中途半端と秋の空
前作「体育倉庫ランデヴー」と同じ世界で、違う主人公の話です。
「……学生諸君は夏休みを楽しむことが出来たでしょうか。部活に力を注いだ人も、家族旅行に行った人もいるでしょう。君たちが皆有意義な夏を過ごせたことを祈ります。……そうそう、今年の夏はオリンピックが……」
二学期の始業式。校長の話は相変わらず長くて、途中から俺は話を聞くことをやめた。制服のネクタイを少しだけ緩め、周りを見やる。校長の話をきちんと聞いているのはほんの一部で、大体は聞いているフリをしてこっそりケータイを見たり、隣の奴とこっそりしゃべったりしていた。黙って立ってる奴も、大抵何か他の事を考えていたり、ぼーっとしていたりで話なんか聞いていないに違いない。何を考えてるかって言われたら……そりゃ、エロい事とか?
夏休みが終わっても、暑いことは変わらない。俺は流れる汗をぬぐいつつあくびをかみ殺した。ふと目に入った担任のネクタイがさりげなくミッキー柄で、俺は思わず噴出しかけた。あとでクラスメイトの夏原に教えてやらなければ。
「夏原!」
呼びかけると、そいつは相変わらず白くてひょろひょろしていた。部活焼けで真っ黒の俺とは全く正反対だ。だが、そんな夏原とはなんだかんだ気が合うので一年のときからよくつるんでいる。共通の話題はもっぱらゲームか漫画の話。
「よお、中畑。久しぶり」
能天気そうに笑う夏原。どうせ夏休みは家でごろごろしていたんだろう。そういう奴であることは、それなりに長い付き合いの俺はとうに理解している。でも、一応お約束の会話をしておくことにする。
「夏休みどっか行ったか?」
「いや、ほとんど家でゲームしてた」
「お前不健康だなー」
「うるさいよ」
夏原はふと俺を見て驚いた顔をした。
「何お前、染めたの」
「おー。似合うか?」
俺は自分の短めの髪をひっぱって笑った。初めての染髪。いつもは近所の床屋に通っているが、せっかくの夏休みなので、思い切って美容院で染めたのだ。よくわからないまま雑誌を数冊見せられて、色見本から適当なものを選んだ。そしたらなんだか地味な茶色に染められていた。まあ、派手すぎないので自分では結構気に入っている。
「まあ、いんじゃね?」
「なんだよもっと褒めろよー」
俺が文句を言ったところで担任が教室に入ってきた。慌てて自分の席に戻る。
「はい、それじゃHRを始めます」
担任のネクタイを見て、夏原に柄の話をするのを忘れたことに気がついた。ああ、残念。誰かとこの話題を共有したかったのに。
うちの高校の水泳部の活動は夏が本番だ。夏休み中にあった大会ではあまり良い結果は出せなかった。だから、その気晴らしに髪を染めたということもある。茶髪の俺に親は特に何も言わなかったし、弟からは好評だった。秋以降は水泳部の活動も少なくなるから、暇だ。俺は少しだけ時間を持て余していた。
HRの担任の連絡を、頬杖をついて聞き流しながら、俺はこれからのことを考えていた。三年生の引退した水泳部。実質自分たちが部活の最上級生になってしまった。元々そこまで厳しい部活でもないが、それでも「責任」は少し大きくなる。それから、だんだんと迫ってくる大学受験。まだまだ、と思っていたが、その存在は日増しに自分の中で大きくなっていた。何も言わないが、あまり裕福ではないから私立より国公立の大学を受けて欲しい、という両親の本音を考えると少し気が重くなった。
「夏原、このあとどうすんの? 暇なら飯食いに行かないか?」
いつもなら二つ返事で誘いに乗る夏原が、今日は誘いに乗らなかった。ちょっと用がある、などと言って足早に教室を出て行く。夏原は美術部だから、部活で何かあるのだろうか。
「……つまんねえの」
呟いた言葉は思った以上に寂しげに響いて、俺は頭を掻いた。今日は水泳部の活動もないし、さっさと帰って家でゲームをするとするか。……別に、夏原以外友達が居ないわけではないのだが。なんとなく、今日はそんな気分なのだ。
「修治!」
下駄箱の前で呼び止められる。そこに居たのは幼馴染。いつものように長い黒髪をゆるいおさげにして、なんだか小難しそうな厚い本を抱えていた。
「歩美。今日美術部あるんじゃねーの?」
聞いてみると、美術部の副部長である歩美は首をかしげた。
「今日は活動ないはずだけど。……修治こそ、今日は夏原君と一緒じゃないの?」
「今日は用事があるってさ。残念だったな」
言ってやると、歩美は露骨に残念そうな顔をした。
「そっか。じゃあ、今日は一人ぼっちの修治と一緒に帰ってあげますかね!」
「うるせー」
憎まれ口を叩きつつ、結局は一緒に校門を出た。家が近いから、帰り道はほとんど一緒だ。だが、こんな風に二人で帰るのは久しぶりだ。幼馴染と言えど、こちらにも相手にもお互い違う友人関係があるわけだし。でも、夏原は俺と歩美の共通の知り合いだった。本当にたまにだが、三人で帰ったりすることもある。
外は日差しがまぶしくて、俺はちょっと目を細めた。始業式や終業式は授業がなくてすぐに帰れるから好きだ。帰りに寄り道して遊ぶことも出来るし。授業や部活があるとそうは行かない。
隣を歩く歩美はいつものように背筋をピンと伸ばしている。そして、言いたいことをはっきり言う。
「修治髪染めたよね。似合ってないから黒に戻しなよ」
「……やだ」
「似合ってないのに」
至極残念そうに首を横に振ってから、歩美は自分の乱れた前髪を手で直した。残念なのは俺の方だ! はっきり言うにも程がある。
「君はもう少し発言をオブラートに包むということを覚えたらどうかね」
「修治には必要ないでしょ?」
「おうおう、聞き捨てならんな」
どうでもいい会話を続けながら、俺達は学校の最寄り駅に着き、改札を抜けて、それからホームで電車を待った。
「修治はさ、進路とか考えてる?」
唐突にそんなことを聞かれて、俺は少し動揺した。なんで、今、その話題を。
「……あー、別に」
「大学、行くんでしょ?」
「まあ、そのつもりだけど」
俺の返事に歩美はふんふんと頷いて見せた。
「それじゃ、そろそろ勉強しなきゃだよね。浪人とか嫌だし」
「そーだな」
ホームに電車が着いたので、俺達は乗り込んだ。電車内は混んでいて席が空いていなかった。ついてない。
「歩美は、進路考えてんのかよ」
つり革につかまり、揺られながら隣の歩美に質問のお返しをする。でも、なんとなく予想はついていた。歩美は昔からしっかり者だから、きっときちんと進路を考えて、そして勉強だってしているんだろう。むしろそれが当たり前だ、と怒られそうだ。
しかし、歩美の反応は俺の想像とは少し違っていた。
「まあね」
少しうつむきながら、笑って言う。それから、歩美は手に持っていた本を胸に抱え込んだ。視線はそらしたまま。
――なんだよ、その反応。
ざわり。嫌な感じが胸のうちに広がった。でも、どうしたのかと歩美に話を聞くことは出来なかった。歩美が言葉を濁したなら、聞くべきではないのかもしれない。――でも、そしたら何故。
それからはたわいもない話を続けて、気がつけば互いの家の最寄り駅に着いていた。今日の昼飯は何だろうか。何も連絡をしない場合は家で昼を食べると親には言ってあるから、何かしら用意されているはずだ。個人的には冷やし中華が食べたい。
「そういえば」
歩美が何かを思い出したかのように俺のほうを向く。
「?」
「修治のクラスは文化祭何やるの?」
ああ、と思った。そういえばもうそんな季節だ。去年はお化け屋敷をやったから、今年は模擬店をやりたい。でも、うちのクラスではまだ具体的な案は何も出ていなかった。熱心なクラスは夏休み前から出し物を決めて、夏休み中に準備をするらしい。何もそこまでやらなくても、と俺なんかは思ってしまう。
「なーんにも決まってねえ」
「ふうん。うちはね、今日のHRで喫茶店やるって決めたよ」
「メイド喫茶?」
「違うから! でもなんか仮装するっぽい。修治も売り上げ貢献してよね」
「気が向いたらなー」
「夏原君誘って来てよ」
さらりと歩美が付け加えた言葉に俺は苦笑した。やっぱりそれが目当てか。
「へいへい。じゃーな」
ちょうど歩美の家の前まで来ていたので、俺はひらひらと手を振って歩美と別れた。腹が減って死にそうだ。さっさと帰ろう。俺は歩美に合わせて遅くしていた歩調を変えて、足早に歩き出した。
「そんなに茶髪似合ってねえかな……」
つまんだ前髪は、日差しを浴びていつもより明るい茶色に見えた。
翌朝。スポーツバッグに教科書を詰め込んで、ウォークマンで音楽を聴きながら学校に向かう。学校に着いて最近気に入っている女性歌手の新曲を三回リピートしたあたりで、後ろから誰かに肩を叩かれた。イヤホンを耳からはずして振り向くと、そこには見慣れた顔があった。
