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【16】初恋


 ナッシュ・ロウとレモラ姫は、隠し通路を抜けてアッシャー王国の北の山中へ出る。

 そのあと北上を続け数ヶ月の長旅の末、ベルフリンクルという国に辿り着いた。

 そこから更に紆余曲折を経て、片田舎のシャルフという何の変哲もない村に落ち着く事となる。

 この村は数年前まで近くに宿場町があり、それなりに栄えていたのだが今は寂れていた。

 そんなシャルフ村で、二人は慣れない異国での暮らしに四苦八苦するも、何とか力を合わせて徐々に馴染んでいった。

 箱入りで世慣れしていないかに思われたレモラ姫は基本的に器用で要領よく、何でもこなし、ナッシュはそんな彼女を頼りにし、ますます依存する様になっていった。

 この頃になると、ナッシュは別人の様に大きく変わっていた。以前の傲慢な勇者だった頃の面影はすっかりなりをひそめ、真面目で実直な美男子となっていた。

 彼も彼なりに色々と考え、これまで通り、浮ついたままではやっていけないと、己を省みた結果であった。

 そしてレモラの方は、そんな彼の事を立てながら、あらゆる物事に対して見事な采配を振い続けた。

 彼女はその血筋どおり、人の上に立つべく生まれてきた完璧な女性であったのだ。ただし、男を見る目には恵まれなかった様だが。

 ともあれ、二人はシャルフで持ち主のいなくなった畑を貸し与えられ、そこで必死に働いた。

 一年目は勝手がわからず、さほど振るわなかった収穫量も、レモラの慧眼と知恵により翌年には増大した。

 この頃になると、二人はすっかり村に溶け込んでおり、しっかり者のレモラと真面目なナッシュの美男美女カップルとして、村の人気者となっていた。

 そうして、その年の暮れに二人は村の小さな教会で結婚式をあげた。

 かつてナッシュが三人の妻と将来を誓い合ったプルトの大聖堂での結婚式よりも、ずっとささやかであったが、それは温かなものだった。

 おごそかに神前で愛を誓い合ったあとは、村人が総出で二人の新たな人生の門出を祝ってくれた。

 教会の庭先に並べられた机には、村の特産であるジャガイモを使った素朴な料理や、腸詰めに野菜の酢漬け、葡萄酒にエールがひしめき、人々は笑顔で共に幸せな時間を分かち合ったのだった。




 結婚式からしばらく経った。

 その日、朝からレモラの体調が思わしくなく、ナッシュは村の治療術師の元へと彼女を連れて行く事にした。

 この日は仕事を休み、一日中レモラのそばにいようと思ったナッシュだったが、彼女にやんわりとたしなめられる。

 結局、軽い押し問答の末に診察の結果を聞いてから、仕事へ行く事になったナッシュだった。

 因みに、この村の治療術師はヘンリー・ハワードという名の男である。当然ここはアッシャー王国ではないので、彼は治療に必要な魔法を使う事ができる。検査の方も身体の異常を見破る聖眼せいがんの術によって行われるので間違いはない。

 古びた木造の治療術院の待合室で天井を見上げながら、ぼんやりと検査が終わるのを待つ。

 以前のナッシュならば女の体調など、例え自分の嫁であったとしても心配などしなかっただろう。

 彼にとっての女性とは、単なる勲章やトロフィーと同じであったからだ。

 しかし、今の彼にとって、レモラはかけがえのない存在となっていた。

 単に生活を支えてくれる有能な賢妻であるというだけではなく、彼女の事を考えるだけで胸の奥がじんわりと暖かくなったし、彼女の身を案じている今は胸が張り裂けそうだった。

