【14】アッシャー王国の崩壊
ティナとミルフィナが人知れず人生の終わりを迎えた頃。
ナッシュ・ロウは相変わらず王城に閉じこもったまま、レモラ姫と愛を語り合う毎日を過ごしていた。
女神の選定によって得た力を失って以来、ナッシュ・ロウは大きく変わった。
昔は目に映る女性全てと関係を持ちかねない勢いであったが、今はすっかりとレモラ姫一筋になっていた。
彼女が現在の自分を庇護してくれる存在であるからだ。
もしも姫の機嫌を損ねて城を追い出されてしまえば、自分を快く思わない連中がひしめく場所へ、そして、既に顔も見飽きた妻達のいる陰気な家に帰らなくてはならない。
ナッシュはそうなる事を心の底から怖れていた。
だから城で働く侍女達には見向きもしなかったし、表面上ではこれまで通りの態度を取りながらも、すっかりとレモラ姫に依存する様になっていた。
レモラ姫の方もナッシュの微細な変化を目ざとく感じ取ってはいたが、彼に愛される事は本望であったので、そのままにしていた。
そんな歪んだ蜜月を過ごす二人に対してアッシャー王国は末期状態となっていた。
治安の悪化に伴い、王都と周辺地域は完全に分断され、飢餓や凶賊の襲撃により農村や町がいくつも消滅した。
王は軍を動かして治安維持に奔走していたが、人手が全く足りない。
この混乱を収束するのに、一騎当千の英傑として知られる勇者ナッシュ・ロウの力を期待する声も当然あった。
しかし、ナッシュは助力を乞われるたびに古傷が痛むだの、熱が出ただのと嘘を吐き、のらりくらりと戦地への出動を拒絶し続けた。
レモラ姫もナッシュの意を汲み、何かにつけて彼をかばいたてる。専属の治療術師にナッシュは病気で指一本動かす事はできないという嘘の診断結果を公表させたりした。
しかし、そんなある日の事だった。
とうとうナッシュにも動かざるをえない日がやってきた。
東のバエル公が私兵を率いて国王に反旗を翻したのである。
バエル公の軍勢八千が王都プルト目がけて進軍を開始した。
これを王都の東に広がる丘陵で迎え討とうと考えた王国騎士団は総勢三万。
普通ならば、どう考えても王国側が勝てる戦であった。
しかし、バエル公の私兵は呪いを恐れず、金の為ならなんでもする獰猛な異国の傭兵達だった。異国の出身者であるから、彼らは当然ながら魔法を使う事ができる。
バエル公は粗悪品のエリクサー売買で儲けた大枚をはたき、この傭兵達を自陣に引き入れたのだ。
対する王国騎士団は、魔法の恩恵を受ける事はできない。更に連日の激務に加え、ろくに食事を取っていない彼らの士気は風前の灯火であった。
これはもう、戦争と呼ぶのもおこがましい茶番にしかならなかった。
防御魔法の加護を受けた傭兵達は普通の武器で傷つける事がほとんどできないばかりか、王国弓兵の射程圏外から炎の礫や雷を撃ってくる。
かくして三万という大軍は敵兵を一兵も損なわせる事ができずに、早々に大敗してしまう。
勢いをつけたバエル軍は、そのまま王都へと進行を開始。
先の戦の惨憺たる結果を耳にしていた王都城壁の守護兵達はあっさりと降伏し、バエル軍を町中へと引き入れた。
それからが地獄の始まりであった。目を覆う虐殺と略奪が始まる。
逆らう者、逃げる者、降参する者、すべての王都民が面白半分になぶり殺された。
刺され、裂かれて、引きずられ、殴られて、棄てられた。
至る所の軒先や並木に死体が吊された。
死体の山が、そこら中に築かれて、火をかけられて燃やされた。
王都の西を流れるメディア河は、死体の山によりせき止められ、その水面は何日も赤く澱んだままだったのだという。
バエル公もこれを特に咎めようとはしなかった。むしろ彼も積極的に女子共を殺し、その肉を喰らったのだという。