「はよっす中畑」
「おー」
水泳部のエース、三浦だ。俺と同じように夏休み中プールで練習に明け暮れたはずなのに、こいつは何故かあんまり焼けていない。体質の差、という奴か。
「今朝のメール見たか?」
「メール?」
「今日の昼、部室でミーティングだとさ。夏の大会の反省とかすんだろ」
「あー、そーいやそうだったな……」
「それじゃ、またあとでな!」
それだけ言うと三浦は自分の教室に向かって走り出した。見ていた先生に「廊下で走るな!」と怒られている。全く元気な奴だ。
教室に入ると、少し来るのが早かったのかあまり人が居なかった。夏原もまだ来ていない。自分の席に座ってかばんを机に引っ掛ける。窓際の一番後ろは、黒板が少し見えにくい以外はとても都合の良い席だった。居眠りしても大抵ばれない。
俺は頬杖をついて窓の外を眺めた。今日も良い天気だ。雲が綿アメみたいに流れていく。そういえば今年は夏祭りに参加しなかった。綿アメもカキ氷も食べてない。だからだろうか、今年は夏がとんでもない速さで過ぎ去ったような気がする。まだ行かないで欲しい。秋は嫌いだ。台風は来るし天気はすぐ変わるし、暑いのか寒いのか日によってまちまちで、着る服がない。それに、夏が終わった途端に一年の終わりが近づいてくるスピードが上がる気がする。まだまだ何も考えずに遊んでいたいのに。正直、三年生になんかなりたくない。
「中畑。よっす」
気がつくと後ろの席に夏原が座っていた。他の奴の席だけど、まだ来てないから良いのだ。
「おー、夏原」
夏原はまだ眠そうな顔をしていた。髪に寝癖がついている。
「今日からまた授業再開かー……」
あくび交じりの夏原の言葉に、俺はため息をつく。
「あーあ。授業とかほんとめんどくせえ。夏休みカムバック!」
椅子に座ったまま思い切り身体をのけぞらせると、夏原に邪魔だと頭を軽くはたかれた。
昼。部室に入るとすでに部員はほとんど集まっていて、夏に引退した先輩達も弁当を広げながらミーティングの始まりを待っていた。
「どもっす」
「よお」
先輩達とも軽く挨拶を交わしてから同学年の集まりに混ざる。大会前のぴりぴりした空気とは全然違う、けだるげな雰囲気が部室内に漂っている。女子は女子で固まり、先輩達に渡す色紙の準備をしていた。中身は見なくても大体分かる。「今までありがとうございます」とか、「引退しても遊びに来てくださいね」とか、そんな言葉で埋まっているのだ。勿論俺も先輩たちへ一言ずつ書いた。ただ、俺はそこまで先輩と仲良くしていたわけでもないので、正直コメントに困った。どんな良い言葉を書いても、薄っぺらく見える気がして、結局当たり障りないことしか書かなかったのだ。
しばらくすると全員集まったのでミーティングが始まった。一年生から順に大会の反省と次の大会への抱負を述べていく。変に緊張して声が裏返っている後輩をぼんやり見つめながら、自分は何を言おうかと考えていた。
引退する先輩達の俺達への言葉。そして、一、二年生からの色紙のプレゼント。最後に、新しい部長と副部長の発表。顧問の先生は後ろのほうで俺達を黙って眺めている。なんでか、俺はそれを他人事のようにぼうっと見ていた。副部長に三浦が選ばれてちょっと驚いた以外は、予定調和な展開だった。近くの女子が泣いている。何で? いや、逆に俺はどうしてこんなに冷めているんだろう。俺は確かに全力で水泳部の活動に取り組んできたはずなのに。今すぐにでもまたプールに入りたいくらい、泳ぐことには真剣なのに。なのに、先輩が居なくなることや、自分たちが主導で部を動かすことに、まったく現実味が感じられない。
――いや、単に考えたくないんだ。……きっと、俺の思考は、夏休みの大会から止まったままなのだ。
「これからの水泳部はお前たち二年生に任せる。よろしく頼む」
「はい!」
先輩の言葉に全員が頷き、返事を返した。俺は、その真似をしていた。
ミーティングが終わって教室に戻ると、夏原が自分の机にスケッチブックを広げてぼうっと座っていた。
「夏原?」
「……。あ? 中畑? ミーティングは?」
「終わったとこだよ。もう昼飯食ったの?」
「おー」
まったく気のない返事だ。俺は自分のバッグからメロンパンを取り出してぱくつきながら、夏原の隣の席に座った。
「それ、お前が描いたの?」
スケッチブックに描かれていたのは、水彩の風景画だった。どこか暗いところから見た外の景色、といった感じで、暗い影の色と明るい水色が印象的だ。芸術には疎い俺だが、嫌いではない絵だった。
「……ああ。まあな」
夏原は頷くと、スケッチブックをぱたりと閉じた。何かあったのだろうか。ただ、夏原はぼんやりしているだけで、特に悩んでいるようにも見えなかった。しばらくすると昼休み終了の予鈴が鳴ったので、俺は黙って自分の席に戻った。――まあ、誰にでもちょっと物思いに耽るときくらいあるものだ。一人で勝手に納得する。秋ってのはそんな季節なのかもしれない。
放課後。教室の床を箒で掃いていると、廊下を通り過ぎる歩美を見かけた。知らない女の子と一緒に歩いている。何やら重そうな本を抱えていた。ちらりと見えた表紙には『大学』の文字があった。受験用の本か。
歩美はどんな進路を考えているんだろうか。昨日の俺の質問への反応が思い出される。もしかしたら、難関校とか考えていて、だから不安なのかもしれない。俺も、そろそろ考えなければいけないのか。自分の進路について。でも、結局は考えるのをやめてしまう俺がいた。面倒だとか、まだまだ先だとか、そんな言い訳ばかりが頭に思い浮かぶのだ。
気が付くと、歩美はとっくにどこかへ行ってしまっていて、俺はずっと同じところばかり箒で掃いていた。
「何やってんだ、俺は……」
今日は久しぶりに水泳部の活動がある。自主練習な上参加は自由となっていたから人は少ないと思っていたが、更衣室は思ったより人がいた。
「おう、中畑」
俺に気付いて手を振ったのは三浦だ。三浦はすでに水着に着替え終わっていた。部員の中で一人色が白いので少し目立つ。本人は特に気にしていないようだった。新副部長に選ばれたからか気合が入っているらしい。右手に持ったゴーグルは新しいものになっていた。
「ゴーグル変えたのか」
「おお、前の奴壊れたからさ」
それじゃまたあとで、と三浦はタオルを持って更衣室を出て行った。
俺もさっさと着替えてプールサイドに出る。屋外プールは太陽の光を浴びて水面がきらきら光っていた。うちの高校は校舎が古いので、室内プールとか温水プールなんて上等なものはない。だから、秋冬の練習はもっぱら他の高校や公共の施設を借りて練習することになる。自分たちだけのプールを思い切り泳げるのは今のうちだけだ。
準備運動、柔軟をしてからゆっくりと水に入った。ちゃぷ、と音がして全身が水に包み込まれる。プールを見渡すと同学年と後輩しかいない。ようやく、三年生がいなくなったことを少し実感した。
仲間に混じってゴーグルをはめ、一度深呼吸してから水に潜り、勢いをつけて壁を蹴る。水色の世界に身を投じた俺は、思い切り手足を動かした。まだまだ外は暑いから、水の中は気持ちがいい。このまま魚になりたい、となんとなく思った。外の世界は面倒なことが多すぎる。
「中畑ってさ、塾とか行ってる?」
部活帰り、コンビニで買った肉まんをほおばりながら、三浦が聞いてきた。「塾」という単語に少しどきりとする。
「いや、三浦は?」
「それがさ、親が急に行けって言い始めたわけよ。もうすぐ三年でしょーってさ」
「……ああ」
俺は頭を掻いた。俺もたぶん、そのうち言われるだろう。中学のときもそうだったから。中二の夏あたりから進学塾に通い始めて、なんとかこの高校に合格出来た。大学受験はどれだけ勉強すればいいのだろうか。いまいちピンと来ない。
「行きたい大学とかあんのかよ」
俺の質問に、三浦は少し困った顔をした。
「……いや、そういやちゃんと考えたことなかったんだよな」
部活のことしか頭になかった、と言って、三浦は水着とタオルが入ったバッグをぽんぽんと叩いて見せた。
「俺も」
笑って同意したが、急に不安になった。明日夏原や歩美にも聞いてみるべきだろうか。
「塾、どこ行くか決まったら教えろよな」
「なんだよ、お前付いてくる気か?」
「ばか、参考にするだけだよー」
じゃーな、と言って三浦の背中をばしりと叩く。俺と三浦の使う電車は違うから、ここでお別れだ。三浦は叩かれた背中をさすりながら挨拶を返した。
「塾?」
俺の言葉に夏原が目を丸くした。
「お前からその単語を聞くとは……」
「うるせーよ」
次の日の昼休み。俺と夏原は二人で弁当を食べていた。今日の弁当には玉子焼きが入っていた。さすが母さん分かっていらっしゃる。
