【06】妊娠
ひゅー、ひゅー……。
最初にその音に気が付いたのは、ティナ・オルステリアだった。
「糞……」
ナッシュ・ロウの豪邸。
通称、愛の巣の薄暗い一室で高級な籐椅子に腰をかけ、サイドテーブルの小瓶の中身を一気に飲み干した。
それは、どんな怪我でも病気でも、たちどころに癒やす変わりに高い依存性を持ち、飲み続けると酷い中毒症状を引き起こす魔法の万能薬である。
ティナは現在、かなり深刻なエリクサー中毒に陥っていた。
ひゅー、ひゅー……。
「くっそ! 五月蝿いっつってんのよ!!」
ティナは、その音が聞こえてくる部屋の隅めがけてエリクサーの空き瓶を思い切り投げつけた。
けたたましい音が鳴り響く。
彼女の瞳には薄暗がりの中でぼんやりと佇む人影が見えていた。
その耳障りな音は、人影の半開きになった口から漏れ聞こえて来るのだった。
「どうせ、あんたなんか幻なんだから、わかってるんだから、あたしぃー、へへへへ」
エリクサーのもたらす酩酊感により、弛緩しきった顔でへらへらと笑いながら天井を見上げるティナだった。
そんな様子を、その人影は片隅からじっと見つめ続けている。
ひゅー、ひゅー……と声にならない、その音をもらしながら。
ティナは舌打ちをして、新しいエリクサーの小瓶に手をかけた。
すると、そこへ部屋の扉を叩く者が現れた。
「ティナ様!!」
この愛の巣で雇っている若いメイドのひとりだった。
「なぁによ?!」
ティナは椅子に座ったまま扉にむかって叫び返す。
「今、何か物音が聞こえましたが、お怪我は?」
「何でもないわよっ!! どっか行けよ、馬鹿ぁっ!!」
ヒステリックに怒鳴りつけると扉のむこうから「すみません」と小声が聞こえ、パタパタと走り去って行く音がした。
ティナは再びエリクサーの小瓶を一気に飲み干す。
「くっそぉ……どいつも、こいつも……」
以前よりエリクサーに依存気味だった彼女だが、その摂取量が特に増加し始めたのは結婚式から半年が過ぎた頃からだった。
きっかけは、しばらく自分がナッシュの寝室に呼ばれていないと気がついてしまった事だった。
通常、ナッシュの寝室に呼ばれる相手は、明確なローテーションが決められている訳ではなく、彼の気分次第だった。
なので、同じ人が何日か続く事もあれば、すぐに自分の番が回ってくる事もある。
しかし、思い起こせば明らかに自分の順番が、一週間から十日も空く事が頻繁にあった。これは以前では考えられない事だった。
更にこの前、ティナは偶然にも見てしまった。
中庭の薔薇園の影で、ナッシュと手を取り合い見詰め合うメイドの姿を。
勿論、ティナも馬鹿ではないので理解していた。
ナッシュが自分達三人のみならず、この館で雇っているメイド達全員やレモラ姫と浮気を重ねている事を……。
しかし、ナッシュが自分を差し置いて、メイド如きにかまけている現実を目の当たりにし、ティナは大きな衝撃を受けたものだった。
それでも、彼女が強気な態度でナッシュの行いを非難しないのは、今のこの生活を捨てたくないからである。
世界を救った勇者の妻という立場。
住み心地の良い豪邸と、湯水の様に使ってもなくならない莫大な財産。
しかし、ひと度ナッシュに不満を漏らせば、それが例え正当なものであっても、この楽園を追い出されてしまうのは自分の方だろう。ティナにはそれが良くわかっていた。
きっと、ミルフィナもガブリエラも自分の味方にはなってくれない。これ幸いにとライバルである自分を蹴落としにかかるだろう。メイド達も同じだ。全員ナッシュの味方をするに違いない。
そもそもナッシュ・ロウは、あの魔王を討ち果たした猛者である。
彼の持つ力は計り知れなく、この世の誰も逆らう事はできない。
それは幾千の魔法を操る事のできる魔導師ティナといえども例外ではないのだ。
