【24】私
「……と、いう訳だが」
その声で、まぶたを開いた。
すると目の前にある白いガーデンテーブルの向こうで、ひとりの少女が私を見つめていた。
金髪の巻き毛でつばの広い帽子を被り、レースとフリルで彩られたドレスを着ている。
そして、私の左隣では三十半ばくらいの貴婦人が、テーブルに突っ伏して血を吐いて死んでいた。顔立ちや格好は目の前の少女とよく似ている。
目の前の少女は現時点での、この世界の管理者たる女神で、死んでいる貴婦人の方が、前任の女神にあたる。
少女がまったくの無表情のまま、私に向かって問うた。
「満足はいったのか?」
私はその質問に、晴れ晴れとした気分で答える。
「はい!」
思わず満面の笑みがこぼれた。
ここには何もない。
足元と頭上を覆う白い雲が、彼方に渦巻く星空へと続いている。
その白い雲の上にガーデンテーブルがあり、それを挟んで私と女神は向かい合って座っている。
テーブルには、湯気の立ったティーカップとポット。そして、球体になった世界地図――私が生きていた世界の物らしい――が、おいてある。
女神は湯気を立ちのぼらせたティーカップに口をつけてから淡々と言う。
「あの勇者以外の魂は、再び輪廻の円環に帰り、すべての記憶を忘れて生まれ変わる」
「ええ」
「勇者の魂は、必ずお前が言った通りにしよう」
「はい」
私もティーカップに口をつけた。ミントの香りが口の中に広がる。
「……しかし、お主の魂はもう、輪廻転生する事はできぬ。それほどに魂が汚れてしまった」
「ええ」
それは、覚悟していた事だったので今更だった。その輪廻転生と引き換えに、私は復讐する権利と力を得たのだから。
「そこで今後、お主には、二つの選択肢がある」
女神が指を右手の中指と人差し指を立てる。
「ひとつ目は、このまま消える。しかし、これは文字通りの意味での完全なる消滅だ。お主の魂は、輪廻転生する事もなく、現世にとどまる事もなく、どこにも存在しなくなる」
私は頷く。すると女神が中指を折り曲げた。
「ふたつ目は、このまま現世にとどまり続ける。強大な呪詛そのものとなったお主は、祟り神として世界に害をなし続けるであろう。……ただ、この選択肢を選んだ場合、私はお主を倒す為の勇者を選定しなければならない。それがルールだ」
「それも、楽しいかもしれませんね」
今度は私が世界を闇に包まんとする存在となり、勇者と雌雄を決するのだ。
そのとき、私を倒しに来るが彼の様な勇者ではなく、正しく強い心を持った真の勇者であるならば最高だ。
勇者とその仲間達が、今度こそ胸躍る様な大冒険の果てに邪悪な私を倒し、ハッピーエンドを迎える。
それは、とても素敵な想像だった。
しかし……。
「女神様。どちらを選ぶかは、考えるまでもありません」
「ほう」
「私は、消滅を選びます」
女神が驚いた顔をする。それが何だか不思議で、ほんの少しだけ嬉しかった。
「……何ゆえに、消滅を選ぶ?」
「これだけの事をしたのです。私はもう、この世界に存在する資格はないでしょう。例えそれが世界の敵としてであっても」
それにもう、どうせ記憶が消えるならば、転生したとしても同じだろう。
ならば、ここで消えるのが、良い頃合いだ。
「しかし、こうなった原因は、元はといえば此方の不手際」
そうなのだ。
実は本来、勇者として選ばれるはずだったのは彼ではなかったらしい。
しかし、前任の女神の不手際により、彼が勇者として選ばれてしまった。
前任の女神は、その失敗の責任を取らされて毒の入ったお茶を飲んだ。
因みに目の前の少女も、突っ伏したまま動かない貴婦人も、この空間も、人間の意識を持つ私が知覚できる様に可視化された光景である。
前任の女神が毒入りのお茶を飲まされた様に見えるのも、当然ながら単なる比喩表現でしかない。
「お主の様な霊格の高い魂を、このまま消滅させてしまうのは、此方としても忍びない。例え世界の敵としてであっても、存在して欲しい」
私は女神の言葉に首を横に振りながら、内心でぞっとする。やはり、この女神という存在は人間の事など、どうでも良いのだと。
そもそも、私が殺された事自体は、彼女達にとって問題ではないらしい。
勇者とは世界の敵を倒す為だけの道具であり、機能なのだそうだ。
その勇者が例え人類を滅ぼしてしまおうが世界の敵を排除できれば、それで構わないらしい。
しかし今回、勇者として選定された彼は世界の敵である魔王を倒したものの、本来は選ばれざる者だった。
前任の女神が処罰された理由は、手違いで勇者にならざる者を選んでしまった。それだけだった。