兎に角、日を追うごとに凄まじい勢いで死者が増えていった。
あの四人が幸せな未来を誓い合った大聖堂では、生きたままの王都民が五百人ほど集められ、閉じ込められて火をかけられた。
五百人は巨大な石造りの建造物により釜焼きにされ、全員が死に絶えた。まさに鏖殺である。
この残虐非道な行いをバエル公は焼け残っていた日記にて、こう振り返っていた。
「頭の中の声に命令された」と……。
そのバエル公も、本陣を襲った原因不明の火災に巻き込まれ焼け死んだ。
こうして、アッシャー王国は崩壊し、地図上からその名前を消したのだった。
それはバエル公が王都に攻め込んだばかりの頃であった。
石造りの王城の地下階にある湿った薄暗い部屋。そこは王家の者しか立ち入れない秘密の部屋だった。
「良いか。勇者ナッシュ・ロウと我が娘よ……」
国王は震える右手で、その壁から突き出た石の車輪を左右に回し続ける。
「お主らで子をなし、王家の血を絶やすな……」
更に国王は車輪を左右に回す。
この車輪が隠し通路を開く仕掛けになっていた。
「その為には、この地を襲った呪いの正体を突き止めなくてはならん……忌々しい豚頭の呪いを打ち破るのだ」
「はい。お父様……」
レモラ姫はナッシュの右手を握り締め、力強く答えた。
その顔つきは、かつてナッシュにされるがままとなっていた気の弱い姫君とは別人の様だった。
恋はいつしか愛となり、その力は大きく彼女を成長させたのだ。
対照的に表情を不安げに曇らせるナッシュにかつての尊大さは欠片も残されていない。それは、まるで、暗闇に脅える幼子の様にすら思えた。
やがて石の車輪が、鈍い起動音と共に壁へとめり込み、鎖と石のこすれる音と共に部屋の中心に地下への階段が姿を現す。
「……この通路は北の国境を越えた山中へと続いておる。そしてお主らが、この部屋を出たあと天井が崩れ落ち、通路の入り口は塞がれる。誰もお前達の事は追えん」
「お父様は、ここに残るというのですか……」
涙を浮かべた娘のその問いに、国王は重々しく頷く。
「そんなの……いけません。お父様もご一緒に……」
レモラ姫は泣きながら、国王にすがりつく。
「わかってくれ。レモラよ。天井を落とす仕掛け動かし方を知っている者は、最早ワシしか残っておらん」
その瞬間だった。
部屋の扉の外から伝令の声が響き渡る。
「……外堀の城門、突破されました! お急ぎを」
王は扉に向かって「わかった!」と返事をすると、再びレモラとナッシュに向き直る。
「お主らは、このワシの……王国の最後の希望なんじゃ。わかってくれ。レモラ……」
「でも、でも……お父様……」
レモラ姫が床に崩れ落ちる。
そんな亡国の姫君のたもとでナッシュは屈み込み、優しく語りかける。
「……行こう。レモラ」
「ナッシュ……」
互いの吐息がかかる位置で見詰め合う二人。
「王の覚悟を無駄にしてはいけない。俺達の愛の力で……王の想いを……未来へと繋ぐんだ」
レモラはたっぷりと逡巡したあと、決意の籠もった眼差しで頷き、立ちあがる。
その一部始終を見ていた国王は、朗らかに笑いながら言った。
「……流石は勇者ナッシュ・ロウじゃな。既に覚悟は決まっている様で安心した。ワシが見込んだだけの事はある」
もちろんナッシュには、そんな覚悟など欠片もなく、この場所から早く逃げ去りたいだけであったのだが。
「娘を……頼んだぞ?」
「はい。必ず」
ナッシュは力強く頷き返すと、レモラの右手を引っ張る。
「早く行こう。レモラ」
「お父様……!」
最後に別れを惜しむレモラ。
「いいから、早く! 来るんだレモラ」
