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【17】マタニティブルー


 草木の葉が緑に萌える、その年の夏の終わり頃。

 レモラのお腹も随分と大きくなった。

 しかし、ナッシュは不安で不安で、仕方がなかった。

 もちろん、彼が気に病んだのは豚頭病の事だ。

 かの病気は、本当にエリクサーの服用で予防できるのか――。


 彼はこれまで、まともにこの病について、考えて来なかった。

 あの日、レモラ姫と城で夜通し愛を語り合った翌朝。

 ガブリエラが豚頭の赤子を死産したと聞いた時、彼の頭に過ぎったのは、彼女が不義密通を働いていたのではという疑いであった。

 オークごとき亜人種に自分の妻を奪い取られた。そう勘違いした彼は、たいそう怒り狂った。

 しかし、すぐに人間とオークの間では、何をどうしても子をなす事はできないと聞かされ、更に豚頭の子供を死産したのは、彼女だけではない事を知った。

 そのときナッシュは、ほっと胸をなでおろしただけで、それ以上この件について考えるのをやめてしまった。

 自分の所有物が汚された訳でないならば良い。それに男には関係のない病気だ。

 そこで、ナッシュのこの件に関する思考は中断されてしまった。

 しかし、今はレモラがこの病にかかっているかもしれないと考えただけで気が狂いそうになった。

 豚頭病の事を治療術師のヘンリー・ハワードに、こっそりと相談しようかとも考えた。

 しかし、それには、自分達があのアッシャー王国の出身者である事を明かさなくてはならなくなる。

 そうなったら、折角、馴染んだこの村の人々は自分達をどう思うだろうか。

 下手をすれば、今の幸せな暮らしを捨てなくてはならない――。


「クソッ!」

「あらあら、どうしたの?」

「あ……ごめん、レモラ」

 仕事が終わり、家に帰り、二人向かい合ってご飯を食べていると、ついつい思考が口から漏れ出してしまった。

 レモラはクスクスと笑いながら、かなり大きくなった自らのお腹をそっとなでて微笑む。

「ほら。そんな汚い言葉を使って、赤ちゃんが聞いていたらどうするの?」

「レモラ……」

 ナッシュは、あくまでも気丈に振る舞おうとする自らの伴侶の姿を見て、申し訳ない気分になった。

 こんなときこそ、男である自分がしっかりしなければならないのに……。

 レモラはそのまま、自らのお腹に目線を落としながら優しく語りかける。

「私だって、不安よ? ……でも」

 そこで言葉を区切り、彼女は顔をあげて微笑む。

「絶対に大丈夫。だって、こんなに幸せなんだから。私達」

 確信に満ちた力強い笑顔。

 ナッシュがこれまで見てきたどの彼女とも違う表情だった。

 それは女性が母親になる権利を得たと同時に持ち得る、逞しさと優しさの発露である。

「レモラ……」

「何?」

「なんか、ごめんな……俺ばっかり、おたおたしてさ。これから大変なのは、お前なのにさ」

「良いわよ、別に」

 自己嫌悪でしょぼくれて肩を落とす、かつて世界を救った勇者ナッシュ・ロウ。

 そんな彼の姿を見てレモラはくすりと悪戯っぽく微笑み、椅子から腰を浮かす。

 そして、テーブルの上の空いた食器を片付け始めた。

「あ、俺がやるよ……ごめん、レモラ」

「良いわ。座っていて」

「でも」

「良いから座っていて!」

「はい」

 強めに言われ、素直に従うナッシュ。そして、昔とは違い、すっかりとレモラに頭があがらなくなったと心の中で苦笑する。

 何時からだろうか。

 彼女のお腹に愛の結晶が宿ってからだろうか。いや……ナッシュは思い直す。もっと、ずっと昔からだ。

 すべてを捨てて王城から続く暗いトンネルを潜り抜けたあの日から。まだ見ぬ新しい世界に、二人で一歩踏み出した時から。


 ……しかし、こんなのも悪くない。


「なーに、にやにやしてるの?」

「別に」

 レモラが、食器を荒い場に持って行ったあと、再びナッシュの正面に座った。

 大きなコバルトブルーの瞳が、ぱちりと瞬く。

「ねえ。ナッシュ。明日、仕事が終わったら、すぐに帰って来なくていいから『ケルピー亭』で、一杯だけ飲んできなさいよ」

 ケルピー亭とは、このシャルフに唯一ある酒場で、村の男達の社交場となっていた。

「えっ、でも……」

 と、何かを言いかけたナッシュより先にレモラは言葉を被せる。

「最近、全然、あっちに顔出してないでしょ? たまには気晴らしでもしてきなさいよ」

 何と答えたら良いのかわからず、口の中で言葉をさまよわせるナッシュ。そんな彼を見てレモラは、くすりと笑う。

「私の事は心配しなくていいから。ただし……」

 レモラが鹿爪らしい顔で、人差し指を立てる。

「一杯だけよ? それから……」

「絶対に浮気はしない……だろ?」

 ナッシュはレモラの言葉を先回りして、にやりと微笑む。

 それを見たレモラは、安堵した様子で肩の力を抜く。

「やっと、笑ってくれた」

「ごめん」

「ほらぁ! また暗い顔!」

「ごめんって」

 二人は顔を見合わせて同時に吹き出す。

「あははははっ」

「うふふふふっ」

 王城よりもずっと狭いその家の中は、この日の夜も温かな笑い声に満たされていた。




「なっじゅ……なっじゅ……わだじのあがぢゃん……」

 ガブリエラは野山の道なき道を行く。

 転び這いずり、再び立ちあがり、泥まみれに、擦り傷だらけになりながら、愛する者の元へと進み続ける。頭の中で囁き続ける、その声に導かれて。

