【05】聖女生誕
サマラの父親であるエデルは、冒険者を夢見るおとなしい少年だった。
しかし、ある程度の年齢になると、その才能が自分にはないと悟り、王都プルトで死んだ両親が経営していた花屋を継ぐ。
しかし魔王の猛威による景気の悪化に伴い、商売が上手く行かなくなった。二十二歳で店を畳む事となる。
その後は遠縁を頼りに、王都プルトからほど近いマグダラ村で麦畑を耕し、第二の人生を送ろうとした。
閉鎖的なマグダラ村の住人達は、ずっと余所の地で暮らしていたエデルに対して冷たかったが、ただひとりだけ例外がいた。
それが当時、二十七になったばかりのソフィアである。
彼女は、さして器量が良い訳ではなく、要領も悪かったので、女性の結婚適齢期が十五歳くらい――遅くとも十代というこの世界において、大きく行き遅れていた。
因みにソフィアと同年代の全ての村の女達は、あます事なく結婚しており、全員が母親となっている。
更にソフィアは村からまったく出た事のない田舎娘――もう既に『娘』と呼べる年齢ではなかったが――であった。
したがって、村の外からやって来た独身男性に彼女が興味を抱くのは、ごくごく自然な感情だった。
エデルの方も、余所者の自分に優しく接してくれるソフィアに対して悪感情を抱くはずもなく、二人は村人達に冷笑されながらも、ゆっくりとその愛を育んでいったのだった。
そうして三年の月日が経ち、エデルもどうにか村に馴染んで来たと言える様になった頃、二人は結婚した。
村人達は表面上は祝福してはいたが、内心では余所者の馬の骨と行き遅れの未貫通がくっついたと陰口を叩いて嘲笑った。
それでもエデルとソフィアは幸せだった。
そういった陰口が耳に入る事もあったが、二人は大して気にする事もなく、ようやく訪れた人生の春を共に謳歌した。
それから更に一年後。ソフィアが子を孕む。
それが、のちに清らかなる聖女と呼ばれるサマラであった。
サマラが不思議な力を発揮し始めたのは五歳の頃だった。
その日、村の子供が大怪我をした。
村はずれの河原でふざけて取っ組み合いをしていたところ、地面から突き出た岩に頭を打ちつけてしまったらしい。
おびただしい血を流し、白眼を向いて痙攣する子供は、誰がどう考えても危険な状態であった。
一緒に取っ組み合いをしていた子は村のガキ大将で、普段は威勢の良い男児であった。しかし、この時ばかりは顔を真っ青にして凍りつき、泣いていた。
他の子供達は叫び声をあげながら、大慌てで大人を呼びに行った。
もっとも、この村には治療術院はなく、大怪我を癒やすには隣の村まで行かなくてはならない。よって、村の大人達を呼んでも無駄だし、今から隣村まで行っても、手遅れであろう事は火を見るより明らかだった。
そんな状況下、少し離れた木陰で一部始終を見ていたサマラがおもむろに、倒れた子供の元へとやって来た。
引っ込み思案なサマラには友達がおらず、何時もこの河原でぼんやりとせせらぎに耳を傾けながら、ひとりで物思いに耽っていた。
この日も、何時もの様に木陰で膝を抱えながら河の流れを見詰めていると、そこへガキ大将達がやって来て、取っ組み合いをし始めたという訳だった。
サマラは凍りついたままのガキ大将を後目に、倒れた子供の傍らに屈んだ。
そこでようやくガキ大将が我に帰り、かすれた声で問いかける。
「なんだ、お前」
しかし、サマラは何も言わず、右手を倒れた子供の頭に向かってかざした。
すると、突然、眩い光が辺りを包み込む。
「うわっ!」
ガキ大将は、思わず眩しさに思わず目を瞑る。
静寂。
ガキ大将は恐る恐る目を開いた。すると――
「……あれ? 俺なんで、寝てるの?」
倒れていた子供が怪訝な表情で目をキョロキョロと動かし、上半身を起こしたではないか。
「お……お前、大丈夫なのかよ?」
ガキ大将の問いに首を傾げる倒れた子供。
「いや、何が? ……ていうか、みんなは?」
そうして辺りを見渡す。
その彼の頭の傷は、跡形もなく消え失せていた。
初めは子供達の言う事を信じる大人は誰もいなかった。
大人をかついでいるのだろう。もしくは夢でも見ていたのだろう。ひょっとして野山に住む妖精に化かされたのかもしれない。
大人達の見解は、概ねそんなところだった。
なぜなら治癒魔法を使って傷を治すにしても、呪文を唱えなくてはならない。それだけではなく、そもそも魔法は、それ相応の資質と決して簡単ではない鍛錬を行い、ようやく使えるものである。
ただ、何の素養もない五歳の女児が手をかざしただけで傷を治したなど、魔法が存在するこの世界においても有り得ない事だった。
したがって、この件に関わった子供達以外では、誰も彼女を信じる者はおらず、それはサマラの両親――エデルとソフィアにしても同じ事だった。
しかし、それからしばらく経って、村の近くの峠で魔物に食いちぎられた村人の腕を、サマラが完全に元通りにしたのを見て、彼女の力は村中の大人も信じる様になった。
そして、この一件は瞬く間に噂となった。
サマラは十歳になった。
この頃になると、マグダラ村のみならず、アッシャー王国中からサマラの噂を聞いた病人や怪我人が沢山やって来る様になっていた。
彼女の家には連日行列ができて、遠方から来る旅人を狙って宿屋を始める者まで村に現れる始末であった。