「そうだな。うちの親もそろそろ塾とか予備校考えろって言ってるわ」
「だよなー。考えたくねえけど」
やれやれ、と首を振った。でも、夏原は俺よりも頭が良いほうだから、きっと上手いこと受験を乗り越えるに違いない。
「そー言えば」
夏原が箸で煮豆を器用につまみながら、何かを思い出したように言った。
「明日あたり進路希望調査票配られるらしいぞ。佐々木が言ってんの聞いたから」
佐々木はクラス委員である。佐々木が言ったなら、たぶん間違いないだろう。
「まじか……」
「まあ、とりあえず進学って書いときゃいいだろ」
「おう」
うちの高校は進学校だから、たぶんみんな「進学」だ。大体が私立大学、頭良いのが国立大。それ以外が専門学校とか短大とか。就職する奴の話は聞いたことがなかった。でも、進学したってその後に待つのは就職だ。自分が将来何になりたいのか、今の俺には全く思いつかなかった。具体的なイメージなんて、全然湧かない。
「……あー、それにしても」
ピーマンの肉詰めをかみ締めながら、俺は話題を変えた。
「?」
「文化祭の出し物、ボディペイントってなんだよな」
夏原が苦笑した。今朝のHRで決まった文化祭の出し物は、一部の女子のアイデアでボディペイントに決まった。客の顔や腕に特殊なインクで型どおりの絵を描く、ということらしい。俺にはさっぱりイメージが湧かない。
「お前美術部だからそーゆーの得意なんじゃね?」
「それとこれとは別だろ」
なんだかんだしゃべっていたら、いつの間にか昼休みが終わってしまった。昨日少し変だった夏原も、今日は別に普通だ。気にすることはなかったのかもしれない。俺は空の弁当を片付けて自分の席に戻った。
放課後、俺は校舎五階の廊下を歩いていた。五階の奥には美術室があって、そこでは美術部が活動しているはずだ。俺は夏原が忘れたらしいペンケースを届けに来たのだった。ふと目がちかちかして上を見上げると、天井の蛍光灯が一本切れかけている。あとで先生に報告しておこうか。
「……あ、修治」
名前を呼ばれて視線を天井から前へ向けると、そこには今しがた美術室から出てきたらしい歩美の姿があった。制服の袖をめくっていて、腕は絵の具で一部青く汚れていた。
「ああ、歩美。夏原いる?」
「いるよ」
歩美はすれ違いざまにそれだけ言うとどこかへ小走りで行ってしまった。しばらくその後姿を見つめてから、俺は気を取り直して美術室に向かった。
美術室はすぐそこで、ドアが開けっぱなしになっていた。俺はそのドアからそっと中を窺った。部員はあまりいないようで、各々が適当な場所に散らばって絵を描いたり粘土で何かを作ったりしていた。夏原は窓際に陣取ってキャンバスに絵の具で何かを描いている。俺は廊下から声をかけようか迷って、室内に入ることにした。夏原の絵に興味があったからだ。あまり他の部員の邪魔にならないように、そっと室内に入った。夏原に気付かれないように後ろから近づき、そして声を掛けようとして、やめた。俺は目の前のキャンバスに目を奪われていた。
そこに描かれていたのは、誰か知らない女の子だった。水彩絵の具で、なかなかリアルに描かれている。同年代に見えるから、誰かモデルがいるのだろうか。絵の中の女の子は、いたずらっぽく微笑んでいた。夏原の人物画を見るのは初めてだ。まあ、俺が見たことないだけかもしれないけど。しばらくしてから、俺はここに来た用事を思い出した。――いかんいかん。
「夏原」
「……おっと。中畑?」
夏原が驚いた顔で俺を見た。俺が美術部に顔を出したことはないので、その反応は予想通りだ。俺はスヌーピーの柄のペンケースを夏原の目の前で振ってみせた。
「お前のだろ?」
「ああ! それ、教室にあったのか?」
頷いてみせると、夏原は嬉しそうに俺からペンケースを受け取った。
「ありがとう。全然気付かなかった」
「それ、誰かモデルいんの?」
キャンバスを指差して尋ねると、夏原はちょっと黙った。
「……うーん、まあ。なんとなく」
「なに、好きな子とか?」
「そんなんじゃないって」
「怪しいなおい」
「怪しくねえよ」
苦笑いする夏原。凄く怪しい。今度もっと追求してやろう。
することもないのでしばらくそこで夏原の作業を見ていると、歩美がどこかから戻ってきた。何か大きな袋を抱えている。中身はここからだとよく見えない。
「あ、まだ居たんだ」
「悪かったなー」
俺は舌を出して顔を歪める、という子供じみたことをしてから、一回思い切り伸びをした。
「んじゃ」
「このまま帰るのか?」
「おう。また明日」
そのまま美術室を出ようとする俺に、夏原は忘れ物の礼を言って、それからすぐにキャンバスに向かった。あの絵は誰なのだろうか。なんとなく美術室前の廊下で立ち止まってそれを眺めていた俺に、近くにいた歩美が邪魔、とでも言いたげな視線を向けてきた。
――はいはい、邪魔者は退散しますよ。
家に帰ると、弟がリビングで見覚えのないゲームをプレイしていた。画面上で剣士の格好をしたキャラがモンスター相手に走り回っている。
「あ、兄ちゃん」
「それ新しく買ったのか?」
「いや、中学の奴に借りたんだ」
テレビ画面に視線を向けたまま返事をする弟。どうやら良い所らしく、BGMがやたらカッコイイ。俺はリビングを見回して誰もいないことを確認した。
「ふうん……」
「母さんは?」
「まだ仕事。たぶん」
母さんは派遣で働いている。父さんは普通のサラリーマン。母さんが働き始めたのは俺が中二になったあたりだった。ここ最近は残業が多いらしく、両親二人とも疲れた顔をして帰ってくる。
台所に行って冷蔵庫を開け、冷えたウーロン茶を取り出した。その辺のコップに注いで一気に飲む。
「……うまい」
最近は学校帰りの一杯が一日の楽しみになりつつある。これがビールになったらオッサンだな、と思う。スーツ姿のくたびれた俺を想像したら、ちょっと未来の自分に切なくなった。
「あとで俺にもそのゲームやらせろよ!」
その場でリビングの弟に呼びかけると、「んー」とか「あー」とか、気のない返事が返ってきた。
「ところで修治」
家族そろった食卓で、突然母さんに呼びかけられて、俺はおでんの大根を箸ではさみ損ねた。テレビの中では芸人が超難問クイズに答えていて、父さんはそれに見入っていた。
「なに」
「最近歩美ちゃんの様子がおかしいって、橋本さんとこの奥さんに相談されたんだけど、あんた何か知ってる?」
「様子がおかしい?」
「そうそう、何か悩んでみるみたいな。最近部屋に入れてくれないって」
俺は大根を今度こそしっかりはさんで口に入れつつ、思案した。
「……いや、何にも知らんけど」
「そう?」
母さんは俺の顔をじっと見たけど、俺は別に何も隠しちゃいない。
「進路とかで悩んでるんじゃねーの」
「ああ、なるほど。そうねえ……修治、あんたもそろそろ塾探さなくちゃね。大学受験は高校受験よりもっと大変なんだから。あ、琢磨もね!」
いきなり名前を出されて、ご飯をかっ込んでいた弟が嫌な顔をした。
「俺はまだいいよ」
「よくないの」
「いいって言ってるだろ!」
強く反論し始めた弟に、母さんが早いうちから勉強することが大事だとかなんとか、色々言い始めて、そのうち父さんまで話に入ってきたので、俺は家族の会話を無視してテレビに目を向けた。超難問クイズは本当に難問で、番組に出ている芸人やタレントがどうしてそれに答えられるのか疑問だった。誰か八百長してないのだろうか。金とか払って。いや、大物俳優とかは権力でどうにか出来るのかもしれない……。
「あー、安い進学塾探さなくちゃね……あ、修治ご飯おかわりは? あ、お父さん醤油取ってくれない?」
母さんはホントに騒々しい。
「いらない。ごちそーさま」
俺は自分の使った食器だけ台所に片付けて自分の部屋に戻った。歩美の様子がおかしいってのは、具体的にどーいうことなのだろうか。学校で会ってしゃべっている分には普通だと思うのだが。明日会ったら本人に直接聞いてみるか。
しばらく一人で歩美のことや塾のことなど色々考えてみたが、めんどくさくなって、俺は通学かばんから英語の教科書を引っ張り出した。明日の授業の予習。
「あー。ほんと、めんどくさっ」
ここ最近の俺は、「めんどくさい」の飽和状態だ。
翌日。天気は雨だった。強く降っているわけではないが、無視は出来ない小雨。どんより暗い空に気分まで暗くなりそうだ。雨は小さい頃から嫌いだった。傘を持ち歩くのがめんどくさいし、濡れた服が肌に張り付くのが気持ち悪い。今日もまた傘から滴り落ちる水滴が、時折制服のシャツを濡らして不快だった。濡れるのはプールだけで十分だ。そのプールも今日は水温が低いだろう。
