、かがり火の前まで進んだ。
篝火の明かりが届く鉄格子の中に、二つの人影があった。クリスとローグである。
「クリス!ローグ!」
ルーイットが鉄格子に駆け寄った。答えるように、クリスが鉄格子を掴み、姉さんと言った。
「お嬢。すみません。捕らえられてしまいました」
ローグはクリスの後ろから詫びた。マデリシアにも目配せし、頭を下げた。
「姉さんが騒ぎを起こしたの?」
「あたしがそんなヘマするわけないでしょ!」
兄弟で軽口のように言い合っていた。その横で、マデリシアは仕事道具を取り出し、鉄格子のカギを手早く開けた。
余裕のある時であれば、倒した男が持っているであろう鍵を探し、それで開けるが、今はそのような手間をかけている場合ではなかった。人前で見せる技ではないのだが、やむを得ない。
鉄格子から飛び出したクリスが姉に飛びつく。
「ちょっと!クリスったら!」
不満そうに言いながらも、ルーイットの顔は優し気にほころんでいた。
「抱き合っている余裕はないわよ」
マデリシアは冷たく言い放つと、別の出口がないものかと辺りを見渡した。
「上で何が起こっているのですか?」
ローグは鉄格子から出ると、廊下の先の階段を眺めた。音は気になるが、見に行こうとはせず、マデリシアともルーイットもどちらともなく、尋ねた。
「怖い人が来てるの。出会い頭に斬り殺されるわよ」
マデリシアは努めて明るく答えた。が、思い出すと身体が震えてしまう。
「他に出口はないの?」
ルーイットが尋ねていた。
「あると思う」
答えたのはクリスだった。
マデリシアは他に出口がないと思っていた。なので、ルーイットの問いに誰も答えないと考え、無いわよねと嘆いていた。
「え?あるの?」
クリスの答えを聞きつけ、マデリシアは変な声を上げていた。
クリスは頷くと、階段の方を指差した。
「階段の向こう側に通路があるんですけど、途中で崩れてます。そこから出られるかも」
クリスは自分で言いながら不安になったのか、最後の方は疑問を呈するような口調になっていた。
「崩れて…」
マデリシアは砦を外から眺めた時の様子を思い出した。砦の一部が崩れ、崖になっている部分があった。そこのことを言っているのだろうと見当をつけた。
「崖から出ろっての?」
ルーイットは文句を言った。マデリシアと同じ景色を思い出して、否定していた。
「狂人の前に出るくらいなら、崖の方がいいわ」
マデリシアはルーイットの文句を遮るように言い放った。
「あれの前に出たら命はないわよ」
その一言が聞いた様子で、ルーイットは押し黙った。
マデリシアたちは階段まで戻り、階段の上を恐る恐る見上げながら、通り過ぎた。騒ぎは続いているものの、誰かが下りてくるようなことはなかった。
階段を通り過ぎて廊下を進むと、突然に廊下が途切れ、暗い闇が広がっていた。冷たい風が吹きつけるので、そこが外に面していると分かった。
身体を乗り出して下を覗いても、闇が広がっているばかりで、何も見えない。
崩れた石畳に膝をついて手を伸ばしてみると、顔が石畳に触れるほど下がった時、やっと手に触れるものがあった。相当に切り立った崖のようだ。
闇に眼が慣れてくると、崖の輪郭がかすかに見えた。足場になりそうな起伏が確認できた。
足を滑らせて落下すると命はないかもしれないが、時間をかければ、下りることもできそうだ。その間に盗賊に見つかり、矢でも射かけられれば一巻の終わりだ。
しかし、サム・ガゼルの眼を思い出すと、暗闇が口を開けて待つ崖の方が安全に思えた。
サムがキュリアスと同等の強さを誇るのであれば、次に現れた時、マデリシアも、ここにいるルーイットたちの命もないように思われた。
それに、マデリシアは上に上がることを考えると、身震いが止まらなかった。
「下の方がましね」
口に出して呟くと、身体の向きを変え、足をゆっくりと下ろして、するりと崖を下っていった。崖は脆くなっている。最初の足場が滑り、マデリシアは慎重に足先で探りながら進むことになった。
「お嬢。御先に」
ローグの声が聞こえた。
「なんでこんなところを下りなきゃなんないのよ!」
ルーイットがいつものように文句を言っていた。
「マデリシアさんが逃げ出すほどのことなんでしょ?」
クリスが言ったようだ。その言葉に効果があったようで、マデリシアの頭上に誰かがはい出し、ゆっくりと足場を探しながら下りてきた。
闇夜で辺りはよく分からない。
崩れやすい崖で、下の確認もできないとなると、慎重に慎重を重ねるしかなかった。
とにかく、上から逃げなければとの思いで、マデリシアは崖を這い進んだ。
9
「そんなところで何遊んでんだ?」
キュリアスは下に向かって声をかけた。
東の空に日は昇ったが、山の陰はいまだに薄暗い。太陽の熱も全く届いておらず、刺すような冷気が漂ったままだった。
キュリアスの足元で、石造りの廊下は途切れていた。その先は崩れて眼下に落ちている。その先は崖のように切り立っており、薄闇の漂う空間になっていた。
キュリアスの足元から数メートル下に、四人の気配があった。四人とも崖に張り付き、じっとしている。小刻みに震えているようで、気配を察知しやすかった。
「え?エッジなの?もう大丈夫なの?」
マデリシアの大きな声が下から聞こえた。声のためか、崖の一部が崩れ落ちる。
「ちょ!大声出さないでよ!崩れるでしょ!」
ルーイットの怒声が響き渡った。
