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【09】化け物


 ガブリエラが壊れたあの日から一年が経った。

 あれ以来、ナッシュはあまり自宅に寄りつかなくなった。

 大臣と会食だ、何処其処どこそこの何々伯と会談だとか理由をつけ、壊れたティナやガブリエラの世話をミルフィナやメイド達に丸投げし、何日も帰って来ない事もあった。

 勿論、会食だの会談だのは全部嘘で、大抵は浮気相手のレモラ姫の元で過ごしていた。

 彼女との浮気場所は王城の敷地内の庭園にあるはなれの一室だった。

 ナッシュは救世の英雄であったし、一応レモラ姫専属の武術指導顧問という肩書きを持っていたので王城へは何時でも自由に入る事ができた。

 レモラ姫の父親である国王も、娘とナッシュの関係を以前より知っていたが、見て見ぬ振りを決め込んでいた。

 娘に英雄である勇者ナッシュ・ロウの子供を孕ませたいからだ。

 ナッシュは世界を救った英雄であり、武術の達人で莫大な魔力を持った最強の男である。

 国王は、この強者の血を是非とも王家に取り込みたいと考えていた。そして、いずれはレモラ姫も正式にナッシュの妻にとの目論見を抱いていた。

 あの魔王を倒してすぐに謁見の間でナッシュに与えた特令は『複数・・の妻をめとる権利』である。

 つまりナッシュは、このアッシャー王国では、何人も・・・の妻を娶る事が可能なのだ。

 しかし、それは良いとしても、他の三人の妻達やその子供が生まれたとしたら、アッシャー王家の系譜の中でどういう位置付けになるのか、そして王位継承権がどうなるのか、そういった部分がはっきりしない。

 その為、現在、識者達によってこの問題に関する決めごとが水面下で話し合われており、一段落したら国王直々にナッシュへ話を持ちかける運びとなっていた。

 そんな中で豚頭病が王国中に蔓延する訳だが、王はこんな状態が長く続く訳はないと楽観視していた。彼は女神の選定を迷信だと信じていなかった様に、豚頭病が魔王の呪いであるという噂も信じていなかった。

