015 密談
無駄に豪奢な執務室で男が一人、書類に囲まれていた。
男の名は亜儀。
不愉快そうに報告書へ目を走らせていると、扉をたたく音が控えめに響いた。
紙束を机に投げ出し、長く細い溜息を吐く。
「入れ」
誰何はしない。
相手の予測はついている。
ただでさえ、この場に来れる相手は少ないのだ。
このタイミングでならなおのこと。
「失礼します。例の件、新しい報告書が届きましたので持ってまいりました」
「……読もう」
入ってきたのは、亜儀の異母弟である万里だ。
敵だらけのこの城で、数少ない使い勝手のいい味方である。
万里から報告書を受け取り、内容を確認しているうちに、亜儀の眉間に皺が寄る。
「なんとも厄介なことになっているな」
声に苛立ちが宿る。
記された文字は非常に都合の悪い状況を伝えていた。
「いかがなさいますか。穂波様が関わっている以上、簡単には行きません」
「わかっている……だが……、運命というものは、何故こうも実現してほしくない方向に転がるのか」
「本当に、驚きました」
事態が予想外の方向に転がったのは一月ほど前の事だ。
堅牢な巣から、ヒヨコが二羽、飛び出してきた。
なんという僥倖か。
それらは亜儀の目的のためには非常に邪魔な存在だった。普段は巣の中で親に守られていて手が出せないが、向こうから飛び出してきてくれたのだ。
この機会を逃す手はない。
万里に命じ、そのヒヨコ共を消そうとした。
育ち切っては厄介だが、まだ幼い今ならば簡単に潰せる。
未来の障害をあらかじめ排除する。それは、絶対に必要なことだった。
だというのに……
よりにもよって、それを妨害したのが、亜儀にとって憎んでも憎み切れない相手―――穂波だった。
そして今もまだその妨害は続いている。
「……お前は……どこまで俺の邪魔をする気だ……」
握りしめた拳が怒りで震える。
(姿を消してもなお、俺に歯向かい続けるか、穂波!)
心が憎しみでどす黒く染まるような気さえする。
この手で穂波を縊り殺せたら、どれだけ気分がいいだろうか。
奴が息絶えるまで、苦痛に歪む顔を眺めていられたら……。
「亜儀様」
沈み込む思考を万里が遮る。
「落ち着いてください。一連の穂波様の行動に、我々への敵対意志などありませんよ。彼は何も知りません。あれは、本当に偶然でした」
その場にいた万里は断言する。
出奔したのはもう何年も前だというのに、一目で穂波だと解った。だから即座に退いた。
残念ながら、万里の方は穂波に気付いてもらえなかったが。
「あんな状況下でなければ、力尽くで攫ってでも穂波様を連れ帰りたかったですがね」
そう言う万里に亜儀は冷たい笑いで返す。
「その時は、翌日には身元不明の死体になっているだろうな。お前も、穂波も」
個人を特定するようなものはすべて外され、顔を潰されて。
野にさらし、獣に食われるままに。
あるいは徹底的に、憂さ晴らしの道具とされるか。
「どう転んでも、穂波には心底恨まれるだろうよ」
「それはできれば避けたいですね」
「そうかい。俺はどっちでもいいさ。奴が邪魔をしないでいてくれればね」
それは無理な願いではあるが。
穂波が穂波であり、亜儀が亜儀である。ただそれだけで、穂波は亜儀の邪魔となるのだから。
とはいえ、殺したいほど憎い相手でも、穂波にはまだ利用価値はある。
現在進行している計画が頓挫した場合には、捕らえて人質として飼殺せばいい。
「なんにしても、諦めるつもりはない。……そうだな、せっかくだ。平和呆けしている愚か者共にひとつ、恐怖をプレゼントしてやろうか」
昏い愉悦に浸る亜儀に、意味を図りかねて万里が首を傾げる。
「恐怖、ですか」
「そうだ。ただ生きて死ぬだけというのも刺激がないだろう? 殺すだけではつまらない。その点奴ならばきっとヒヨコ共が泣き叫ぶ、面白い舞台を作り出してくれるだろう」
その台詞に、亜儀が何を言おうとしているのかを理解した万里はかすかに眉を潜めたものの、異論を唱えることはなかった。
異母兄弟と言うだけではなく、亜儀には恩がある。
自分が亜儀から駒扱いしかされていないことはわかっているが、それでも万里は、どんなことがあっても恩に報いると誓ったのだ。
この手はすでに血に染まっている。
今更悲劇をひとつ重ねたとして、それが何だというのか。
亜儀と違い、万里は穂波に恨みはない。むしろ慕い、心酔している。
けれどそれでも、二人を天秤にかけた場合、万里の立場で選べるのは亜儀だけだ。
心の奥で穂波に懺悔をしながら、亜儀に都合の良い答えを紡ぎだす。
「駆羽野でしたら、糸安城下の刀禰が使えるかと」
「ほう、かの子爵か。悪くない。……ならば相手は年頃の娘である方が、面白い舞台となりそうだな」
くつくつと笑いながら亜儀は報告書に目を落とす。
そこには風羅の名前が記されていた。