そして、昨日の夏原の予言どおり、朝のHRで進路希望調査のプリントが配られた。
「親御さんともよく相談して、今週中に提出するように」
今日の担任は何故か可愛らしいタンポポ柄のネクタイをしていて、それが恐ろしく似合っていなかった。
――親御さん、ねえ。
俺は母さんの顔を思い浮かべて、それから配られたプリントに目を落とした。紙切れ一枚に「進学」と書くだけのことに、両親との真剣な相談が必要だというのか。俺はペンケースから黒のボールペンを一本取り出して、その場で「進学」と書いた。適当に書いたから、文字がちょっと斜めになってしまった。俺の心と一緒だな、なんて。修正ペンで消してきちんと書き直そうかとも考えたが、余計変になりそうだからやめた。教室の前のほうで、担任がクラスの女子にネクタイの柄を褒められていた。あれの一体どこがいいのか、俺には理解できない。
「そうだ。まだ配るものがあった」
担任が何かを思い出した顔をして、慌てて数人の生徒を連れて教室を出て行った。数分して戻ってきた担任たちが抱えていたのは、半期ごとに配られる校内誌だ。部活動の案内やイベントの知らせなどが載っている。俺はいつもぱらぱらとだけ読んで、すぐに部屋にほったらかしにしていた。前回配られたものをどこにやったか正直覚えていない。
「今回はすごいぞ」
なにが凄いのか、誇らしげな担任は胸をそらした。
「うちの夏原の絵が区で表彰されてな、それが載ってる」
不意打ちの発表に、クラスの皆が驚いて夏原に注目した。初耳だった俺も顔を上げて廊下側の席に座る夏原を見つめる。夏原は居心地悪そうにもぞもぞと椅子に座りなおした。
「へえー、すごいじゃん」
「やるう」
クラスメイトがざわつく中、俺は夏原の絵を確かめるべく紙面をめくった。中ほどのページでそれを見つける。夏原の名前が作品とともに載っていた。
【『街』二年 夏原祐介】
隣に他の生徒の絵もいくつか紹介されていたが、俺は贔屓目なしに夏原の絵が群を抜いて上手いと思った。水彩で描かれた自然とビル群が入り混じる郊外の風景。晴れた空が爽やかな水色で、建物や木々も細部までリアルに描かれている。うまく説明できないが、なんか、かっけー。うん。こんなに上手く絵が描けたら楽しいだろうな。なんとなく、そう思った。
もう一度ちらりと夏原を見やる。隣の席の奴に小突かれて照れ笑いしていた。担任はもう別の話をしていて、クラスの夏原への注目もしばらくすると薄くなっていった。文化祭の出し物の準備を来週から始める、という話だけ聞いて、俺は一回盛大にあくびをしてから机に突っ伏した。教室のざわめきは、いつの間にかちょうどよい子守唄になって、俺を夢の世界に誘った。
放課後、雨のせいで水温が低くてプールが使えないから、階段を何度も上り下りさせられた。そのあと部室で今年の夏のオリンピックの水泳競技のビデオ鑑賞。これは三浦が家からわざわざ持ってきたものだった。日本代表の泳ぎを観て動きを学べということらしい。
オリンピックは俺も寝ないで毎晩テレビにかじりついて観ていたので、一度観た事のある映像だ。でも、何度観ても日本代表の泳ぎは凄い。無駄の無いフォームで水の中を進んでいく。まるで魚のようで、心奪われる。狭い部室の中で同期の仲間や後輩に囲まれて、俺はしばらく映像に見惚れていた。あんなスピードで水の中を泳げたら、本当に気持ちが良いだろう。素人が泳ぐとばしゃばしゃ水しぶきが舞うバタフライは、上手い人が泳ぐとダイナミックなのにとても静かだ。
しなやかな肉体と飛び散る水しぶきはとても美しいと思った。絵じゃきっと表せない。その瞬間の美。気がつけば部員みんなが熱中していて、結果も分かっているのに日本代表を応援していた。……ああ、俺達も表彰台に立ちたかった。
帰りもまだ頭の中ではビデオの映像が流れていた。それにあわせて自分たちの夏の大会の記憶も蘇る。どんなに力いっぱい泳いでも追い抜けなかった隣のチーム。そして、水面から顔を出すごとに聞こえてくる歓声と応援の声。きらきら光るプールの水面と暑い空気。下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから肩を叩かれた。
「中畑。お前も今帰りか」
「夏原、と歩美? 美術部も今帰りか」
「そうなんだよ。今日の部活参加者俺と橋本さんの二人でさ」
夏原に「橋本さん」と呼ばれた歩美は、黙ったままこくこくと首を縦に振った。
「良いのかそれは」
「別に、強制参加じゃないからなー」
「そんなもんか……」
結局そのまま三人で帰ることになって、並んで玄関で傘を広げた。相変わらず雨はしとしと降り続いていて、生ぬるい空気がうっとうしいことこの上ない。買ったばかりのスニーカーが水を跳ね飛ばす。近くの水溜りをジャンプで飛び越えたら、その拍子に隣を歩いていた夏原と少しぶつかった。
「あ、わり」
「いや」
特に気にした様子も無い夏原の向こう側で、歩美が非難めいた視線をよこした。
今日の歩美はいやに静かだ。いや、静かなのは夏原と一緒だからかもしれない。いつもならもっと派手に笑ったりきついことをさらりと言ったりするものを、今日は俺と夏原の会話に曖昧に頷いたり、頻繁に前髪を気にしたりしている。
「夏原君は、学校から家は近いの?」
「あー、そんなに遠くは無いんだけど、乗換え多くて結構時間かかるんだ」
「そうなんだ。大変だね」
夏原に笑いかける歩美に、その普段より半オクターブ高い声に、俺は少しイライラした。
――可愛い子ぶってんじゃねーよ。
声には出さずに、口の中でつぶやいた。
「……そういえば、夏原の絵、今朝貰った校内誌に載ってたな」
「おう。すげえだろ」
頭を掻いて、冗談交じりに笑う夏原。
「上手いよね、夏原君。あんなふうに描けて羨ましいなあ」
歩美の言葉はお世辞なんかではなくて、夏原を見つめる歩美の表情は尊敬と憧れに満ちていた。不意に、俺はそんな歩美のおさげを思い切りひっぱってやりたい衝動に駆られた。
「褒めすぎだって」
「いやいや、ほんとに。ねえ、修治」
「――ああ、ほんと、すげえよな」
俺は衝動を押さえつけて、前を向いて歩いた。ばちゃり、と音がして足元を見ると、スラックスの裾が盛大に濡れていた。どうやら水溜りを踏んだらしい。
「あー、やっちまった」
「ばっかでえ」
「うるせー」
俺達のやり取りにくすくす笑いながら何も言わずについてくる歩美。いつもなら俺に文句を言うくせに。跳ねた水が自分にも飛んだとか、子供みたいだからやめろとか、そんな小言を言うくせに。俺はいつもと違う歩美に居心地の悪さを感じた。とても気持ちが悪い。そして、イラつく。
「それじゃ、またな」
最寄りの駅まで着くと、違う電車に乗る夏原は俺達と別れた。二人きりになると少しほっとしたように息をつく歩美。
「……よかったな。夏原と帰れて。あ、悪かったな二人のとこ邪魔して」
「うるさい」
低い声を出されて、俺は肩をドラマの外人みたいに竦めて見せた。
「そんなんじゃないって言ってるでしょう」
歩美は俺をキッと睨んだ。少し顔が赤い。
「そんなんって、どんなん?」
「……もういい」
ぷい、と俺から顔を背けた歩美は早足で改札を通り抜けた。その拍子に歩美の長いおさげが俺の肩を軽く叩いて、ぱさり、という音がした。
「夏原君はね、すごいんだよ」
駅のホームで、歩美がポツリと言った。
「才能あるんだよ。本格的に絵描き始めたの高校からって言ってたのに、もう他の部員の誰よりもセンスある絵描くし、よく文化祭のポスターとかに絵を採用されてるし……」
「そりゃすげーな」
「でも、普通の私大に行くんだって。ありえない。なんで美大目指さないんだろ」
歩美の口調は激しく、単なる疑問というよりは、少し怒っているように見えた。
「別にいいんじゃね? そこまで本気じゃないんだろ」
「でも! もったいないよ。私なんかより……よっぽど才能あるのにさ」
思いつめたように言う歩美の前を、快速列車が通り過ぎた。生ぬるい風が俺達の顔をなでる。歩美は何を考えているのだろう。俺は、ある可能性を思いついた。
「……お前、美大に行きたいの?」
俺の問いに、歩美はしばらくしてから頷いた。
「目指すには遅過ぎるって分かってる。そんな才能あるかも分かんないし、夏原君が私大行くのになんで私がってのもあるし、美大受ける人は浪人覚悟しろって言われてるし……」
俺が何かを言う前に、早口でまくし立てる歩美。それはたぶん言われるであろう非難と警告へのけん制だ。そんなこと分かってる、と言いたいんだろう。
「でも、行きたいんだ。美大……」