 その為、配下に腕の良い治療術師を集めさせ、多額の資金を投じて病理学的な観点から事態の解決に当たらせた。

 当然、この試みは、なんら芳しい結果を得られずに終わる。

 そんな事は知る由もないナッシュは、その日も王城を訪れくだんの離れで、レモラ姫との逢瀬を楽しんだ。

 その日も姫と寄り添いながら、愛の言葉を囁いていると、唐突に彼女がぽつりと言葉を漏らす。

「良いのかしら……こんな事をしていて」

 レモラもまだ自分にナッシュの子を産ませようとしている自らの父親の企てを知らなかった。

 ナッシュが姫の額にかかった髪の毛を優しく払いながら微笑む。

「いいって、いいって……何時も言っているけど、キミも俺の大切なハニーだよ、レモラ」

 彼のその言葉で胸の奥が満たされる。

 しかし、それでも彼女の心にくすぶり続ける罪悪感は消える事はなかった。

 初めて関係を持ったのは、ナッシュが三人の仲間との婚姻を認められた夜。舞踏会の会場の庭先の木陰でだった。

 ナッシュが半ば強引にレモラ姫へと迫り、姫は拒み切る事ができず彼の想いを受け入れた。

 ナッシュは姫の押しの弱さを見抜いており、その上で関係を迫ったのであった。更に彼は姫が自分との仲を余所に漏らす事はないだろうとも踏んでいた。

 何故なら、この世界の王族の女の役割はというと、政治の道具である。関係を強化したい者の元へ嫁がせて子を孕み、血筋ごと取り入れる為の装置。

 そんな王族の女が傷物になったなどと知れたら、その価値は大きくさがってしまうからだ。

 事実レモラはナッシュに密かな憧れを抱いていた事もあり、彼との関係を誰にも言わなかった。その後の逢瀬の誘いを断る事もしなかった。

 それをいい事に、ナッシュは妻達の顔を見飽きるたびにレモラの元へ赴き、世界を救った英雄になる前なら近づく事も許されなかった高貴な姫君を堪能した。

 レモラもレモラで、いけない事だとは自覚しながらも、回数を追うごとにナッシュの魅力にはまっていった。

 しかし――

「でも、ナッシュ……あの時だって」

 レモラがすべてを言い終わる前に、ナッシュは彼女の柔らかい唇に人差し指を当てた。

「ううん。あれはキミのせいじゃないよ?」

 レモラの言う『あの時』とは、ガブリエラが豚頭病の赤子を産み落とした日の事だった。

 あの日も彼女はこの場所で、ナッシュと夜通し愛を語らっていた。

 その翌日、ガブリエラが豚頭の赤子を死産したと耳にした彼女は思った。

 これは天罰だと。

 自分が彼を拒んでいれば、こんな事にはならなかったのではないかと気に病んだ。

 この罪悪感だけは、いくらナッシュに優しい言葉をかけられたとしても拭い去れそうになかった。

 暗く沈んだ顔をしていると、ナッシュが明るい声で別な話題を持ち出してくれた。

「そういえば、ロットナー伯爵の令嬢が、ルクレイアの公太子に婚約破棄されたって本当?」

「ええ……」

 先日、ロットナー伯爵の娘ドロテアと、隣国ルクレイアの有力者の息子との婚約が解消された。

 あとは式の日程を調整するのみで、順調に思えていた二人の関係が白紙に戻ったとのニュースは国内外に衝撃を与えた。

「あのドロテアって子、不細工だったからな。流石に相手も寸前になって後込みしたんだろうな……あはははは」

 それが、さも笑い話であるかの様に語るナッシュ。

 しかし、レモラは笑えなかった。

 何故なら婚約破棄の原因は、ルクレイア側が豚頭病を怖れた為だ。現在この奇病は、アッシャー王国でしか見られない。

「どうしたの?」

 ナッシュがきょとんとした表情で聞き返す。

 レモラは何とか唇の端を釣りあげてぎこちなく笑い「何でもない」とだけ答えた。

「やっと笑った。元気でた?」

 そのナッシュの問いに嘘を吐く。

「うん。大丈夫……」

 すると、彼が頬に軽く口づけをしてきた。

「レモラは俺の事、好き?」

「……うん」

 レモラはまた拒めなかった。

 そうして、彼女は思う。

 自分は今、とても幸せだ。

 しかし、今この国で幸せなのは、自分だけの様な気がした。


 事実、彼女が思っている以上に、このアッシャー王国を蝕む闇は、その呪わしき力を大きなものにしていた。




 丁度ナッシュとレモラが眠りに落ちた頃。

 そこは、アッシャー王国の六十三番街の角にあるうらぶれた酒場であった。

「よお、マスター。久し振り」

 そう言いながら、狭い店内に顔を覗かせたのはジョゼール・ミゼット。煉瓦工を営む職人である。熊の様に屈強で怖いもの知らずの大男だ。

 彼は店内に目線をさまよわせると、カウンターに腰をおろした。

「それにしても、閑古鳥が鳴いてるじゃねえか……あ、樽酒。ストレートで」

