【22】愛を叫ぶ勇者
蔦に覆われた黒焦げの柱。
崩れた石壁。
三人は、かつて黒猫亭があった場所へと辿り着いた。
「裏手へ回ろう」
山刀を持ったフォックスを先頭に、一行は黒猫亭の裏手へと向かった。
すると、三人は目を見開いて立ち止まる。
そこには、深い森が帯をなしていた。地面は背の高い雑草に覆われている。
しかし、ある場所のみ雑草が枯れて地面が露出していた。
そして、露出した地面の付近の木々も立ち枯れている。
まるで、そこだけ森が死んでいるかの様だった。
その草木が枯れた場所は道の様に、森の奥までまっすぐ続いている。
「まるで、僕達を招いているかの様だな」
フォックスは、その道を見据えて言った。
「きっと、この先に彼女がいるのね?」
ダナの言葉に、ナッシュは生唾を飲み込む。
「この奥に……」
「間違いないだろう。この先に凄まじい暗黒のオドが渦巻いている」
フォックスがそう言って、山刀を腰に吊した鞘に収めると、折り畳み式の十字槍を伸ばして両手に持った。
「行こう……」
ダナが頷く。
フォックスは死の森の道へと足を踏み入れる。ダナとナッシュは、彼のあとに続いた。
そこは深い森の中にぽっかりと開いた円形の空間であった。
やはり、ここに来るまでの道と同じで、足元の草は枯れており、地表が露出していた。
そして、周囲を取り囲む木々も真冬の様に葉を落としている。その中央には丸い井戸が、ぽつんと鎮座していた。
「ここだ。間違いはない……」
フォックスが額に汗を浮かべて、いささか緊張気味に言った。
「あの井戸の中に……あの女が」
ナッシュが、息を飲む。
「……で、どうするの? フォックス」
ダナの問いに、彼は答える。
「まずは、僕が呼びかけてみよう」
「気をつけてね」
その言葉には答えず、フォックスは一歩だけ井戸に近づいた。
「待て!」
止めたのはナッシュだった。フォックスはうんざりしながら振り返る。
「何だよ?」
「あ、あんたら……本当に、勝てるのか?」
「また? 今更……」
ダナも苛立ちを露わにし、顔をしかめて天を仰ぐ。すでに空には、朝日が昇っていた。
「いや。だって、あんたらの仲間が、七十五人も……たったの二人だけで……」
「たったの二人?」
ダナは信じられなかった。何故なら、ここにいるのは三人のはずだ。この後におよんで、まだ他人ごとなのだ。このナッシュ・ロウという男にとっては。
「だっ、だから……他の法皇庁以外の、フリーの霊術師でも金で雇ってさ」
「大丈夫だ。ちゃんと作戦はある。必ずこの呪いを終焉に導いてやる」
フォックスがナッシュの言葉をぴしゃりと遮り、再び井戸に向き直る。
まだ何か言いたげなナッシュを完全に無視して、彼は大きく息を吸い込み叫んだ。
「……清らかなる聖女よ! 聞こえるか!」
まるで返事の様に、どこかの梢から飛び立った鴉の鳴き声と羽ばたきが聞こえた。
「僕は君を救いに来た! 君の命を踏みにじった彼も連れて来たぞ」
ごう、と一陣の風が吹いた。
沢山の鴉の鳴き声と羽ばたきが聞こえた。
「なんだ……なんなんだよ」
ナッシュは不安げな顔で周囲を見渡す。
「静かに!」
ダナがたしなめた。
フォックスはなおも続ける。
「彼は、どんな罰でも、償いでも受け入れるつもりだと言っている」
「ちょっ、そんな事、言ってない……」
ナッシュは慌て出す。
……ひゅー、ひゅー。
すると、井戸の奥底から、その音が聞こえ始めた。
フォックスはかまわず続ける。
「ただ、これだけは聞いてくれ。このまま復讐を続ければ、君の魂は背負った業の深さゆえに、輪廻転生する事もできず、この世界に縛られ続けるか……完全なる消滅を選ぶしかなくなるだろう」
