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アドベスタ  作者: ばぼびぃ
11/15

炎 前編

  1


 キュリアス・エイクードはいつものカウンター席に腰かけ、朝食にかじり付いていた。黒い髪に黒い服の彼は、どこか影のように虚ろな存在に見える。

 隣にはマデリシア・ソングが腰かけ、こちらも朝食に手を付けている。若草色の髪と、鮮やかな服は、隣のキュリアスと真逆で、人目を引き付ける存在感があった。

 太陽は既に頂点に近づきつつあった。二人は朝食と昼食とを兼ねた食事をとっているのである。

 不意に、マデリシアが飛び跳ねるように顔を上げ、辺りを見渡した。

 店の中に、僅かだが、食事中の客の姿がある。早めの昼食をとっている客だ。カウンターには肩に逞しい筋肉のついた店主、ジャック・ストレイダーがおり、洗い終わった食器の水滴をふき取って戸棚に戻していた。

 マデリシアは素早くカウンターを飛び越えて身を隠した。ジャックは何事かと睨むものの、口は開かなかった。

 キュリアスはかまわず食事を続ける。眼を向けることもなかった。

 客の一人が食べ終わった皿をもってカウンターに近づいた。が、急に食器を取りこぼす。

 食器の散乱する音に、ジャックや他の客が顔を向ける。

 カウンターに向かっていた客は空を見つめて硬直していた。その胸から細長く鋭いものが生えているように見えた。

 客の膝が揺れ、膝から床の上に落ち、そのまま倒れた。

 客の背後にもう一人、男が立っていた。男は倒れた客から引き抜いた、刺突専用の細長い刀身を持つレイピアを、風を切るように一振りした。

 店内に悲鳴が沸き起こる。悲鳴に応えるかのように、赤子の泣き声も響き渡った。

 カウンターの中でジャックが身構えた。肩の筋肉が盛り上がる。筋肉はレイピアの鋭い突きも受け止めてしまうほどに引き締まっている。

「ようレイピア」

 キュリアスは振り向きもせずに言った。店内で、レイピア以外に一人だけ、落ち着いて食事を続けていた。

「そいつはお前の獲物だったのか?」

「そうだ。こいつのおかげで俺のスローライフが脅かされたんでね」

 レイピアと呼ばれた男は刀身を倒れた男にこすりつけて血を拭うと、鞘に納めた。

「久しぶりだな。エッジ」

 レイピアはその男のコードネームで、エッジはキュリアスのコードネームだ。今やキュリアスのあだ名でもある。

 キュリアスはジャックに手を上げて、大丈夫だと伝えると、やっと振り向いた。

 マデリシアがそっと顔を覗かせ、様子を窺う。

 倒れた客に眼をやると、レイピアと同じような細い刀身のついた短剣を手にしているのが見えた。刃渡りは三十センチほどだ。

「ニードルダガーか。また特殊な仕様だな」

 キュリアスは倒れた男の武器を見て言った。

 レイピアと同じ形状の刀身に、柄と鍔もついている。一般的に暗殺に使われるT字型ニードルダガーとはまるで違っていた。T字型ニードルダガーは握りこぶしの中に隠し、刀身だけを指の間から出して相手に突き立てて使うものだが、下に転がるものは、刀身こそ短いものの、レイピアと同様の使い方をすると思われた。

「暗殺者らしい」

 レイピアが答える。

「これなら刺し傷はレイピアに似るな」

「ああ。おかげで俺が疑われてね」

「そいつ、あたしを殺しに来たの?」

 マデリシアはカウンターの縁から覗き込むようにしながら尋ねた。

「俺はこいつを殺しに。こいつは…あんたかエッジか、どちらかを殺すつもりだったんじゃないか?」

「あたしを殺さない?」

「俺が?俺はスローライフを送りたいだけだぜ?女子供に手を出してそんな生活ができると思うか?」

 レイピアは質問で返したが、マデリシアが一向に、眼から下の身体を出さないので、ため息をもらし、殺さないと言った。

 マデリシアはキュリアスを見つめた。キュリアスが頷くと、やっと立ち上がる。

 ジャックがカウンターから出て、他の怯えた客をなだめて回った。

 レイピアは金髪で涼し気な顔立ちをしていた。腰ベルトに帯びたレイピアが装飾品のように輝いている。背はキュリアスと同じくらい高く、引き締まった身体をしていた。旅用のマントを羽織った格好はどこか、騎士のような様相だ。

「相変わらず、派手だな」

「どこが」

 キュリアスの一言に、レイピアが言下に問うた。が、返事を求めるものではなかった。

「お前が冒険者とはね」

 レイピアは、ふっと笑った。

「日和見主義のレイピアはどこぞに引きこもっていたのか?」

「そうなんだ。田舎暮らしはいいぞ」

 レイピアはキュリアスの皮肉を聞き流して答えた。

「そんな怠惰なお前が出てくるほど、こいつはやらかしてたのか」

「怠惰とは心外な」

 レイピアはさすがに抗議したものの、気にしていない様子で続けた。

「近隣で刺突死体が数件出てね。俺はこいつで子供たちに剣技を教えていたこともあって、疑いがかかっちまった」

 レイピアは自身と同じ名の剣を軽く叩いた。

「おっと、そうそう。俺の本名は伏せておいてくれよ。スローライフに弊害が出てもらっては困る」

 レイピアはそう言い置いて、カウンターに戻ってきたジャックに声をかけ、守備隊の手配を頼み、この死体の送り先を告げた。

「ところでエッジ」

 レイピアは一通り説明を済ませて心づけを支払うと、キュリアスに向き直った。

「ソード隊が再結成されるのは聞いたか?」

「噂でなら。本当なのか?」

 キュリアスは眉をひそめた。

「お前が壊滅させたあれとは違うものになるだろうよ」

 レイピアは古巣を思い浮かべたのか、遠い眼をして言った。その古巣にはキュリアスも属していた。そして壊滅させたのもキュリアスである。

 当時の二人はたいして接点のない間柄だったが、旧知の間柄と言うものが影響しているのか、友人同士のように気安く語っていた。

「王子から打診があった」

 レイピアは言った。

「戻るのか?」

 キュリアスは胡散臭そうに尋ねた。

「どうかな」

「怠け者のお前が?」

「いやいや、軍隊の上官になれば、怠け放題だぜ?俺向きじゃないか」

 レイピアはキュリアスの皮肉に合わせてうそぶいた。

「戻るのか」

「その前に、ちょいと確認しておきたいことがあってね。それ次第で身の振り方を決めようと思う」

 レイピアは真剣な表情を作ると、

「一手手合わせを願えるか」

 と、断定的に言った。まるでキュリアスが断らないと分かっているかのようだ。

 実際に、キュリアスは断らなかった。

「てめえの腕が戻って通用するのか、確認したいってか。いいぜ。俺でよければ」

 キュリアスとレイピアは店の裏手に回った。夜になればそこに泊り客の馬車が並ぶが、今は何もない広場だ。

 マデリシアが見物についてきた。怖がっていたわりには、興味津々だ。

「もともと暗殺には向かない武器の使い手だったな」

 キュリアスは大型ナイフを抜きながら、細剣を構えたレイピアと対峙した。

「おかげで俺は怠け者だ、日和見主義だと言われたものだ」

 レイピアは自嘲しながらも、右半身を前にする独特な構えをとった。

「ところで、そんなおもちゃでいいのか?」

 レイピアはキュリアスの手にあるナイフを見つめた。

「これしかねぇんだ」

 キュリアスは吐き捨てるように言うと、相手が四の五の言う前に間合いを詰めた。

 鋭い突きがキュリアスを迎え撃った。

 刺突が、風の壁を突き破って繰り出された。音が僅かに遅れてくる。身体ごと前進し、後退し、また前進する。レイピアのその独特な構えと戦闘方法は、決闘向きだとキュリアスは改めて感じた。

 鋭い突きと身体運びに阻まれ、ナイフの届く範囲に近づけない。

 だが、細剣には欠点もある。刺突に特化したため、刀身を握ったとしても斬れることはない。つまり、先端さえ気をつければ、少々当たっても差し支えなかった。

 キュリアスは鋭い突きをナイフでいなすと飛び込み、手で細剣を払った。

 レイピアも心得たもので、払われた方向に飛び、空中で体勢を変えながら、切っ先を鋭くキュリアスの方へ回してけん制した。

 細剣といえど、先端がかすめれば、斬ることができる。特殊な使い方とはいえ、けん制には十分だった。

「まったく。暗殺には向かねぇが…」

 キュリアスは間合いを取ると、身体をほぐした。言葉は間をとるためのものでもあった。

「決闘では厄介極まりねぇな!」

 言い終えるが早いか、キュリアスは自身の育ての親の技術を使った。育ての親、サム・ガゼルは脚力を生かし、突飛な軌道で移動して相手を翻弄した。

 キュリアスの姿が眼で追いきれなくなる。足音よりも早く感じる。

 レイピアの構えは側面や後方を取られると、打つ手が難しくなる。前面に特化した構えだけに、高速に、かつ不規則な動きをされると対処に苦慮する。

 レイピアは馬小屋に向けて駆け出した。出入り口に構えれば、前面に集中できる。

 しかし、馬小屋にたどり着けなかった。レイピアの行動は簡単に予測がついたため、キュリアスが先回りして、レイピアの喉元にナイフを突きつけた。

「オーケー。俺の負けだ」

 レイピアはあっさり負けを認めた。キュリアスのナイフの背には鋸状の刃があり、それに絡み取られれば、細剣など簡単に折れることも承知していた。それをキュリアスが使わなかった時点で、手加減されていると理解できる。

「やはりエッジには勝てないか」

 キュリアスは黙ってナイフを鞘に戻した。レイピアも細剣を腰の鞘に戻す。

「まだまだやれそうじゃないか」

 キュリアスはそう言ってレイピアの肩を叩いた。キュリアスも、レイピアが本気を出していないことを理解していた。本気の彼は細剣とは別に、ソードブレイカーと呼ばれる短剣を空いた手に持ち、主に防御に使う。

 互いに本気でやり合えば、勝っても負けても負傷することになると分かっていた。二人は怪我のない範囲で決着をつけるため、まるで示し合わせたように、互いに加減していた。

「当然!と言いたいところだがな。エッジの斬撃が出たら、怖い」

 レイピアはおどけて言った。

「それがよ。この前は勢いで出たんだ。なのに出そうとしたら出ねぇ。いつもの剣なら出せるのによ」

 キュリアスは愚痴をもらした。自分自身の能力なのに、思い通りにならないことが歯がゆい。

「力み過ぎなんじゃないのか?やりすぎまいとしているように見えたぞ」

 レイピアは指導者らしいことを言った。

「なるほど」

 キュリアスは素直にアドバイスを聞き入れ、ナイフを振るイメージを浮かべて手を振った。

「何にしてもエッジに対抗しきれないんじゃ、通用しないだろうさ」

 レイピアは決心がついた様子で明るく言った。口にも出した。

「おかげで決心がついた。別の道を行くとするさ」

「そうか」

 キュリアスは頷くと、

「どうせ元々そのつもりだったんだろうぜ」

 とからかった。

「違いない」

 レイピアは答えて笑った。



  2


 守備隊のアルバート・フェンサーは銀狼亭に来るなり、愚痴をこぼした。より正確に記すならば、キュリアスの顔を見るなり、である。

「どうしてお前のいく先々に死体が転がるんだ」

「いや、俺じゃねぇって」

 キュリアスは誤解だと訴えた。

「誰もお前がやったとは言ってない。ただ、お前は死体と縁があると文句を言っているんだ」

「悪いな。俺は死体と友達なんだ」

 アルバートはキュリアスを睨み付けると、銀狼亭の床に転がる死体の検分にかかった。

「また刺殺体か」

「また?」

 アルバートはしまったと言わんばかりに顔を歪めた。

「他にも死体が出たのか?」

 キュリアスはアルバートに詰め寄った。まるで友達が訪ねてきたと告げられたかのような反応だ。

 アルバートは答えなかった。

「この死体はお前の知り合いか?」

「いいや」

「友達なんだろ?」

「死体はな。元は誰かなんて知らん」

 アルバートが呆れ顔になったのを見て、キュリアスは付け加えた。

「待て待て、確かこいつ、暗殺者らしいぜ」

「それは知らせで聞いている…」

「マディを狙ったらしい」

「なぜ?」

「さあ?」

 アルバートはキュリアスを一瞥し、死体を調べる作業に戻った。しかし、身元を示す所持品はなかった。行商人の格好はしているものの、売り物すら持っていなかった。

「こいつを仕留めた男は?」

「帰った」

「おい!」

 アルバートは勢いよく立ち上がってキュリアスに詰め寄った。

「事情聴取できないじゃないか」

「仕方ないだろ。表に出たくないらしくてな」

「そいつの名前は?」

「知らない」

「どこから来た?」

「知るわけがない」

「何か話していたか?」

「いいや。別段。こいつを追っていたとだけ」

 キュリアスはレイピアと顔見知りだったが、隠した。明かせば、元ソード隊に属していたなど、秘匿せねばならない情報に触れる。言う訳にはいかなかった。

「まったく…」

 アルバートはぼやくと、連れてきた人足に指示を出して死体を運ばせた。

「それより、もう一つ死体が出たんだろう?」

 キュリアスは話題を逸らす意味もあったが、もう一つの死体にも興味があった。

「お前には関係ない」

「いやいや、死体は友達だと言っただろ。何か分かるかもしれないぜ?」

「当てになるか!」

 アルバートは言下に断った。

「刺殺体だ。こいつを仕留めたやつか、あるいはこの死体がやったんだろう」

 アルバートは運ばれる死体を顎で示しながら言った。

「かもな。が、こいつじゃないかもしれない。少なくとも、こいつを倒した男ではないと証明できると思うぜ」

 アルバートはキュリアスを振り向き、睨みつけた。

「また一枚かんでやがるのか?」

「まさか」

 キュリアスは大仰に答えてみせた。

「ついて来い」

 それでもアルバートは意見を聞くつもりになった様子で、キュリアスを案内した。

「ジャック!ちょっと出てくる。マディにもそう伝え…ああ。頼む!」

 キュリアスは店主のジャックに声をかけて銀狼亭を後にした。店は次第に客が増え、忙しくなるようだった。

 二つの死体が並んだ守備隊の詰め所で、アルバートは女神に祈りをささげた後、片方にかけられた布をめくった。

「こいつはすぐに埋葬する。手早くしてくれ」

 アルバートはそう言うと、人足に指示を出すために離れた。

 そこに眠る男は、肩幅が広く肉付きのいい身体をしていた。血の気が失せていることを除けば、今にも起き上がりそうにも見える。

 キュリアスは遺体の背中を見た。

 小さな穴が開き、その周りが紫色に腫れている。さらにその周りに線状の、何かで圧迫した跡があった。

 キュリアスは穴の方向を確認すると、遺体を元に戻した。

「それで?」

 戻ってきたアルバートが促す。

「お前、ローランド教徒だったんだな」

「何を言い出す」

「こいつの布をはがす前に祈っただろ?」

「悪いか」

「いいや」

 キュリアスは手を振ると、アルバートの求めに応じた。

「背後、下から突き上げて心臓を突いている。犯人は少なくとも数回同じ手口を経験して、骨にあたらないように、心臓をつく方法を学んでいる」

「つまり、プロの仕業か」

「そうとも言い切れない」

 キュリアスは遺体をもう一度動かし、傷口をアルバートに見せた。

「ここが紫に腫れているな?これは毒によるものだ。心臓に届かなくても毒で倒せるようにしていたようだな」

「念を押しただけじゃないのか。やはりそいつが犯人か」

 アルバートは隣の死体を眼で示した。

「プロの暗殺者は殺しの流儀があってね」

 キュリアスは短く前置きをした。

「銀狼亭のやつが持っていたニードルダガーには毒が無いだろう?それに毒で殺すのなら、心臓を狙う必要なんてない。その辺をチクリでいいだろ。俺の見るところ、犯人は別だな。どちらか、あるいは両方が、模造犯かもな」

