Corundum −コランダム−
吹き荒ぶ風を遮るものとてない荒野を行く人影が一つ。周りの景色と見分けがつかない程に砂埃にまみれた茶色のフード付きコート。そのフードを目深に被り、供も連れずに単身で歩いている放浪者がいた。
「お前、一体どこに向かうつもりだ。」
突然、背後から声を掛けられて後ろを振り返ってみると、そこには眼つきの悪い長身の男の姿があった。いや、正しくは男ではない。人の姿を纏ってはいるが、人間が本来持っているであろう理性の輝きというものがまったく感じられなかった。例えるならば人の形をした獣だった。
「何処に行くつもりだと聞いているんだ。ここから先はお前のような人間が足を踏み入れていい場所じゃない。そんな事も分からないのか?」
放浪者が辺りを見渡してみると、周りは既に声を掛けてきた長身の男と同じか、それ以上に凶悪な顔つきをした集団によって取り囲まれていた。各々の手には剣やナイフが握られており、このまま無事に通してくれるつもりが無いのは一目瞭然だった。荒野を根城にしている盗賊団といったところだろう。
その集団の中から、特に際立って醜悪な顔をした小柄な男が前に進み出てきた。顔に残された刀傷の痕から見ても、これで数々の修羅場を潜り抜けてきたのだろう。放浪者の前に来ると、獣のように鼻をひくひくと動かして匂いを嗅ぎ始めた。
「お前、女だな?しかも、かなり上物の匂いがする。そんな風に顔を隠してみたところで、俺様の鼻は誤魔化せないんだよ!」
そう言うと、小男は放浪者に近づき、顔を覆い隠している邪魔なフードを取り払った。小男の鼻は彼が自慢したとおり、見事な感度を持っているようだ。フードの下からは現れたのは、鼻筋の通った色白の美女だった。両頬には蒼い刺青のような紋様が刻まれてはいたが、その事は些かも彼女の美しさを損なうものではなかった。
期待以上の美女の登場に、周りを取り囲んでいた他の連中からも下卑た嘲笑と賞賛の声が沸き起こった。おかげで辺りは一時、異様な熱気と興奮に包まれるのであった。
そんな周りの喧騒が、自らの容姿によるものである事にまったく気がついていないのか、女は相変わらず無頓着な様子を保ったままだった。一方で、その女の全身を舐める様にして眺めていた小男は、突然振り返ると、隊長格と思われる男の方に近寄った。
「隊長!これは俺の獲物だ。他の奴には手を触れさせないで下さいよ。」
「また、お前の悪い癖が始まったな。腕は悪くないんだが、相変わらず女とみると見境が無くなる。」
「何言っているんですか。こんな辺鄙な場所で暮らしていたんじゃ、これ程の上物に出会うチャンスなんて滅多にありませんぜ。少しばかり楽しませてもらっても構いませんよね?もちろん仕事はキッチリ果たしますから。」
醜悪なのは外見だけではないらしい。小男のだらしなく開いた口元からはヨダレが垂れており、隊長からの返事を舌なめずりしながら待ち構えていた。
「勝手にしろ。後はお前達で適当に始末しておけ。俺は先に帰らせてもらう。」
見渡す限りに開けた荒野の中では、人が身を隠せるほどの障害物はそれ程存在していない。それにも関わらず、隊長は現れた時と同様、掻き消すようにしてその姿を晦ましていた。
隊長の許しを得た小男は、手に持ったナイフを弄びながら、他の仲間に言い聞かせるようにしてこう告げた。
「お前ら、俺様の実力は知っているよな。俺は自分が食事中に邪魔をされるのが何よりも嫌いなんだ。死にたくなかったら、それだけは理解しておけ。」
それだけ言い残し、小男は再び女に近づき始めた。醜い顔をさらに厭らしく歪めながら。
「お嬢さん。お待たせして大変申し訳なかったね。おっと!始めに断っておくが、逃げようとしたって無駄だぜ。おとなしく俺の言う事を聞いてくれれば、痛い目には合わずに済む。」
「お前は、オレを抱きたいのか?」
先ほどから悲鳴一つ漏らさなかった女が、突如口を開いた。一切の感情を失ってしまったかのよう低い声ではあったが、その中には紛れもなく女性特有の響きが含まれていた。
「物分りがいい女は好きだぜ。素直に言う事を聞いてくれたら、命だけは助けてやろう。どうだ?」
「そうか、それなら一つ条件がある。ある男を探している。そいつの事を何か知っているならお前の願いを叶えてやろう。運が良ければ天国に行ける。」
そう言うと女は、茶色のコートを脱ぎ始めた。その下から現れたのは、男装に身を固めていてもなお、それと分かるほどに見事な曲線美を備えた身体だった。そして、背中には自分の身長程もある長剣を背負っていた。顔、体、物腰、どれを取っても文句のつけようのない美女であるのは間違いなかったが、所々露わになっている白い肌には、頬だけでなく腕や首筋に至るまで蒼い紋様が刻まれていた。衣服に隠れているので定かではないが、この紋様は蛇の鱗のように彼女の全身を覆っていることだろう。
「どうした、お前の望みはオレを抱くことだろう?それとも、この姿を見て怖気づいたか?」
挑発とも取れる女の言葉に、小男は怯むどころか、むしろ一層興奮を覚えたようだった。
「それならば望みどおり・・・」
小男が女の衣服に手をかけようとした瞬間。
「おい、そこのお前。悪い事は言わないからその女には手を出すな。これは忠告だ。」
女を除く誰もが、一斉に声のした方を振り向いてみると、大岩に片膝を立てて座っている男の姿があった。赤や緑、黄色といった極彩色の衣服を身に纏い、何とも得体の知れない奴だった。
