【21】アンルーヘ
悲鳴を耳にしたフォックスとダナは顔を見合わせる。
「本館の方からだ。ダナ、行くぞ!」
「ええ」
ダナはそう答えるとベルトに差していたワンドを引き抜き呪文を唱えた。すると、その先端に明かりが灯る。
二人がナッシュの病室をあとにする。ナッシュはしばらく迷った末に、ひとり取り残されるのも御免だと考えて、いそいそと二人のあとを追った。
そうして三人は、病室棟の右端から続く渡り廊下を駆ける。本館に辿り着いた時、三人は驚愕に目を見開く。
それは、渡り廊下の入り口から右手の先だった。
左手の壁沿いの開け放たれた扉口から漏れる光の中。
「……わだじのあがぢゃん、いない」
床に寝かされた看護士のアリア・ドメニク……彼女の目は虚ろで、すでに生気を感じられない。上着が破られ、上半身をはだけていた。
……ざくっ、……ざくざく。
そのお腹にスコップを突き立てているのは、黒焦げの汚らわしい怪物であった。
体重を乗せて、食べ頃の果実を押しつぶした時の様な音を立て、アリアの腹を掘っている。
まるで、そこに埋まっている大切な宝物を掘り起こそうとしているかの様だ。
「これは、酷い……」
フォックスが口元に手を当てて呟いた。
「ガブリエラ……なのか?」
ナッシュが、その名前を呼んだ。
怪物が三人の方を向く。
死んだ魚の様な眼球がぎょろりと動いた。その拍子に蠢く蛆が何粒か床に、ぽとり、ぽとりと落ちる。
「……なっじゅ、なっじゅ、あがぢゃんいなくなっだみだいなのぉ……だがら」
怪物がシャベルを引き抜く。
ごふっ、と音がして、アリアの腹の裂け目から赤黒い血が溢れ出る。
「だがら……わだじどもいちど、あがぢゃんづぐりまじょおおおおおおっ!!」
怪物が両手でスコップを携えながら駆け出す。
フォックスが叫んだ。
「ダナ!」
彼女は魔法のワンドの先を怪物に向けて、素早く呪文を唱えた。
すると、その瞬間、青白い電光が薄暗がりに瞬き、怪物の胸を貫いた。
火花が散り、破裂音が鳴り響く。
怪物はスコップを落とし、後方へと吹っ飛ぶ。それと、ほぼ同時にフォックスが駆け出す。
彼はスコップを拾うと、起きあがろうとしていた怪物の脳天を右からフルスイングでぶっ叩く。
枯れ枝が折れる様な音がして、怪物の首が左に傾ぐ。
続いてフォックスは、スコップを怪物の心臓に突き立てた。
「うぎょお! しゅごいのぎだ……」
怪物が嬌声とも、絶叫ともつかない声をあげる。
フォックスが霊術の呪文を唱え始めた。
すると、怪物が四肢と頭を激しく振り乱す。
「あっ…あっ…あ、あああああああああああ……あぁー!!」
詠唱が進むにつれて、その動きがどんどんと早くなる。
やがて怪物は青白い清らかな光に包まれ、その動きを止める。
「輪廻の円環へ逝け!」
怪物の身体は、まばゆい光が消えると共に灰となり崩れ去った。
フォックスがスコップを廊下に投げ捨て、ナッシュの方へと振り返る。
「これでわかっただろ? ぐずぐずしていると、君のせいで、どんどんと人が死んでゆく。君も手遅れになる」
ナッシュは思った。
今の手際。あっという間に怪物を倒してしまった。この二人の力があれば、もしかすると助かるかもしれない。ナッシュの心に、ほんの小さな希望の灯火が宿った。
フォックスは、更に言葉を続ける。
「だから、すべてを終わらせる為に、僕達と一緒に来て欲しい。アンルーヘに」
ナッシュは静かに、首を縦に振る。
こうして勇者ナッシュ・ロウは、すべてが始まった――あるいはすべてが終わった場所、アンルーヘに再び還る事となった。
「もう行くのか?」
治療院をあとにした直後のナッシュの問いに、フォックスが答える。