「模造犯…手口をまねたと?」

「かもしれない。それに、こいつの傷はどちらかというと素人臭い」

 キュリアスは再び傷の、周りを示した。

「ここに食い込んだ線状の跡があるだろ?こいつは鍔元まで差し込んだ時にできた圧迫痕だ。そこまで差し込まなくても心臓に届く場所に刺せばいいし、毒で仕留めるつもりならもちろん、不要なものだ」

「犯人が力んだのか?」

「その可能性はある。あるいは経験上、そこまで刺せば心臓に届くと学習したか」

「ろくでもない学習だな」

「殺しなんてそんなものだ。プロならできるだけ痕跡を残したくないと考える。自身を示すマークを残す奴はいるが、そういう自己主張の激しい奴は希だ。除外していいだろう」

「他に何を隠している?」

 アルバートが勘繰った。

「いい勘してやがる。実を言うと、本家本元の暗殺者を知っているんだ」

「なんだと!」

「待て待て。そいつはとうの昔に俺が殺した。だからそいつが犯人ではありえない」

「そうか…」

「とにかく、鍔元まで差し込んでいると、そこから武器の特定につながる可能性がある。だから普通はやらないって話さ」

 キュリアスはそう言って遺体を再び元に戻した。

「こっちに突き抜けていないだろう?おかげで下から突き上げて心臓に届く刃渡りと、鍔のついた物、と特定できる。そしてそこのニードルダガーを見比べると、ちょうどいいサイズだ」

「なら、やっぱりこいつが…」

「だから違うって。模造犯だと…」

「ああ、そうだったな。エッジが珍しく長々と説明するもんで、忘れちまった」

 アルバートはわざとらしく言った。

「で?」

 真顔に戻ったアルバートは先を促した。

「このニードルダガーの形状は特殊品でね。調べれば、どこで作られたか分かるかもしれない。とはいえ、期待するなよ。俺の知る本来のニードルダガーの刀身は、レイピアのようなものではなく、丈夫な長い針のようなものなんだ。T字型ニードルダガーと違って押し込む持ち手が必要で、この形になったらしい。本来は針の細さだ。傷口が分かり難くなり、死因不明の死体が出来上がる、という仕組みさ」

「つまり何が言いたい。暗殺武器に詳しいと自慢したいだけか?」

「いや、作りがお粗末なんでな。形さえ知っていれば、どこででも作れるかもしれない。製造元を探しても意味がないかもしれない、という話さ」

「だが、探さねばならないだろう」

「だろうな」

「それに、突き抜けていないことで、もう一つの方を仕留めた男とは別と分かったが、明らかに疑問がある」

 アルバ―トは考え込みながら言った。

「なんだ?」

「そもそも暗殺だろう?そんな特徴的な目立つ武器は使わないんじゃないのか?」

「衆人環視の下で行う暗殺なら、いわゆる暗器を使うな。すぐに隠せるほうがいい」

「だろう?」

「そもそも暗殺とは何ぞやって話になっちまうが、その衆人環視の下ってやつはあくまで犯人のアリバイを作るだけで、顔は知れてしまう。暗殺を生業にする奴には向かないな。せいぜい、スパイの手口と言ったところだ」

「御託はいい。用件を」

 アルバートが容赦なく促す。

「まあまあ」

 キュリアスは陽気に言うと、続けた。

「本来の暗殺者は自身の姿を隠す。誰にも目撃されなければ、得物は別に剣でも槍でもハンマーでもいいのさ」

 キュリアスはニードルダガーを指差した。

「こいつの本家は遺体の傷跡を見つけ難くする。その目的は他殺に見えないように殺す、ということなんだ」

 アルバートはしばらく考え込んだ後、

「痕の残るこの遺体は素人、模造犯、か」

 と呟いた。

「銀狼亭で死んだ方は暗殺者らしいが、こいつは明らかに模造犯だな。しかも痕跡が残ることを気にも留めていない。逆にそれをアイデンティティにしていたのかもしれない」

「お前の言った、希な方か。いや、衆人環視の下で暗殺しようとしていたのだろう?このニードルダガーを暗器と信じていたのではないか?」

「なるほど。一理あるな」

 キュリアスは素直にアルバートの解釈に同意した。

「しかし、普通なら、対象に悟られた時点で中断するもんだ」

 マデリシア独特の危機感知によって、彼女はカウンターの裏に隠れていた。そのまま暗殺を強行すれば、それは暗殺ではなく、ただの殺人事件になるだけだ。衆人環視があだとなり、犯人が特定される。決行するべきではないのに、隣に横たわる男は止めなかった。

 キュリアスにも図りかねたが、それ以上は追及のしようがなかった。

「なんにせよ、その辺りは、この遺体の送り先に問い合わせれば分かるかもしれないぜ」

 それしか追求の道はないだろうと、キュリアスは考えていた。キュリアスは言い終えると、アルバ―トの表情を観察した。アルバートは難しい顔のまま、路地裏に倒れていた男のなれの果てを見つめている。

 これは捜査が難しくなるだろう。キュリアスは苦笑した。キュリアス自身は二つの遺体を別々の事件とみているが、アルバートは銀狼亭の男の武器が、もう一つの遺体の凶器と同等ともなれば、どうしても二つの遺体を結び付けてしまう。余計に捜査を難しくする要因だった。

 ただ、犯人は別でも、どこかでつながりがあると、キュリアスも睨んでいる。傷と武器の形状が似すぎているのだ。武器を作った人物が同一か、あるいは同じ武器を複数作って人に託した人物がいるのかもしれない。

 それは証拠のない空想に過ぎず、考えすぎれば深みにはまるだけだった。

 検分した遺体の犯人について、キュリアスは犯行時の気配を察知していた。そのために、二つの事件を分けて考えられる。

 キュリアスは腐れ縁になりつつあるアルバートに対して友情に似たものを感じていた。彼のために、ヒントを流しておくことは、友情の観点から必要なことに思われた。

「傷口が低い。あえて下から突き上げたのか、あるいはこの高さしか突き刺せなかったのか」

 キュリアスは自分の背後の、心臓の位置と、遺体の傷の位置に手を当てた。

「そこに犯人像を絞り込むヒントがあると思うぜ」

 アルバートはキュリアスの言葉をかみしめるように、眉間にしわを寄せて考え込んだが、すぐに諦めた。銀狼亭の遺体と、低い位置からの突き上げに違和感を覚えた様子で、考えに行き詰まっていた。

「こういう捜査はコプランド男爵のようにはいきそうにない」

「もう諦めるのか?」

「そうではないが…いや、いい。参考にさせてもらおう」

「おう」

 アルバートはそれ以上追求しなかった。キュリアスがなぜ凶器に詳しいのか、なぜ犯人が別にいると断定するのか、その根拠を探り出そうとはしなかった。そういう意味では、自身で言うとおり、捜査のプロ、コプランド男爵に遠く及ばない。

「俺は死体と友達といった意味が、分かっただろう?」

「ああそうだな」

 アルバートは、またその話に戻るのかと言いたげに、投げやりに答えた。



  3


 身なりのいい、商人風の中年男が、銀狼亭を訪ねた。

「いらっしゃいませ。仕事の依頼でも?」

 店主のジャックは中年男を見かけると、すぐに言った。男がテーブルに着く様子が無いので、食事客ではないと判断したのだ。そして宿泊するには、まだ日が高すぎる。

「護衛に欠員が出たので冒険者を補充したいのだが」

 男はそう言って店内を見渡した。

 店内は旅人や、イクウィップの町のあちらこちらで建設作業に加わっている人足が食事をとっていた。

 冒険者らしい恰好の者は一人しかいない。革の胸当てをつけた少女だ。男は値踏みするように少女の冒険者を見つめた。

「何人必要で?」

 ジャックの問いを受け、男は視線をジャックに戻した。

「二人。旅の途中で急ぎなんだが、見つかるか?」

「一人はそこのドーラでいいですか?」

 ジャックは即座に答えた。

「もう一人は…ちょうど帰ってきました。その男でいかがでしょう」

「いかがでしょうって何がだ?」

 キュリアスは店に入った早々に指差され、不満げに言った。

「あちらの少女は武器を携行しているが、こちらは…」

 男は不満そうにキュリアスを値踏みした。

「おうおう。ナイフ一本しかない、しがない貧乏冒険者でござんすよ」

 キュリアスは不貞腐れ、いつものカウンター席に腰かけた。

 名を言われたことと、視線が気になるのか、ドーラも近づいてきた。

「今はこの二人しか空いていませんので」

 ジャックはしれっと言い張った。厨房にもう一人、マデリシアがいるのだが、彼女のことには触れない。

「俺は殺人事件の捜査にかかるつもりなんだが?」

 キュリアスは不満を述べた。

「さすがにナイフ一本では、護衛は務まりますまい」

 男も不満を言う。

「甘く見てもらっちゃ困るぜ」

 これに反発したのはキュリアスだった。

「こちとら何でもござれの冒険者だ。必要とあらば、こいつ一本でドラゴンでも倒してごらんに入れよう」

 このキュリアスの大見得に対して、

「でかく出ましたな。では、私も護身で少々剣術を心得ていますので、その言葉が間違いないか、確かめさせていただきたい」

 と、男は言葉を改めた。丁寧になったというよりは、侮蔑の色合いが濃い。

「いいとも。どっからでもかかってこい」

 キュリアスはカウンター席に腰かけたまま動かない。身体の向きを男の方へ変えただけだ。

 男は顔を赤く染め、店を出た。すぐに戻ってくると、その手に木刀が握られていた。

「ほどほどにしろよ」

 ジャックはキュリアスに耳打ちすると、巻き込まれないように離れた。ドーラもいったん離れる。

「本当にそのままでよろしいので?」

 男は顔を赤らめて念を押すと、木刀を振りかぶった。振りかぶればさすがに冒険者と言えど、立ち上がるかと思っていたが、キュリアスは動かない。男は遠慮する気持ちも失せていた。

 キュリアスは不敵に座っていた。造作もない相手だと踏んでいたし、実際にそれほど実力差のある男だった。木刀を振り上げた挙動からも分かる。

「店に傷をつけたら承知しないわよ」

 どこからかローザ・ストレイダーの冷たい声が響いた。先刻、赤子が泣き立てるような事態を引き起こし、今再び騒ぎを起こそうとしている、その渦中にキュリアスがいることを理解しているのだろう。ローザの冷たく強い意志を感じるものだった。

 とたんにキュリアスは血相を変えた。

 振り下ろされる木刀の握りに手を当てて動きを止めた。そのキュリアスの動きがあまりにも早く、周りで見物していた人々にはキュリアスが瞬間移動したように見えた。

 男は何が起こったのか分からなかった。自分の腕が勝手に止まり、驚いているところに、キュリアスの手刀に模した手のひらが顔の前で踊り、男の額を打った。

「いやあ、危ない危ない。考えてみれば、店でこんなもの振り回すものじゃないな」

 キュリアスは言い訳でもするかのように大きな声で言うと、男の手から木刀をもぎ取った。

「これは御見それいたしました」

 男は自分の手と奪われた木刀、そしてキュリアスの手刀を見比べた後、晴れやかに言った。

「私はフランク・アラガントと申します」

 男は丁寧に名乗った。

「それほどの腕前であればさぞ名の通ったお方と存じます。お聞かせ願えますか?」

「キュリアス・エイクードだ」

 キュリアスは答えながら木刀を返した。

「おお、あなたが彼のエッジ様であらせられましたか」

 フランクは恐れる側ではなく、珍しく賛辞する側だった。フランクは非礼を詫び、頭を下げると、仕事を受けてもらえますかと言った。

「誰を護衛するんだ?」

 キュリアスは問で返した。

「若旦那様と奥様の護衛です。ライプ詣でです。そののち、ハンデルへと帰ります」

「報酬は?」

「あの…」

 話が進み始めたことに気後れし、ドーラが口をはさんだ。キュリアスとフランクが見つめると、

「私の腕試しは…?」

「結構です。ただし、命を落とした場合は、こちらは責任を負いかねます。そのことを承知のうえで仕事を受けるかどうかをご判断ください」

「は、はい」

 ドーラは丁寧に答えられて、余計に戸惑ったようだ。彼女はまだ数える程度の依頼経験しかないため、緊張しているのだ。さらに、キュリアスとフランクの試験まがいな行為を目の当たりにして、自分程度でいいのだろうかと不安にもなっていた。

 フランクは一日あたりの報酬を示した。一般的に危険手当も含まれた護衛相場と同じだった。ザック・ケイソンのように報酬額を渋ることはない。

「契約に問題なければ、すぐにも発ちたいのですが」

「気が早いな」

「奥様の意向で明日の夕刻にはライプへ到着しておきたいのです」

「また急ぎ旅なこって」

「あの、馬車でも二日かかるのでは?」

 ドーラが口をはさんだ。

「途中の宿場で馬を交換し、夜通し走れば可能です」

 フランクは簡単に説明した。

 町と町との間に、国が用意した宿場がある。宿場は旅人が安心して休める宿があるのと同時に、馬牧場があった。

 伝令や郵便用に配置された牧場だ。馬を絶やすようなことはない。フランクはその国所有の馬と交換して夜通し走ると言う。

 馬は国の持ち物だが、管理するのは人の子だ。心づけを懐に忍ばせれば、交換に応じてもらえる。馬の数は変わらないのだ。管理人は渋るそぶりで心づけを吊り上げ、利益を上げるのだった。