 彼女はずっと劣等感に苛まされ続けていた。

 可愛らしく女らしいティナに、エルフ族特有の神秘的な美貌と垢抜けた雰囲気を共存させたミルフィナ。

 二人に比べたら、戦い方しかしらない自分は何と無力な存在なのだろうかと。

 女として、大きくこの二人に劣っている。二人のみならず、垢抜けないあの女・・・にすら自分は劣っている。少なくとも彼女は真剣に、そう思っていた。

 だから妊娠する以前の彼女は、彼が望むままの事を何でもやった。どんな異常な行為でも。

 例え苦痛を感じようが、決して彼女はナッシュに命令された事は拒否しようとしなかった。

 そうしなければ、二人のライバルに勝利を収める事などできないと考えたからだ。

 彼女は文字通り、身も心も、ナッシュにすべてを捧げていたのだ。

 しかし、その甲斐あってガブリエラは一度だけ、勝利をこの手に収める事ができた。

 世界で一番早く彼からの愛の証をお腹の中に宿す事ができた。

 ティナでもなく、ミルフィナでもなく、姫や他の浮気相手でもなく、その栄冠を手にしたのは女として劣る自分自身だったのだ。

 この時、彼女は間違いなく世界で一番幸せであった。

 ガブリエラは世界の頂点にいる、誰もがうらやむ女王様になれたのだ。

 しかし残念ながら、これが彼女の人生における絶頂であった。

「なっじゅ……なっじゅ……なっじゅとわだしぃのぉ、あがぢゃん……」

 ガブリエラの目の前の景色が開けた。

 そこは、小高い山の頂上だった。

 山深い木々に覆われた下りの斜面が血の様に赤い夕焼けに染めあげられている。

 その向こうに見下ろせるのは――。


「あがぢゃん……わだじのあがぢゃん、あぞごにいるのぉ……?」


 ナッシュとレモラの暮らす、シャルフ村であった。




 すっかりと日が落ちて暗くなった。

 レモラはナッシュが何時帰って来ても良い様に、軒先に明かりをつけた。

 玄関の扉を閉めて、また部屋に戻る。

 ナッシュの前で気丈に振るまっていた彼女だったが、内心ではやはり不安で仕方がなかった。

 初めて妊娠した事を聞かされた時、嬉しいと思う反面、罪悪感もこみあげて来た。

 それは、王城の暗いトンネルを抜け出て以来、彼女の心の枷となっていた物と地続きになっている感情だった。

 ずっと、三人の妻を尻目にナッシュと通じ合い、不義密通を働いて来た自分が幸せになって良いのだろうか……と。常々、彼女は誰にも明かさずに心の中で自問自答して来た。

 しかし、だからといって、ようやく巡って来たチャンスをみすみす捨てるのも忍びなかった。

 長い旅の間、彼女はずっと考え続け、そして、シャルフに辿り着いた頃、ひとつの答えを導き出す。

 裁きは天に任せよう――と。

 これから、自分は愛する人と共に全力で幸せを掴み取る。

 もしも、天がこれまでの罪を許してくれないのならば、自分達はどう足掻いても幸せになれないはずだ。

 そう思ったレモラは、このシャルフ村で、これまで以上にありとあらゆる事に神経を注ぎ、頑張って来た。

 その結果、すべては上手くいって、ナッシュも大きく変わってくれた。

 昔は単なる浮気相手でしかなかった自分を敬い、一途に見てくれている。それはレモラにも、はっきりと感じ取れていた。

 そして、そんな彼との愛が実り、彼女は輝かしい希望をお腹の中に宿す事ができた。その希望は、彼女にとって、天が自らの幸せを認めてくれた証――免罪符でもあった。

 すべてが順調で、思った以上だった。

 自分が今、誰よりも高い雲の上にでもいる様な、そんな風にも思えた。

 それでも、やはり、喉の奥に引っかかった小骨の様な漠然とした不安は拭い去れない。

 因みに、彼女にはもう、王国の再興という父の悲願を叶える為に行動するつもりはなかった。

 どだい無理な話に思えたし、何より今の幸せを捨ててまでなし得えなければないとは、どうしても思えなかったからだ。

 ここで、このままずっと嫌な事は全て忘れて、愛する家族達とささやかで幸せな人生を送りたい。

 それが、今の彼女の望みだった。

「……動いた」

 窓際のゆったりとした椅子に身を沈め、幸せを噛み締めるレモラ。お腹をなでながら、自らが送り出した最愛の人の帰りを待つ。


 ……大丈夫。この子は動いている。エリクサーを飲んだのも一度だけ。中毒症状もない。


 レモラは、湧きあがる不安を抑え込み、ふと聖母の微笑を口元にたたえる。

 と、その瞬間だった。

 玄関の扉が激しく叩かれた。

 驚いて身を震わせるレモラ。

「……何なの?」

 その随分と慌てた様子のノックに嫌な予感が過ぎる。

 まさか、ナッシュに何かあったのかもしれない。そして、村の誰かが慌ててそれを報せに来たのではないか。

 そう考えたレモラは椅子から腰を浮かせて玄関へと向かう。

 その間もずっと、激しいノックは続いていた。

 少しだけ冷静さを失ったレモラは躊躇なく扉を開けた。

「……どなた? まさか、主人に何か」

 すべてを言い終わる前だった。


「わだじのあがぢゃん……かえせ」


 絶叫が響く前に、レモラの顔面に骨ばった拳がめり込んだ。

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[一言] このクズは自分のした事を忘れて何が幸せなんだからだよ
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