「このままここで、ぐずぐずしていていても何もならない。呪いによる犠牲者が出るかもしれない」
「しかし、あの治療院の死体は……」
「それは、今、ダナが村長の家に説明に向かっている。あとは村長達に任せる」
ナッシュは、そこでダナの姿が見当たらない事に気がついた。
「それじゃあ、家に寄ってくれよ……旅の準備をしなければ」
「いいや。それほど、長旅にはならないだろ」
「え?」
「何もなければ、日の出前につける」
「えっ……」
ぽかんとした顔で立ち止まるナッシュに、フォックスは首を捻る。
「気がついていなかったのか? もしかして」
「だから、何がだ?」
「アンルーヘは、この村の西の山中にある。南の山道が落石で塞がって以来、廃墟になって誰も立ち寄らなくなってしまったが……」
因みにフォックスとダナが、元黒猫亭の従業員に話を聞きに行ったガイステンセンは、このシャルフ村から南西のひと山越えた先にある。そして、アンルーヘの住人だった者達は、栄えているガイステンセンに移住しており、シャルフ村にはひとりもいない。
「……そんな。全然、気がつかなかった。なぜ……」
ナッシュは愕然とする。
確かに世界を駆け回っていた勇者時代、この辺りにも訪れた事があったのは記憶していた。近くの山の中に廃墟となった宿場町があった事も村人から聞いていた。
しかし、まさか、あの場所が、そんな目と鼻の先にあっただなんて、今まで暮らしていて気がつきもしなかった。
ナッシュの不確かな記憶では、あの山間の宿場町は、もっと北の地にあったからだ。
「ひょっとすると、呪いに導かれたのかもしれないな」
フォックスの言葉にナッシュは青ざめる。
「……そんな。ここは、レモラが……レモラが気に入ったから、この村に住む事に決めたんだ。それなのに……」
何もかもが、サマラの掌の中であるかの様に感じられた。そこから抜け出す事はできるのだろうか。ナッシュの心が再び絶望に曇る。
「兎も角、急ごう」
「あ……あぁ」
再びフォックスが歩き出す。ナッシュもあとに続く。二人は治療院の裏手にある馬車置き場に向かう。
二人を乗せた馬車は、治療院から村長の家へと走る。
そこでダナと合流した。
ナッシュは、これまで世話になった村長夫妻に、帰って来たら詳しい事情を必ず話すと言って別れを告げた。
ナッシュの過去や本性を知らない村長夫妻は、ずっと彼が乗った馬車を見送っていた。
その姿を見たナッシュは、サマラの両親であったエルダとソフィアを、なぜか思い出す。
「どうしたの?」
ダナに問われ「いや」と首を振る。
それから三人は、馬車で村の西端にある、山道の入り口へと向かった。
その入り口の前にある開けた土地で馬車を停めると、フォックスとダナは積んであった背負い袋の中身を確認し始める。
「……俺は、いったいどうすれば」
荷台から降りたナッシュは、二人に尋ねる。この問いに答えたのはフォックスの方だった。
「君は特に何もしなくていい」
「何も……?」
「ああ。君はいわば餌だ」
「餌?!」
ナッシュは面食らう。
フォックスは気にした様子もなく、折り畳み式の十字槍の可動部をチェックしながら言う。
「君を餌にして呪いの元凶である霊体を呼び出し、僕が霊術で浄化する……勇者時代、不死族を相手にした事は?」
「何度か……」
「それらと一緒だとは考えない方がいい……それから、これを持っておけ」
そう言って、フォックスは女神の聖印が吊されている首飾りをナッシュに手渡す。
「これは……?」
何か強い力を持ったマジックアイテムなのだろうか。期待が高まる。
しかし、フォックスは極めて真面目な顔で答える。
「単なる気休めだよ」
三人は暗闇に包まれた山道を登る。