 金に糸目をつけない移動手段だが、確かに最速で進むことが可能だ。予定通りの時刻には目的地に達するだろうと予測できた。

 キュリアスに断る理由はなかった。剣を新調するためにも金が要る。殺人事件の調査にも興味はあるが、金になる方が優先された。

「俺は受けるぜ」

 あっさりと答えた。

 ドーラも、キュリアスの答えを聞いて決意したかのように、

「よろしくお願いします」

 と頭を下げた。

「こちらこそ」

 フランクも頭を下げた。

「では改めまして、護衛していただくのはジョシュア・マイザー様とフレデリカ・マイザー様です」

「補充と言ったか?他にも護衛がいるんだろう?」

 キュリアスが問うと、フランクはすぐに頷いた。

「他の町で雇い入れた冒険者が後二名ございます。ギム・ウィルソン様とルーク・レッドフォード様です。後程紹介させていただきましょう」

「分った。ちょいと支度してくる」

 キュリアスは言うが早いか、二階に借りている部屋へ向かった。しばらく戻ってこられないので一度部屋を空け、少しでも宿賃が発生しないようにするためだ。

 荷物も最小限にし、不要なものはジャックに預かってもらう。元々荷物の少ない性質なので、預ける物もたかが知れていた。

 ドーラもキュリアスに倣って身支度を整えにかかった。

 二人が離れるとフランクは、

「あれほどの方が…失礼だが、このような未完の町にいらっしゃるとは…」

 と感嘆の言葉をもらした。

「あいつは王都から追放されたんですよ。くれぐれもお気を付けください」

 ジャックは忠告を与えた。

「しかし、何か困ったことに巻き込まれた時は、エッジほど役に立つ者もいません」

「なるほど。その時は相談させていただきますかな」

 フランクはそう答えてほほ笑んだ。どこか憂いを含んだ笑みだったが、読み取れるほど繊細な人物は、近くにいなかった。

 キュリアスは支度を終えるとジャックに残りの荷物を頼み、厨房を手伝うマデリシアに声をかけた。

 マデリシアは今回も気楽なもので、

「あたしもちょっと用があるから気にせずに行ってらっしゃい」

 と言ったものだった。

 何か企む表情だ。キュリアスでもその程度は読めたが、それ以上はマデリシアの様子から窺うことはできなかった。

 ドーラも支度ができると、フランクは早速二人を外へいざなった。

 銀狼亭の前に一台の馬車が待っていた。横幅の大きい、屋根付きの馬車は八人乗り込める。さらに、御者台に二人座ることができる。

 大きな馬車なので、四頭の馬が引いていた。

 大型の馬車とはいえ、夜通し走るとなると、まともに休むことはできない。窮屈な旅になりそうだった。

 護衛対象と他の護衛役は別の場所で休息しているので、まず合流し、支度でき次第出発することになった。

 イクウィップの南側に宿場時代の名残の宿泊所があった。馬車はその宿泊所の前で停まる。待っていたかのように、背が高く、厚みのある体系の婦人と、お腹の突き出た少年が宿泊所から出てきた。

 その後から、人相がいいとは言えない中年の男と、青年が現れた。二人とも武具を身につけている。用心深い視線を辺りに配っていた。視線とは裏腹に、自然体に構えている。この辺りに場慣れした冒険者らしさが漂う。

 慣れないドーラは緊張のため、身体をこわばらせたままだ。町中で警戒することなどないと指摘しても肩の力を抜くことができなかった。

 フランクがそれぞれの紹介を行った。

 婦人が護衛対象の一人、フレデリカ・マイザー。少年がもう一人の護衛対象で、ジョシュア・マイザー。人相の悪い男がギム・ウィリアム、青年がルーク・レッドフォードという冒険者だ。

 紹介の進む横で、御者が忙しく荷物を馬車の屋根に固定した。

 窮屈だからと、キュリアスは馬車の屋根に上って荷物を枕に横になった。御者とギムが御者台に座り、残りが馬車に乗り込んだ。

「では出発します」

 フランクが馬車の窓から身を乗り出して声をかけた。応えて御者が手綱を振ると、馬に引かれて鈍い音を立てながら、馬車が動き始める。

 石畳の振動が直接伝わるため、屋根は小刻みに揺れ続けた。硬い屋根の上に、荷物も多いため、激しく揺れると身体のどこかをぶつけることになる。それでもキュリアスは屋根に寝そべり続けた。

 強い日差しはやっと西に向かい始めたようだが、強烈な熱を発していることに変わりはない。焼けるような日差しを浴びても、キュリアスはかまわなかった。

 青い空に白い雲が流れる。色の境がくっきりと分かれていた。さわやかな空を、鳥たちが自由に飛び交っている。

 寒くなれば大型の飛行モンスターも目撃できるが、今はその時期ではない。空を警戒する必要はほぼなかった。

 馬車はイクウィップの北門の傍でいったん止まった。守備隊はまだ一人しか配属されていないが、代わりに人足を雇って門番の代わりに配置していた。槍を持った人足が、出入りの馬車や人の流れを導き、渋滞が発生しないようにしていた。が、不慣れなためか、やはり停滞が発生している。

「南側の街道傍で冒険者の遺体が見つかったらしい」

 人足が手で往来を導きながら、仲間内で話し込んでいた。

「聞いた聞いた。剣による傷だってな。町中でも死人が出るしよ。町が出来上がる前から物騒なこって」

「その冒険者、美女だって噂じゃないか。もったいねぇ」

「何?美女なのか?後で顔を拝みに行こうぜ!」

「よせよ…。死体の顔なんて見たかないね」

「美女なんだろう?」

「それは…気になるけどもよ」

「確かにもったいねぇなぁ。おっちんじまうくれぇなら、一度くらい俺たちの相手をしてくれたっていいようなもんだ」

「美女の相手かぁ…」

「お、想像してやがんな」

「おめぇだって」

 人足は笑い合った。

 キュリアスは流れる雲を見つめたまま、人足の話を頭の中で整理した。これで二つかと、口の中で呟く。

 馬車が動き出した。往来の流れに乗り、順調に加速する。

 徒歩の旅人は馬車が来ると、石畳の街道からはみ出し、踏み固められた土の上を歩いた。馬車同士がすれ違ってもまだ余裕のある道幅でも、大きな車輪が傍を通ると巻き込まれはしないかと、疑念を抱いてしまう。馬の大きな力強い足が、近くに振り下ろされると、踏まれてしまうのではないかと恐れる。自然と人は馬車から離れ、石畳からはみ出すことになる。

 中には平気な様子で石畳を歩く旅人もいる。今度は御者がひいてしまわないかと気になり、避けて通ろうと内側に膨らんで進むのだった。

 行商人を除けば、ライプ方向へ進む旅人は少なく、逆にライプから戻って来たらしい旅人とは多くすれ違った。人の流れに、まだ新年祭の余波が残っているようだ。

 街道を進むにつれ、左右から森が押し迫ってきた。天然の並木道のようでもある。夜ともなれば、その森から害獣やモンスターが出てくることもあるが、昼間の往来の激しい時間帯はめったに遭遇することはない。

 旅人の金品を狙う盗賊も人目の多い時間帯は避けるので、日中の護衛は暇なものだ。

 だが、油断すると、ちょっとした隙に盗賊に襲われたり、何かに驚いて暴走した害獣やモンスターと出くわしたりすることもある。完全に気を抜けるわけでもなかった。

 天然の並木道が二手に分かれ、馬車は左手へ進んだ。そうかと思うと、並木道が離れて行き、平原が広がる。

 再び森が近づくと、谷間を縫うように進む。

 小さな川沿いを登っていくと、湿り気を帯びた風が吹いた。冷えた風が心地いい。

 川から離れてしばらくすると下り坂になった。御者は巧みな技術で車輪止めを操作し、速度を抑制した。

 下りが終わると、草原が広がった。

 空に赤みが増していた。東の空は暗く、西は紅い。色の変化の激しい時間帯だ。

 人の流れも変わった。すれ違う馬車も旅人も見かけなくなる。同じ方向に進む旅人も馬車も減った。

 街道脇に小さな牧場と建物があった。国が設置した宿場だ。危険の多い夜間の旅を避け、その宿場に宿泊する旅人がほとんどだ。建物に入りきれない人々は、牧場の囲いの中でテントを張って過ごす。

 キュリアスを乗せた馬車は宿場を素通りした。

 左右に森が迫ると、一気に夜のとばりが下りる。

 御者がカンテラを用意した。そのカンテラの明かりが邪魔になって、キュリアスには前方がよく見えない。

 馬車の内側にも明かりが灯ったらしい。森に窓の形をした明かりが映り、馬車を追いかけ続けた。



  4


 しつこく居座る夕日に、空は暗くなりきれずにいた。それでも気の早い星が瞬き始め、次第に仲間を増やしていく。

 木々に囲まれた森は先に闇に閉ざされている。星々はその闇を羨ましがるように、光の手を伸ばしては引っ込めた。

 馬車は一度休憩をとり、携行食による食事を済ませると再び出発した。馬にとっても、乗っている人々にとっても過酷な移動だ。

 キュリアスは身体を伸ばせるので、背中に硬い物が当たり、揺れが激しいことを除けば、快適だった。

 他の人々は休憩時に身体を伸ばしたものの、その程度では足りず、座りながら絶えず、姿勢を変えていた。次の宿場で馬を交換する予定なので、皆はそこで大いに身体を伸ばすことになる。

 日が落ちてしばらく経過するまでは空が闇に閉ざされることはなかった。

 いつの間にか闇に支配されると、小さな星々が活気づき、光の川のように空を覆った。

「おい、上の」

 キュリアスが星空を堪能していると、御者台から乾いた声がかかった。ギムのものである。

「起きているか?」

「ああ」

 キュリアスは気のない返事を返した。人がせっかく夜空を堪能しているというのに、ギムも、森や前方の気配も、キュリアスをそっとしておいてくれなかった。

「おかしな気配がする。警戒してくれ」

 ギムは、キュリアスほどではないにしろ、辺りの気配を察知しているようだった。

 キュリアスは感心するように吐息をもらした。そして屋根の上に立ちあがる。

「おい御者さんよ。少しペースを落としてもらえるか」

 キュリアスはそう声をかけると、屋根の一番前まで進んだ。揺れる馬車の屋根の上で平然と立つキュリアスに、ギムは感嘆の声をもらした。

 ギムに促され、御者が手綱を引いて速度を落とした。

 するとキュリアスは屋根を蹴って横に飛び降りると、猛然と前方へ走った。

 カンテラの明かりから外れると、そこは闇しかなかった。足元の石畳すら見えない。星明り程度では、道を照らすことはかなわなかった。

 キュリアスは闇の中をひた走った。時折吹く風のおかげで、森や石畳のおおよその位置は分かっている。加えて、キュリアスは夜目が利いた。そのために、夜空を見ていたのでもある。

 森の中を曲がった先で、騒動が起きている。気配でおおよその状況を把握したキュリアスは、迷うことなく道を曲がって騒動に飛び込んだ。飛び込んだ瞬間に、手近なものをナイフで斬りつけ、別のものを蹴飛ばした。

 前方に炎の明かりがある。そこには横転した馬車があった。カンテラの火が移ったのだろう。馬車が燃え始めている。

 馬車につながれていたらしい馬が一頭、横たわったまま動かない。もう一頭は逃げ出したようだ。

 横転した馬車を背に、人の気配が二つある。そしてその周りを囲む多数の気配。

 多数の気配は雑食のモンスター、ゴブリンだ。キュリアスが斬りつけ、蹴り殺したのも、ゴブリンである。

 キュリアスはゴブリンの集団に飛び込み、ナイフを振り、蹴り飛ばし、殴りつけ、さらに斬り付けた。流れるような動きで、次々とゴブリンを仕留めていく。

 キュリアスの手の中で、炎を浴びて光るものがある。その光が空中に線を描くように、伸び、回転し、ゴブリンからゴブリンへと渡った。

 キュリアスの動きはまるで荒々しく踊っているようだった。ナイフの刀身が炎を受けて煌めき、美しくさえ見えた。

 ゴブリンは子供の背丈程度だが、手には武器を持ち、家畜や人を襲って食べる。当然、キュリアスも食料と考えて襲い掛かるが、相手が悪かった。

 ゴブリンたちは弱い相手を見定め、馬車の前へ殺到しようとするが、キュリアスの流れるような動きに阻まれた。

 馬車の陰に人がうずくまっている。その腕の中にもう一人いる。母親と娘のようだ。キュリアスは気配と一瞬の視覚情報で二人の無事を確認すると、ゴブリンを一掃しにかかった。

「おうおう!すべての敵を迎え撃ってやるぜ!」

 キュリアスは景気づけに、お気に入りの物語のセリフを借りた。ゴブリンごときに使うほどではなかったが、震える二人に対しての見得としての効果が期待できる。

 キュリアスは風のように駆け巡り、次々に飛び掛かってくるゴブリンたちを撃退していった。

 突如として、ゴブリンの攻勢が止んだ。ゴブリンたちは奇声を発しつつ、森の奥へ逃げていく。

 ゴブリンたちの去った後には、倒れた馬も消え去っていた。

 気配が遠ざかるのを待ち、キュリアスは振り向いた。

 中年と思しき女性が、震えながらも、子供を抱きかかえて守っている。

「無事か?」

 キュリアスの言葉に、女性は気丈に頷いた。

「あ、ありがとうございます」

「いや。…護衛は?」

 キュリアスは辺りを見渡して言った。ナイフについた血のりを、近くのゴブリンの遺体についた布でふき取った。

「三人いましたが、いませんか?」

「いないな。逃げたか、ゴブリンにさらわれたか…」

 かなりの集団だった。少々の護衛では飲み込まれてしまい、無事では済まなかっただろう。おそらくは、馬と一緒に持っていかれた。キュリアスはそう考えていたものの、断定はしなかった。

「こいつはまるで戦場だな」

 乾いた声とともに、蹄の音と重々しい車輪の音が響いた。馬車は戦場の手前で止まった。ギムは武器を手に降りてくる。

 ルークとドーラが馬車の両脇に立ち、武器を構えた。

「もう近くにはいねぇよ」

 キュリアスは警戒を解くように言った。腰の引けているドーラの緊張を解く意味もあった。

 カンテラに照らし出された光景は地獄絵図さながらだった。二、三十匹のゴブリンの死骸が転がっている。

 逃げたゴブリンは倒れた数より多かったと、キュリアスは気配から感じていた。通常のゴブリンの集団の三倍程度はいただろうか。これでは護衛も数に押されてやられたはずだ。

 近いうちに、近くの町で討伐依頼が持ち込まれるだろう。キュリアスはそう考えて、ゴブリンの集団を追おうとはしなかった。そもそも護衛の仕事があり、自分の出る幕ではない。討伐は人に任せるしかなかった。

