【02】邂逅
城館の謁見室にて、初めてその少女を目にしたウィヌシュカ・バエルは思わず息を飲んだ。
野原にひっそりと咲く純白の鈴蘭のようだ。それがサマラに抱いた第一印象であった。
そしてバエル公が「そなたが“清らかなる聖女”か?」と尋ねると、彼女は顔をあげて、櫟の実のように赤く頬を染めながら「はい」と恥ずかしげに頷くのだった。
その金糸雀の囀りのごとき声音を耳にしたバエル公は、玉座から降りて、跪く彼女の頬に触れたいという強い欲求に抗わなければならなかった。
どんな火酒よりも熱く、いかなる果実よりも甘く、突風のように激しい感情が胸の内でうねり出す。三年前に病死したカトリーヌにすら、こんな激情を抱いた事はなかった。
バエル公は大きく戸惑い言葉を失ってしまう。すると、サマラの隣で跪いていた人物が少し苛立った様子で声をあげた。
「……で、公爵様、けっきょく、こちらの頼みは聞いてくれんの? 駄目なの?」
その人物は鎖帷子に騎士の籠手、腰に長剣を提げた若者であった。
後に魔王を打ち倒し世界の英雄となる勇者ナッシュ・ロウである。この頃の彼は旅に出て間もなく、“全能の魔女”ティナ・オルステリアや“血被り姫”ガブリエラ・ナイツ、“星落しの射手”ミルフィナ・ホークウィンドとは出会っていなかった。
ともあれ、バエル公は、このときサマラに見惚れるあまり、上の空で彼の話を一切聞いていなかった。不遜な表情を浮かべながら玉座を見上げるナッシュに対して聞き返す事にした。
「して、願いとは? すまぬ。もう一度、頼む」
「オイオイオイオイ、その歳で耄碌してるんじゃあねえぞ?」
ナッシュが立ち上がり、肩を竦めて呆れ顔を浮かべる。謁見を見守っていた衛兵たちから「無礼者!」などと声をあげ、ナッシュとサマラの周りを取り囲む。室内はにわかに騒然としだした。
バエル公は「よい。静まれ」と一喝すると、再びナッシュに語り掛ける。
「すまぬな。昨晩は寝つきが悪く、少しぼんやりとしておった。申し訳ないが、もう一度、お願いしたい。勇者殿」
ナッシュは「ちっ」と、大きく舌打ちをすると衛兵たちを睨みつけ、自らの願いを繰り返し口にした。
「船だよ。船。アンタ、シュトロムに船持ってるんだろ? それ、俺たちに貸してくれよ」
シュトロムとは、アッシャー王国の南の玄関口となっている港町である。
「……俺らは、魔王を倒す手掛かりを得るために、世界中に散らばった七つの宝玉を集めなければならねーんだけど……おい」
と、ナッシュはサマラの方へ視線を送る。すると彼女は「うん」と返事をして、ナップザックの中から林檎の実程度の黄色い宝玉を取り出した。七つの宝玉のうちの一つである。
「これは、この近くの遺跡で見っけたんだけど、他の六個の場所がさっぱり解らねえ。だから、まずは海を渡って“賢者の搭”を目指そうと思う。そこで暮らす物知り魔導師どもに、宝玉の有りかを教えて貰おうっつーワケよ。そのためには船が必要だ。世界を救うために、俺らに協力して欲しい」
ナッシュがそう言い終わると、サマラが勢い良く立ち上がり「お願いします!」と頭を下げた。その瞬間、彼女の頭に乗っていた司祭冠が床に落ちる。
サマラは慌てて司祭冠を拾って被り直した。その仕草も愛らしく、思わず口元が弛んでしまいそうになる。
バエル公はすっかり伸びた鼻の下を手で覆いながら眉間にしわを寄せる。
「そうだな。もちろん世界を救うためには協力は惜しまん。しかし、お主が本当に“女神の選定”を受けた本物の勇者だったらの話だ」
「あ? 疑ってんの?」
この頃のナッシュは、まだ多くの人々に勇者としての能力や資質について疑問を抱かれていた。一方のサマラの方は、すでに法王庁の認定を受けている事もあり、その知名度や信頼はナッシュとは比べ物にならなかったのだが。
「もしも、そなたが本物の勇者であるというならば、昨今、ガダス大湿原の城壁付近で度々目撃される多頭蛇を打ち倒してみせよ」
その怪物は、沼地に生息する通常の多頭蛇よりも一回り大きい上に頭の数も倍あった。つい先日も城壁の警護についていた兵士が二十名ほど犠牲になったばかりである。
何とか追い払う事はできたが、いつ城壁を突破されてもおかしくはないとされ、このときのバエル公がもっとも頭を悩ませていた問題であった。
しかし、ナッシュ・ロウは不敵な笑みを浮かべて、それがさも簡単な事であるかのように鼻を鳴らす。
「ああ。そのクソデカ蛇をぶっ殺せばいいのか? いいぜ別に」
そんな彼の態度をバエル公は若輩者の勘違いだとして嘲る。
「そなたは、あの化け物をこの目で見た事がないから、そう言えるのだ」
「でも、そうしないと船を貸して貰えないんだろ?」
「いや……」
そこでバエル公は首を振り、サマラに視線を移した。
「もしも無理だと言うなら“清らかなる聖女”を我が領内に置いていってもらおう。それで船と引き換えだ」
「わ、私!?」
サマラは戸惑う。そしてナッシュは険しい目つきでバエル公を睨みつけた。
「てめぇ、この色惚けが」
「何か無礼な勘違いをしているようだが、私が欲しているのは、聖女殿の力と名声だ」
半分は本当だった。その言葉に対してナッシュは不機嫌そうに、サマラの肩を抱きよせる。
「うるせぇ。こいつは俺の女だ」
「ちょっと、ナッシュ!」
サマラが彼の言葉に対して、恥ずかしげに抗議の声をあげる。そこで、バエル公は込み上げる嫉妬心を抑えながら、冷静さを取りつくろい話をまとめに掛かった。
「兎も角、今日はもう遅い。部屋を用意させるので、泊まって行くが良い」
こうして、ナッシュは客間を、サマラにはあえて女給が使っていた空き部屋をあてがう。その部屋の浴室の壁裏には戯れで作らせた秘密部屋があった。
当然ながらバエル公は理解していた。普通の村娘ならば、無理やり手ごめにする事も出来たであろう。しかし、サマラは法王庁に認定された聖女なのだ。手を出そうものなら、いかに英雄バエル公といえども失脚は免れない。
そういった訳で、バエル公は秘密部屋の壁穴の向こうに実る禁断の果物を前に、込み上げる激情を自らで鎮める事しかできなかったのである。