「何だ、お前?俺たちの邪魔をしようっていうのか?」
「それにその格好。まるで道化師だな。死にたくなかったら、余計なお節介は焼かない方が良いぞ。」
「そうだそうだ!男になんかは興味はねえ。さっさと消えな!」
集団の中から聞こえてくる罵声を、男はただ黙って聞いているだけだった。
一方、声を掛けられた当の小男は、この突如現れた男の様子を先程から注意深く観察していた。仲間が言うとおり確かに道化としか例えようのない格好をしているが、これ程までに目立つ格好をしていながら、声を掛けられるまでこの男の存在に気がつかなかったのは事実である。まして、男が抱え込むように持っている杖からは、強力な魔力が漏れ出ていた。それは注意していないと分からないくらいに微少であったので、他の連中はまだ気がついていないようだ。見た目とは違い相当な使い手であるのは間違いないようだった。
そんな周りの思惑とは関係なく、魔術師が再び口を開いた。
「何しろ、あのお方が御印をつけた器だからな。手を出したら最期、死よりも恐ろしい目に遭う。悪い事は言わないから、別の女を探した方がいいぞ。」
魔術師のその言葉に、女が鋭い一瞥を投げかけた。今まで黒かった女の瞳が紅く染まる。そして次の瞬間、女の振り下ろした剣を魔術師が杖で防いでいる光景がそこにはあった。
「はいはい、そうでしたね。あのお方の話題は禁句でした。うっかりしていましたよ。」
悪びれた様子もなくそう口にする魔術師を無視するかのように、女は剣を納めると小男の方に振り返った。
(魔術師の登場だけでも厄介だったのに、この女も相当な腕前のようだ。おまけにお互いに顔見知りときている。先程の様子から推察するに、二人は仲間という関係ではなさそうだが・・・。)
「おい、女。そこの魔術師とはどういう関係なんだ。仲間なのか?」
小男が念のために探りを入れてみる。しかし、その問いに女が答える代わりに、魔術師の方が口を開いた。
「別に俺はその女を助けるつもりはないし、お前と戦うつもりもない。俺には構わず、お前のしたいようにすればいい。俺はお前に忠告はしたからな。どうなっても知らんぞ。」
魔術師の目的が何なのかは分からなかったが、女に加勢するつもりは無いらしい。女の腕前も見事であったが、所詮は多勢に無勢。小男は会心の笑みを浮かべながら女に近づいていった。それに応えるかのように、女は自ら衣服を脱いでいった。
盗賊団の隊長が再び目にしたのは、屍と化した部下達が地面に転がっている光景であった。その中で動いているものといえば、先ほどの女と傍らの大岩に座っている見知らぬ男の姿だけであった。
驚愕する隊長の目に、女の姿が映る。コートどころか何一つ纏っていないその体には、たくさんの返り血が付着していた。それにも関わらず、その全身を覆う蒼い紋様は、紅く染まった血の色に掻き消される事もなく、むしろ鮮やかに輝いていた。
「いつまでそんな格好でいるつもりだ。少しは女としての嗜みをだな・・・。」
「お前もオレを抱きたいのか?この醜悪な体を。」
「お前の体が醜いかどうかは知らないが、さっきも言ったとおり厄介ごとはお断りなんだ。」
隊長の存在など眼中にないかのように、女剣士と魔術師は会話を続けていた。
「それにしても、なんだ・・・服を脱ぐ必要があるのか?」
「服が汚れるのは困る。ただ、それだけだ。何か問題でもあるのか?それに、この汚らわしい印を消すには、これしか方法がないのはお前も知っているだろ。」
「あの方からお前の事を見張るように言われている俺の身にもなってくれよ。万が一にも傷一つ付けさせる訳にはいかないからな!もっとも、お前に傷一つでも負わせられるような奴がいたら、こっちがお目にかかりたいものだが・・・。」
隊長は二人の会話を耳にしながら、昔耳にしたある伝説を思い出していた。
遥か昔、一人の男がいた。生まれた頃から剣を嗜み、周りから神聖と崇められる程の才能の持ち主だった。自らも剣の腕を磨くことに勤め、日々研鑽に勤めていた。
しかし、彼の才能に嫉妬を抱いた兄弟子達により、彼はある日闇討ちをかけられる事となった。彼を取り囲んだ兄弟子の数は十名。しかし、勝負は一瞬にして決着がついた。残された遺体には全て、一太刀の刀傷しか残されていなかったという。
彼の常人離れした腕前に恐れをなした人々は、翌日彼をこの世から葬り去ろうと試みた。その数は百人とも千人とも噂されているが、残された遺体の損傷が激しくて定かではない。しかし、その様子を影で見ていた者の証言によると、そこにはまさに地獄絵図が展開されており、男の姿は修羅か鬼人にしか見えなかったという。
――千人斬りを成し遂げし者、既に人に非ず。人は彼らを「コランダム」と呼ぶ。蒼きコランダム、人に害を為すものなり。紅きコランダム、人に益を齎すものなり。その二つを持つもの、特に“エメリー”と呼ぶ。
隊長が我に返ると、背後にはいつの間にか魔術師の気配があった。
「申し訳ない。この場で見た事を口外してもらうわけにはいかないのでね、消えてもらおうか。」
そう言うが早いか、隊長の姿は灼熱の炎によって跡形もなく消し去られてしまった。
女剣士は服を身につけコートを羽織ると、再び何処かへと歩き始めた。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。そうやって勝手に歩き回られると、俺が叱られるんだけどな。」
地面に転がった屍も同様に消し去った魔術師は、女剣士の後を追いかけるのだった。