……ごぼっ。ごぼっ。
隙間風が吹き抜ける様な音と共に、井戸の奥底で闇が泡立つ。
「そうなる前に、君は天に還るべきだ」
突然、登ったばかりの朝日が焼け焦げて、黒く欠けてゆく。
「日蝕?! 天体までに影響を及ぼすだなんて!? これは霊格が高すぎる……もはや、神話レベルの邪神……」
ダナが暗くなり始めた空を見上げて戦慄した。
風が強くなる。
雲の流れが早くなり、森のすべての木々が無力でちっぽけな人間達を嘲笑うかの様に木立をざわめかせる。
フォックスが、ナッシュの方を振り向く。
「おい。こっちに来い!」
「まじかよ……」
ナッシュが後ずさる。
風が更に強くなる。
「今更、怖じ気づかないで!」
ダナがナッシュの背中を押す。
「さあ。井戸の縁に立って、今こそ、誠心誠意、己の罪を懺悔するんだ!」
フォックスがナッシュの右腕を引っ張る。
「ちょっ、ちょ……あっ、あ。まてまてまてまてまてまて無理無理無理無理無理!!!」
まるで、幼子の様に涙と鼻水を撒き散らしながら叫び散らすナッシュ。腰を引きながら身体を揺すり、小便を勢い良く垂れ流す。
しかし、彼は抵抗むなしく、無理やり井戸の縁へと連れていかれた。
「ほら。早く懺悔を……」
「ひっ、何で……俺ばかり……うっ」
ナッシュは、嗚咽を漏らす。
「井戸の中を覗き込んで……闇となった彼女と対話するんだ」
フォックスに言われて渋々、井戸の縁に両手を突き、その黒くて深い円形を覗き込んだ。
緊張で乾ききった喉を鳴らし、ナッシュはようやく口を開く。
「……サマラ」
その名前を、彼が口にしたのは何年振りの事だろうか。
「……その、何だ。俺が悪かった」
「もっと、心を込めて!」
ダナが背後から怒鳴りつける。
「心を……込めて」
少し思案したのちにナッシュは闇を見詰めたまま、再び言葉を紡ぐ。
「……はっ、初めて俺と君が出会ったのは、まだ俺が勇者として旅立って、すぐの頃だった。あの頃は、みんな俺の事を馬鹿にしていた。勇者なんか迷信だ、魔王を倒すなんて不可能だ、お前ごときには無理だって。でもさ……君はさ」
ナッシュは、そこで言葉を区切って、大きく深呼吸をする。
「あの頃の俺を信じてくれた!」
……ひゅー、ひゅー。
闇の奥底で、何かが蠢く。
「ティナも、ガブリエラも、ミルフィナもきっと! レモラだって! 出会ったのが、あの頃の俺だったとしたら、きっと見向きもしなかったに違いない!」
……ごぽっ、ごぽごぽごぽ……。
闇の向こうで呪詛がうねる。
「でも、君だけは違った! 君だけは違ったんだっ!!」
空一面を覆い尽くす暗雲が、黒く染まった太陽を中心に渦を巻いた。
地鳴りの様な音が周囲に鳴り響く。
まるで、世界が泣き叫んでいるかの様だった。
「……俺は、君の事が好きだ!」
ストレートな愛の告白。
「……この後に及んで、それなの?」
ダナは、もう何度目になるかわからない、露骨な呆れ顔をする。フォックスも真顔だった。
構わず、勇者ナッシュ・ロウは力いっぱいに叫ぶ。
「大好きなんだぁあああああああっ!!!」
それは、明らかに美男子の自分が愛を囁けば、大抵の女は何でも許してくれるという、ナッシュの経験則と打算に裏打ちされた言葉だった。
「だから……許して欲しい」
その直後だった。
井戸の底を漂う深き闇。
そこに、ぱちりと、双眸が瞬いた。
天を見上げるその視線と、地の底を見下ろすナッシュの視線が重なり合う。
「サマラ……?」
すると、彼の背後からダナの声が聞こえた。
「フォックス。そろそろ良いでしょ? 聞くに耐えないわ」
「ああ」