 自分をずっと支えてくれた彼女の恩に報いたいと真剣に思っていたし、彼女といるだけで心が満たされた。

 そこでナッシュは、ふと思った。

 自分は人生で初めて恋をしているのかもしれないと……。

 そんな取り留めもない思考を中断させたのは、診察室の扉が開く音だった。

 ハワードが扉口に顔を出す。

「ナッツさん……」

 ナッシュはこの村ではナッツ・ローズと名乗っていた。因みにレモラはレイラという偽名を使っていた。

「こちらにいらしてください」

 鹿爪らしい顔で手招きをするハワードに従い、診察室に足を踏み入れる。

 すると、その瞬間、レモラが抱きついて来た。

「うわっ……ちょっと」

「あなた……」

 首に腕を回したまま、潤んだ瞳でナッシュを見上げるレモラ。

「どうしたんだ? 何か厄介な病気なのか?」

 レモラは首を横に振り、ナッシュの胸に顔を埋める。

「違うの。やっと、できたの……あなたの子供が」

 弾かれた様にナッシュはハワードの顔を見た。彼は人の良い笑みを浮かべ、朗らかに微笑む。

「間違いありませんよ。おめでたです」

 心当たりはあった。レモラに頼まれ、一度だけエリクサーを使っての夫婦の営みを行った。

 きっと、その時の子供だろう。

 ナッシュはレモラを堅く抱きしめる。

「……良かった。変な病気じゃなくて」

「あなた……」

 胸の内から湧き出た形容できない喜びが目蓋の裏を焦がし、両目からとめどなく溢れ出た。

 ナッシュはむせび泣く。

 過去に犯した罪をすべて忘れて。

 まだ、寒風吹き荒ぶ、春先の事だった。




 そこは窓のない真っ白な部屋だった。

 その中央にある大きな寝台の上にレモラがいた。

 白い服を着ており、真っ白な布に包まれた赤子を抱いている。

「ほら、ほら……よし、よーし……良い子、良い子」

 ナッシュが寝台に近づくと、赤子は声をあげて泣き始める。

「あらあら、どうしたの? ほら、よーし、よし……」

 赤子は泣き止まない。

 ナッシュが寝台の縁に立つと、レモラが彼を見上げながら幸せそうな笑顔で言った。

「ほーら、パパでちゅよー」

 そのとき、ナッシュは気がついてしまった。レモラが抱き締めているのは、暗緑色あんりょくしょくに腐乱した豚頭の赤子であった。


「あなだどわだしのあがぢゃんよォ……」


 そのしゃがれた声は、レモラのものではなかった――


 目を覚ますと、そこは寝室だった。

 隣ではレモラが幸せそうな寝息を立てていた。

 ほっと胸をなでおろすナッシュは、彼女のアッシュブロンドの髪をそっとなでる。

 日差しの照りつける中での畑仕事で、少し傷んでしまった彼女の髪の毛。

 それでも、ナッシュにとっては以前よりも尊く、美しく感じられた。

「ん……どうしたの?」

 レモラが目を覚ます。

「ごめん。起こしちゃった?」

「別に良いけど……明日も朝早いんだから」

 レモラがすべてを言い終わる前に、ナッシュは彼女の唇を人差し指で軽く抑えた。

「わかってる。明日から、君の分まで俺が頑張らないと……」

「まだ、大丈夫よ。私もちゃんと仕事に出るから」

「でも……無理はいけないよ。お腹の子供に何かあったらさ」

 ナッシュは、このとき、ふと夢の事を思い出して不安になる。

 しかし、レモラは何時もの笑顔を見せる。

「お腹の子供の為に、もっといっぱい頑張って、稼がないと。そうでしょ?」

「うん。でも……」

 口の中で言葉をさまよわせるナッシュの唇を今度はレモラが抑える。

「大丈夫。無理はしないから。約束する」

「わかった」

 渋々、頷くナッシュ。

 レモラは微笑み、その唇に口づけをする。

「……さあ、寝ましょう。夜更かしはそれこそ身体に悪いわ」

「ああ。わかった」

 再び目を閉じる二人。

 そして……。

「ねえ、ナッシュ」

「なんだい?」

 レモラは少し間を空けてくすりと笑う。

「ありがとう」

 その言葉だけで、ナッシュの心は大きく満たされた。




 レモラの妊娠が発覚してから、数ヶ月後の事。

 そこはベルフリンクルの国境沿いの山中であった。

 木立に囲まれた川沿いの土地に建つ丸太で組まれたその小屋には、六人の精強な猟兵レンジャー達が詰めているはずだった。

 彼らは国境を無断で越えようとする不法入国者の監視や危険な魔物の討伐を任務としていた。

 しかし、勇者ナッシュ・ロウとその仲間達により魔王が討伐されて以来、世界からは危険な魔物は減り、彼らの仕事はひまを持て余す様になっていた。

 しかし普段ならば、退屈を紛らわせる為に彼らがこっそり持ち込んだ酒や煙草の臭いが充満している小屋の中は、強烈な鉄錆の臭いで満たされていた。

 まず玄関から入ってすぐのリビングでは四人が頭を叩き割られて中身をまき散らしていた。

 そのリビングから玄関とは反対方向へと延びた廊下の真ん中に、右側の壁にもたれかかり、腹を両手で抑えつけながら息絶えた男の姿があった。彼のその指の隙間からは、ピンク色にぬめった中身がまろび出ている。

 更にその廊下の突き当たりにある右手の扉の奥は寝室になっており、寝台の上には胸板を叩き割られた男がシーツをおびただしい血で汚していた。

 その喉元に喰らいつき血を啜るのは――。


「なっじゅ……どご?」


 薄汚れた狂女だった。

 腐肉に喰らいつくハイエナの様に、鼻をすんすんと慣らしながら狂女は地の底から響き渡る様な声で囁く。

「なっじゅ……わだじ……がんばる、がんばるよ……もういちど」

 その狂女こそ、かつては最強の美少女戦士とうたわれた勇者ナッシュ・ロウの妻、ガブリエラ・ナイツその人であった。

 彼女はアッシャー王国崩壊後も、王都プルトをさまよい、屍を喰らいながら生き続けていた。

 そして数ヶ月前に、彼女は自らの子供が北の地にいるとの天啓てんけいを得た。

 以来、頭の中に直接響き渡る何者かの声に導かれて、この土地までやって来たのだ。

「いない……いない、どこにもいないのぉ? ……わだじのなっじゅ! あああああああああッ!!」

 絶叫し男の首元から血まみれになった顔をあげると、近くの床に置いてあった斧を手で持って立ちあがる。

 そして、男の死体へと一心不乱に斧を叩きつけ始めた。

「ああああああああああ……がえせ! がえせ! わだじががっだんだ! わだじがいぢばんじあわせなんだぁああああ!!」

 粘度の高い湿った打撃音が室内に鳴り響く。

「ああああああああああ……」

 そして、しばらくすると、ふと斧を振るうのをやめて、ガブリエラは斧を持ったまま、覚束ない足取りで小屋の玄関へと向かった。

「なっじゅ、なっじゅ……わだじのなっじゅ……まってで……いまいぐがら。わだじがんばるがら……」

 玄関の扉が開けられ、ガブリエラはその向こうに広がる真緑の中へと姿を消した。

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