うなだれる歩美に、俺は何を言っていいのかよくわからない。美大がどんなところかさえいまいち分かっていないのだから、俺がどんな言葉をかけたってきっと的外れになるに決まっている。
「それ、親とか先生とかに言ったのかよ」
「美術部の先生と、亜紀ちゃんには言った」
「亜紀ちゃん?」
「あ、美術部の友達」
「ふうん……じゃあ夏原には」
「言えるわけないでしょ」
「だよなあ」
ホームに着いた電車に乗り込むと、しばらく二人とも黙り込んだ。その間俺は何を言うべきか考えていた。美大の受験が大変だし難しいということぐらいは、俺にだって分かる。親に話して反対されることを考えたら、言い辛いだろうし、歩美本人も受験を迷っているように見えた。
――でもきっと、決めたなら早く行動しないと手遅れになるだろうな。
俺もそうだ。今のままうだうだしていたらたぶん受験も何も失敗する。何事も早く腹を決めることが大事なのだ。……でも、頭では分かっていてもどうにも決められないのが本心。分かっているから自分にイライラして、そして情けなくなるのだ。
「私が美大考えてること、誰にも言っちゃだめだからね。修治のお母さんが知ったら絶対うちのお母さんにもバレるんだから。バレたらたぶん反対されるし」
「……おう」
「夏原君にもね!」
「分かってる」
俺に念を押すと、立ったまま歩美はかばんから一冊本を取り出して読み始めた。表紙を見ると『美大合格への道』という分かりやすいタイトル。横から内容を盗み見ると、「オススメの専門学校、スクール紹介」とか、「美大入試の全て」とか、色々書いてあった。それを黙々と読む歩美の横顔は本当に真剣で、俺は邪魔することが出来なかった。
「……本気じゃねーか」
「ん?」
「なんでもねー」
俺は頭を掻いてつり革につかまった。ふと目に入った広告はどっかの大学のもので、モデルの学生が笑顔で写っていた。でも、俺にはそこまで魅力的には見えないのだった。
「それじゃまたね」
自分の家の前で俺に手を振った歩美は、別れる前にもう一度念を押した。
「あの話、絶対夏原君には言わないでね! っていうか誰にも!」
「言わねえって」
「お母さんとかにはそのうち自分から言うから……」
言いながら語尾が弱弱しくなる歩美。うつむいて傘に隠れた頭に何か声をかけようかと思ったところで、歩美はがばりと顔を上げて俺を指差した。
「それから……」
「あん?」
しばらく黙って俺の顔を見つめた歩美は、ゆっくり口を開いた。
「やっぱりその頭似合ってない」
「うるっせー!」
俺の叫びを聞かずに、歩美はさっさと家に入っていった。……コノヤロウ。今度会ったらその三つ編みおさげを全部ほどいてぐちゃぐちゃにしてやる。言えない捨て台詞を頭の中で考えながら、俺は家路を急いだ。雨はさっきより小降りになってきていた。
次の日は晴れていた。日差しがまぶしくて気持ちがいい。でも、その次の日からまた降るらしい。しかも台風が近づいてきているとかなんとか。俺は朝の天気予報にがっかりした。やっぱりこの季節は好きになれない。どうにもジメジメしたり急に寒くなったり。テレビ画面上のお姉さんが折りたたみ傘の携帯をおすすめしてきたので、俺はその辺にあったものを適当にスポーツバッグに突っ込んだ。……それが母さんのだと気付いたのは教室でバッグを開けてからだ。水色と白の水玉模様の傘は、俺のバッグの中で妙な存在感を放っていた。
「オーウ……」
外人のような声を出してため息をついていると、後ろから肩をたたかれた。
「中畑はよっす」
「ようジョーイ」
「誰がジョーイだ」
夏原がいぶかしげな顔をして俺を見る。俺は大げさに肩を竦めてみせた。今日の俺は昔教育テレビでやってた海外ホームドラマ的な気分なのだ。
「なあ、昨日の『しゃべくり』観たか?」
夏原はなにやら興奮して昨日やっていたバラエティ番組について語り始めた。どうやら好きなタレントがゲストで出ていたらしい。俺は生憎観ていなかったが。
「相変わらず可愛かったなー」
タレントについて語る能天気そうな夏原を見ていると、昨日の歩美との会話を思いだした。
――絶対夏原君には言わないでね!
夏原は知らない歩美の悩みを俺が知っている。でも、歩美の悩みには夏原も絡んでいる。それが、なんだか俺を複雑な気分にさせた。その気分が顔に出ていたらしい。夏原が怪訝な顔をした。
「浮かない顔してんな。変なもんでも食った?」
「いや別に……ってか、普通悩みあるのか、とか聞くだろそこは!」
「ははは、中畑に悩みあんのかよ」
「おいこら」
夏原は歩美の気持ちに気付いているのだろうか。悩みを少しでも分かっているのだろうか。いや、たぶん気付いていないだろう。夏原の歩美への接し方は、ほとんど一年の頃から変わってない。それに、夏原は鈍いから。
今の状況がとてももどかしくてイライラする自分と、ずっと変わらないことにほっとしている自分が居る。俺は最近自分の気持ちが分からない。
「母さんの傘持って来ちまった」
「そりゃーどんまいだな」
俺のバッグの中をのぞきこんだ夏原は苦笑して、俺の肩をぽんぽん叩いた。
「俺さー、来月から塾行くことになったわ」
三浦の言葉に俺はちょっとショックを受けた。
「まじかよジェシー」
「ジェシーって誰だよ」
昼休みの部室で、首をかしげる三浦に笑ってみせた。ミーティング、という名目で集まったが、どうやら特に話し合うことは無いらしく、俺たちはしばらくだらだらとだべっていた。
「それがさ、来週テスト受けるんだよ。マジどうしよ」
「テスト?」
「ああ、成績でクラスを決めるんだと」
きっと一番下のクラスになる、と呻いている三浦を見て笑いながら、俺は三浦に少し置いていかれたような気持ちになった。みんなが少しずつ変わっていく。歩美も、三浦も。
三浦の通うという塾の名前を教えてもらって、帰ってから調べることにした。俺も何かしなければいけない。
「そー言えばさ、お前知ってる?」
「何が?」
俺の返事に、三浦がにやりと笑って見せた。
「斉藤の奴、彼女出来たらしいぞ。女子バレー部だって」
「まじかよ!」
衝撃の情報を得て、俺たちは顧問が来るまでずっと部室内で騒いでいたのだった。
「彼女欲しいなー」
「全くだ」
これからの水泳部の練習スケジュールを決めた後、部室から教室へと戻る道すがら、俺は三浦と二人でしゃべっていた。
「秋冬はイベント多いしな」
「冬にはクリスマスが待ち受けてやがるし……」
二人とも彼女が居たことが無いので、彼女としたいことは想像することしか出来ないのが悲しい。映画見に行くとか、遊園地とかベタなことしか思い浮かばない。それか、思い切ってキスから先のこと。これは、もっぱらエロ本から得た知識。これは余談だが、水泳部の男子更衣室には秘密のロッカーがあって、そこには歴代の先輩方が残していったエロ本が何冊も隠してある。女子部員は知らない現実である。バレたら怖いが、まあそれくらい許して欲しい。
「あ」
隣で突然三浦が立ち止まったので、俺は行き過ぎた分戻らなければいけなかった。
「なんだよ」
「あ、いやこれ」
三浦は廊下にかけてあった絵に視線を向けていた。結構でかい。美術部の作品だ。よく見たら作者の名前は夏原だった。どこかで見覚えがある絵だ……。
「あ、これ知ってるわ」
それは以前美術部を尋ねたときに夏原が描いていた絵だった。リアルな女の子の肖像画だ。前に見たときより精密に、そして印象的になっていた。今にも声が聞こえてきそうないたずらっぽい微笑み。美人には見えないが、愛嬌ある顔立ち。彼女は水色の画面の中で、白っぽいワンピースを着て立っていた。静かに佇んでいるというよりは、今にも走り出しそうに見える。ポニーテールが跳ねていた。
「これがどーした?」
「いや、この絵、この前転校した俺のクラスの子に似てんなーと思って」
「は!? 誰だよそれ」
思わず声が大きくなった。驚いてのけぞった三浦に謝って、もう一度その「似ている」女子のことを聞いた。
「誰のことだよ、それ」
「えーっと確か、笠松さん。笠松春子。ちょっと天然入った子で」
三浦の話では、その「笠松さん」という女子は夏休み明けにはいなくなっていたらしい。お別れ会もせずに転校してしまったのだという。
「なんか、いつも一人でいてさ。仲良い子とかいなさそうだったからな」
「へえ」
俺は相槌を打ちながら、もう一度飾られた絵に視線を向けた。絵の中の女の子は微笑んだまま動かない(そりゃ当然だ)。黙ってじっと見つめていると、三浦が慌てたように言った。
「あ、でも、似てるってだけで違うかもしれねーよ」
――普通、同級生の女子の絵を描いて学校に飾ったりするだろうか。しかも、あの夏原が。
「ポニーテールの女子なんて沢山居るしなあ」
――夏原は、この子のことが好きなのか……?
