【19】祓魔官
テーブルの縁を伝って滴る血液と羊水。粉々の肉片と血飛沫の痕。
ほんの今朝まで温かな幸せに満ちていたその室内には、凄惨なる光景が広がっていた。
「はぁはぁはぁ……」
荒げた息を吐きながら、ナッシュは惨めな肉塊となった、かつての妻のひとりを見下ろす。
襤褸布をまとい、四肢を投げ出し、部屋の入り口に頭をむけて倒れている。その伸ばされたままの右手の先には、首なしの赤子が転がっていた。
それは、最愛の人のお腹の中で育まれた新しい希望だったはずのモノだ。
しかし、それは結局、豚頭の死骸で単なる絶望に過ぎなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
すべてが終わった。そう考えた途端に肩の力が抜けた。とめどなく涙が溢れ出た。
すると、ナッシュは、その音に気がついた。
ひゅー、ひゅー……。
うなじのすぐ後ろから聞こえて来た。
隙間風が吹き抜ける様な、誰かの息づかいの様な、その音……。
後ろに誰かいる。足元から伝わる得も知れぬ冷気。
臓腑と心を、凍りつかせる。
誰かがいる。
ナッシュはそれを理解した。しかし、次の瞬間、思い出す。
室内には他に誰もいなかったはずだ。
ガブリエラとレモラ。変わり果てた二人。一カ所しかない部屋の入り口から誰かが侵入した気配はなかった。
やはり、どう考えても誰もいない。
では、これは誰だ。いつから、そこにいた……。
冷や汗が全身から吹き出す。背後のそれが、どんな魔物よりも、あの魔王クシャナガンよりも恐ろしい存在であると、ナッシュの本能が警鐘を鳴らしていた。
ひゅー、ひゅー……。
口の中がカラカラに乾いていた。
その誰かは、明らかに自分に対して凶悪な害意を持っている。
このままでは殺される。
ナッシュは斧の柄を握り締める右手に力を込めた。ひとつ深々と深呼吸をして振り返る。
「うおおおおッ!」
雄叫びをあげながら、斧で背後の空間を斬り払おうとした。
どんっ!
鈍い音。
「ナッシュ……」
それは、ティナ・オルステリアであった。
「ティ……ナ?」
まだエリクサー中毒に陥る前の彼女の左側頭部には、ナッシュが振り回した斧の刃が深々とめり込んでいた。
ティナが白眼をむいて、悲しそうな顔で首を傾げる。
「ナッシュ……?」
「あああぁ……」
悲鳴が、狂気の慟哭が、喉の奥から唸りをあげてやって来る。
すると突然、ティナの身体が炎の塊となって床に崩れ落ちる。
ナッシュが戸惑っている内に、炎がまるで生き物の様に床を舐めつくし、部屋の壁を駆けあがり、天井を覆い尽くす。
ナッシュは部屋の入り口へ向かおうとした。しかし、
「ナッシュ……行かないで」
ミルフィナ・ホークウインドが何時の間にか、ナッシュの腰にしがみついていた。
「ミル……フィナ……」
「ナッシュ……」
彼女の左耳と左眼からゆっくりと血が流れ、右の眼窩から目玉がこぼれ落ちる。
そのミルフィナの身体が炎に包まれる。
灼熱の空気が喉を犯す。視界が暗くなってゆく……。
薄れゆく景色の中、炎の中に佇む、その人物の存在に気がつく。
「……サ、マラ……?」
ひゅー、ひゅー……。
その音を聞きながらナッシュは、意識を失った。
木造の梁。白い壁と木板の床。真っ白いシーツ。
ナッシュが目を覚ますと、そこは見慣れない天井だった。
自らが寝ているベッドの左手にある窓の外の景色から、そこが治療術院だという事を知る。外は既に日が沈みかけ、夜のとばりが降りようとしていた。
上半身を起こし、ぼんやりとしていると、部屋の右手の扉が開き、治療術院の看護士が顔を覗かせる。
アリア・ドメニクという名だ。
彼女は慌てて部屋の明かりを灯すと、治療術師のヘンリー・ハワードを呼びに行った。
しばらくすると、ヘンリーが訪れて明るい顔で微笑む。
「君を救ったのはジョンだよ。酒場に帽子を忘れていっただろ? それを届けに行ったらしい」
「ジョンが……」
ナッシュは、あの気の良い兄貴分に心の底から感謝した。
それから、かれこれ二週間以上も眠っていたらしい事を聞かされ、大いに驚いた。
そして、簡単な問診を受けたあと彼は恐る恐る、その質問を口にした。
「……妻は?」
何が起こったのか。あの炎の中で何を見たのか、よく思い出せない。
ただ、レモラがガブリエラに殺された。その事実だけは記憶にあった。しかし、それすら夢の中の出来事の様にナッシュには感じられていた。
ヘンリーは少し逡巡したあと、窓の外を眺めながら、言い辛そうに答える。
「村の墓地に埋めたよ。それに、他の死体も……酷く虫がたがってね。申し訳ないが、そうさせてもらった」
それを聞いて、やはりレモラが死んだのは現実であったと思い知る。
「そうか……」
ナッシュはがくりと力なく頭を垂れた。
ヘンリーが遠慮がちに問う。
「……で、結局、何があったんだ?」
「実は……」
ナッシュは嘘を吐いた。
あの大女に好意を持たれ、ずっとつきまとわれて困っていた事。妻と付き合う様になってからは、陰湿な嫌がらせ受けて、そのせいで故郷の町からこの村へ逃げ延びて来たのだと。そして、その大女が、妻を殺して家に火を放った――という事にした。