「糞……糞……何で、何で、アタシばっかり……」
ナッシュが自分を愛してくれているうちは良かった。
まるで世界の頂点にいる様な気分だった。
「ちっ……」
舌を打って窓の外を見る。
蒼く細い月が黒々とした雲間に浮かんでいる。まるで自分を嘲り笑っている様だと、彼女は苛立つ。
今日は二日連続でミルフィナの番だった。
その前は三日連続でガブリエラ。
その前は、ミルフィナ、ガブリエラが二日ずつ。
その前がティナの番であったが、その時の彼に当初の優しさや熱はまったく感じられなかった。
不意に、もう自分はナッシュに愛されていないのではという疑念が湧き起こる。
「嫌だ。嫌だよ……ナッシュ、ナッシュ……アタシを愛して、アタシを捨てにゃいで」
椅子の上で膝を抱えてむせび泣く。
このまま、もしも彼に捨てられてしまったら、あの女と同じになってしまう。
大嫌いで、心の底から見下して、ゴミの様に井戸に投げ捨てた、あの女と。
惨めで、どうしようもなく哀れな存在に堕ちてしまう。
「嫌だ……嫌だ……助けて、たしゅけて……うわぁあああん」
彼女がテーブルの上の三本目のエリクサーに手をつけようとした、その瞬間だった。
ふふふっ……あははははは。
部屋の片隅の影が笑った。
「五月蝿い! うるしゃいっ! 黙れえぇいぃっ!!!」
その影は何時の間にか現れる様になり、惨めな彼女を馬鹿にしだした。そのせいで、更にエリクサーの量が増えてゆく……。
鬼の形相で、掴んだばかりのエリクサーの瓶を投げつける。
テーブルの上に転がっていた魔法のワンドを握り、破壊の呪文を詠唱しようとした。
しかし――
「てて、天なるい怒りよ……やや闇をもたらしゅす盲目なる……ちちちから? 天使? かみ……のみわにゃ?」
呪文が咄嗟に出てこない。呂律も回らない。
魔法のワンドを持った右手も、まるで極寒の中にでもいる様に震えている。
「……ああああああああああああ、畜生!!!」
結局、ティナは呪文を唱える事を諦めて、ワンドを床に叩きつけた。
そうして、新たなエリクサーの瓶に手を伸ばし、一気に飲み干した。
すると再び部屋の扉を叩く者がいる。
「ティナ様! ティナ様! どうなされました? ティナ様!」
さっきとは違うメイドだった。
どうせこのメイドも私の味方にはなってくれない。
そう思った瞬間、ティナはエリクサーの空き瓶を扉にむかって投げつけていた。
「五月蝿い! 五月蝿い! 五月蝿ぁあああああああああい!!! 何でもないから消えろ!!! あっち行け馬鹿ぁああああ!!!」
怒鳴り散らし、ぐったりとうなだれる。
「……どうして、こんな事になっちゃったんだろう……」
しかし、愚かな彼女には、いくら考えても、その答えを見つけ出す事はできなかった。
ティナは夢を見ていた。
目の前にいるのは、出会ったばかりの頃の優しかった勇者ナッシュ・ロウだ。
そこは、アッシャー王国から西の海を越えた山中にそびえる賢者の塔と呼ばれる白亜の巨大な建造物だった。
賢者の塔には魔法を極めんとする者達が大勢暮らし、日夜知識の探求と魔法の腕前を競い合っていた。
ティナもそんな多くいる魔導師のひとりに過ぎず、当初は真面目に勉学に励んでいた。
しかし、この頃の彼女は、どうにも伸び悩んでいた。自分より才能のないと思っていた者達が次々と魔導師としての位をあげてゆく。しかし、自分はどうにも上手くいかない。
幼い頃から魔法の才能があると周囲に持てはやされてきたティナにとって、それは初めての挫折だった。
そんな時、勇者ナッシュ・ロウが賢者の塔に訪れた。何でも魔王クシャナガンの秘密が眠る遺跡を探しており、賢者の塔にはそのヒントを求めに来たのだという。
ナッシュは優秀な魔導師のガイドをひとり雇いたいと願い出た。