「……おい、中畑?」
三浦に名前を呼ばれて、ぼうっとしていた俺ははっとした。
「あ、わりい」
「そろそろ行かねえと授業始まるぞ」
「そーだな」
俺達は慌ててその場を離れてそれぞれの教室へと急いだ。俺は、廊下を早足で歩きながら、夏原と歩美とあの女の子のことを考えていた。
「夏原、ちょっと来い!」
授業が終わるとすぐ、俺は夏原を教室から廊下に引っ張り出した。
「なんだよ急に」
よくわかっていない顔で首をかしげている夏原に、俺は人差し指を突きつけた。
「笠松春子とはどういう関係だ?」
「!」
夏原はその名前に大いに反応した。目を見開いて固まったので、俺は何度か夏原を揺さぶった。
「ネタは上がってんだ。白状しろ」
刑事ドラマの真似をしてみる。
「な、何を……いや、別にえっと」
面白いぐらい動揺しやがって。
「好きなのか? それとも付き合ってんのか」
「ちがう! そんなんじゃない……」
真っ赤になって否定する夏原。俺はそんな反応を期待していたのに、なのに俺はその反応にイラっとした。笠松という女子のことを俺は知らない。夏原とどんな関係なのかも。でも、きっと悪くない関係だったに違いない。歩美の思いつめた顔が急に頭に浮かんで、俺は頭を振った。
「お前はいいよな」
だから、思った以上に冷たい声が口から飛び出した。
「悩みとかねーんだろ、ほんと」
「は?」
赤くなって頭を掻いていた夏原は、びっくりした顔で俺を見た。
「女の子とよろしくやって、進路もそれなりで。いーよな、悩みなさそうでよ」
嫌な言い方だ。言ってから後悔したが、それでも自分を止められない。
「……おい、なんだよそれ」
「だからそういう意味だよ!」
大声を出してから、周りに人が居ることを思い出した。俺は舌打ちをしてその場をあとにした。後ろで夏原がなにやら叫んでいたが、俺は意識してそれを聞かないように歩いた。鼓動が激しく鳴っている。血が沸騰しているように興奮していた。そして、自分が一方的に悪いことも分かっていた。
――なにやってんだ俺……。
しばらくすると落ち着いたが、それでも妙な苛立ちは収まらなかった。夏原に対してだけではない。俺自身に対してもイライラしていた。
俺はそのあとの授業が終わるのをひたすら待って、そのあとすぐに荷物をまとめて教室を出た。クラスの連中の視線が気になったが、俺はそれを完全に無視した。ちらりと夏原の居る席に目を向けると、夏原は黙って前を向いて座っていた。
「ばあか」
呟いたのは子供じみた悪態で、自分で自分が情けなくなった。
部活もサボって家に帰ると、俺はさっさと部屋に閉じこもった。ベッドの上で仰向けに寝転がると、天井の一部をじっと見つめながらさっきの出来事を反芻していた。今の俺はとても情けない顔をしているに違いない。何で夏原にあんなことを言ってしまったのだろう。あれは完全に自分勝手な八つ当たりだった。
「……サイアクだ」
ぽつりと呟くと同時に、携帯の着信が鳴った。三浦からのメールだった。今日の部活をサボったから、何か連絡があるのだろう。内容を見ることも無く、俺は携帯を放り出した。ついでに枕を壁に投げつけると、ぼすんと気の抜ける音がしてカーペットの上に転がった。ちょっとだけすっきりすると同時に惨めな気分になった。自分がこんなにもイライラしてやるせない気分になっている理由を、俺はなんとなく分かっていた。でも、認めたくは無かったし、それに対して考えるのも嫌だった。
「夏原君と喧嘩したんだって?」
翌朝、家の前で会った歩美は開口一番聞かれたくないことを口にした。半分怒ったような、半分心配そうな顔で。
「……夏原から聞いたのか?」
「違う、そんなわけないでしょ。ウチのクラスの子が言い合いしてるの見たって」
「そーか」
俺は黙って歩き出した。歩美は何も言わずに隣を歩いていた。道中聴こうと思っていたウォークマンのイヤホンを耳からはずし、雑にスポーツバッグに押し込む。歩美は片手に小さな参考書を持っていた。美大受験のためのものだろうか。
「なんで喧嘩なんかしたの」
「関係ないだろ。歩美には」
「そうだけどさ……」
歩美はちょっと悲しそうな顔をした。
――やめろ。そんな顔をするな。
頭を掻き毟りたいような衝動を抑えて、俺は黙々と歩いた。隣を歩く歩美の長いおさげがゆらゆら揺れて、それが無性に気になった。
「あのさ」
「?」
歩美は何か言いかけて、黙った。それを何度か繰り返して、自分のおさげを引っ張った。何か言いづらいことを話そうとするときの歩美の癖だ。
「なんだよ」
「私、やっぱり美大諦めよっかなって」
「は?」
歩美は不自然な笑顔を作って、早口で話した。
「うん、やっぱり今更過ぎるしさ、美大ってお金かかるし、予備校とか行くならなおさらだし……絶対反対されるよなーって。それに、私そんなに才能ないから」
「……」
俺は黙った。猛烈に腹が立った。なんなんだ、それは。気付けば、その気持ちをそのまま口に出していた。
「なんだ、それ」
「え?」
「なんだよそれは。お前の意思どこにもねーじゃん。才能無いなんて誰が決めたんだよ……挑戦もしないで逃げるのかよ」
非難がましい言葉が口から飛び出した。自然と口調がきつくなっていた。
「そんな程度で諦めるなら、ホントにやめちまえ」
「……」
言ってしまってから、黙ってしまった歩美を見て俺ははっとした。もう手遅れか。
「あ……わりい。でも、お前はどーしたいんだよ。美大行きたいんじゃなかったのかよ」
「うん、ごめん。そーだよね。私、ほんと……」
歩美は泣いていなかった。でも、目元が赤くなっていて、泣くのを我慢しているのはすぐに分かった。
「私中途半端だね。ホントだめだー」
無理やり笑って、歩美はそれ以上何も言わなかった。俺もそれ以上何も言えなかった。第一、俺に歩美を責める資格なんて無かったのだ。俺自身、今何もかもが中途半端な状態なのだから。中途半端に染めた髪の毛みたいに。
さっきまでの歩美に対する腹立ちは、今は自分に対するものに代わっていた。今すぐ自分をぶん殴りたい気分だ。
「修治」
「あん?」
俺を呼んだ歩美は俺の方を向いていなかった。もしかしたら、涙を隠しているのかもしれなかった。
「ごめん。でも、ありがと。それから……早く仲直りしなよね」
そのまま、歩美は走って先を行ってしまった。俺は敢えてそれを追おうとはしなかった。
――「ありがと」?
歩美の言葉の意味を考えながら、俺は学校への道をゆっくり歩き出した。
教室に入ると、俺の席に夏原が座っていた。俺と目が合うとちょっと緊張したような顔をする。
「あ、中畑……」
「……おう」
微妙な沈黙の後、謝ろうかと口を開くと、夏原の方が先に言葉を発した。
「なんか、悪いことしたなら謝る。ごめん」
夏原の方がずっと大人だった。それが恥ずかしくて、俺は思わず顔を覆った。
「なんでお前が謝るんだよ。悪いのは全部俺だよ。お前は何にも悪くない……!」
うめくような声しか出てこない。俺は夏原の顔が見られなかった。それ以上何も言わずに、俺は荷物を机の上に置いて、そのまま再び足早に教室を出た。
喧嘩とか仲直りとか、そんな問題ではない。ただ、俺が夏原とまともに話せない状態だった。悔しいことに、俺はたったいまその理由に気がついた。
俺は夏原に嫉妬していたのだ。歩美に好かれていて、絵の才能があって、それなりに成績がよくて、たぶん悪くない大学に行くであろう夏原に。歩美に好かれているのに、それに気付きもせず他の女子といつの間にか仲良くなっていた夏原に。……そして、夏原は俺よりよっぽど大人だった。その事実に、俺は打ちのめされていた。
「かっこわりい」
一人男子トイレにこもりながら、俺はため息をついた。
俺は進路のことなんか考えたくもなかったし、考えると気が重くなった。歩美の夏原への一方通行な恋を見ているのはもう苦痛だったし、突出した才能なんか何もなかった。唯一真面目にやっていた水泳部でも、大会で良い結果なんて残せなかった。
――俺のほうが歩美よりよっぽど中途半端だよ。
そんな自分への苛立ちを歩美や夏原にぶちまけるなんて、なんてガキなんだ。俺は自己嫌悪で頭を抱えたくなった。
教室に戻ると夏原は自分の席についていた。それから、俺は黙って授業を受け続け、昼休みは一人で自分の席で弁当を食べた。夏原の方は見られなかった。あいつが俺に気を使っているのがなんとなく察せられて、惨めな気分になる。
放課後、帰ろうとして学校の正面玄関を出ると、誰かに後ろから頭をひっぱたかれた。
「!?」
「おい中畑、無視すんな!」
振り向くとそこには三浦が腕を組んで立っていた。無視したつもりは無かったのだが、どうやら三浦は何度か俺を呼んでいたらしい。
「お、わりい。なんか用か?」
「なんか用か、じゃねーよ! いくら今あんま活動してないからって、無断で部活休むのは感心しないぜ。今日も休むつもりかよ?」