その右手を引きずり、いそいそと階段へ向かうナッシュ。
それを見送りながら、王は左手に持った宝剣を鞘から抜いた。
「なに。簡単に死んだりはせんわ。このアッシャーの金獅子が、賊共に目に物見せてくれる」
「お父様……!」
「もういいから、早く来いよッ! クソ!」
その声と共に、ナッシュとレモラは階段の奥へと姿を消した。
すると王は部屋の外に出て、入り口の右手にあった石の車輪を左右に回し始める。
それが終わると、秘密の部屋の中から地鳴りの様な音と震動が伝わって来る。
天井が落ちて隠し通路の入り口が塞がったのだ。
「……さてと。何人を道連れにできるかな……」
王は不敵に笑いながら、部屋の前から続く階段を一歩一歩踏みしめながら地上へと戻る。
彼は、ずっと楽観視していた。
豚頭病と魔力損失。
臣下に任せておけば何とかなるだろうと。
対策に某国からエリクサーを大量に買い入れた。それも裏目に出る。
気がついた頃には、もう取り返しのつかないところまで国は荒廃していた。
国の長としてのやるべき事、打つ手は他にあったのではないか。
国王は自問自答しながら、玉座の裏側にある隠し扉を潜り、謁見の間へと辿り着いた。
その隠し扉を閉めたあとだった。
敵兵が一気に雪崩れ込んで来る。
王は群がる敵兵をゆっくりと見渡しながら宝剣を掲げる。
「我こそは、アッシャーの」
名乗りをあげている途中であった。
その胸に弩の矢が突き刺さる。
「ぐえっ……」
蛙の様なうめき声をあげながら、滝の様に顎から流れる白髭の根元を赤に染め王は跪く。
指揮官らしき男が叫んだ。
「愚王を滅ぼせ!」
弦の弾ける音が一斉に響き渡り、無数の矢が飛び交う。
「た、ただのひとりも、道連れにできぬとは……」
王は床に沈み込みながら自嘲気味に笑った。
そんな哀れな年老いたひとりの男に、兵士が殺到する。
王は目を閉じる瞬間、自分へと群がる無数の軍靴の向こう側で、じっと立ち尽くす二本の汚れた足を見た。
「あれが、死神か……」
ひゅー、ひゅー……。
最後にその音を耳にして、アッシャー王は息絶えた。
すべてが終わり、多くが死に絶えた王都プルト。
その細い裏路地を、ひとりのバエル軍の兵士が歩いていた。上機嫌に鼻歌を口ずさんでいる。
彼は鉄兜をかぶり、右手で握ったブロードソードを肩に乗せ、左手には二つの生首を吊していた。
生首は共に若い女の物だった。二人共に死に際の苦悶の表情で凝り固まり、決して楽に死ねなかったであろう事は、ひと目で良くわかった。
「ふーふんふん、ふふふん、ふー、ふんふんふん……」
その兵士が四つ辻に差しかかった瞬間だった。
右手から猛然と獣じみた何かが躍り出て、兵士に飛びかかり、地面に押し倒した。
左手の生首が、木から落ちた熟れた果実の様に路面を転がる。
「クソッ、何なんだ……」
その言葉に答える事なく、獣の様なそれは、右手に持った戦斧を兵士の頭部に振りおろす。振りおろす。振りおろす。振りおろす……。
鈍い打撃音と水気の籠もった惨劇の音が、路地裏の空気を震わせる。
やがて緩慢にもがいていた兵士は、動かなくなり、ただの肉塊となった。
斧を振りおろしたそれは、屈み込むと、割れた鉄兜の隙間からこぼれた脳味噌を左手で乱暴にすくいあげて貪り喰らった。
「……ナッシュ、ナッシュ……私の……あいするひと……ナッシュ……私のあかちゃん……」
それは、かつて、その美貌と苛烈な強さでその名を轟かせていた女戦士ガブリエラ・ナイツであった。
「ナッシュ……どこ……ナッシュ……わたしとナッシュの赤ちゃん」
ガブリエラは、右手の斧の刃を地面に引きずって、どこかへ歩き去って行った。
「ナッシュ……待ってて。私、またがんばるから……」