道の両脇から枝や長い雑草の葉が飛び出し、足元も膝下までの高さの雑草が覆っていた。
荒れ具合を見るに、長らく人が使っていない道である事が見て取れる。
その山道の先へと歩みを進めながら、ナッシュが二人にあの夜あった事を話す。
「……という訳で、そのあとの事は知らない。あの三人に任せきりだったから。多分、あの宿屋の裏手に埋めたりしたんだと思うけど」
「本当に最低ね……」
ダナが嫌悪感をむき出しにして言った。
「……確かに、本当にあの時はどうかしていたんだ。その、はっきり言って、調子に乗っていた。力に酔って、増長していたんだ。すまない」
「すまないって……」
ダナは呆れた様子で深々と溜め息を吐き、肩をすくめた。
「私に謝っても仕方がないでしょ?」
「ああ。ああ……そうだな。本当にそうだ」
二人の後ろを歩くナッシュがすすり泣く。
ダナは再び大きく溜め息を吐いて、フォックスの顔を見た。
彼は眉間にしわを寄せながら首を横に振る。
そして、ナッシュに向かって告げる。
「ナッシュ。正直、言ってしまえば僕達は君なんかどうでもいい」
「そんな!」
ナッシュが声を張りあげて立ち止まる。
フォックスとダナも足を止め、彼の方へ振り向いた。
「僕達が救いたいのは、彼女の方だ。彼女は君のせいで有史以来、稀にみるほどの強大な呪詛と化した。このまま、呪いとして人々を祟り続ければ、その魂は汚れ、死後も救われる事はなくなってしまう」
ダナがナッシュを見据えながら頷く。
「だから、彼女に、本当に詫びるつもりがあるのならば私達に協力しなさい。それが、あなたの助かる唯一の道でもあるのだから……」
ナッシュは俯き、歯を食いしばり、涙を拭った。
そして、二人に向かって力強く言い放つ。
「わかった。もう覚悟は決まったよ」
三人は再び暗闇に包まれた山道を進み始めた。
空が白みがかった頃、道が平らになった。
そして、その先に、草木に埋もれた廃墟の町が広がっていた。
アンルーヘである。
かつての大通りには落ち葉や枯れ草がつもり、石畳の隙間からは青々とした雑草が生い茂っていた。
沿道に建ち並ぶ家屋は蔦や苔に浸食され、倒壊している物も少なくはなかった。
三人は、その大通りを町の奥へと向かって進む。
すると、ナッシュの胸の中に再び不安が込みあげる。
「なあ……思ったんだけど」
「何だ?」
フォックスが返事をする。
「……俺達、三人だけで行く必要なくね?」
「怖じ気づいたの?」
と、ダナ。その表情は誰がどう見ても見事な呆れ顔だった。
ナッシュは慌ててかぶりを振る。
「違う。その……他の法皇庁の祓魔官……君達の仲間に援軍に来てもらおうぜ。そっちの方が良いだろ?」
「僕達の力が信用出来ないと?」
フォックスの問いに、ナッシュは再び慌てる。
あの怪物を倒した手際を見ればわかる。この二人は、相当な腕利きだ。現状で最も頼れる存在である事は、疑う余地もない。しかし――。
「違う違う。そういう事じゃあない。多勢に無勢だよ。頭数を揃えた方が良いんじゃないかって話だ。違うか?」
「一理あるわね。普通ならば」
ダナが含みのある言い方をする。
「もしかして、援軍を待っている余裕がないほど、一刻の猶予もないのか?」
少し間を置いて、フォックスが口を開く。
「それも、ある。だが、そもそもいないんだ」
「何がいないんだよ?」
フォックスはダナと顔を見合わせ、うんざりした調子で言う。
「だから、他の祓魔官がいないんだ」
「何故……?」
その問いに答えたのはダナだった。
「死んだの。私達の同僚である法皇庁所属の祓魔官七十五名。この件に関わっていた全員が」
「え……」
ダナは、もう一度、その言葉を繰り返した。
「死んだのよ。全員」