「助けていただき、ありがとうございます」

 女性は立ち上がると、もう一度礼を述べた。清潔なドレスを身につけ、立ち振る舞いに威厳がある。

 少女の方は女性の足元にしがみついて震え続けていた。しかし、その眼はキュリアスに釘付けになっていた。少女は護衛対象のジョシュアと同程度の年齢に見える。

 ゴブリンの遺体をどうにかしなければ、馬車が通れそうになかった。横転した馬車も邪魔だが、燃えるに任せれば、じきに撤去が楽になる。

 キュリアスたち冒険者はゴブリンの遺体を燃え盛る馬車の炎に放り込んだ。ゴブリンの体には脂身が多いのか、激しく燃え上がった。

「まったく。面倒なことに巻き込んでくれたな」

 ジョシュアが馬車を降りてきて、大変な時間のロスだと文句を言った。十一歳とは思えない物言いだ。

 キュリアスは無視して作業を続けた。それが気に食わないのか、ジョシュアは助かった女性に食って掛かった。

「これはジョシュア様。私共は幸運でございました。アラガント商会の御曹司に救っていただけるとは」

 女性はジョシュアの傲慢な態度に反発することなく、逆に相手を持ち上げるように言った。しかし、その態度に卑下する様子は微塵もない。

「マーサ様!こんなところでお会いするとは思いませんでしたわ」

 フレデリカも馬車を降りてくると、女性を見るなり、目を丸くして言った。

「おお!フレデリカ様。あなたがいてくださって助かりましたわ」

 マーサと呼ばれた女性も笑顔をもらした。

 キュリアスはあらかたゴブリンの遺体を片付けると、フランクに声をかけた。

「知り合いなのか?」

「はい。あの奥方はマーサ・フェイブル様です。ハンデルの領主、バーンフォード・フェイブル男爵閣下の夫人です。そちらの方は男爵夫人の娘でシドニー様です」

 フランクはマーサのスカートにしがみついて震える少女を紹介した。

「まったく!こんなもの放っておけばよかったものを!」

 ジョシュアは怒りが収まらない様子で、ゴブリンの遺体を蹴っていた。

 ただ、ジョシュア以外の人々は、キュリアスが先行し、事態を収拾したことに感謝していた。そうでなければ、大集団のゴブリンに、自分たちも襲われていたと、感じ取っていたからだ。

「私では役に立たなかったでしょうね」

 ドーラはゴブリンの遺体を運びながら、襲われなくてよかったと安堵すると同時に、自分の力不足を痛感しているようだった。

 ルークやギムは場慣れしているためか、もしもの想定はせず、淡々と作業していた。ただ、ゴブリンの集団に襲われていれば、護衛対象を守り切れなかった可能性は否めきれない。二人とも、この一件でキュリアスの力量を認め、キュリアスのおかげで仕事が継続できると感謝もしていた。

 フレデリカは社交的に友人関係にあるマーサの無事を、心より感謝した。キュリアスに、マーサに代わって礼を述べるほどだった。

 フランクも、領主の身内を救ったことは商会の利益につながると、歓迎して、マーサ親子を馬車に乗せることを提案した。

 フレデリカも賛成に回り、多数決で決定した。

 ジョシュアは強く反発した。あまりにもしつこく食い下がり、シドニーを怯えさせるので、キュリアスは問答無用で当身を食らわせ、眠ってもらった。

 シドニーがキュリアスに、はにかむような笑顔を向けた。キュリアスは紳士のようなお辞儀を返してみせた。

「これで護衛はクビかな?」

 キュリアスはジョシュアを馬車に投げ込みながら言った。しかし、顔は晴れ晴れとしている。

 フランクは申し訳なさそうにしながらも、キュリアスの耳元で礼を述べた。

 ギムは黙ってキュリアスの肩を叩いて笑った。ルークは関わりたくないのか、キュリアスを避けた。

「私も外れた方がいいかな?」

 ドーラは同情した。

「気にするな。せっかくの仕事だ。頑張って来い」

 キュリアスに言われ、ドーラは控えめにほほ笑み、馬車に乗り込んだ。

「ここに置いて行くわけにもいきますまい。それに、目を覚まされた時に沈める方がいらっしゃる方がよろしいでしょう」

 フランクはそう言うと、キュリアスを手招きした。

 フレデリカは耳に入っていないのか、状況を無視し続け、マーサとしきりに語り合った。息子に関心が無いのか、周りが見えていないのか、フレデリカのふるまいからはどちらなのかまるで分らない。

「んじゃ、ご一緒させていただくか。きかん坊が目を覚ましたら、俺が眠らせてやるよ」

 キュリアスは請け負うと、再び馬車の屋根に上った。キュリアス単身であれば、イクウィップに戻るのはたやすい。が、せっかく助けたマーサ親子が放り出されると思うと忍びなかったので、彼女たちを守る意味で、同行を決意した。

 キュリアスは有言実行し、道中目を覚ましたジョシュアを二度ほど眠らせたのだった。



  5


 シドニー・フェイブルはキュリアスをいたく気に入った様子だった。

「お話を聞かせて欲しいの」

 そう言って、立ち去ろうとするキュリアスを引き止め、母に同行した巡礼の旅が終わるのを待って欲しいとせがんだ。十二歳の少女はキュリアスが承知するまで、手を放さなかった。

「モテモテね」

 ドーラは別れ際にキュリアスをからかい、シドニーにがんばれと耳打ちした。

 キュリアスに報酬は支払われなかったが、フランクはこっそりと個人的な報酬を払った。

「あなたには感謝しております。主のためにこのような結果となってしまい、誠に申し訳ございませんが、我が商会としては、今後あなた様のおかげで大いに助かることでしょう。少ないですが、私からの感謝の気持ちです」

「お互いに商売だ。気にすんな」

 キュリアスは明るく答えると、フランクの心づけを喜んで受け取った。

 ジョシュアは、

「悪党を野放しにするな!守備隊に突き出せ!」

 などと猛抗議したが、対応する者はなく、急ぎの旅路に急かされてキュリアスの問題を放置した。

 マーサの勧めもあって、キュリアスはマーサ親子と同じ宿に泊まった。

「助けていただいたお礼です」

 マーサはそう言って、宿代や滞在にかかる費用をすべて持つと主張した。キュリアスに断る理由はなく、何より剣を買うために金を節約したい身なので、喜んで受けた。

 そしてマーサは娘の意向も汲んで、キュリアスにハンデルまでの護衛を依頼した。シドニーは大喜びし、キュリアスは報酬にありつけると感謝した。

 翌日、ライプ市街で護衛の必要はないからと、

「宿で休んでいてください」

 マーサはそう言い置いて、娘と巡礼に向かった。

 貴婦人とは思えない気さくなマーサに、キュリアスは好意を抱き始めていた。後にマーサの出自を知ったキュリアスは大いに驚くことになるが、それはだいぶ先の話だ。

 娘のシドニーも、出自を鼻にかける様子はなく、町娘でも通りそうなほどに屈託のない少女で、好感を持てた。

 ジョシュアの護衛を外されてよかったとさえ、キュリアスは考え始めていた。

 宿に併設された食堂で、キュリアスは時間をつぶしていた。ここで飲むワイン代も、マーサ持ちである。昼間から飲めるワインも、また格別だ。

 先日、ザック・ケイソンと行った大衆食堂とは違うが、この食堂も質の良いワインとそれに合うチーズや肉料理がそろっていた。

 チーズをつまみにワインを飲んでいるうちに、表の通りが騒がしくなった。鎧を着込んだ兵士が何人も走り抜けていく。

「何か事件が起こったみたいですね」

 追加のチーズとワインを運んできた給仕の女性が、興味津々に言った。

 女性の気持ちを察したのか、近所の野次馬が飛び込んできて、人殺しだってよと報告した。

「何でもローランド教の巡礼者が三人殺されたって」

 野次馬はそう言うと、兵士を追いかけていった。

 食堂の主人と給仕の女性は顔を見合わせた。ただ、客がいるので離れるわけにもいかない。

 巡礼者といえば、マーサもシドニーも該当する。キュリアスは口に運びかけたワインをテーブルに戻し、駆けだしていた。

 ライプは大きな町だ。町中を移動するために乗合馬車が巡回しているほどである。当然、アルコールの入ったキュリアスの気配感知では、察知しきれない。もちろん、マーサやシドニーの気配はとっくの昔に見失っていた。

 ただ、巡礼者の向かう先はほぼ決まっている。キュリアスは周りのやじ馬と共に、町の中央を目指して走った。

 町の中央にローランド教の本部、大神殿がある。マーサ親子は大神殿に行っているはずだった。

 大神殿へは、町の四方から中央へ延びる大通りを進めばたどり着ける。幸い、キュリアスのいた食堂は大通りの一つに面していたので、兵士や野次馬の後を追って北上すればいい。

 大通りだけあって、人や馬車の通行量が多い。前方の兵士も野次馬も、思うように進めない様子だった。こういう時、乗合馬車の行きかう大通りは、進みにくく、不便だった。

 兵士の一隊から、一部が左の脇道へそれた。残りは北上を続けている。野次馬は立ち止まって別れた兵士の背を交互に見ていた。

 キュリアスは立ち止まる愚を犯さず、素早く脇道へ入った。三人殺されたと耳にしている。すべてを確認するつもりになっていた。

 人だかりに囲まれた路地に中年女性が倒れていた。服装から、庶民の巡礼者と判断できる。

 マーサとは違うとすぐに判断できた。倒れている女性の背中、腰の辺りに血の付着が見えた。

 キュリアスは素早く折り返して大通りに戻ろうとしたが、押し寄せる野次馬に阻まれた。

「ちっ!」

 キュリアスは舌打ちすると、飛び上がって壁を蹴り、反対側の壁を蹴ってさらに上へ飛び、屋根の上に出た。下で驚きの声が上がるのを無視して北上する。

 屋根の上をひた走ると、また別の集団の気配を察知した。そこが二つ目の遺体のある場所だろうと目星をつけ、キュリアスは屋根の上から気配の方向へ進んだ。

 大通りから少し裏通りに入った、本来は人があまりいないと思われるような細い道に、人が集まっていた。その中央に、白いドレスの女性が倒れている。

 キュリアスは屋根から飛び降りた。

 検分にかかろうとした兵士の目の前に、突然降ってわいたため、周囲にどよめきが起こり、一部は逃げ出し、一部は固唾を飲み、兵士は剣の柄に手を伸ばしていた。

 キュリアスはうつぶせに倒れた女性の顔を覗き込み、血の付着した場所を眼にした。この女性もマーサではない。最初の遺体とほぼ同じ場所に血のりがあった。

 キュリアスは兵士が呼び止めるのも構わず、再び飛び上がって壁を蹴り、屋根へ飛び上がった。

 三つ目の場所も、やはり細い路地だった。キュリアスは、今度は屋根から飛び降りず、遺体を確認した。離れて見ても、服装がマーサと一致しない。血のりもはっきりと見えた。やはり腰の辺りだ。それだけ確認すると、キュリアスは大神殿を目指した。

 マーサはまだ無事なのだ。が、これだけ立て続けに起こる殺人事件ならば、彼女も帰り道で襲われる可能性が無いとは言えない。早く見つけて保護しなければならなかった。

 アルコールでぼやけた感覚に集中し、気配を探りながら、町の中央へ向かった。

 遠くからも見えていた、荘厳な建物が間近に迫った。大神殿は町の中でもひときわ大きく、ただの建物だというのになぜか、神々しく見えた。

 キュリアスは屋根から大通に飛び降りた。行き交う人々が、降ってきたキュリアスに驚き、何が起こったのか理解できない様子で見つめた。

 キュリアスはかまわず、人々をかき分けて大神殿の階段を上った。

 町の大部分は石で造られている。しかし、大神殿は大理石でできている。階段ですら、鏡のように磨かれ、そこから神聖な空気が漂い出ているようにも感じられた。

 巨大な門は開け放たれている。門の両脇に、巨大な柱がある。これらも大理石で、光沢を帯びていた。すべてが神の祝福を受け、神の光があふれ出ているかのようだ。

 巡礼者の出入りをかき分け、キュリアスは大神殿へ踏み入った。

 天井が異常に高い。

 柱が立ち並び、その間が通路となって奥の祭壇へ続いている。柱と壁の間には木製の椅子が並んでおり、巡礼者が座って、祭壇に向かって祈りをささげていた。または、慕う神を眼に焼き付けておこうとするのか、祭壇に立つ女神の像をじっと見つめていた。

 中央の通路を祭壇に向かって歩く人、逆に祭壇から戻ってくる人が、静かに目礼をかわしながら行き交う。

 アルコールにぼやけた感覚でも、さすがにこれだけ近づけば、キュリアスにはマーサ親子がどこにいるのか把握できた。

 キュリアスはゆっくりと奥へ向かった。気配で無事が分かった以上、神殿で走り回る必要はない。すでに神官が怪し気にキュリアスを見つめているのだ。これ以上目立つ行為は避けるべきだった。

 黒い服に身を包んだキュリアスは、白を好む巡礼者の中で浮いていた。人々がすれ違う度に、キュリアスの全身を一瞥した。

 数人の神官がキュリアスと並行して歩いていた。視線はキュリアスに向けられている。

 神殿の中は神の先兵が守護している。並行して歩く彼らは神官戦士なのだろう。そして、異質なキュリアスを警戒し、見張っているのだ。

 ともすれば、

「当教会に何か御用ですか?」

 と、疑いを持って声をかけられかねない。

 キュリアスはできるだけ急いで祭壇を目指した。呼び止められる前に、マーサ親子と合流しなければ、面倒が増えてしまう。

 白いドレスを着た親子が、祈りを終えて立ち上がった。振り向いた子供の方が、通路を進む、目立つ黒い男を見つけて、短い歓声を上げた。

 子供は駆け出すと、

「あたしを迎えに来てくれたの?嬉しい!」

 と言って、キュリアスに飛びついた。

 様子を見ていた神官戦士たちは、警戒を解いたようだ。信者の連れと分かってくれたのだ。キュリアスはシドニーの純真さと行動力に感謝したくなった。

 キュリアスは言葉の代わりに、シドニーの頭を撫でた。

「すっかり気に入ったようですね」

 マーサが微笑ましそうに娘を見ていた。

 マーサも、シドニーも、二日前の夜の恐怖はすっかり取り払われた様子で、朗らかな笑顔になっていた。

 その親子の顔を曇らせるような情報は伝えない方がいいと、キュリアスは即座に判断した。

「キュリアス様も参拝ですか?」

「いや、俺は無神論者でね。しかし、神殿に来ると、何か空気が違ってる。不思議なもんだ」

 キュリアスはそう答えると、気晴らしに迎えに来たとだけ言った。

 シドニーは大喜びで、キュリアスの手を握った。

 ここにマデリシアがいたら、なんと言われるだろう。キュリアスは考えてみたものの、想像もできなかった。自分が子供と、このようにお近づきになるとは思いもしていなかった。

