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【23】闇


 ナッシュ・ロウは暗闇くらやみの中で目を覚ました。

 その瞬間、口と鼻に汚い泥水が入り込み、溺れかけてしまう。

 手足をばたつかせ、水飛沫をあげながら慌てる。

 しかし、すぐに、さしたる深さがない事に気がついて立ちあがる。

「痛え……糞っ」

 額から血を流していた。右足首がじんじんと痛みを放ち、左肩が明らかに外れていた。

 ナッシュは苦痛に顔を歪めながら、頭上の丸く切り取られた空を見上げる。

 井戸の入り口は、もうもうと立ち込める煙に覆われていた。

「おい。終わったのか!?」

 ナッシュは地上にいるはずのフォックスとダナに語りかける。愚かな彼は、まだ自分が生贄にされた事に気がついていなかった。

 そして当然、返事はない。フォックスとダナは、呪いの業火に焼かれてしまったからだ。

「おい! 俺は助かったのか?! 聞こえているなら返事をしてくれっ!!」

 ナッシュは更に声を張りあげた。

 すると、その臭いが彼の鼻先を漂う。

 それは、大量の脂の塊が燃える香りだった。

「……何だ? 何なんだよ?!」

 ナッシュは、すんすんと鼻を鳴らす。

 すると、今度は耳のすぐ後ろから音が聞こえた。


 ……ひゅー、ひゅー。


 何かが後ろからナッシュをそっと抱き締める。

 その腕は井戸の底に溜まった汚水まみれの真っ黒な細い腕だった。

 誰かがうなじの後ろで、鼻を鳴らした。

 ナッシュは凍りついたまま、震える唇を開く。

「……サマラ、か?」

 黒い腕が彼の腋からするりと抜けて、背後に消えた。

 静寂。

 生唾を飲み込み、ナッシュは意を決して振り返る。

 すると、そこには……。


 闇があった。


 真なる暗黒が広がっていた。

 それは、すべてを憎悪し、すべてを喰らい尽くさんとする呪詛そのもの。

「あぁあぁあぁ……」

 見ているだけで気が狂いそうになる純粋で暴力的な汚れなき黒。

 ナッシュは最後の力を振り絞って、その言葉を喉の奥から絞り出す。

 それは、すべてが絶望的な闇に閉ざされた、彼にとっての最後の希望だった。

「許してくれ。頼む……サマラ」

 闇が脈動する。


「許さない」


 たったのひと言で希望は呆気なく絶たれた。

 ナッシュは絶叫する。

 腹の底から、心の底から、叫び散らした。

 狂気じみた、動物じみた悲鳴だった。

 彼の髪の毛が一瞬にして白く染まる。

 次の瞬間、ナッシュのすべてが闇に覆われる。

「あああああああ……あああああ」

 闇がナッシュの穴という穴を犯しながら、彼の身体の内側に流れ込む。

「あっ、あっ、あっ、あっ、あ……あ」

 闇はナッシュの身体の内側で、ゆっくりと、ゆっくりと、膨張する。

 やがて頭蓋骨が軋み、眼球が押され蛙の様に両眼が大きく見開かれる。

「やめろ……やめでぐでよ……」

 身体中の体毛が抜け落ち、腹が風船の様に膨れ、爪が一枚一枚捲れあがる。

「やめで……いだい、いだいよ」

 気が遠くなるほどの激痛。

 しかし、意識が遠のくたびに、乱暴に呼び戻される。

 鷲掴みにされ、ひっぱられ、覚醒させられてしまう。

「ゆるじで……もう、ごろじで……いやだ……」

 穴という穴から、血や肉が押し出され流れ落ちる。

 肛門から押し出された内臓が流れ落ちる。

 しかし、それでもナッシュの魂は肉体のくびきから解き放たれる事はなかった。

「いやだ、いやだ、いやだ……ああああああああ……いだい、いだい……」

 それは通常味わう事のできない、死を越えた激痛。