 注文を受けたマスターは苦笑しながら、グラスに琥珀色の液体を注ぎ入れる。

「……ああ。噂のせいだろうな。この辺りで、あの噂が立ち始めた時から、客が減り始めた。……って、流石に今日は酷いけどな。何時もはあと少し店内は賑わっている」

 ジョゼールは「へっ」と鼻を鳴らしてグラスを受け取った。

「なんだい、その噂ってえのはよ……」

「お前さん化け物の話、聞いた事ねえかい?」

「化け物だぁ……?」

 ジョゼールは怪訝な表情でグラスの中の酒をちびちびと舐め始める。

「ああ。ここら辺で夜になると気持ちの悪い化け物が出るってんで、噂になってるんだよ最近」

「化け物ぉ……田舎ならまだしも、王都なのにかい? マスターは見た事あんの?」

「そりゃ、見た事ないよ」

 マスターが笑う。

「……で、どんな化け物なんだい?」

 ジョゼールの問いに、マスターは両腕を組みあわせながら答える。

「何でもそいつが現れる前は、火刑場で嗅ぐような焦げくさい臭いがするらしいんだ」

「火刑場?」

「ああ。脂の塊を燃やした時にする、あの臭いだよ……」

「はっはっは、わかんねえよ、そんなもん」

 ジョゼールが肩をすくめて笑った。

 マスターはうっすらと口元に微笑みを浮かべる。

「兎も角、その臭いがし始めると、今度は頭の後ろから音が聞こえるんだそうだ」

「音?」

「そう」

 そこで、マスターはカウンターから身を乗り出す。

「ひゅー、ひゅー……って、隙間風が吹き抜ける様な音がだよ。風もないってえのに……」

「なんでぇ、その音は……」

 流石に不気味になって来たのかジョゼールの顔が引きつる。

「……んで、振り向いてみると、いるんだ」

 ジョゼールは、ごくりと喉を鳴らした。

 マスターの顔が、悪戯っぽく歪む。

「酷い顔のおっかねえ化け物がだよ。それがじっと、睨んでいるんだとよ。口から、ひゅー……、ひゅー……って、音を漏らしながら」

「ひっ……」

 ジョゼールの唇からかすれた悲鳴が漏れた。

「……んで、その化け物を見た者は呪われて必ず死んでしまうんだそうだ」

 マスターが話を締めくくると、ジョゼールはグラスの中の樽酒を一気に飲み干す。

「……何なんだよ。結局。その化け物の正体は」

「ああ。それは、蘇った魔王の化身って話だぜ?」

 魔王の化身。

 その言葉を耳にした途端、ジョゼールの顔が引きつる。

「糞が。豚頭病も魔王の呪いだっつーし、何で俺達が……逆恨みじゃねえか」

「ああ。呪いだのなんだのってのは全部、勇者んとこに行けばいいのに。まったく、いいとばっちりだぜ」

 マスターは苦々しい顔で舌を打った。

 しかし、ジョゼールもマスターも忘れていた。

 彼らは、首を吊ったサマラの両親の身体に嬉々として罵声を投げかけ、石を投げつけた事を。

「まったく、けったくそ悪い! マスター、おかわりくれ」

「あいよ!」

 マスターがグラスを受け取った。

「しかし、その化け物を見た奴は必ず死ぬっていうなら、なんで、それが噂になるんだ?」

 ジョゼールのもっともな疑問にマスターが肩をすくめる。

「さあな。その化け物を見た誰かが、呪われて死ぬ前に他の奴に話して聞かせたんじゃないか?」

 その瞬間だった。

 ジョゼールが、くんくんと鼻を鳴らした。

「どうした?」

「マスター、何か焦げ臭え」

「馬鹿言えよ」

 そこで、店内の照明が、ふっ、と消える。

 突然の暗闇。


 ひゅー、ひゅー……。


「おい……何だよ。ちょっと、マスター……冗談だろ?」

「待て。今、明かりを……」

 マスターが手探りで、ランプに火を灯した瞬間だった。

 カウンターに腰をおろしたままのジョゼールの背後に、人影が立っている事に気がついた。

 その人影はうつむいたまま、口からその音を漏らしていた。


 ひゅー、ひゅー……。


「あああ……」

「おい、どうした、マスター?」

 ジョゼールは振り返る。


 ひゅー、ひゅー……。


 俯いていたそれが、ゆっくりと顔をあげた。

 赤黒く腫れた顔。血と泥で汚れた純白のワンピース。

 店内に二人の男の絶叫が轟く。

 すると、それが合図だとでもいう様に、その化け物の全身が激しく燃えあがる。

 再び男達の絶叫。

 炎は有り得ない速度で瞬く間に床を舐めつくし、壁を駆けのぼり、天井を覆い尽くした。




 その日の夜間、王都プルトの六十三番街にある安酒場が火事により全焼した。

 焼け跡からは、その店の主人と近くに住む煉瓦職人の焼死体が発見された。

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