 マーサは反対側からシドニーと手をつないだ。

 まるで親子だな。キュリアスは思わず微笑んだ。が、すぐに恥じ入る。人様の奥方と子供を相手に何を考えているのかと、突飛に浮かんだ思いを打ち消しにかかった。

 これこそ、マデリシアがいれば、からかわれるネタになっただろう。彼女がいなくて助かったと、キュリアスは胸を撫で下ろした。

 大通りを、シドニーに手を引かれて歩いた。

 キュリアスは恥ずかしくもあったが、味わったことのない不思議な幸福感に包まれ、戸惑いながらも、シドニーの手をつなぎとめた。

「何かあったのですか?」

 マーサが言った。

 キュリアスがマーサの顔を見ると、彼女は横の路地にできた人だかりに眼を向けていた。

 キュリアスは隠さずに説明した。

 マーサは驚き、恐怖に表情を曇らせたものの、護衛が来てくれたことに気付いて安心したのか、微笑んだ。娘を怖がらせないための笑顔かもしれない。

「では、私たちを心配して迎えに来てくださったのですね」

 マーサはキュリアスに礼を言った。

「違うわ」

 シドニーが頬を膨らませて主張した。

「私を守りに来てくれたの。そうよね?」

「あらまあ」

 マーサは驚いたように娘を見た。すぐに優しい笑顔になった。

「まいったな」

 キュリアスはどう対処していいか分からず、呟いた。

「え?違うの?」

 シドニーは悲しげな眼でキュリアスを見上げた。自分の期待と違う結果に、涙が込み上げてきた。

「ああ」

 キュリアスは慌てて答えた。

「二人を守りに来たんだ」

「ふたりぃ?」

 シドニーは抗議するような眼に変わった。キュリアスの答えが不満らしい。

 マーサが助け舟を出した。あるいは、娘の味方をしたのかもしれない。

「キュリアス様はどちらを先に助けてくださいますか?」

 キュリアスはシドニーとマーサを見比べた。本来はどちらと決めることはない。が、シドニーの顔を見ると、答えるべき答えが分かったように思えた。

 マーサが小さく頷いていた。彼女も言うべき答えを知っているのだ。

 キュリアスは意を決すると、

「シドニーからだ」

 と言った。

 それが正しい答えだったと、すぐに分かる。シドニーは満面の笑顔になり、キュリアスの手を強く握った。

 マーサは口元を押さえて笑うと、

「よかったわね、シドニー」

 と優しい声で言った。



  6


「はぁはぁはぁ…」

 薄暗くなってきた細い路地の物陰で、お腹の突き出た少年が荒い呼吸をしていた。硬く握られた手に、血の付いたニードルダガーがある。

 少年の赤く膨らんだ頬が、一層赤く染まっている。

 少年は十一歳という年齢からみると、幼く見える顔だ。だが、世間を卑下するような眼つきのため、太った小柄な青年に見えなくもない。

 明かりを手にした人が表側の路地を通り過ぎた。その明かりが一瞬、物陰の少年を照らす。

 少年はジョシュア・マイザーだった。

 ジョシュアは苛立っていた。今までは人を殺めれば、うっ憤が晴れ、征服感に酔いしれた。だが、今は屈辱しかない。

 それもこれも、あの冒険者のせいだと、ジョシュアは考えた。ジョシュアの反対を押し切り、関わりのない女性と子供を、あろうことか、ジョシュアの馬車に乗せたことや、ジョシュアに当て身を食らわせて黙らせたことも、気に食わなかった。

 たかが雇われ冒険者如きに、好き勝手にされてしまったのだ。マイザー家、そしてアラガント商会の次期当主として、あるまじき失態だった。

 冒険者相手に腹いせしようにも、怒りに任せて向かえば、返り討ちに合う。手っ取り早いのは女だった。それに、屈辱の事態を招いたのはマーサだった。似たような中年女性を選んでは、数人殺したが、それでも苛立ちが治まらない。

 人を殺せば、その人物を征服したことになる。今までは、一人殺せば、手に残る感触に酔いしれ、いい気分に浸れた。足元に転がる人物を自分の物にしたように思えて興奮した。

 今は、いい気分に浸ろうとすると、忌々しい冒険者の顔が浮かんだ。手にしたものが、その手からこぼれ落ちていくように感じる。

 あの冒険者を征服しなければ、これは治まらないかもしれない。ジョシュアは頭の中で、冒険者の背後に近づき、ニードルダガーを下から突き上げて殺すところを想像した。

 それだけで少しは気分が晴れた。ただし、少し、である。

 征服欲の強いジョシュアに、とある人物から、殺せばその相手をあなたが征服したことになると教わり、ニードルダガーを授かった。

 初めはジョシュアも、人を傷つけることに躊躇したが、一度刺してしまうと違っていた。

 手に伝わる感触。力なく崩れる相手。そして自分がそうさせたという手ごたえ。これぞ、征服するということだと、ジョシュアは思った。

 人目につかないように、そして仕損じても反撃されないように、人通りのない所で、女性や子供を狙った。

 今では、どこを突けば一撃で殺せるか、ジョシュアにもよく分かっていた。

 全てのきっかけは何だったのだろうか。何をしても両親が助けてくれたからか。あるいは、両親の気を引きたくて、高価な皿を割ったことだろうか。

 皿を割った時など、普段ジョシュアを見向きもしなかった父親が、

「よくやった!これで高額の保険をせしめることができる!」

 と喜んだほどだった。

 ジョシュアの父親は、褒めることも叱ることも、頭を撫でることも、叩くこともなかった。彼の頭にあるのは、金のことだけだった。

 父親が部下を操る様を見て、ジョシュアも人を従わせたいと思うようになった。父親が人を罵倒し、殴り倒し、路頭に捨てるのを見て、それでもすがり付こうとする人を見て、ジョシュアは父親の行動にあこがれを抱いた。

 母親も母親で、

「この子は手がかからなくていいわ」

 と、外遊に出る。子供の面倒は全く見なかった。

 それとも、とある店の店員に怪我を負わせたことが、ジョシュアに人殺しの道へ進ませたのかもしれない。

 その店で、ジョシュアは盗みを働いた。見咎めた店員を突き飛ばし、怪我を負わせて、ジョシュアは逃げた。

 この件が父親に知れると、

「金をいくら使っても構わない。揉み消せ。その店員が黙らないのであれば始末してしまえ」

 と部下に指示し、実際にその店員は次の日からいなくなった。

 そのために、ジョシュアは何もしても、父親が守ってくれると思うようになったのは間違いない。ジョシュアも父親同様、金さえあれば、何でもできると信じるようになっていった。

 何人か殺した後に、自分の犯行は誰にも見られていないと確信し、同時に、人の命すら左右できる自分の力に酔いしれた。

 偉大な父親に一歩近づけたように思えた。いや、金もうけしか頭にない父親に人殺しはできない。今や父親以上だと、ジョシュアは感じた。強い人間になれたと考えた。

 冒険者ですら、油断させて背後から突けば、殺すことができたのだ。もはやジョシュアに怖いものはなかった。なかったはずである。だというのに、今はキュリアスの顔がちらつき、心を乱された。

 命令を聞くはずの冒険者に無視され、いいようにあしらわれた。このような屈辱はない。屈辱が強すぎたのか、人を一撃で殺す程度では、気分が晴れなかった。

 一撃で殺すから物足りないのかもしれない。ジョシュアはふと思い至った。次は滅多突きにしてみよう。そうすれば、この屈辱も薄れるかもしれない。人の肉に刺さる感触は、何とも言えず、心地いいのだ。

 人の足音が近づいた。

 ジョシュアは次の獲物が来たと、邪悪な笑みを浮かべた。

「確か、こちらです」

 女性の声が聞こえた。

「こっちが近道なのか?」

 男の声もする。

「ええ。見覚えありますわ。間違いありません」

「お母さまはライプにお詳しいのですね」

 子供の声もする。

「しばらく暮らしていたことがあるのよ」

 母親は優しく答えた。

「ここを右です」

 足音が、ジョシュアの潜む路地に入った。物陰の前を三人が通り過ぎていく。

 ジョシュアは三人を見て、幸運に感謝した。ジョシュアに屈辱を与えた冒険者と、そのきっかけとなった親子である。

 屈辱を晴らす絶好の機会だ。ただ、人数が多い。ジョシュアは複数人を同時に襲ったことは、未だにない。そしてそのうちの一人は戦闘に心得のある冒険者だ。出方を一歩間違えば、返り討ちに合うかもしれなかった。

 死と隣り合わせの緊張感は今まで味わったことのない興奮をジョシュアに与えた。どう攻略するかを考えるだけでも、楽しい。殺す前に楽しいと感じたのは、これが初めてだった。

 誰から殺すべきか。

 最初の一撃は、完全に不意をつける。重要な一手だ。

 冒険者から殺す。

 反撃を避けるためにも、危険な冒険者から殺すのは正しいはずだ。

 ジョシュアは何か見落としはないかと考えた。

 冒険者から殺した場合は、女か子供が悲鳴を上げるかもしれない。それとも逃げだすかもしれない。叫ばれても、逃げられても面倒だ。聞きつけて人が集まっては元も子もないのだ。

 子供を殺す。

 一番悪い手だ。冒険者の反撃にあう。さらに女が人を呼びかねない。

 ジョシュアは三人の後をつけた。胸の高鳴りは治まらない。それはジョシュアに興奮をもたらし、最高の気分を与えた。自然と笑みがこぼれた。

 完全に足音を消せた。三人に全く気付かれていない。ジョシュアは自身の尾行に満足していた。そして殺す順番を色々と考えていった。

 女を殺す。

 やっぱりこれだと、ジョシュアは革命的な閃きを得た。

 女を殺し、相手が気付く前に素早く子供を人質にとる。口を塞げば、叫ばれずに済む。ニードルダガーを子供の首筋に当てれば、冒険者はこちらの指示に従うしかなくなるはずだ。冒険者を後ろに向かせ、ひと突きに殺す。その後で子供を、好きなように殺せばいい。

 そうだ。きっと喉に穴を開ければ、叫べない。その後で子供を思う存分突き刺せばいい。

 ジョシュアは浮かんだ手順が最高のものに思えた。そして、失敗はあり得ない方法だと分かる。

「女性が一人で歩くような路地ではないな」

 冒険者が言った。

「すっかり日が暮れてしまいましたから。日中でしたら、一人で歩いても問題なかったのですよ。それに、あと少しで着きますので」

 女性は気にも留めない様子で答えた。

「それにキュリアス様がいらっしゃいますもの」

「あらお母様、私のキュリアス様を取らないでくださる?」

 子供も含め、三人とも、背後のジョシュアに気付いていない。もはや、ジョシュアに失敗の余地はなかった。邪悪な笑みを浮かべ、ニードルダガーを握りしめた。

 女の背後に忍び寄り、身体を沈める。

 突き上げれば、心地よい感触が手に伝わる。その余韻を味わえないのが残念だが、すぐに子供を滅多突きにできるので我慢しなければならない。

 ジョシュアは気付くと、どうしたことか、下から見上げていた。手に石畳が触れている。何が起こったのかまるで分らず、ジョシュアは戸惑った。

 ジョシュアは何かが唇に触れたように感じ、手で拭った。べっとりと血が付く。鼻血が出ているのだ。鼻血と分かると、急に鼻が痛くなってきた。

 その時何が起こったのか、正しく理解していたのは、キュリアスのみだった。キュリアスは気配で背後からの接近に気付いており、タイミングを見計らってマーサを前に押しやり、同時にジョシュアのあごに、横蹴りを入れた。そして素早くステップを踏んでもう一度、今度はジョシュアの鼻に蹴りを入れたのだった。

 キュリアスに蹴飛ばされたジョシュアは足の力を失い、石畳の上に座り込んでいた。

 ジョシュアは立ち上がろうともがいたが、身体は言うことを聞かず、震えるだけだった。それがジョシュアの混乱に拍車をかけた。

 そしてジョシュアは理解できない反撃を受けたと気付くと、キュリアスに恐怖した。立ち上がれない今、冒険者になす術もなくやられる。そう思うとなお一層、震えあがった。

 同時に、ジョシュアは思い通りにならない現実に苛立った。思い通りにいかない原因が、目の前にいる冒険者だ。

 ジョシュアはキュリアスに対し、恐怖と、怒りとを覚え、相反する感情の間で揺れ動いた。

 子供が泣き声を上げそうになっていた。

「シドニー。大丈夫だ。俺が守る」

 キュリアスが言葉だけでなだめた。子供はなぜか大人しくなる。いっそのこと泣きわめいてくれた方がいくらか気が紛れたものをと、ジョシュアは不満を募らせた。

「探す手間が省けたぜ。そっちから出てくれるとはよ」

 キュリアスはそう言うと、ジョシュアの手からニードルダガーを奪い取った。

「何をする!」

 ジョシュアは声を荒げたものの、身体が動かず、抵抗一つできなかった。

 キュリアスはニードルダガーを見つめ、ジョシュアを睨みつけた。

「今日は何人殺した?」

「うるさい!」

 ジョシュアは屈辱に打ち震えながら吠えた。吠えることしかできなかった。吠えたことで、身体が動かないことに対する恐怖が緩和された。

 キュリアスはジョシュアの犯行を並べ立てた。ジョシュアにとって、言われたくないことだ。自分自身の秘事で人が知っていい事柄ではない。

「イクウィップでもやらかしたな。目撃されて始末したか?」

「うるさい!うるさい!」

「どうせ、王都でもやらかしているんだろう」

「うるさい!」

「ジョシュア・マイザーだったか?ハンデルか。そこでもやっているな」

 こいつは何でこんなことを知っているんだ。ジョシュアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。たかが冒険者が、なぜこうも言い当てるのか。疑問を通り越して恐怖を味わっていた。

