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【18】中身


 酒杯の底とテーブルがうち鳴らされ、その日も変わらぬ笑い声が、そこかしこで響き渡っている。

「……しっかしよ、おめえも父親かぁ……がははは」

 そう言いながら酒場のカウンターで、右隣のナッシュの背中をバンバン叩くのは、ジョン・ピーターだった。

 彼はナッシュとは正反対の獣の様な粗野な外見をしていた。

 ナッシュは背中を丸めて、照れくさそうに苦笑しながら木杯のエールを一気に煽った。

 嚥下した瞬間、泡立つ喉越しが胃のへと流れ込み、麦の香ばしい香りが鼻孔へと突き抜ける。

「いやあ、最初、お前らが村に来たときゃあ、どこぞのおぼっちゃん、おじょーさんだと思ったもんだが、随分と骨がありやがる」

 頑固者のジョンは当初、ナッシュにはやたらと冷たく当たっていた。

 村の女達が美男子であるナッシュに色めき立ったのが、どうにも気に食わなかったらしい。

 しかし、ナッシュがこの村に馴染むにつれてジョンは次第に彼を認め、今ではすっかりと頼れる兄貴分となっていた。

「幸せにしてやれよ……。あんな出来た女は滅多にいねえぞ」

「はい。必ず」

 ナッシュが再びエールを口にした。あと少しだ。こうして、仕事終わりに酒を交えて村人と語らう時間も悪くはない。しかし、今は一刻も早くレモラの元へと戻りたかった。

「でもさぁ……」

 と、そこでカウンターの中から話に加わって来たのは、このケルピー亭の女将であるマリアであった。

「本当にあんたって、一途だよね。レイラちゃんしか見てないってゆーか」

「いや、まあ……」

 照れ臭そうに、はにかむナッシュ。マリアは更に話を続ける。

「あんたらが村に来た時、村の娘全員が、あんたに首ったけだったのに……」

 実際、ナッシュは何人かの村娘に誘われた事があった。しかし、以前とは違い、決してその誘いに乗る事はなかった。この村に着いた時には、彼の中でレモラは既にかけ替えのない存在になっていたからだ。