そして、この後任の少女は、やけに私に対して協力的に感じるが、これも恐らくは何らかのルールに乗っ取った流れなのだろう。別に私の境遇に同情して、肩入れしてくれている訳ではない。
恐らくそれは人間にはおよびもつかない領域の決まり事なのだ。
「……思う存分、好き勝手にやらせてもらいました。もう未練はありません」
「そうか……ならば、何も言うまい」
女神が再びお茶をすする。
私もお茶を味わう。
たったの十数年間の短かった人生を振り返りながら。
なるべく、楽しかった瞬間を思い出しながら。
しかし思い出すのは、死んでからの事ばかりだった。
最初は、あの四人だけが復讐の標的だった。
殺すつもりすらなかった。
魔王が倒されるのを待って――私は、その為に旅をしていたのだから――そのあとで謝ってもらえれば良かった。本当に自分の罪を認めてもらえれば、満足だったのだ。
しかし、それがすべての間違いの元だった。私がグズグズしている間に、お父さんとお母さんが死んでしまった。
助けようとしてもできなかった。私の気配を敏感に感じとっていた神竜により、力を封じられてしまったからだ。この頃の私は、それほど強い力を持っていなかった。すべてを憎みきれていなかったから。
しかし私は、ここまで来てもなお、愚かにも必死に思い込もうとしていた。これは、自分の罪だ。自らの甘さが両親を殺してしまったのだと……。
だけど、やっぱり無理だった。
何故なら、私や両親を罵倒する人々の顔が、世界が平和になった事を喜ぶ時よりも、とても楽しそうで、幸せそうに見えたからだ。
確かに私を庇ってくれる人もいた。私が以前に術を施し救った者達だ。
しかし、両親やそういった人々を嬉々として虐げる者達の中にも、かつて私が救った者達がいた。
やがて、すぐに私を信じてくれていた人々も、口々に私や両親を罵り始めた。私達を忘れたかの様に振る舞い始めた。
別に見返りが欲しかった訳ではない。
だから、信じてくれなくても構わない。悲しんでくれなくても構わない。
きっと、表には出さなくとも、私を信じてくれていた人はいたかもしれない。
頭ではそれを理解していたけれど、もう、私は良くわからなくなった。
死んでまで何を我慢しているのだろうかと……。
誰の為に何を耐えているのだろうと……。
この時から私の中のすべてが裏返った。
新任の女神に向かって宣言する。
とてつもなく残酷な気持ちで。弁明の余地もない邪悪さで。
「私はすべてを呪いたい」
女神は無表情のまま頷いた。どうやら特別な魂を持ち、強い怨みを秘めた私には、それだけの力があったらしい。
最初はすべての人類が死に絶えるまで呪い続けるつもりだった。
だから、あの男が死んだあとも、私は世界を呪い続けた。
その呪詛は世界を蝕み続け、既に破滅は目前だった。
もう充分だろう。
誰にも止める事はできない。
だから私は消えるのだ。
永遠に……。
結局、思い出せたのは、あの男や、彼女達、その他の人々の苦しむ顔だけだ。
記憶の中にそれらの顔が、まるで満開の桜みたいに咲き誇って、血飛沫と悲鳴の花吹雪を散らしていた。
私は、それをとても綺麗だと感じている。
その事から、自分は怪物になってしまったと深く自覚した。
やがて、ティーカップを空にすると、女神に向かって、何の気負いもてらいもなく言った。
「では、そろそろ、参ります」
「そうか。最後に言い残す事は?」
女神のその質問に少しだけ考える。そして、思いつく。
「……では、ひとつだけお願いがあります。図々しいかもしれませんが」
「言ってみよ」
「もしも、叶うなら、私のお父さんとお母さんの次の人生は、ほんの少しだけでいいので、幸せなものにしてあげてください」
女神は人形の様な無表情で頷く。
「わかった。お主の願い叶えてしんぜよう」
「ありがたき幸せ」
私の願いが、私の望む通りに叶えられるかは少し疑わしいと思った。
人間の都合など意に介さない女神が、人間にとっての幸せな人生を理解しているのか怪しいと感じたからだ。
もっとも、私が消えたあとの話だ。気に病んでも仕方がない。
「……では、そろそろお願いします。女神様」
私がそう言うと、女神は淡々と、変わらぬ様子で、その言葉を口にする。
「さよなら」
次の瞬間、私は消えた。
彼女が消滅したあと、女神はテーブルの上で、けだるげに頬杖を突く。
「……やはり、この文明は、このまま滅ぼして最初からやり直すか」
そう言って、世界の球体模型をがらりと回した。
「……次はもっと、マシな世界になりますように」