 キュリアスが、冒険者らしく、邪悪な笑みを浮かべている。手にしたニードルダガーとジョシュアを見比べていた。

「一度にこれだけ刺せば、もう毒も残っていないだろうが、こいつでお前を刺してみようか?」

 キュリアスがゆっくりとジョシュアに近づいてきた。

「毒が僅かでも残っていれば…。ほら、その頬がいいか?あふれた腹か?腿がいいか?」

 下等な冒険者が、あろうことか、脅しをかけている。ジョシュアは頭に血が上り、叫んだものの、言葉にはならなかった。

 キュリアスは詰め寄ったものの、何もしなかった。もしもこの場にシドニーがいなければ、キュリアスは容赦なくジョシュアを殺していただろう。だが、先日ゴブリンに襲われ、凄惨な現場を見て、体験した少女に、再び血生臭いところを見せるのは、忍びなかった。

 キュリアスの躊躇が、ジョシュアに幸いした。

 ジョシュアは父親に言って懲らしめてやると内心、強く決意した。その決意が身体に力を取り戻させた。

 ジョシュアは立ち上がると、わめき散らしながら走った。何を言ったのか、本人も、周りで聞いていたものにも分からない。

 ジョシュアは決して逃げるつもりはなかった。ただ、手段を替えるだけだ。父親と金の権力にすがる。それだけのことだ。

 あの冒険者の近くにいたくない。そんな感情もあったが、ジョシュアは自身の感情を否定し、冒険者から離れる方向へ走り続けた。


 背は低いが体格のいい男が、部下の報告を遅しと待っていた。商人とは思えない、怪しげな眼光を放って、出入り口を睨んでいる。

 商隊は出発の準備が整っているのだが、合流するはずの息子がいまだに姿を見せない。

「フランク!息子はいったいどこでほっつき歩いているんだ!」

 傍に立つ中年男に怒鳴った。

 怒鳴られたフランク・アラガントは、アラガント商会の社長であり、ジョシュアの父である、小柄なエディ・マイザーに向かって、

「それが、昼前にふらっと出ていかれまして」

 と、額の汗をぬぐいながら答えた。

「まったく手間のかかるバカ息子め」

 エディがぼやく。

 エディの隣に、半裸に近い女性が控えていた。狐顔の美女だ。自身の口で煙草に火をつけ、吹かすと、エディに差し出した。

 エディは黙って受け取ると、うまそうに煙を吸う。

「フランク。イクウィップの件は問題なかろうな?」

「はい。我々が立つ頃には発見されていたでしょう。しかし、証拠は残っていないと報告を受けています」

「うむ」

 エディが頷くのを、フランクは遮った。

「それが、実は昨晩も二つ…」

「何だと…?」

「そちらの配下の方が動いてくださっていますが…」

「あのバカ息子め。際限なくやってくれおるるわ。誰のおかげで世間に発覚せずに済んでおると思っておるのか…」

 商隊の一員と思われる男が部屋に駆け込んできた。

「どうかしましたか?」

 フランクが即座に尋ねる。

「大変です。また、その、三つ出ました。今守備隊が駆けつけています」

 エディは煙草を落とすと、力いっぱい踏みつけた。

 フランクは天井を見上げて嘆いている。

「フェム・ファタル。出てくれるか?」

 エディは怒りを抑え込んで言った。

 半裸の女性が、「あい」とシナを作って答える。が、次の瞬間には扉の前に立っていた。

 フェムと呼ばれた女性のベルト脇に、横幅の広い鞘と、そこに納まった剣があった。抜き放てば、炎のように揺らめく刀身が現れる。フェム同様、妖艶な雰囲気を醸し出す剣だ。

「バカ息子め!つまらん遊びを…。覚える程度なら許しもしようが、見境を無くすとは…」

 エディの眼が残忍に光った。犯行に及ぶジョシュアの眼に似ているが、それよりもはるかに鋭く、そして狡猾さが見え隠れしていた。



  7


 日の出のまだ涼しい時間帯に、キュリアスはマーサとシドニーと共に宿を発つつもりだった。ハンデルへの帰路に就くため、馬車の手配も道中で行わなければならない。

 手ごろな手段は、乗合馬車に便乗することだ。満席になる前に席を確保する必要があり、早めの出発になる。

 しかし、宿を出ようとしたところで、キュリアスは足を止めた。何事かと問おうとするマーサを背後に押しやる。キュリアスの緊張を察したのか、シドニーは母親のスカートにしがみついた。

 宿に三人連れが入ってきた。その内の二人に、キュリアスは見覚えがあった。

 見覚えのある中年男が、隣の背の低い男に、

「この男です」

 と告げていた。

「フランク。俺はクビになったはずだよな?」

 キュリアスは見覚えのある中年男に声をかけた。

「私から一つ頼みがあってな」

 答えたのはフランクではなく、背の低い方だった。その男は言いかけた言葉を引っ込め、キュリアスの背後の女性を見据えた。

「これはフェイブル男爵夫人ではありませんか」

 男は言葉遣いまで変わった。眼の鋭さも消え、温和なふりを示している。

「あの、失礼ですが、どちらかでお会いしましたか?」

 マーサは男を思い出せない様子で問い返した。

「これは失礼いたしました。私、ハンデルの貿易商でエディ・マイザーと申します」

「ああ。アラガント商会の。先日は男爵がお世話になりました」

「いえいえ。かまいませんよ。同郷のよしみでございます。それに、男爵様がいらっしゃらねば、私どもは商売できませんので」

 キュリアスは二人の会話を聞きながら、警戒を怠らなかった。エディと名乗った男の横に控えるのは、フランベルジュのコードネームを持つ女だ。フェム・ファタルという名のその女は、元ソード隊の隊長クラスで、残虐な手口を好む。

 フェムの武器、フランベルジュは刀身が炎のように揺らめいている。この波打つ刃に斬られると、傷口は複数の刃物で同時に斬られたように複雑になる。たとえ相手が生き残っても、そのような傷は完治しない。

 当然、フェムは相手を逃すつもりはない。ただ、相手に恐怖を与えたいがために、この剣を好んで使っていた。

 さらに、フランベルジュの刀身に毒が塗られている。麻痺性の毒で、僅かでもかすれば、相手はたちどころに身体の自由を奪われる。

 フェムは相手が動けないと分かったうえで、できるだけ死なないように、切り刻んでいく。その行程で、相手の恐怖する顔を堪能する。相手の懇願に、無慈悲な答えを返すことを、無上の喜びとした。

 フェムの所業は暗殺ではなく、拷問や虐殺の類だった。

 炎で相手をあぶるように、炎に似た刀身の剣でなぶり殺す。彼女と交われば、火傷では済まない。

 そして質の悪いことに、フェムはかなりの腕前の剣士でもあった。並大抵の相手では、翻弄されてなぶり殺される運命しかありえない。

 こいつがこんなところにいやがるとは。

 キュリアスは気が気ではなくなっていた。フェムが攻撃に出たら、果たして後ろの二人を守りきれるかどうか。こういう時こそ、剣が欲しかった。

 キュリアスの手元にあるナイフでは、フランベルジュの刀身を受けると、波打った刃が手や腕に当たってしまう。そうなれば、麻痺毒を受けて身動きが取れなくなる。フェムを相手どるには、ナイフでは心もとなかった。

 キュリアスの躊躇は見透かされた。フェムはこれ見よがしに殺気を放って、キュリアスの反応を、僅かばかりの変化を楽しんで観察しているようだった。

 観察だけで終わる女ではないと、キュリアスには分かっていた。だからこそ、警戒を解くことなどできない。フェムのいたずらに反応せざるを得なかった。

 エディとマーサが挨拶をかわしているが、その内容はキュリアスの耳に届かなかった。

 フェムの行く場所、死体の山ができるとも言われるほど、人の命を何とも思っていない女だ。

 フェムの登場と、マイザーの名から、キュリアスは一つ符合するものを得た。この女がジョシュアにニードルダガーを渡し、殺人を唆したのだ。毒の使用も、フェムの入れ知恵に違いない。

 ジョシュアのような子供に、人の殺し方と、毒の使い方を教えるような人物は、フェム以外には考えられなかった。

 キュリアスの警戒はフェムに対するものだったが、無駄な警戒という訳でもなかった。警戒する相手を間違えていただけのことである。もちろん、フェムが一番危険な相手ではあるのだが。

 エディは当初、ジョシュアの犯行の目撃者であるキュリアス、マーサ、シドニーの三人を始末するつもりだった。

 取り乱して戻ってきた息子が冒険者に痛めつけられたと泣きついた。その冒険者はフランクも知っている相手だと言う。

 その冒険者とともにいた母と娘にも、目撃されたということを、エディは何とか聞き出すと、支離滅裂な息子の言い分に加担するのは癪だったが、目撃者を消さざるを得ないと覚悟した。

 フランクはジョシュアを役人に突き出すことを勧めたが、そのような薄情者ではないとエディは突っぱねた。

 そうまでして決めたことだが、エディは目撃者の一人がマーサだと分かった途端に計画を変更した。以前から計画していた別のものに組み込む考えになっていた。

 もしもエディの考えが変わっていなければ、エディの狡猾さにからめとられ、キュリアスはマーサとシドニーを守り切れなかったかもしれない。

 冷酷な決断をしていることをおくびにも見せず、エディは夫人との会話を続けた。

「もしや、これからハンデルへお戻りになられますか?」

「はい。乗合馬車を利用しようと考えております」

「それでしたらどうでしょう。我々の商隊もハンデルへ戻りますので、同行なさっては?ぜひそうなさってください。彼は男爵夫人の護衛ですか?では彼もいっしょにどうぞ。どうぞ」

 エディは話が決まったとばかりに、三人を導いた。やんわりと話を進める割には、行動に有無を言わせないものがある。

 戸惑うマーサに、エディはダメ押しとばかりに言った。

「大恩ある領主様に、僅かばかりでも恩返しできる。この機会を逃す手はございません。どうか、私めに恩返しの機会をお与えくださいませ」

 恩を返すと言われては、マーサも無下にできなかった。

「分りました。ではよろしくお願いいたします」

「ありがとうございます。ではフランク。客人は任せますよ」

 エディはマーサに礼を述べ、忙しく言うと、フェムを従えて出て行った。

 フェムが何もせずに去っていくとは。キュリアスは少なからず、驚いた。

「キュリアス様。すみません。予定が変わってしまいまして」

 マーサはキュリアスに詫びた。

「どうかしたのか?」

 キュリアスはエディとマーサの会話を全く聞いていなかった。

 マーサはアラガント商会の商隊に同行することになったと告げた。

「なるほど。旅費が節約できる。いいんじゃねぇの」

 キュリアスは庶民的なことを言った。フェムと同行すると考えると、先が思いやられるが、そのことをマーサに悟られるわけにはいかない。フェムの存在は、人に言えない昔の仕事の名残を色濃く残している。シドニーに知られていいものではなかった。

「あら。そうですわね」

 マーサは気付かなかったとばかりに目を丸くし、明るい声で笑った。

 マーサの笑顔に、キュリアスは救われた思いだった。

 フランクの顔に一瞬、乞うような表情が浮かんで消えた。それが何を意味するのかは、キュリアスたちには分からない。

 フランクはエディの暗躍にはかんでいなかったが、何かを企んでいるとは予測していた。それがマーサやキュリアスに害をなすとは思いもしていない。

 フランクの今の懸念は、ジョシュアだった。少年の殺人趣味を、これ以上野放しにはできないと考えていた。目撃者である三人の証言があれば、そしてジョシュアが自首の勧めに応じるのであれば、そうして欲しいと願っていた。

 フランクの思いとは違う方向へ流れつつある。それでも彼は自分から行動を起こすことはなく、エディの指示に従い、客を導いた。

 商隊でマーサとシドニーに馬車が宛がわれると、キュリアスは当然のようにその屋根に上った。そこが一番不意打ちを受けにくい場所であり、即座に行動できる場所でもあった。

「ややこしくなってきやがった…」

 キュリアスは屋根の上で独り言ちた。

 フェムと行動を共にしたくないが、フェムの危険性を説明するには自身の過去を打ち明けねばならない。シドニーの笑顔を見ると、キュリアスにはそれができなかった。

 できない以上、黙って二人を守らなければならない。フェムがおかしなちょっかいを出してこないよう、常に警戒を怠ってはならない。

 別の懸念もある。この商隊にジョシュアがいた。ジョシュアはキュリアスを敵対視している。殺人の犯人と、その目撃者の間柄だ。少年とはいえ、口封じの策を練って、何か仕掛けてくる可能性もあった。

 そしてエディだ。改めてみると、何を考えているのかよく分からない男だ。信用できない人物に見えた。息子を守るため、キュリアスにちょっかいを出してくる可能性もあった。

 フェムと、殺人犯と、信用のおけない親。それらと共に旅するとなると、気の抜ける間などありはしない。

 キュリアスの寝転がる馬車の前後に、三台ずつ商隊の馬車が続いた。多くは荷馬車で、商会で立ち働く男たちが乗り合わせている。

 先頭の馬車にエディとフェムが乗った。その気配はしっかりとつかんでいる。

 最後尾の馬車に、ジョシュア、その母フレデリカ、そしてドーラなどの冒険者が乗り合わせていた。

 キュリアスの下で、マーサとシドニーはくつろぎ、旅の景色を楽しんでいる。

 彼女たちの平穏をどう守るか、キュリアスは悩まなければならない。

 フェムがたわむれに仕掛けてくるか、ジョシュアが逆恨みに反撃を仕掛けてくるか、エディがマーサ親子を何かに巻き込むか、あるいはマーサ親子ではなく、キュリアスが標的になるのかもしれない。

 キュリアスは昼夜問わず、警戒し続けなければならない。一人で対処するには、骨の折れそうな状況だった。

 マデリシアの存在が恋しくなる。彼女がいるだけでも、警戒を分担できる。彼女の危機感知能力があれば、シドニーを守ることがたやすくなる。

 キュリアスは自分の考えを否定した。ないものねだりをしても始まらない。

 後方の馬車にいる冒険者に持ち掛けることを考えた。キュリアスと同業の冒険者であれば、手伝ってもらえるかもしれない。

 キュリアスはこの考えもすぐに否定した。ギムやルークは報酬に忠実だろう。つまり、雇い主に従い、こちらには手を貸さない。

 ドーラは味方になってくれるかもしれないが、彼女の場合は戦力不足だ。警戒の仕方も分かっていない可能性が高い。危険を伴う可能性がある以上、初心者の彼女を巻き込むわけにはいかなかった。

 いっそのこと、自分から動き、フェムを始末してしまおうかと、不穏な考えがキュリアスの脳裏をかすめた。

 フェム相手となると、誰にも目撃されずに倒すことなど不可能だ。騒動となれば、マーサとシドニーに何らかの害が及ぶかもしれない。そう考えると、キュリアスから動くこともできなかった。