「……脇目も振りやしなかった。あんたなら選り取り見取り、唾つけ放題だろうにさ」

 すると、ジョンがゲラゲラと笑いながらマリアに向かって言った。

「馬鹿! この村にレイラちゃんに勝てる様な器量良しなんかいねーから。脇目を振る場所がそもそもねえんだよ!」

「でも、それでも、摘み食いしちまうのが、男ってもんだろうに……」

 マリアは肩をすくめながらジョンから再びナッシュへと目線を移した。

「色男で、性格も真面目。体力もあるし、天は本当に二物も三物も与えるもんなんだねえ」

「いえ。俺はそんな大した男じゃありません……」

 ナッシュは自嘲して、木杯に残ったエールを一気に嚥下えんげした。

 そして、木杯をカウンターに置いて、帽子をかぶろうとした瞬間だった。

 マリアが、ごとっ、と新しい木杯をナッシュの前に置く。

「マリア……さん?」

 ナッシュは唖然とした表情で彼女の顔を見上げながら尋ねる。

 すると女将は邪気のない笑顔をにっかりと浮かべながら言った。

「これ、おごり。もう一杯だけ付き合ってきなよ?」

「でも……」

 妻とは一杯だけって約束だから、と続けようとすると、マリアは空になった木杯を持ちあげて、ぱちりと片目を瞑る。

「奥さんの懐妊祝いだよ。飲んできな!」

 そう言われては断れなかった。

 ナッシュは結局、あと一杯、付き合う事にした。




 レモラが目を覚ますと、自らの大きなお腹と二本の足が見えた。その先に玄関の扉が見える。

 玄関まで続く廊下で仰向けになって倒れたらしい。しかし、誰かに襟首を鷲掴みにされ、強引に引っ張られ、玄関の扉が遠ざかって行く。

「ひっ……」

 息を吸い込み、悲鳴をあげようとした。

 しかし、右側で廊下の床板をガリガリと削りながら引きずられる凶悪な戦斧の刃を目にして息が止まる。

 自分の襟首を掴んだ手をはがそうともがく。

 しかし、その骨と皮だけの化け物じみた五本の指はびくともしない。

 目線を動かし、自分を襲った者の正体を確かめようとした。しかし、うまく行かなかった。

 かわりに腐った血の臭いが漂っている事に気がつく。それは濃厚な死の香りだった。

 にわかに吐き気が込みあげてきて必死に堪える。

 やがて、レモラはリビングへ連れていかれた。抱えあげられ、テーブルの上に乗せられる。

 ランプの明かりが逆光となり、賊の顔はわからない。ただ酷く生臭い息が吹きかかって来た。

 賊がレモラの両肩を抑えつけ、視界の上の方から顔を近づける。

 赤錆の様にくすんで、べったりと脂で汚れた長い髪。

 ボロボロになった色黒の肌。その爬虫類じみた双眸からは人間らしい感情を一切、感じない。

 茶色く汚れた歯の並ぶ口を三日月型に開き、それはにやりと笑った。


「わだじのあがぢゃん……がえじで」


 その顔が、過去に見知ったある人物の容姿と重なってゆく。

「ガブリエラ……さん?」

 レモラがその名前を口にした直後だった。

 突然、ガブリエラがむせかえり、腐った血反吐を口から吹き出す。それを顔面に浴びた瞬間、レモラは盛大な悲鳴をあげた。



 酒場からの帰り道。ランプを片手に家までの道を急ぐ。

 彼の家は村の外れにあった。周囲には畑と荒れ地があるばかりで、隣家とは距離は離れている。

 そこで待つ愛する妻の顔を思い浮かべながら、ナッシュは夜道を急ぎ足で歩く。

 結局、レモラとの約束を破り二杯目をご馳走になってしまった。

 罪悪感はあった。

 しかし、久々に口にした酒が早々にまわり、気分は上々だった。

 ナッシュはふと思い出す。

 今の自分は、魔王を倒す旅に出る前の自分が一番なりたくなかった人間であるという事をだ。

 毎日、平凡に働き、平凡に酒を飲んで、平凡な幸せが待つ家へと帰る。寝て起きて、毎日がそれの繰り返し。

 しかし、ナッシュは、今のそんな暮らしがとても心地が良かった。

 今に比べると魔王を倒してから王都で過ごしていた栄華の日々が、何とも薄っぺらく色あせて感じられた。何もかもが他人ごとの様に思えた。

 それはきっと、自分がレモラの事をちゃんと見ていなかったから。

 最愛の人がすぐ隣で寝息を立てていた事に気がつけなかったから。

 ナッシュは、レモラの微笑みの様な三日月を見上げながらほくそ笑む。

「……帰ったら、あやまろう」

 これまでの事。

 今日、約束を破ってしまった事。

 きっと彼女は、何時もの様に優しく微笑みながら、すべてを許してくれるに違いない。

 そんな事を考えた直後だった。

 家まで続く細いあぜ道の向こうから、悲鳴が聞こえた。

 ナッシュは凍りつき、足を止める。

「レモラ……?」

 そして、走り出す。家までの道のりを全速力で。


 過去は、彼を許そうとはしてくれなかった。




 家の前に辿り着く。

 かつてレモラと過ごした王城の一室よりも小さくささやかな家。

 しかし、それよりも、沢山の幸せが詰まった家。

 息を切らせながらナッシュは、玄関の軒をくぐり抜け扉を開けた。