そのナッシュの姿を初めて目にした時、なんて綺麗な人なんだろうとティナは思った。まるで神話の中の天使の様だと。彼女はひと目でその美貌に心奪われた。
それは他の住人も同じで彼の姿をひと目見んと、賢者の塔の一階ホールには瞬く間に人だかりができたのだった。
そしてナッシュが来訪の理由を告げると、即座に何人かの腕に自信のある魔導師が彼に同行したいと申し出た。
その中にはティナより知識も深く、何倍も魔法が上手い者もいた。
彼女は人だかりの中から遠巻きに勇者を眺め、自分には関係のない話だと、そう思っていた。
しかし、ナッシュが同行者として選んだのは、どういう訳かティナであった。
ナッシュが人だかりを割って眼前に立ち、自分の右手を取った時、あまりの事に心臓がとまりかけた。
理由を訊いてみると、ナッシュは眩い白い歯を見せながら答えた。
「君には、誰よりも才能があるから。俺にはわかるのさ」
この時、ティナは思った。
……ああ。彼は誰よりも、本当の自分を見てくれている。
その瞬間、ティナ・オルステリアは、勇者ナッシュ・ロウに深く恋をしたのだった。
勇者と一緒にいた影の薄い貧相な田舎娘の存在は気になったが、こんなみすぼらしい女に自分が負けるはずはないと強気に思えた。
かくしてティナは出会ったその日、ナッシュと関係を結び、ガイドの役割が終わった後も賢者の塔には戻らなかった。
それから、しばらくの間は満たされていた。
なにせ、大好きなナッシュの、世界で唯一の恋人でいる事ができたのだから。
その幸せは、女戦士ガブリエラ・ナイツがパーティに加わるまで続いた。
目覚めると月夜を映し出していた窓から朝日が差し込んでいた。
どうやら自分は、籐椅子に座ったまま寝ていたらしいと気がつき、その身を起こした。
背伸びをして起きあがる。身体の節々が痛い。しかし、それに反して何故か清々しい気分だった。記憶にはなかったが、きっと良い夢を見たのだろうとティナは思った。
すると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「なあに?」
自然と優しい声が出た。機嫌が良いのが自分でもよくわかる。
「……朝食の準備が整いました」
メイドの声だった。
「今行くわ」
そう答えて、鏡の前に立つ。
酷い顔をしていた。不健康に痩せこけて、目の下の隈も酷い。まるで、あの田舎娘の様に陰気だった。
ティナは深呼吸をして、ぱんぱんと頬を叩く。
「こんなんじゃ駄目。しっかりするのよ! ティナ・オルステリア」
もう一度。
もう一度だけやり直そう。
やり直して、ナッシュの一番を目指そう。
そうして、またあの時みたいに、幸せになろう。
まずはナッシュの寝室に呼ばれる事が目標だ。
ティナは決意を新たに、念入りな化粧で身支度を整え、ナッシュが好きだと言ってくれた香水を振り、朝食には少々似つかわしくないドレスを羽織って、気合い充分で食堂へと向かった。
すると、食堂の長いテーブルには既に豪華な朝食が並び、ナッシュ、ミルフィナ、ガブリエラの三人が席に着いていた。
「遅い!」
ミルフィナが唇を尖らせて、抗議の声をあげたがそれを無視してナッシュに謝罪する。
「ごめんなさい。ナッシュ」
「いや構わない。それじゃあ、食べようか」
ナッシュがフォークを持ちあげた瞬間だった。
「待って!」
ガブリエラだった。
ティナの心臓の鼓動が、なぜか跳ねあがった。嫌な予感が脳裏に過ぎる。
ガブリエラが立ちあがる。
「……みんな、揃ったところで発表したい事があるんだ」
ナッシュはミルフィナと顔を見合わせてから、ガブリエラに問う。
「なんだい?」
するとガブリエラはひとつ頷いて、自らのお腹を愛おしげになでながら言った。
「私、赤ちゃんができちゃったみたい」
瞬時に込みあげる敗北感と嫉妬。
ティナの中で何かが音を立てて壊れた。