 旅の道中は、アラガント商会の伝令が時折馬で駆けつけ、エディと何やら話して去っていく程度で、特に何事も起こらなかった。

 夜も、夜陰に紛れて何事か起こるかと警戒したが、平穏な一夜だった。商隊は宿場に泊まり、マーサとフレデリカが雑談に忙しかっただけである。

 夜も警戒し続けたキュリアスはたいして眠れぬまま、二日目を迎えた。

 商隊の旅路は順調で、この日の夕方までにはイクウィップにたどり着ける。イクウィップまでは何も起きないかもしれない。キュリアスは拍子抜けする思いだった。

 昼に、商隊は空き地で止まった。

 街道傍の空き地で、道を行き交う人々の眼がある。このような場所で何かを仕掛けてくることはないだろう。ただの食事休憩に違いなかった。

 キュリアスはあくびを一つすると、空を流れる白い雲を観察した。人の気配は把握し続けている。

 馬車が停まったのをいいことに、シドニーが昇降口に現れ、

「キュリアス様。お話ししましょうよ」

 と、何度目かの誘いを投げかけた。

 キュリアスは警戒を解くわけにはいかない。子供の話し相手をしていては、フェムに出し抜かれる可能性がある。そう考えて、絶えず誘いを断っていた。

 今回は断るまでもなかった。

 先頭の馬車からフランクが降り、こちらに向かってきた。焼けるような日差しを受け、フランクは手で顔を仰いでいる。

「キュリアス様」

 フランクはシドニーの前に立ち止まり、少女の更に上に視線を向けた。

 キュリアスは屋根を転がり落ちると、空中で体勢を整えて着地した。眠気覚ましにちょうどよかった。

「すごいすごい!」

 シドニーが嬉しそうにはしゃいだ。

 キュリアスはシドニーに向かって、曲芸師よろしくお辞儀を送り、フランクに向き合った。

「実は、食料の一部が腐敗しておりまして」

 フランクは申し訳なさそうに切り出した。

「何だ?昼食抜きか?構わねぇぜ」

 キュリアスは先を見越して答えた。

「いえ、そうではありません。まことにご面倒をおかけしますが、冒険者の方々で狩りをしていただきたいのです」

「はい?」

 キュリアスは思わず聞き返した。珍獣の捕縛依頼や、とある獣の毛皮や牙の入手という依頼なら、見かけたことも受けたこともあるが、単純に狩りの依頼は珍しい。それも商隊で移動中に、である。

「主が肉を所望しておりまして」

 フランクは申し訳なさそうに言った。

「つまり、主人は腹が減ったから肉が食べたい、と」

「はい」

「そうだ、何でも屋の冒険者がいるじゃないか。あいつらにとって来させろ」

 キュリアスはおどけて言った。

 フランクは面目次第もございませんと頭を下げた。どうやら、的中したらしい。

「もちろん別に報酬をご用意いたします」

 冒険者は戦いには優れているかもしれないが、狩りはまた別ものだ。フランクはそのことを理解しているからこそ、申し訳なさそうにしていた。

 狩りが口実で、マーサ親子が狙われる。などということはさすがいないと、キュリアスは浮かんだ疑問を即座に否定した。街道には人が行き来している。ここでの犯行はないとみていい。

 エディの、冒険者を使用人か何かのようにこき使おうとすることに、反感は覚えたものの、キュリアスは眠気覚ましにちょうどいいとも考えた。

「いいぜ。受けよう」

「誠にございますか!ありがとうございます」

 フランクは頭を下げた。この男に含むところはなさそうだ。

「親子を頼めるか?」

「もちろんです。私が責任をもちまして」

 フランクは快く請け負った。請け負ったからには、大丈夫だろうとキュリアスは、フランクを信用した。

 ギムとルーク、ドーラも狩りに同行することになった。これもエディの指示だと、フランクは言った。

「人数の多い方が成果も望めるのではないかと…」

 フランクは申し訳なさそうに言ったが、報酬が出る以上、冒険者たちに、表面上の不満はなかった。

 さっそく森へ踏み入り、獲物を探す。

 ただ、飛び道具を持ち合わせた者はなく、さすがに無理だと、皆の表情が告げていた。

 しばらく森を散策すると、後ろの冒険者たちの挙動が怪しくなった。

 別の依頼でも受けていたか。

 キュリアスは気配で後ろの三人の様子を察し、気持ちだけは身構えた。

 狩りはあくまで口実で、三人で囲んでキュリアスを打倒す算段だったのかもしれない。三人がかりで同時に攻めれば、どれほどの手練れでも討てると考えたのだろう。

 三人の中に場慣れていない者がいる。突けばぼろが出るかもしれないと、キュリアスは何気ない風を装って言った。

「俺を狙うのか?ドーラ・チート」

「フルネームで呼ばないで!」

 唐突に言われたにもかかわらず、ドーラは即座に抗議した。抗議したものの、勢いは萎れた。

「実力差があり過ぎなのよ。あたしには無理」

 あっさりと認め、肩を落として諦めた。

「おいおい。ばらすなよ」

 ギムが剣を抜きながら抗議した。ルークも腰の剣を抜き放つ。

「すみませんね。高額な報酬が出るっていうんで」

 ルークは笑いながら言った。詫びるつもりなど微塵もない。

「何やらかしたんだ?」

 ギムは尋ねたが、すぐに打ち消した。

「いやいい。俺たちまでお払い箱にされてはたまらん。大人しくここで死んでくれ」

「そうしてやりたいのはやまやまなんだがな。ドーラ・チート」

 キュリアスは他人事のように言った。

「なんでフルネームで呼ぶのよ!それに私、今関係ないでしょ!諦めたって言ったでしょ!」

「なんとなく?」

 ドーラはうなり声を発したが、剣は抜かなかった。

 せめて剣を抜いていれば、ドーラは自身の立場を守れたが、それも危うくなった。冒険者が受けた依頼を途中でやめる、ということは一番行ってはならない行為だ。自身の信用を失い、依頼を受けられなくなる可能性すらあるのだ。

 キュリアスはそれを踏まえて、あえて二度目の挑発をしていたのだが、無駄だった。無駄ではあったがキュリアスにとっては喜ばしいことでもあった。

 ギムやルークのように、報酬のためには仕事を選ばない冒険者も多い中、ドーラは自分の価値観を見出しつつあるようだ。実力差を理由にはしたが、その実、気の乗らない仕事を避けた。

 ドーラは銀狼亭でローザを手助けした人物でもある。ローザが受けた恩を、キュリアスが返すことに少しもやぶさかではなかった。

 何より、キュリアスはドーラを気に入りつつあった。銀狼亭の常連になりそうなドーラを見捨てる選択肢など、キュリアスにはなかった。

 どうしたものかと思案している時に、幸運が訪れた。キュリアスはその幸運の気配が皆の視界に入るのを待ち、指差した。

 ギムもルークもドーラも、キュリアスの指差すものを見た。

「鹿だ」

「鹿だな」

「鹿ですね」

「食料!じゃ、そう言うことで」

 キュリアスは言うが早いか、鹿を追いかけて森の奥に駆け込んだ。

「あっ」

 ルークがあんぐりと口を開けている間に、キュリアスは逃げる鹿に追いつかんばかりに森の奥へ消えて行った。

「逃げやがった!」

 ギムが地団駄を踏んだ。

「はやっ!」

 ドーラはただただ驚いていた。

「あれはどう頑張っても追いつけんな…」

 ギムは諦めて剣を鞘に納めた。

「しかし、説明しても信じてもらえそうにない。鹿と一緒に逃げていったなどと…」

「私の眼がおかしいのかな?鹿に追いついていたように見えたんだけど」

「逃げる鹿に、な。俺にも見えた…」

 ギムとドーラは呟くように言った。幻でも見せられている心境だった。

「ルークさん?口が空いたままよ」

 ドーラが指摘した。

「ん?あ、ああ」

 ルークが一番驚いていたようだ。やっと口を閉じたかと思うと、叫び声を上げた。

「ありえねぇ!」



  8


「ですから!鹿をですね!追いかけてですね!」

 ルークが必死に、エディに説明していた。

 ドーラとギムは表情に諦めの色が浮かんでいる。が、ルークは雇い主に伝わらないことがもどかしいらしく、粘り強く、繰り返し説明していた。

「もっとましな嘘は考え付かなかったのか」

 エディはにべもなく言い放った。煙草の煙を吐息と共に吐き出す。しょせん冒険者は冒険者だと、エディは彼らを信用していなかった。

 ルークは主張が認められないことに苛立ち、説明を繰り返した。冒険者の三人が商隊に戻って一時間近く経過しているが、堂々巡りだった。

 後ろで騒ぎが起こった。

 皆が振り向くと、森の中から逃げたはずのキュリアスが現れた。その手に、鹿の足が握られていた。そして、その鹿は逃れようとじたばたと暴れている。

「よう!諸君!」

 キュリアスは獲物を抱え、意気揚々と戻ってきたのだ。

「ほら!だから言ったじゃない!あれ、生け捕りにしちゃってる!」

 ドーラは興奮して言った。

 先ほどまで躍起になって説明していたルークは口がきけなくなっていた。あんぐりと口を開け、キュリアスと暴れる鹿を見比べた。

「こいつは驚いた…」

 ギムは唸るように言うと、クククと笑った。

 さすがのエディも驚き、くわえていた煙草を落としても気付かなかった。

 エディの後ろ、馬車の中でくつろいでいたフェムは、皆の呆気にとられた様子と、キュリアスと鹿を見比べ、笑い転げた。鹿を素手で捕縛するという人間離れした芸当をやってのけたキュリアスと、それに驚く人々が、フェムにはどちらも滑稽に感じた。

 キュリアスは鹿をエディの部下に無理やり押し付けると、エディに声をかけた。

「ちょいと相談があるんだけどよ」

 キュリアスはそう言ってエディの低い肩に手を置いた。

 エディはキュリアスを殺そうとしたことが発覚している。その相手に肩を掴まれ、気が気ではなくなった。報復に何をされるか分かったものではない。冒険者は荒くれ者ぞろいなのだ。

 キュリアスは笑顔で、エディの想像していなかったことを言った。

「考えてみたら、俺の雇い主は女性なんだよ。女性の傍には女性がいた方がいいだろう?そこで、そっちが雇っているドーラをこちらに貸してもらえないかな?そうだ。ついでに、あんたの奥さんも同じ馬車に乗ればいい」

 キュリアスはもっともらしく、ドーラを自分の陣営に引き込もうとした。

 エディが動揺していなければ、いくつかの指摘を受けて断られたかもしれない。例えば、ドーラを貸し出すいわれはない。また、フレデリカを差し出すということは、人質に相違ない。認められるはずもなかった。

 動転しきったエディは思わず頷いていた。頷かなければ、肩にかかったキュリアスの手がどう動くか、恐ろしくもあった。

「おお。話が分かるね!聞いたな?ドーラ。奥方を連れてこっちの馬車に来てくれ」

 キュリアスはすかさず指示を出した。

 ドーラはキュリアスの意図が分からなかったものの、雇い主の了承があるので、キュリアスの指示に従った。

 これですぐさまドーラが処分されることはない。キュリアスは思惑通りに運べ、ほくそ笑んだ。フレデリカの件はただの思い付きで、人質になるとは考えていなかった。

 休憩を終え、馬車に乗り込んだドーラに、シドニーが質問した。

「あなたとキュリアス様はどういうご関係?」

「か、関係?…冒険者仲間?」

 十二歳の少女の、あまりにも思いつめたような視線に戸惑いつつ、ドーラは答えた。

「お付き合いされているの?」

「え?おつ…いえいえ。本当にただの冒険者つながりだけですよ」

 ドーラは少女が気にかけることに気付き、誠心誠意答えた。

「そう、よかったわ」

 少女は取り澄まして言った。

「私たち、友達になれまして?」

「もちろん」

 ドーラが答えると、シドニーの顔は笑顔であふれた。

 マーサはフレデリカ、シドニーはドーラという話し相手ができ、楽しい旅路となった。

 キュリアスは馬車の屋根の上から、下の雰囲気を味わい、微笑した。守らなければならないものが増えているが、彼女たちの笑顔を守るためなら、任務を果たせそうな気持になっていた。

 以降はアラガント商会の伝令が一度現れただけで、何事もなく過ぎ、日が暮れる前にイクウィップへ到着した。

 マーサ、シドニーはキュリアスの口利きで、銀狼亭に泊まることになった。銀狼亭の食事を強く勧めたので、マーサはそれならばと、喜んで申し出を受けた。

 商隊は人数が多すぎて、建設中の町では宿に泊まりきれない。大半がテントを張って一夜を過ごす。エディとその家族、それにフェムは国営の宿泊所に泊まることになった。

「明朝、お迎えに上がります」

 別れ際にフランクはそう言い残し、馬車を移動させた。

 冒険者の利用する店と聞いて、シドニーとマーサは目を輝かせ、壁板から釘の一つに至るまで、念入りにチェックした。大きな犬の形の看板に、シドニーは喜び、マーサはかわいいと言った。

 それは狼だと、キュリアスは訂正するような野暮は犯さなかった。黙って二人を銀狼亭内に導いた。

 巨漢のジャックが迎え、マーサとシドニーに部屋の説明をした。時折、乳幼児の泣き声で中断させられつつも、宿泊の手続きを完了させた。

 マーサとシドニーは食事の前に部屋を見てくると、さっそく二階へ上がった。

 キュリアスとドーラはカウンター席に腰かけた。

「手伝いに入りましょうか?」

 ドーラは早速声をかけた。

「ありがとう。でも大丈夫だ。今日はゆっくり休むといい」

 ジャックは気を使ってか、ドーラを労った。

「マディ!飯を四人前頼む!」

 キュリアスはジャックを通り越して、厨房で立ち働くマデリシアに声をかけた。

「四人前?そんなに腹を空かせて帰ったの?」

 マデリシアの、呆れたような声が返ってきた。

「ちげーよ」

 キュリアスは言ったものの、説明はしなかった。

「で、明日立つのか?」

 ジャックはキュリアスがまだ仕事の合間だと理解し、その確認をした。

「だな。今度はハンデルまで行ってくる」

「忙しいことは良いことだ」

 キュリアスはジャックの言葉に頷いた。少なくとも、剣を新調するまでは、忙しく働かなければならない。

 ジャックは気を利かせて、キュリアスの前に酒を、ドーラの前に紅茶を出した。

「おお、すまないね」

「つけておく」

「おごりじゃねぇのかよ!」

 キュリアスは抗議したものの、それ以上は文句を言わず、酒を飲んだ。

 ドーラの紅茶は、サービスらしい。キュリアスは文句を言いたくなったが、ローザからだとジャックが言ったので、何も言い返せなかった。

 ドーラは礼を言い、紅茶で喉を潤した。

 しばらくするとシドニーが階段を駆け下りてきた。すぐさま、キュリアスの隣に腰かける。

 マーサはゆっくりと下りてくると、ドーラの隣に腰かけた。そして物珍しそうに店内を見渡す。

 店の中には人足や旅人が食事に訪れ、テーブルを埋め尽くしていた。ジャックが大きな身体を敏捷に操り、各テーブルで注文を受け、品を配って回った。

「あら、エッジ。おかえり」

 布に包まれた我が子を揺り動かしながら、ローザがカウンターに現れた。

「お。もう店に立つのか?」

「いいえ。様子を見に来ただけ」

 ローザはそう言って、木札に刻まれた魔法回路を指差した。彼女は子育てに没頭しながらも、マナの流れをコントロールし、木札の魔法回路を作動させていた。そのために、店内は心地よい気温に保たれている。