「レモラ! レモラ! 返事をしろ! レモラ……」

 慌てて玄関から続く廊下を駆けて、リビングを覗き込んだ、その彼の目に飛び込んで来た光景は……。


「レモラ……」

 ナッシュの最愛の人は、リビングのテーブルで裸にされて仰向けになっていた。彼女の着ていた衣服が無残に引き裂かれ、テーブルの下に落ちていた。

 レモラは動かない。コバルトブルーの瞳は天井を一点に見つめたまま、輝きを失っている。瞬きすらしていなかった。

 何より目を覆いたくなったのは、新たな命を宿していた母なる膨らみが縦一文字に切り裂かれていた事だった。

 その断裂に両腕を突っ込んでいた狂女が、ボロボロになった歯を見せて笑った。

「なっじゅ……なっじゅ……あだじ、がんばったんだよ?」

「ガ、ガブリエラ……」

 ナッシュは数年ぶりにその名前を口にした。

 彼は三人の妻達の事を忘れていた訳ではなかった。ただ極力、思い出そうとしなかっただけだった。

 なぜなら彼女達は、ずっと昔に、ナッシュの中で死んでいたのだから。

「ガブリエラ……ああ、なんて事だ……ああ、レモラ」

 ガブリエラは三日月の様に口元を歪めたまま、レモラの腹の中に突っ込んだ血塗れの両腕を引きあげる。

「なっじゅと……あだじのあがぢゃん」

 彼女の両手の中には、血と羊水にまみれた小さな人型の肉塊があった。

 その頭部は……。

「ああああ……そんな、そんなぁ……」

 ナッシュは絶望のあまり、膝を突き、崩れ落ちる。

 なぜなら、赤子の頭部が豚だったからだ。

「何で、何でこんな、俺ばかり……」

 愚かな彼には、それを理解できていなかった。

 自分は幸せになって然るべきだと、自分は栄光を掴みとって然るべき人間だと、信じ込んでいたからだ。

 この村に来てから、彼は確かに大きく変わったが、過去を省みて、己の悪行を悔い改めた訳ではなかった。

 ほうけるナッシュを余所に、ガブリエラは臍の尾を噛み千切り、赤子をそっと床に置いた。

 そして、テーブルの縁に立てかけてあった斧を手に取り、大きく振りあげると、赤子の豚頭を跳ね飛ばした。

 斧を床に投げ捨て、首のなくなった赤子の身体を抱きかかえると、床に転がったままの小さな豚頭を思い切り踏み潰した。

 ぐしゃりと湿った音が轟く。砕けた頭蓋骨の欠片と共に桃色の滑った肉片が飛び散る。

「なっじゅ……なっじゅ……わだじだぢのあがぢゃんよ……ほらみて」

 ガブリエラがナッシュの元に屈み込み、首なしの赤子を彼の鼻先に突きつける。

「ほら……あがぢゃん」

 その言葉を耳にした瞬間、ナッシュの腹の中に、もう何年もなりをひそめていた黒い感情が突如として火を吹いた。

 それは、すべてが始まった――あるいは、すべてが終わったあの夜、あの女・・・をベッドの上で殴りつけた時のものと似た感情だった。

「だいで……わだじだぢのあがぢゃんだいで?」

「違うッ!!」

 ナッシュは叫ぶ。

 そして、ガブリエラを思い切り突き飛ばす。立ちあがり、床に置かれたままの斧に手を伸ばした。

 その斧を構えてガブリエラの方を向いた。

 彼女は四つん這いとなり、突き飛ばされた拍子に床へと投げ出された首なしの赤子に向かって右手を伸ばしたところだった。

「わだじだぢのあがぢゃん……」

「違うっつってんだろッ!!」

 彼女の背中に斧を振りおろす。

「死ね! 化け物!」




 ……化け物。いったい、それは誰の事だろう。

 ガブリエラは、ぼんやりとした意識の中で、疑問に思った。

 ……自分は綺麗になれたはずだ。血被り姫から、本当のお姫様になれたはずだ。

 それは、どうして。どうやって。誰のお陰で……。

 不意に、頭に過ぎる。

 黒い髪、地味で垢抜けない容姿。

 何時も白い服を着ていた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

 彼女は言った。

 生まれて初めて化粧してドレスを着せてもらい、仕立て屋の姿見の前に立つガブリエラの事を見ながら……。


 「うん。すごく、綺麗だし可愛い!」


 それを自分の事の様に、喜んでいた。




「さ……ま……ら」

 ガブリエラは、彼女の名前を口にする。

 しかし、ナッシュは、それに気がついた様子も見せずに斧を振るい続ける。

「死ねよ! クソ汚い化け物の分際で! よくも俺の幸せを!」

「……なっじゅ、ちがう、あだじ」

 鮮血が飛び散る。

「俺の幸せを邪魔するんじゃあないっ! 死ね! 化け物の畜生めッ!」

「あだじ……きれいに……なっだ……んだよ」

 肉片が舞う。


「よくも……よくも、よくも、よくもよくもよくもぉおおお!! この醜い化け物めッ!!」

「ばけものじゃ……ないんだよ……なっじゅ」


 その感情に任せた凶行はしばらく続き、振りおろされた斧がガブリエラの後頭部を叩き割った直後、ようやく終わりを告げた。

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