突然、ナッシュは後ろから両足を掴まれた。
「直接、詫びてこい。闇の底でな!」
フォックスだった。
「何を……」
彼はその問いには答えてはくれなかった。
ナッシュはそのまま、井戸の底へと投げ落とされた。
絶叫。
ざぶん、という水音が聞こえた。
すると、風はぴたりとやみ、空も、太陽も、見る見るうちに元へと戻って行く。
そして……。
「……終わったのかしら?」
ダナが、井戸に背をもたれて地面へと腰をおろす、フォックスに問いかける。
「ああ。暗黒のオドは、すっかりとなりをひそめたようだよ」
フォックスがダナを見上げながら答えた。
二人は本人に語った通り、ナッシュの事など、どうでもいいと考えていた。
更にサマラの魂を救おうとも思っていなかった。
二人が前代未聞の凶悪な呪詛に打ち勝つ為に考えた策。
それはナッシュを生贄に捧げる事だった。
そもそも、こうして彼らが事態の収束に躍起になっているのは、聖女認定を受けた者が魔王にくだってしまったという醜聞によって落ちた法皇庁の名声を取り戻す為だった。
その為ならば、ナッシュがどうなろうが知った事ではなかったし、サマラが救われなくても構わなかった。
「……それにしても、彼が一片の同情の余地もないクズで助かったわ。躊躇なく事を運べた」
ダナは、そう言って、フォックスに水筒を渡した。
フォックスは「ありがとう」と、栓を抜いて、水筒に口をつけようとした。
ダナがふと鼻を鳴らす。
「フォックス。この臭い」
「どうした? ダナ」
「焦げ臭……」
そこで、ダナは気がつく。
フォックスの水筒を持った右手がまるまる炎に包まれていた。
「フォックス……」
ダナは驚愕に目を見開き、一歩、二歩と後退りする。
「ダナ……ダナ……」
フォックスは、水筒を取り落とし、立ち上がった。
炎は蛇の様に絡みつき、彼の全身をあっという間に覆い尽くす。
「ダナ……氷の魔法」
フォックスが右手を伸ばす。ダナは魔法のワンドの先端を彼にむけ、呪文を唱えようとした。
その瞬間、彼女の足元からも炎が吹きあがる。
フォックスが膝を突き、ゆっくりと崩れ落ちる。その背後に何時の間にか、黒髪の女が立っていた。
ひしゃげて、紫色に腫れた、凄まじい形相でじっとダナを睨みつけている。
「待って! 私達が死んだら、あなたの汚名は……井戸の中の遺骨があれば、あなたの無実を証明できる! そういう魔法があるの!」
ひゅー、ひゅー……。
「ああ……」
そこで彼女は直感した。
呪いの中心は、あの勇者ナッシュ・ロウではなかったのだ。
彼女が憎悪していたのは、世界そのもの。
つまらない嘘に踊らされ、自らを貶めた世界。
清らかなる聖女などと都合良く持ちあげて、手のひら返しに裏切ったすべての人間。
呪いはやがて中心に収束する。
それは始めから、既に開始されていた。
きっと、自分達がここまで生かされていたのも、単に彼を案内する役割を負っていただけなのだろう。それも、もう終わった。
最初から、この呪いを止める事のできる方法など存在していなかった。
ダナの心が深い絶望に包まれる。
「世界が、終わる……」
その言葉を最後に火柱に包まれた彼女は崩れ落ち、地面にその身を横たえた。
ひゅー、ひゅー……。
そんな彼女が最後に耳にしたのは、あの隙間風が吹き抜ける様な音だった。
炎はやがて二人の身体を焼き尽くすと、地面を這って周囲の枯れ草や枯れ木に燃え移る。
そうして、更に周囲の森へと広がって行った。
こうして、その業火は山々を燃やし尽くし、麓のシャルフやガイステンセンまで飛び火したのだった。
この山火事の死者は、数万を超えた。