「あいかわらず器用なこって」

「魔力やマナのコントロールが私の取り柄の一つですから」

「名前は決めたのか?」

 キュリアスが聞くと、ローザは身を乗り出すようにしてキュリアスの顔を覗き込んだ。どうやら、語りたいことがあったようだ。

「ジャックったら、ローズマリーだとかサマンサだとかヴィクトリアだとかセレスティアだとかコーデリアだとかエヴァリーナだとかヘスティアだとか…確かにローズマリーとサマンサは魅力があったけれども、どれも大仰すぎる物ばかり上げるのよ。その後にストレイダーってつけてごらんなさい。どんなにばかげて聞こえることかしら」

 ローザの勢いに、キュリアスは驚いて口をはさめなかった。

「サマンサは、サマーとひっかけたのかしら?」

 マーサは話に食いついていた。

「そうなの。夏生まれだからって。サマンサとサマーは全く関係ないのに」

 ローザはそう言って笑った。マーサも口に手を当てて笑った。

「ローズマリーは?」

 ドーラも興味があるらしく、口を開いた。

「私の名前がローザなの。ローザのマリー」

「ローズマリー…」

 女性陣が一斉に笑った。シドニーまで笑いに加わっていた。

「でも悪くはないわね」

「そうなの。それで悩んじゃったんだけど」

 ローザはそう言うと、もったいつけるように子供を見つめ、

「ミアにしたわ」

 と、優しく言った。

「いい名前ね」

 マーサも優しげな声になり、子供を抱かせてくれるかしらとせがんだ。

「もちろん」

 ローザは気前良く、ミアを差し出した。

 マーサは子供を抱くと、ゆっくりと身体を揺すり、布の中で眠る赤子をあやした。

「私もいいですか?」

 ドーラも抱きたがり、ミアは順番に渡されて行った。シドニーまで、大人ぶってあやした。

「あたしはコーデリア、いいと思ったんだけどなぁ」

 マデリシアが言いながら、料理を運んできた。皆の前に料理を並べると、

「ねぇエッジ。あたしたちの子供はコーデリアにしましょうよ」

 と宣った。キュリアスの前に身を乗り出し、豊満な胸を見せびらかす。

 シドニーがすぐさま、キュリアスの腕を掴んで引き寄せた。

「こんな下品な方を相手になさってはいけませんわ」

「何?このジャリは」

 マデリシアがシドニーを睨みつけた。シドニーも睨み返している。

「エッジはあたしのなの。文句を言われる筋合いはないわ」

「待て待て!俺はマディのものになったつもりはねぇぞ!」

「キュリアス様は私がもらいます!」

 シドニーの爆弾発言に、マーサもドーラもローザも、マデリシアまで笑った。

「子供には勝てないわね」

 マデリシアはさっさと負けを認めて下がった。厨房が忙しいので、いつまでも油を売っているわけにもいかないのだ。

 キュリアスは久しぶりのうまい料理を急いで平らげた。マーサとシドニーには銀狼亭から出ないように頼んだ。さらに念を押し、ジャックに二人を頼むと、キュリアスは守備隊の詰め所へ向かった。

 イクウィップの守備隊の詰め所は南門の近く、国営の宿泊所と馬牧場の北側にあった。建物はまだ木材の匂いが立ち込めるほど新しい。机などの道具もいまだに届いていない。守備隊も、アルバート・フェンサー一人が配属されているだけだ。

 キュリアスはそのアルバートに用があった。

 折よく、詰所の前でアルバートと出会った。

「今度は何をしでかした?」

 アルバートは開口一番、問題発生かと疑った。

「俺はトラブルメーカーかよ。まだ何もしでかしてないぜ」

「まだ、か…」

 キュリアスは頭を抱えるアルバートに、布に包んだ物を渡した。

 アルバートは何だと言いながらも包みを広げた。

「これは…まさか!」

「この前の冒険者殺しの凶器だ」

「どこで手に入れた?」

「犯人から奪った」

 アルバートは眉をひそめてキュリアスを見返した。

「その犯人はどうした?」

「捕まえてない」

「なんだと!」

「まあ待て」

 キュリアスは肩をぶつけるほど迫ってきたアルバートを押しとどめ、詰所内に押し込んだ。辺りに人の気配がないことを確認のうえで、キュリアスが把握しているジョシュアの犯行を説明した。

「十一歳の子供が犯人だと…?」

 アルバートは信じられないと言いたげに呟いた。

「冒険者の証言だともみ消される。捕まえても無駄だったろうよ」

 キュリアスはあえて、マーサとシドニーについては伏せた。彼女たちの証言があれば犯行の証明も可能だが、マーサの夫でありシドニーの父である、バーンフォード・フェイブル男爵は臆病者で有名だった。そちらを脅せば、彼女たちの証言は簡単に消せる。マーサとシドニーの立場を危うくするだけの徒労に終わると分かっているので、伏せておいた。

「アラガント商会は大きな貿易商だ。俺でも知っているくらいに」

 アルバートは唸り声を上げた。

「金に糸目をつけず、根回しすれば、もみ消されるか…」

 諦めたように言うものの、アルバートの眼は逆に闘志に燃えていた。平民出の彼にとって、貴族や大商人の不正をもみ消す、金による癒着は我慢ならなかった。

 キュリアスは頼もしげにアルバートを見た。

「アルバート。ものは相談なんだが…」

 キュリアスはアルバートを悪巧みに巻き込んだ。ただし、正義を成すためのものなので、アルバートも反対はしなかった。どころか、途中から乗り気になっていた。

 キュリアスの予想から導き出した段取りを説明し終えると、アルバートは分かったと短く言い、力強く頷いた。


 真夜中に、どこかで油を売っていた月が東の空に顔を出した。

 数日続いた好天はこの夜も満天の星空を届けている。あまりの好天続きに、農業従事者は雨を望み始めていたが、雨の気配は今のところ、ない。

 イクウィップの建設に加わった人足たちは、昼間の暑さには参るものの、雨が降らないおかげで作業がはかどると、明日も喜ぶことだろう。夜の間に建材が濡れて困るようなこともない。

 建設途中の町並みは夜の闇に沈み込み、町全体が眠りに落ちていた。

 明かりの消えた国営の宿泊所から人影が、闇の中に溶け込んだ。注意して見ていなければ気付けないほど、闇が深かった。

 人影は建設中の町中を、何かを探す様に歩き回った。

 人足たちが用意した仮設の建物から人が出てきた。夜中に目が覚め、用足しに出てきたのだ。

 まぶたが重いらしく、まともに前が見えていなかった。フラフラと歩き、手ごろな壁を見つけると、立ち止まった。

 月明かりで辛うじて、人足が壁に向かって立っていることが分かる。その背後に人影が近づいた。

 人影の前で何かがキラリと閃いた。

 闇の中から手が伸び、人影の手にあるきらめきを止めた。それはナイフだった。ナイフの切っ先が、壁に向かって立つ人足の背に迫っていた。

 人影は子供らしい喚き声を上げ、暴れた。が、その手を押さえた人物の力が強く、逃げることも、突き刺すこともできなかった。

 そこではじめて人足は後ろの事態に気付き、悲鳴を上げて倒れた。

「殺人未遂の現行犯だ」

 人影の手を押さえていた人物が重々しく言った。月が昇って行き、その人物の顔が闇から浮かび上がる。アルバートの正義感に燃える顔がそこにあった。

 アルバートが掴んでいる手は、ジョシュア・マイザーのものだった。唾をまき散らし、狂ったように暴れているが、アルバートの片手の力すら、解けなかった。

「子供といえども容赦はしない」

 アルバートは冷たく言い放つと、手早くロープでがんじがらめにするとジョシュアを連行した。

 そこからアルバートの手際は早かった。

 事前に用意していた馬と乗り手に、ジョシュアをすぐに王都のローレンス・コプランド男爵の元へ届けさせた。

 時間をかければ、アラガント商会の妨害が入りかねない。貴族に根回しされれば、口出しさえできなくなる恐れがあった。そこでアルバートは王都で犯罪捜査を専門に行っているコプランド男爵の元へ犯人の身柄を送り、捜査を続けてもらう手段に出た。

 コプランド男爵であれば、少々の貴族の横やり程度では止まらない。すでに数人の貴族の不正を暴き、逮捕に至っているので、下手に彼に手出しをしようとする貴族もいなくなっていた。

 アルバート自身で事件にケリをつけられないことが、彼にとって心残りだが、犯人を野放しにするよりははるかに良い方法だ。そのことをキュリアスに説得されるまでもなく、理解していた。

 当のキュリアスはというと、ジョシュアを秘かに尾行していた別の人物と対峙していた。

 その人物の尾行には、アルバートも気付いていない。キュリアスでなければ気付けなかった。

 それもそのはずである。相手は闇に乗じて活躍する暗殺者のエキスパートだ。暗殺部隊と呼ばれた元ソード隊の隊長各にして、人を惑わす妖艶な容姿を兼ねた、フェム・ファタルは、闇に紛れて暗躍することも得意としていた。

 明かりの下で見れば派手な、薄衣の女性で、人の眼を引くフェムだが、ひとたび闇に紛れれば、常人に見つかることはない。

 そのフェムを足止めできる人物は、同じ穴の狢だ。キュリアスも元ソード隊の隊長だった。

 そしてキュリアスには気配を読む能力がある。闇夜であろうが、眼を閉じていようが、彼が見逃すことはあり得なかった。

「エッジ」

 フェムは闇に溶け込んだまま、感情の読み取れない声色で言った。

「フランベルジュ」

 キュリアスも闇の中から答えた。

 闇をはさんで二人は睨み合った。

 月は徐々に上っていき、僅かな明かりで闇を退けた。それでも二人の姿は闇の中に納まったまま、出て来ない。

 この対峙はキュリアスに不利だった。フェムの武器は炎のように波打った剣だ。対してキュリアスはナイフである。もしもナイフでフェムの剣を受けた場合、波打った刃が手や腕や身体のどこかに触れる可能性が高かった。そして触れてしまえば、刀身に仕込まれた麻痺性の毒に身体の自由を奪われる。

 相手の得物の方が長い。単純にこれだけで不利が生じている。そして毒があることで、かすり傷すら許されない。ナイフ一本では、なかなかに難しい戦いを強いられる。

 都合の悪いことに、フェムは並外れた剣技の持ち主だ。隙をつくのも容易ではない。そして暗殺部隊で鍛えた反射神経は、サム・ガゼルの踏み込みですら、反応するほどだ。

 キュリアスに不利な要素がそろい過ぎていた。剣を振り回せない場所であれば、多少の付け入る隙もあるだろう。が、造りかけとはいえ、町中の路上は、剣の妨げになるほどの障害物はなかった。

 せめてナイフで思うように衝撃波を発生させることができれば、キュリアスにも戦いようがある。あるが、使い慣れた剣とは違い、ナイフではいまだに思い通りにはならなかった。不発に終わればただの素振りだ。これほど間抜けなことはない。

 斬撃も飛ばせないとなると、キュリアスに攻め手はなかった。攻めあぐね、相手の出方を待つしかない。フェムが仕掛けてくれば、迎え撃つ覚悟はある。相手の攻撃に合わせての反撃であれば、突破口がないとは言い切れない。

 肉を切らせ、骨を断つ戦法であれば、おそらくは勝てる。勝てるが、その選択を選べば、マーサとシドニーの護衛ができなくなるのは間違いない。その思いが、キュリアスの足をさらに重くさせた。

 フェムは動かなかった。キュリアスの思惑を察し、あざ笑うかのように、あるいはキュリアスの躊躇する様子を面白がっているかのように、対峙を続けた。

 それとも何かしらの罠を仕掛け、罠がキュリアスを捕らえるのを待っているのかもしれなかった。

 常人であれば、焦って突っ込み、フェムの術中にはまっただろう。キュリアスはかろうじて踏みとどまり、冷静を装って対峙し続けた。

 そこに暗い炎がある。人を引き付ける魅力的な身体と、それに触れた者を誰かれかまわず焼いてしまう、彼女の性質。それは炎のそれとよく似ていた。

 フェムの使う剣も炎のように刀身が揺らめいている。炎の象徴のような存在だ。

 その炎に触れ続けているエディ・マイザーはどのような火傷を負うのか。キュリアスからすれば、知ったことではないが、緊迫したこの状況でも、ふと脳裏によぎってしまうほどに、フェムの性質は悪かった。

 性質の悪いフェムが、この局面で何を仕掛けてくるのか見当もつかない。キュリアスは神経を張り詰めたまま、闇の中で神経を研ぎ澄ませた。

 長い時間が流れたように感じる。それはほんの数分だったのかもしれないが、キュリアスの時間の感覚が失われるほどの間であったことは間違いない。

 月明かりが広がり、影が動いていく。

 微かに動く気配があった。

「やめやめ」

 動いたのはフェムだった。

「ここであんたとやり合っても面白くもなんともないわ。またにしましょ」

 フェムは長い沈黙に飽きたのかもしれない。だが、キュリアスにも好都合だった。

「好きにしな」

 キュリアスは感情を押し隠すように、ぶっきらぼうに答えた。

 フェムが退けば、キュリアスの今回の目的はほぼ達成される。これ以上望ましいことはなかった。

 フェムは音もなく消えた。キュリアスが気配を感知できなければ、いつまでも闇と睨み合いを続けてしまうほどに、見事に消えた。

 キュリアスは感知している気配が宿に入るのを確認した。その後、人の出入りがないことをしばらくの間、見張り続けた。

 フェムがベッドに入ったらしい気配を感知しても、別の誰かをけしかけてこないとも限らない。警戒を怠ることはできなかった。

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