 鳴り響く自らの肉体が内側から破壊される音。

 軋み、割れて、押し潰される肉体の断末魔。聴覚を失ってもなお、その音が脳に直接、聞こえ続ける。

 やがて頭蓋骨が割れ、ついに二つの眼球が眼窩より落下する。鼻から脳味噌が零れた。

「ごめん……なざ……い」 

 その瞬間、膨らんで、まるでオークの様になったナッシュの身体が粉々に爆発して血煙となった。




 今となっては、取り返しがつかないほど昔の話。

 その日の白昼。清らかなる聖女サマラは、プルトの路地を必死な形相で走っていた。息を切らせ、汗をにじませ、足を交互に、懸命に動かしていた。

 やがて、右手の沿道にある古い石造りの建物の軒を潜り抜け、木製の扉を押し開く。

 そこは、プルトを拠点とする冒険者達が集うイールダの酒場。

 店内は薄暗く、昼間だというのに何人かの客が酒を酌み交わしている。

 入り口近くには、いかにも冒険者といった革鎧の男と、ローブの男、女戦士が立ち話をしていた。

 サマラは駆け込むやいなや、大声を張りあげた。

「お願いです! 誰か助けてください!」

 入り口近くにいた革鎧の男がサマラに向かって問う。

「どうした? お嬢さん」

「すぐにでもプグナー村まで行かなければならないんです! 誰か助けてください!」

 どんな傷も病気も、立ちどころに癒やす聖女として有名だったサマラの元に、プグナー村からの手紙が届いたのは、三日前の事だった。

 何でもプグナー村で恐ろしい赤死病が流行り始めたのだという。

 サマラはさっそく、プグナーを目指す事にした。まずは運良くマグダラ村を訪れていた隊商と共に、王都プルトへと向かった。プグナーはプルトから半日ほどの東の山中にある。

 しかし……。

「プグナー村ぁ? あそこは、今確か……」

 ローブ姿の男が眉をひそめる。

 サマラがマグダラを経ったすぐあとに、プグナーへと続く唯一の山道で、恐ろしい人喰いトロールが出没したらしい。

 この魔物はかなり強く、よほどの腕利きじゃないと太刀打ちできない。

 そんな訳で、サマラは隊商の者達のすすめで冒険者に助けを求める事にした。

「お願いします。プグナー村へ行かなければならないんです……」

 必死に懇願するサマラ。

 それとは対照的な気安い調子で、女戦士が言う。

「いいよ。お嬢さん。報酬次第だけど」

 サマラは慌てて、使い古した肩掛け鞄から革袋を取り出し、その中身を自らの掌の上に空けた。

 貨幣が三枚。

「何だい、こりゃ……」

 それを見た女戦士は露骨に呆れた顔をする。

「これしかないんです……村に帰ればもう少し出せますが」

 革鎧の男とローブの男が爆笑する。

「お嬢さん、流石に舐めてもらっちゃこまるぜ」

「人喰いトロールとやるのに三十ゴールド……くっくっく、酷い冗談だ」

 更に女戦士が追い討ちをかける様に言う。

「コイン三枚で命張れって、お嬢さん、人の心はあるのかね?」

 店内にいる他の客も呆れた様子でサマラの事を笑っていた。

 しかし、赤死病は発病すると、身体中に赤い痣が浮き出て血を吐き、長く持っても一週間で死に至る。プグナー村の事を考えるなら一刻の猶予もない。

「お願いです。早くしないとプグナー村の人が……」

「だったら、もう一度、お金を持ってから、ここに来るんだね。話はそれからだ」

 涙目で歯噛みするサマラ。

 再び沸き起こる大爆笑。

 しかし、その笑いの渦を打ち消す者がいた。

「俺がやってやる!!」

 それは、まるまると肥ったオークの様な大男である。革の鎧と、腰にはひのきの棒をさげていた。

 彼は椅子から立ちあがり、サマラの元へとやって来る。