そういえば三浦は水泳部の副部長だった。そして昨日連絡メールをくれていたことを思い出した。すっかり見るのを忘れていたが。
三浦はいつもの三浦だった。怒ったような口ぶりだが、顔は笑っている。俺はそれに少しほっとしていた。さっきまでの重苦しい気分が少しほぐれた気がする。
「ああ……悪い。色々あって」
「色々? ほほう。それじゃあ、この三浦様が話を聞いてしんぜようか」
そう言って俺と並んで歩き出した三浦に、俺はあっけに取られた。
「お前、部活行くんじゃないの?」
「まあ、一日休むくらい問題ないっしょ」
「さっきと言ってることちげーだろっ。さては最初からサボる気だったな!」
「ふはは、お前に言われる筋合いは無い!」
結局二人で最寄り駅まで歩き出した。当然、二人ともサボりだ。
「――で、結局何があってそんな顔してるわけ?」
しばらくたわいも無い会話をしていたところで、さらりと聞いてきたので、俺はちょっと言葉に詰まった。
「あ、聞く気あったのかよ……」
「まー、なんか、気になるし?」
俺はため息をついた。何を言っていいのか分からなかったが、それでも何かを聞いて欲しいような気はした。きっと、ずっと前から俺は誰かに話を聞いて欲しかったのだ。それを無視して溜め込んでいたから、今の状態に陥っている。
「あー、ちょっと長くなるかもしれんけど……」
俺はざっくりと今の状態を説明した。ここの所心のもやもやに悩まされていること、夏原と喧嘩したこと、歩美に腹を立てたこと。三浦は夏原とも歩美とも知り合いではないので、きっと客観的な見方が出来るだろう。
言うだけ言うと俺は少しすっきりした。三浦は俺が話す間変な相槌を入れながら興味深げに話を聞いていた。そして俺が話し終えると「ふうん」と一言返事を返した。
「だからお前最近つまんなそーな顔してたのね」
ぽん、と俺の肩を叩きながら言う。
「中畑はさ、頭よくないのに考えすぎなんだよ」
「うおい!」
失礼な言葉にツッコミを入れると、三浦は笑った。
「大体さ、お前はもう分かってんだろ? 自分が何でもやもやしてるのか。問題は、これからどーするかだろ」
「……おう」
「夏原ってやつに謝りたいなら、自分が今まで何を思ってイライラしてたのか、きちんと説明しないと納得してもらえないって。それから、その幼馴染の子にもさ。言いたいことちゃんと言わないと」
俺は黙って頷いた。三浦の言葉は正しいと思った。「言いたいこと」とは何か。俺はそれを思い浮かべて頭を抱えた。三浦はそんな俺の気持ちを見抜いているのだろうか。
「あー、あと。お前さ、まだ水泳部の活動終わったわけじゃいんだから、勝手にやる気なくすんじゃねーって。冬の大会は絶対本選行くんだからな!」
三浦はそう言って俺の背中をばしりと叩いた。
「痛って!」
「これこの前のお返しな。そんじゃ、俺は今から他校の奴とゲーセン行くから。じゃーな迷える子羊!」
「誰が迷える子羊だっ!」
三浦は機嫌が良さそうに手を振りながら去っていった。俺はその姿が消えるまで見送ってから、長いため息をついた。今までのもやもやを全部吐き出すように。新たに空気を吸い込むと、少しさっきより爽やかな気分になった。三浦はいい奴だ。冬の大会に向けて、練習は明日からきちんと出よう。決心して、俺は再び歩き出した。
次の日、放課後の美術室。何故か美術室の明かりは全部消えていて、夏原はそんな中で窓の外を見ながらキャンバスに向かって座っていた。他に部員は居ないらしく、歩美の姿も見えなかった。それはそれでちょうどいい。俺は、小さく咳払いしてから、廊下から夏原に声をかけた。
「夏原……今、忙しいか?」
夏原はぴくりと反応してキャンバス上で動かしていた手を止めた。手に持っていた鉛筆が丸まっているのが目に留まった。こんな暗い中で何を描いていたのか。
「中畑?」
今日は朝から夏原とはまだ話していなかった。お互い気まずくて、話しかけることが出来なかったのだ。当然、昼も一人で食べていた。それは正直なところちょっと寂しかった。夏原はちょっと戸惑ってから、ふるふると顔を横に振った。これは「忙しくない」という意味と取って問題ないだろう。俺はつかつかと夏原の前まで歩いてから、立ち止まって小さく深呼吸をした。
「夏原……悪かった。ゴメン。一昨日は急にあんなこと言って、それに昨日はお前から声かけてくれたのに無碍にしちまった」
勢いをつけて頭を下げた。それから顔を上げると、夏原はあっけに取られていた。それから、夏原はちょっと笑った。
「ほんと、中畑は色々突然だな」
「は?」
「いきなりキレたかと思えば急に謝るし」
「悪い……」
気まずくなって俺は頭を掻いた。でも、夏原は特に気にした風も無く笑っていた。
「何かあったんだろ?」
「……」
「中畑が意味も無く暴言吐く奴じゃないことは知ってるよ。ま、理由によっては怒るけどな」
鉛筆をぴこぴこ振りながらそう言う夏原に、俺は不覚にも目頭が熱くなった。まったく最近の俺は本当に情けない。夏原は俺を信じてくれている。俺もその信頼に応える必要がある。
「……俺はお前が羨ましかったんだ。たぶん」
「はあ?」
俺は近くにあった椅子を持ってきて、夏原の隣に適当に腰を下ろした。
「最近の俺はイライラしててさ、部活も気合い入らねーし、進路もあんまり考えると頭痛くなるし。お前はほんと絵の才能あるしさ、進路とかも悩んでなさそうで、羨ましかった。それに、周りみんな塾行くとか色々聞いて、なんか焦って。俺一人置いてかれるような気分になって……そういうイライラを全部お前にぶつけちまった。八つ当たりだ。だから全部俺が悪い。本当に悪かった」
俺は目をつぶってこぶしを握り締めた。我ながら凄くかっこ悪い。本当に情けない。でも、これが本当だ。
「それから……」
「それから?」
俺はちょっと詰まった。俺の心の奥にある本音。これだけは、夏原には言えなかった。というより、言いたくなかった。歩美のことだ。
「それから……ちょっと言いたくねえ。これは、あと五年くらいしたら教えてやる」
「おいおい。なんだそれ」
夏原は呆れた顔をした。もっともな反応だ。でも、罵倒されようが殴られようが、言いたくなかった。これは意地でもある。
「……しょーがないな」
俺をじっと見ていた夏原は、言って小さくため息をついた。
「ビックマック三個分で許してやる」
笑って俺の肩を叩いた夏原に、俺も思わず笑っていた。
「チーズバーガーじゃ駄目かよ?」
「駄目に決まってるだろ。ビックマック三個、これで決まりな。あとシェイクも」
「シェイクもかよっ」
俺達はそれから薄暗い美術室でしばらく語り合っていた。夏原の絵を見せてもらったが、下書きの段階で、何を描いているのか俺にはよく分からなかった。
「この窓から見える景色を描きたいんだ。今のこの夕焼けの景色を。そんで、この薄暗さと夕焼けの色を表現したいんだ」
「へえ」
確かに今の場所から見る窓の外は綺麗だった。紫がかったオレンジ色が、目に凄く鮮やかだ。日が沈む直前の色。
「……でも、暗い中だと絵描きにくいんだよなあ。絵の具の色とか、ちゃんと見えないし」
夏原はうなった。俺はよく分からないままうなずいた。
「どうしたらいいかな?」
「俺に聞くなよ」
しばらく、俺と夏原は黙って窓から見える夕焼けを眺めていた。ふと、思いついて俺は口を開いた。
「……手元だけ、電気スタンドとか持ってきて照らせばいいんじゃね?」
「あー。なるほどね……」
夏原はふむふむ、と口に出して言いながらキャンバスに向かって手を動かし始めた。夏原の意識はキャンバスに向かい始めたようだ。そろそろ、行かなくては。
「邪魔して悪かったな」
立ち上がってそう言うと、俺は美術室から出ようと歩き出した。薄暗い世界で、夏原はキャンバスに向かったまま、鉛筆を持った手をひらひらと俺に振ってみせた。
「……俺も、お前が羨ましくなるときはあるぞ」
「え?」
突然かけられた声に、俺は立ち止まって後ろを振り返った。夏原は手を止めて俺に視線を向けていた。
「お前は俺と違って友達多いし、運動神経いいからさ。今年の夏、部活本気でがんばったんだろ? 俺は、そーいう青春っぽいことしてないから羨ましいよ。それに……」
夏原は何か言いかけて、黙った。さっきの俺みたいに。
「なんだよ」
「いや、うーん。これは、あと数年したら教えてやるよ」
「はあ?」
夏原は苦笑した。
「ちょっと今は言いたくないから。いいだろ?」
「……ああ」
言えないことは誰にでもあって、それでも、夏原とは仲良くやっていけそうだな、と思った。今度はもっと素直に夏原の絵に感動できるだろう。あの絵のモデルの女子のことは、いつか聞きだしてやろう。でも、今はやめておいてやろうと思う。美術室をあとにすると、俺は歩き出した。今度は、歩美を探すために。歩美に、「言いたいこと」を言うために。