「あんたの方がよっぽど大声じゃないの」
崖に張り付いたまま、言い争っていた。
特に何の問題もないようだと、キュリアスは勝手に決めつけた。
「平気そうだな。さっさと上がって来いよ」
下の四人が動こうとしないので、何らかの問題を抱えているであろうと想像できるのだが、キュリアスは思考のほとんどを放棄して、腕の中に眠る銀狼の子の温もりに包まれていた。
「助けて」
平常通りのマデリシアの声だが、内容は完結だった。キュリアスは答えず、銀狼の子をそっと撫で続けていた。動きたくないとの思いがよぎっていた。
「身動き取れなくなっちゃったの!」
キュリアスが黙っていると、マデリシアの言い訳が響き渡った。その声に反応したのか、崖の一部が崩れた。
「お願い!手足しびれちゃう!寒い!おしっこ洩れちゃう!」
最後が一番感情のこもった言葉だった。
「大の大人が何てこと口走ってるのよ!」
「うるさい!切羽詰まってるの!」
下で言い合う声が続いた。
「お願いだから落ち着いてください!」
ローグの声がなだめようとしていた。マデリシアが叫ぶたびにどこかが小さく崩れるので、ローグの声に悲痛な響きがこもっている。
「まったく、何遊んでんだか。ちょっと待ってろ」
キュリアスはため息をもらすと、砦の中に戻ってロープを探し出した。銀狼の子を抱いたまま、片手でロープを近くに結び付けようとするのだから、手間取ってしまう。
再々、マデリシアの催促を浴びていたが、キュリアスはその都度、もう少し待てと答えただけで、銀狼の子を放そうとはしなかった。
結び終えたロープを投げ下ろすと、すぐに動きが止まった。続いて何かが引き寄せるような振動が起こる。度々ローブがしなると、人の頭が現れた。
次から次へと人が上がってくる。マデリシア、ローグ、クリス、ルーイットの四人だが、全員泥に汚れており、一瞬では誰だか見分けがつかなかった。
キュリアスは他人事のように眺めた。腕の中でくつろいでいる銀狼の子を撫で続けている。
銀狼の子とは、キュリアスがこの砦へ戻ってくる道中で、たまたま出会った。マデリシアに預けたはずが、どういう訳か森の中にいたのだ。
キュリアスは何事かあったのか不安になったものの、銀狼の子を腕の中に納めた途端に、すべてが些末なことに思えていた。
焦らなかったのは、気配でおおよその事態を把握していたためでもある。
狂人を振るうサム・ガゼルの獲物は盗賊団のようだと分かった。また、どうやらマデリシアたちは逃げ隠れたと理解したので、腕の中の生き物の優先順位が急浮上したのである。
「助かったー!」
マデリシアが声を発すると、足元の石畳ごと崩れる。マデリシアは慌てて前の石畳に飛び移った。
崩れるのを怖がり、皆が砦の奥に進むものの、その足もすぐに止まる。マデリシアだけが、トイレトイレと連呼しながら走り去った。
マデリシアはキュリアスの腕の中のものに気付かないほど切羽詰まっていたようだ。
「上の様子は…?」
ルーイットは怯えた表情で尋ねた。
「誰がやったか知らないが、みんな死んでる」
キュリアスはそう答えたものの、上に転がっていた死体の鋭い斬り口や、感知していた気配から、サムの仕業だと理解していた。
そのサムも、少し前に森へ姿を消した。そこまで気配で分かったうえで、キュリアスは乗り込んできたのだった。危険が無いからこそ、腕に銀狼の子を抱いたまま、のんびりと構えているのである。
事態に間に合わなかったのは、ラルフのせいだ。キュリアスは人ごとのように考えていた。
シャイラベルたちと一緒にラルフを町へ帰らせたのだが、少年はキュリアスたちを追って森に入った。その気配を察知し、キュリアスは砦へ急行することを諦め、ラルフが追い付くのを待ちながら進んだのだ。
その行く手に銀狼の子が現れ、さらに足が遅くなったのは言うまでもない。
キュリアスはサムと出会えば、斬り結ぶ覚悟ができていた。サムの狂気を止めるのは自分だと決めている。が、ラルフを待ったがために、サムと出会わなかった。
出会わなかったのだから仕方ない。キュリアスは軽く考え、受け流していた。
「あたいたちも、その、行きましょ」
ルーイットがそわそわしながら、ローグに声をかけた。ローグも頷くと、二人して上へ小走りに駆け上がっていった。
「お前はいいのか?」
キュリアスが残ったクリスに声をかけると、少年も遠慮がちに、用を足してきますと階段に向かった。
キュリアスはやれやれと呟いて見送った後、砦の崩れた端まで歩み寄り、下を眺めた。マデリシアたちの気配を感知した場所の数メートル下に、砦から崩れ落ちた岩の塊が見えた。
マデリシアなら、張り付いていた場所から飛び下りることも可能だったが、そのことに気付けないほど、切羽詰まっていたようだ。サム・ガゼルに対する恐怖と焦り、そこに寒さからくる尿意が重なり、冷静さを失ったのだろう。
「笑い話だな」
キュリアスはおかしそうに微笑み、子狼を撫でた。
キュリアスはマルスとラルフの気配の変化を察知し、踵を返した。彼らが奪われた小麦を発見したはずだ。今後の方針を話し合わなければならない。
キュリアスは戻りながらも、足が重かった。もはや小麦問題などどうでもよかった。腕の中の生き物に触れていれば、後のことは全て些末なことで、取るに足りない。
「全部マルスに押し付けてやるか」
呟いた言葉が妙案に思え、キュリアスの足取りも軽くなった。