「あなたが……」

 不安げな表情でオークの様な男を見上げるサマラ。

 申し出はありがたいが、正直なところ少しだけ怖かった。見返りに、いったい何を要求されるのだろうと訝った。

 しかし、そんなサマラの内心など知らぬ様子で男は自らの胸をどんと叩いて、にやりと白い歯を見せる。

「俺に任せておけ」

「でも、報酬が……」

「いらねぇよ」

 そう答えた瞬間、彼を茶化す歓声と口笛が店内のそこかしこで鳴り響く。

 それを気にした様子もなく男は名乗りをあげた。

「俺は、ナッシュ。勇者ナッシュ・ロウだ。魔王を討ち果たすのが俺の使命だ。トロールなんざ、物の数じゃねえよ」

 この頃のナッシュは後の美男子とはかけ離れた容姿をしていた。

 当然、女性からの人気はなく、『人間豚』や『変態オーク』などと呼ばれ、陰口を叩かれて嫌われていた。

 そんな嫌われ者を、ぽかんと口を開けながら見つめてサマラは頬を赤らめる。

「あなたが勇者……」

 困っている人の為なら見返りを求めない。自分と同じ価値観を共有する彼ならば、信用してもいいかもしれない。

 愚かにもサマラは、そう思ってしまった。

「……兎も角、急ごう」

「はい。勇者さん」

 このあとサマラは、支払いを済ませたナッシュに右手を引かれて、酒場をあとにした。




 プルトから行商人の馬車に乗せてもらい日暮れ前に件の峠の入り口に着いた。そこから徒歩でプグナー村を目指した。

 やがて山道を進むナッシュ達の前に、人喰いトロールが現れる。

 戦いの結果はナッシュの圧勝だった。

 しかし、その最中、ナッシュは手傷を負ってしまう。

 道を塞ぐ様に横たわるトロールの死体のそばに腰をおろし、鞄から傷を癒やすポーションの瓶を取り出すナッシュ。エリクサーよりもずっと効果の薄い安物だ。

 その蓋を開けようとしたところで、サマラに止められる。

「待って! ナッシュさん」

 そう言って、サマラは大きくえぐれたナッシュの右肩に向かって手を当てる。すると眩い光が包み込み、ナッシュの傷はたちまち後片もなく消え失せる。

 ナッシュは大きく目を見開いた。

「今のは、いったい……お前は?」

 そこでサマラは自分が名乗り忘れていた事に気がついた。

 サマラは胸元に右手を当てながら名乗る。

「私は、サマラ。マグタラ村のサマラです」

「君が……あの……」

 ナッシュが自分の名前を知っていた事が嬉しくて、サマラは心を少しだけはずませた。




 それからサマラは考えた末に、村で行っている治療行為を懇意にしていた腕の良い治療術師に引き継いでもらい、勇者と共に魔王討伐の旅へと出る事にした。

 魔王を倒せば、もっと大勢の人々が幸せになれる。その手伝いをしたい。

 そして、この、ちょっとだけ外見は怖いけど自分と同じ価値観を持った、心優しい勇者の力になりたい。

 純粋にそう思った。

 帰り道。

 平原を割って延びる道の先にマグダラ村が見えて来た頃、勇気を出して魔王討伐の旅に連れて行って欲しいと頼み込んだ。

 すると、ナッシュは少しだけ思案した後に、これを了承してくれた。

 その返答を聞いた瞬間、ほっとしてサマラは思わず涙ぐむ。

「断られたら、どうしようかと思った………」

 そう言って、はにかむと、ナッシュは少しだけ照れくさそうに頬を赤らめ「お、おう……」と言って、視線を逸らしたのだった。


 このあと、ナッシュの身体は過酷な旅によって引き絞られ、のちの美男子へと変貌を遂げる事となる。

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