歩美のクラスはもう文化祭の準備を始めていた。まだあと一ヶ月近くあるというのに。他のクラスはまだこんなことはしていない。よほどやる気のあるクラスなのか。でも、教室に歩美の姿は無かった。美術室にも居なかったということは、もう帰ってしまったのかもしれない。それでも、ただそのまま帰ることはしたくなかったので、俺は図書室と自習室を見て回ることにした。
図書室にはちらほらと生徒が居たが、その中に歩美の姿は無かった。静かな中で自習している生徒も居れば、漫画を読んでる奴もいる。きょろきょろしていると、参考書のコーナーに美大受験の本が目に留まった。
「美大……か」
本当に歩美は美大を諦めてしまったのだろうか。そりゃ、大変だというのは分かる。でも、「行きたい」と話した歩美の目は本気に見えた。何もしないで、両親にも言わずに諦めるのは勿体ない、と思うのだ。何もせずに一人でもやもやしていた俺も似たようなものだが。
そろそろ本当に進路を考えなければならない。夢は現実に即して修正しないといけない。そんな季節だ。
手に取った美大受験の参考書は、分厚くてとても重かった。
「……これで殴られたら死にそうだな」
独り言を呟くと、中をぺらぺらとめくった。実際に受験の為に必要なことが色々と載っていた。実技試験と学科試験について。実技はデッサンと平面構成? 出来れば予備校に通ったほうが良いということ。予備校の学費も含めて実際に受験にかかる大体の費用。……これは確かに、親に言うのがためらわれるかもしれない。俺の場合、私大の受験さえ負担になると言われているのだから。
俺は、本を閉じて棚に戻した。ため息をついて図書室を出る。自習室は三階の隅だ。廊下の窓から見える空は、もうオレンジから濃い紫に変わってしまっていた。夏原は美術室の電気を付けたんじゃないだろうか。真っ暗では何も描けないだろうから。
自習室は受験を控えた先輩達でいっぱいだった。分厚い赤本を広げた彼らの中には、水泳部の先輩も何人か混じっていた。来年は俺もここに居るのだろうか。先輩達の真剣な横顔は、とても印象的だった。プールで見る顔とはまた別の顔。悪くは無いな、と思った。歩美の姿は無かったので、俺は自習室には入らずその場を去った。そのまま帰ろうかと思ったが、自分の教室に荷物を置いていたことを思い出した。
がらり、と閉まったドアを開けると、しんとした教室で俺の席に歩美が一人座っていた。他には誰も居ない。少し離れたところから笑い声が聞こえてくるのは、歩美のクラスの奴らがまだ残って何か作業しているからだろう。俺のバッグは俺が置いたときのまま机の上に乗っていて、歩美はそれをぼうっと見つめていた。
「……歩美?」
「あ、やっときた」
歩美は俺を見て静かに笑った。ゆらりと揺れるおさげ。
「荷物あるから戻ってくるかなって思ってた」
「なんか用か?」
歩美は頷いて、俺に手招きをした。俺はそれにしたがって、前の奴の席の机に腰掛けた。
「行儀悪い」
「うるせえ」
「……仲直りできた?」
「おう」
「そっか。よかった」
歩美は安心したように笑った。俺もちょっと笑った。
「あのね。ちょっと愚痴聞いてもらおうと思って」
「はあ」
歩美は俺ではなくて俺のバッグに向かって話し始めた。
「私、失恋しちゃったー」
「は?」
俺は思わず歩美を凝視してしまった。
「振られたのか? 夏原に?」
思わず夏原の名前を出してしまったが、歩美はもうそれについては否定しなかった。
「告白して振られたんじゃない。でも、気になる人がいるって教えてくれた。絵に描いちゃうくらい気になる人」
――あの女子か。たぶん、笠松春子とかいう。
「そんなの、勝ち目ないじゃん。ついてないなあ」
苦笑した歩美は、ため息をついた。「わああ」とか言いながら、俺のバッグに顔を埋める。歩美のこんな様子を、たぶん夏原は見たことが無いだろう。
「諦めんの?」
「……うん。というか、好きっていうか憧れだったのかな、って思ったの。だって、その人はもう居ないって夏原君言ってたけど、それでも告白しようって思えなかったから。だから、失恋したの。恋を失ったっていうの? そんな感じ」
「何かっこつけてんだよ」
顔を上げた歩美にデコピンしてやると、歩美は泣き笑いの顔をしていた。
「あはは。ごめん」
「……俺じゃ、だめかよ」
いつの間にか、俺はそう口にしていた。ずっと言いたくて、言えなかったこと。夏原に嫉妬していた理由。――俺は、たぶんずっと歩美が好きだった。
歩美は泣き笑いの顔から驚きの顔に変わっていた。目を丸く見開いて、俺を見つめている。顔と一緒に、俺のバッグに突っ伏していた身体をがばりと起こした。
「へ?」
「だから、俺じゃ、だめかって」
俺はだんだん恥ずかしくなってきて、視線を歩美からはずして横を向いた。しばらく無言が続いたかと思うと、目の端で歩美が頭を掻くのが見えた。
「だめだよ」
「そーかよ」
予想された答えで、俺は特にショックを受けたりしなかった。……いや、やっぱり少しはショックだったかもしれない。
「修治は修治だもん。好きとか、そういうのは違う。だから、だめだよ。ゴメンね」
歩美はそう言いながら自分のおさげを両手でひっぱった。
「いや、ただ言っときたかっただけだから。……俺じゃお前の特別にはなれないんだよな」
幼馴染とは難しいもので、小さい頃から顔なじみだから、近すぎて、隣に居るのが当たり前になっている。だから、俺が自分の気持ちに気がついたのも、つい最近だ。
「ちがうよ。修治はもう特別なんだよ。特別だから、悩みも愚痴も、全部話せる」
歩美はそう言って、俺の腕をぎゅっと掴んだ。
「あのね、修治」
「?」
「私、やっぱり美大目指すよ。浪人してもかまわない。どうしても行きたいって、やっぱり諦められないって、昨日修治に言われて気がついた」
歩美の目は涙ぐんでいたが、俺をしっかり見据えていた。俺はその目に釘付けになる。涙を溜めた目がきらきらして見えた。
「だから今日両親に話す。担任にもちゃんと話す。バイトしてでも、美大受験したいって、ちゃんと言う。……修治のおかげだよ。ありがとう」
俺は黙ってうなずいた。なんだか胸の奥が熱くなった。目の奥も熱くなって鼻の奥がつんとしたが、俺はそれを我慢した。
「だから、修治は私の特別」
「……感謝しろよ、ばか」
俺は立ち上がって歩美の頭をがしがし撫でてぐしゃぐしゃにした。今自分がどんな顔をしているのか分からなくて、歩美に見せられないと思った。ここで泣くのはかっこ悪い。
「ちょ、やめてよ」
「じゃーな。今日はもう帰るわ」
そのままバッグを歩美の前から取り上げて、廊下に向かって歩き出した。今日は一人で帰りたい、と無言で示した。
「――あ、うん。また明日」
歩美の声を背中に受けて、俺は立ち止まった。振り返って、笑う。
「さんきゅーな。それから、美大、絶対行けよな」
精一杯の笑顔を浮かべられたと思う。俺は、返事も聞かずに歩き出した。それから、廊下に出たら人気の無い廊下を全力疾走した。先生が居たら絶対怒られるだろう。でも、それでも構わないと思った。
*
「それで、髪戻したのか?」
夏原はビッグマックを口いっぱいにほお張りながら言った。チョコレート味のシェイクは凄く甘そうだった。
「ああ、なんか評判悪かったから」
「橋本さんからだろ?」
「……まーな」
俺は髪を黒く染め直していた。歩美から不評だったということもあるが、なんとなく、中途半端な茶色い髪は、自分の中途半端さの象徴のような気がしたからだ。
「それに、塾通い始めたから」
「あー、水泳部の奴と一緒に通ってるって奴?」
「おう。なんか、先生厳しくてさ。髪の色と勉強は関係ねーと思うけど」
言いながら、俺もポテトを一本口に放り込んだ。塩気がちょうどよくておいしい。
「ふうん」
季節はもう秋も深まってきて、外を歩くには上着が必要になってきた。それなのに水泳部の活動も前より多くなってきて、最近の俺は忙しい。
「まあ、俺も茶髪よりそっちのが似合ってると思うけど」
「……それもっと早く言えよー」
「わりいわりい」
小突くまねをしてやると、夏原はガードするフリをして笑った。
「そういえば、橋本さん美大受験するらしいな」
「あー、うん」
歩美は本格的に美大受験に向けて勉強を始めていた。親に相談したら、なんでもっと早く相談しなかったのかと怒られたらしい。目指すこと自体は反対されなかったそうだ。
結局、人はみんな考えすぎるとよくないのだ。最近それを学んだ気がする。携帯でツイッターを見ながらビッグマックをほお張る夏原を見ていると、特にそう思った。……こいつはホントにのんきな顔をしてやがる。
「おい、夏原」
「なんだよ?」
「ケチャップ上着に付いてんぞ」
慌てて上着を確認する夏原を見て、俺は笑って舌を出した。
「嘘だよ。ばーか」
「ちょ、お前なー」
憤慨する夏原に向かって思い切り笑ってやると、夏原も結局つられて笑い出した。短い夏が終わって、これから冬が来る。俺は、それが前より少しだけ楽しみになっていた。
※大学の卒業論文より一作抜粋。