9.その家、高級マンションである。
拝啓。
桜が咲き乱れ、私の心も乱れつつある今日この頃。
お父さん、お母さん、いかがお過ごしでしょうか(夜22時)。
これまで大切に育ててくれた恩を、日々感謝しております。
私は今、出会ってまだ一週間しか経っていないにも関わらず、ある意味知らない男性の家へと向かっております。
下心は決してございません。どうか、不出来な娘(25歳)をお許し下さい。
敬具。
「――で、何て呼べばいい?」
「ひぇっ!?」
たった一杯のグラスに注がれたビールで泥酔してしまった私は、心地良い夜風に吹かれて、幾分か身体が楽になってきた所だった。で、何て聞かれたんだっけ?
「名前だよ。『モジョリン』は嫌なんだろ?」
いつもの将棋のように頭脳をフル回転させることが出来ず、咄嗟に口に出たのがコレだった。
「……安奈」
「え?」
「安奈って呼んでくらさい。竹山さん」
暗い夜道。駅近辺から離れ、街灯は次第に少なくなっていた。そんな中、二人の男女が歩幅を合わせて歩く。
これはバッチリ決まったのではないだろうか。名前で呼び合うと好感度が上がるって女性誌に書いてあったわ。
「俺の苗字は『竹中』だ」
はい、最低。
間違いなく、今の私の姿は貞子そのものだ。怨霊そのもので出来ているに違いないわ。
いや、貞子ですら呪う相手の名前を間違えたりしないだろう。知らんけど。
「……す、すひまへんれしたぁ……」
「まだ酔ってるんだろ、無理すんな」
そう言って私の腕を持ち上げ、背を縮めながら、釣り合わない彼の首に掛けられた。肩を貸してくれたのだ。
急接近注意報。私の中の天使みたいな奴が警鐘を鳴らしていた。
声に成らない声を発しながら、彼にリードされたまましばらく歩いた。
「ここの14階に俺の部屋がある」
こっ、高級マンション!?
オシャレな木々に囲まれたマンションの入り口は、眩しいくらいに輝いていた。
あれっ、もしかして竹中さんってただの人事ではない?
「た、竹中しゃん……」
呂律が回っていないのはもう諦めて、精一杯の声を振り絞った。
「本当に、私らんかがお邪魔ひて良いんれすか?」
彼はフッと笑みを浮かべるだけで、そのまま入り口のオートロックを華麗に解除してみせた(普通)。
もう何が起こってもおかしくはない状況だが、私は冷静になりながら必死に思考を巡らせていた。
(多分)独身の男性宅に入って行く独身女。
良い大人同士、共にお酒が入っている。心を許しあう関係?
あれっ、なんで気付かなかったんだろう。
――私、竹中さんに惚れてない?