話を聞き終えたヘンリーは、寂しそうに笑う。
「それは何というか……お気の毒としか言いようがないな。君には何の落ち度もないのに」
「ああ……クソっ。そうだよ、俺は悪くないっ。悪くないんだ……せっかく、この村で全部忘れて一からやり直そうとしたのに、どうして今更……もう、良いじゃないか! もう、許してくれよ……もう、関係ないだろうが!」
しばらく、病室の中に、ナッシュの震える泣き声が響きわたった。
やがて、ナッシュが多少落ち着いて来た頃合いだった。
ハワードが「君に会いたがっている人がいる。是非、話を聞きたいのだそうだ」と言った。
ナッシュは首を傾げる。
「誰だ?」
「何でも、法皇庁の者だそうだ。今、ちょうど来ている」
「法皇庁?」
法皇庁とは、世界の管理者たる女神を崇める教会の総本山だ。
誰とも話したい気分ではなかったし、なぜ、法皇庁の者が自分に興味を持つのかわからなかった。
しかし、このまま断るよりは、相手の意図を知った方が良いと思い、申し出を了承する事にする。
「……構わない。会っても」
そう返事をすると、ハワードは一度部屋から退室し、二人の男女を呼んで来た。どちらも教会に属した者が身にまとう聖衣を着ている。
ハワードが退室したあと、二人はメダリオンを掲げる。そこには、ミントの花をあしらった法皇庁の紋章が描かれていた。
「僕は、フォックス・マーダー。法皇庁第十三課の祓魔官だ」
「私は、ダナ・スケアリー。同じく第十三課の祓魔官」
ナッシュも、ナッツ・ローズという偽名を名乗る。
フォックスと名乗った男は、細く垂れた目が特徴的で整った顔立ちをしていたが、詐欺師的な胡散臭さがあり、掴みどころのない人物に見えた。
対するダナは赤毛で肌は色白。かなりの美人であったが、どことなく不健康そうにも見えた。腰のベルトに魔法のワンドを差している事から、どうやら彼女は魔導師でもあるらしい。
「それで、その法皇庁の祓魔官が、いったい俺に何の用があるんですか?」
祓魔官とは法皇庁直属の、解呪や除霊、悪魔払いなどの専門家達の事だ。
彼らは数年前から他の仲間達と共に、アッシャー王国を襲った一連の災禍の原因を調査していた。
フォックスとダナは顔を見合わせ頷き合う。
そして、フォックスがじっと、ナッシュを見つめてから問う。
「ナッツ・ローズさん。あなた、アンルーヘという言葉に心当たりは?」
そんなものはない。
――と、口に出そうとした瞬間だった。
黒い髪の毛。
緊張した様子で眉をしかめる垢抜けない顔立ち。
それは、初めて出会った頃の彼女。
そして……。
「少し冷静になって。部屋から出て行って、今すぐ」
右手で頬を張り、何時になく声を荒げる彼女。
響き渡る怒声と打撃音。
紫色に腫れあがり、すっかりと別人の様になってしまったベッドの上の彼女。
そして、炎の中、意識を失う寸前に目にした、その人物の姿――。
ナッシュの脳裏に、忘れていた彼女の記憶が次々と蘇る。
「あああ……そんな、そんな……。まさか、あの女なのか……あの女が……」
「……心当たりは、ある様ですね」
ナッシュが何も言えずにフォックスを見上げていると、彼は更に追い討ちをかける様に言った。
「ナッツ・ローズ……いいや。勇者ナッシュ・ロウさん」
そこはシャルフ村の外れにある墓地だった。
墓守りのエドワード・ゲイルは、ランプを片手に夜の墓地を見回っていた。
この世界の墓地は、魔除けの結界で護られている。これにより、不浄な蘇りが起こるのを防いでいるのだ。
因みに結界の範囲は、墓地の東西南北にある石碑を結んだ線の内側にある。
この石碑に異常がないか見守るのが墓守り達の主な役割だった。
その夜もエドワードが南にある自宅兼見張り小屋を出て、まず最初に西の石碑へと向かった。
すると、林立する墓石を割って延びる道の向こうに見えるはずの、西の石碑が見当たらないではないか。
エドワードは、ぎょっとして駆け出し、石碑があった場所の周囲をランプで照らしあげた。
すると、まわりの藪に砕けた石碑の欠片が散らばっている事に気がつく。
「いったい、誰がこんな事を……」
エドワードが藪を見渡しながら、唖然と呟いた瞬間だった。
ひゅー、ひゅー……。
奇妙な音がして、エドワードは振り返ろうとした。
その途端、彼は後ろから羽交い締めされる。蛆まみれの黒焦げの腕だ。
「うう……」
エドワードは喉を詰まらせながら、手足をばたつかせる。ランプが湿った藪に落ちて割れた。灯りが消えて闇が広がる。
「離せ……離せ!」
焼け焦げた腐肉の臭いがエドワードの鼻先に漂う。
直後にエドワードは、物凄い力で頭を掴まれて首の骨を折られた。
彼の脱力した身体が、墓地の藪の中に投げ出される。
それから、エドワードを殺したソレは、彼の自宅兼見張り小屋まで向かうと、裏手の物置の壁に掛かっていたスコップを手に取った。
「なっじゅ……なっじゅ……あいじでる……」
ソレは、夜闇の中、治療術院を目指して歩き始めた。