013 『常識』とはただ思い込みでしかない
店内には押し殺したざわめきが満ちていた。
出入り口に近いテーブルで飲んでいた男が、酒を手にしたまま固まっていた自分に気付き、そっと酒を置く。
木製のジョッキがテーブルに触れる小さな音さえ、いやに大きく聞こえた。
普段なら同じテーブルの仲間の声さえ、大声を出さなきゃ聞き取れないほどの喧騒に満ちた店だというのに。
男の名は恭治。
温泉街で力仕事を中心とした雑用で生計を立てている。
粗野で喧嘩っ早いところはあるが、陽気で裏表もなく、面倒見もいい性格から仲間も多い。
今日はたまたま、休日が被った同僚たちと四人で昼間から酒を楽しんでいた。
だが、せっかく楽しんでいたというのに、不愉快なことが起きた。
最近街中で見るようになった、見るからに胡散臭い連中が店に入ろうとしたのだ。
結構な人数だ。昼間からにぎわうこの店には相席したとしても入りきらないだろう。
すぐさま店員が走っていき満席であることを説明する。
普通ならばそこで納得し別の店を探しに行くところだが、男達はそうしなかった。
満席であることは店の落ち度ではないというのに、店員へと怒りをぶつけた挙句、下卑た要求をし、力ずくで従わせようとした。
これまでも、酔った客がふざけて店員の尻を触るくらいのことはあった。
けれどそこに悪意はなく、店員もそれをわかっていたから、怒りはするものの本気で嫌がることはなかった。
けれど今回は違う。
手を伸ばした男に本気で嫌がる店員の姿を見て、短気な恭治の頭に血が上る。
この店は恭治にとって馴染みの店だった。
愛想の良い店員も、酒を楽しませてくれる『仲間』の一人だ。見過ごせるはずがない。
腕力には自信があった。自分がやらずに誰がやる。
怒りに任せ、立ち上がろうとした時だ。
後ろで大きな音がした。
いや、そう思った時には音はもう前に移動していた。
突然発生した騒音に、怒りに満ちた恭治ですら気を取られる。
なんだ、と思った時には、細身の人影が飛んでいた。
人影が纏ったマントが勢いで広がり、向こうの景色を遮る。
ほんのわずかな時間見えなかっただけで、状況は大きく変わっていた。
店員を掴んでいた男は、呻きとも悲鳴とも取れぬ声を上げて倒れていて、店員は突然現れた人影に支えられ呆然としている。
突然のことに音を失った店内に、ゆっくりと音が戻る。
誰もが状況を理解できず……いや、自分の目で見たものが信じられず、ひっそりと他人に確認せずにはいられないのだ。
ほぼすべてのテーブルで、押し殺した囁きが交わされる。
「……おい、今、何があったんだ」
恭治もまた、同じテーブルで飲んでいた同僚に声をかける。
入り口側に向いて座っていた恭治の向かい側に座っていた同僚は、店の奥を向いて座っていた。
騒音が恭治の後ろから音が聞こえてきたのだから、同僚は何か見ていた可能性が高い。
「それが……あの黒マントがテーブルの上走ってった…ってことくらいしか」
「テーブルの上を? ………無茶しやがる」
自分たちのテーブルを見て、思わずため息が出る。
さして大きくもないひとつの丸テーブルに、詰めれば六人まで座れるようになっている。
当然、テーブルはひとつひとつ独立していて、離れている。
次のテーブルにたどり着くには、勢いをつけて人を飛び越えなければならない。
そしてそのテーブルの上には、所狭しと料理や酒が人数分置かれるわけだ。
(この上を走るだと?)
普通なら皿に足を取られてすっ転ぶだけだ。
転んだ勢いのまま無様に周囲を巻き込み、怪我人を量産する危険な行為である。
そう、普通なら。
振り返ってよく見てみる。
奥の席から入口にかけて、一直線に、料理が散らばったテーブルがある。
その席に座った客が、衝撃で飛び散った料理や酒にまみれたテーブルを呆然と見つめていた。
だが、どのテーブルも汚れただけで、倒れたり折れたりはしてはいない。
食器類は基本的に木製で、落ちても派手に砕けることもなく、破片で怪我をしたような客もいないようだ。
人一人が駆け抜けて行ったというのに、こんなことが有り得るのか。
(これは夢か……)
黒マントは店内の様子など気にも留めず、雪崩れ込もうとする男共をたった一人で止めながら背後へと声をかける。
「すまん。突っ走ったが、結果的には予定を外れてはいない。出てこい。実戦練習開始だ、好きにしてみろ」
連れらしい灰色の外套に身を包んだ二人が、人を掻き分けながら出入り口に向かう。
「おいおい、無茶だろ…」
黒マントの男が呼んだのは、線の細い女と子供。
どうしたって荒事に向かない、むしろ餌食にされる側の人種だ。
少なくとも、乱闘必至の今この場面で呼び出されるような相手では、無い……はずだった。
これまで恭治は揉め事を腕力で解決してきた。
体格の良さもあり、一対一での喧嘩なら負け知らずと言っていいくらいだ。
だから自分は強いと思っていた。
『思っていた』のだ。
弱者だと決めつけた相手は、基礎の剣技を叩き込まれ、体力を伸ばされ始めたことで強者の枠に足を踏み込んでいた。
『常識』という名の思い込みは彼らに粉々に砕かれた。
恭治は自分の思い上がりを深く反省し、己惚れていた自分を恥じて、この日の出来事をいつまでも語り継ぐこととなる。