村は自然と富み、鼻つまみ者であったエデルとソフィアも、サマラの親として村人達からいち目置かれる存在となっていた。
そして、サマラはといえば、ずっと朝から晩まで怪我人や病人達の相手をする様になった。それも無償でだ。
治療費は請求しないというのは、両親のエデルとソフィアの意向であった。
信心深かったエデルとソフィアの二人は、サマラの能力を天からの贈り物だと思っていた。
したがって、我が子であるサマラが人助けをするのは、天から定められた使命であり、それで私服を肥やすなど不信心に当たると考えた。
サマラも元々の博愛主義的な性格や、幼かった事もあって、無報酬である事に特に疑問は挟まなかった。何より彼女は人の役に立てる事が幸せだったのだ。
これまで、口べたで上手く他人と関わりを持つ事ができなかった自分に対して大勢の人々が感謝をしてくれる。それだけで、サマラには充分な報酬であった。
しかし、それでも、次第に患者達はお礼の品をサマラの家に、勝手に置いて行くようになっていった。
現金や食べ物は勿論、ある時など玄関前に牛が繋がれていた事もあった。
こうした、断り切れなかったお礼の品に関してサマラの両親は、村人達にお裾分けしたりして、できるだけ自分達の手元に残らない様にしていた。
これには狭い村社会で、下手なやっかみを買いたくないという意図も当然あった。だが、基本的にエデルとソフィアは善良であり、単に周囲の村人達に喜んでもらえるのが嬉しかったのだ。
そして、この事をきっかけに、二人は、ようやく村の一員となれた様な気がして幸せだった。
村人達も、最初は二人の施しに対して純粋に感謝していた。
ある時、法皇庁より奇跡認定官なる者達がやって来た。
その者達から、サマラは自分の力が清らかなる乙女のみに許された特別な力であると教えられる。純潔を失った途端その力がついえる事も。
これを境にサマラは、その名声をますます高める事となった。
振り返るなら、両親二人とサマラが最も平穏な暮らしをしていたのは、この頃であっただろう。
しかし、一方で彼女達一家の幸福や名声をやっかむ者達が、少しずつ現れ始めたのもこの頃からだった。
……曰わく、上から目線で物を施す態度が気に食わない。
……曰わく、たまたま子供の出来が良かっただけで、あいつらは調子に乗っている。
もちろん、単なる言いがかりであった。
後にサマラが稀代の毒婦の汚名を着せられ、彼女の両親が村から排斥された裏には、そうした悪感情が深く関わっていた事はいうまでもないだろう。
そうして、サマラは十六歳になった。
この年、彼女は勇者ナッシュ・ロウと運命的な出会いを果たす事となる。
これが、すべての間違いの元だった。
それは、アッシャー王国より東の果てにある霊峰だった。
その頂にある聖竜の神殿とよばれる建物の大広間の最奥。
そこには巨大な台座があり、一匹の竜がうずくまっていた。
白い鱗。そそり立つ角と、天使の羽毛に覆われた六対の翼。堅く閉ざされた双眸。
この竜こそが、ナッシュ達を魔王クシャナガンの待ち受ける空中庭園へと運んだ神竜である。
因みに、神竜は性別は牝である。
人間の少女の姿に化ける事ができて、その姿の時に何度かナッシュと愛を語らった経験があった。この事は、ティナ、ガブリエラ、ミルフィナは知らない。
それは兎も角として、神竜は魔王が倒されてすぐに、この神聖なる神殿の大広間で眠りについたままとなっていた。
その神竜を台座の下から不安げな眼差しで見つめるのは、この神殿に住まう竜司祭達であった。
彼らにも神竜が眠りについた原因はよくわからなかった。ただ毎日、眠りながら衰弱してゆく彼女を見守る事しかできなかった。
しかし、その日、何の前触れもなく神竜の眼が大きく見開かれる。
竜司祭達がどよめく。
神竜は長い首をもたげ嘶いた。
その途端、大地が激しく揺れ動く。大広間の床に大きな亀裂が走る。
石柱が倒れて天井が崩落し始める。
竜司祭達は、右往左往しながら神殿の外へ逃げようとする。何人かが瓦礫の下敷きとなり、あえなく命を落とした。
揺れはやがて、何事もなかった様に収まり、再び静寂が辺りを満たす。
すると神竜は天井が半分崩れ落ち、誰もいなくなった大広間の一点を見つめながら、得心した様子で頷く。
「……ああ。……そういう事だったのですね?」
その問いかけに答える様に、
ひゅー、ひゅー……。
と、隙間風が吹き抜ける様な音が、どこからともなく聞こえてきた。
神竜は目を細めて再び頷く。彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
神竜が眠りについていた原因。
それは、世にも恐ろしい闇の力の存在であった。
その闇は深く強大で、遥か北方のアンルーヘなる土地の深淵から、ナッシュ達の周囲へと徐々に集まりつつあった。
それを、どうにか己の命を削りながら聖なる力で抑え続けていたのが、この神竜である。
彼女の力がなければ、ナッシュ・ロウの破滅はもう少し早まっていた事であろう。
しかし、神竜はその闇の正体をついに知ってしまった。
「すみません。ナッシュ……私はもう、あなたの力には、なりません」
その言葉を最後に、神竜は力尽きて息絶えた。
こうして、絶望と恐怖に彩られた残酷劇の幕がようやくあがる。