【12】過去への逃亡
ミルフィナが館を去った翌日。
ティナは何時もと変わらず、地下室の片隅にいるその存在に脅えていた。
それは怨みの籠もった瞳で、常に惨めなティナを睨めつけていた。
ティナは悲鳴をあげたかったが、できなかった。随分前に声の出し方を忘れていたからだ。逃げ出したかったが、手足が腐っていて動かない。
心の底から謝罪して許しをこいたかったが、誰に何を謝ればいいのかすら思い出せない。
そんなティナの中に残ったのは、絶え間ない恐れの感情だけだった。
死にたくても死ねない。
一度だけ舌を噛もうとした。顎に力が入らず、上手く噛み合わせる事ができなかった。
その恐ろしい何かは目を瞑っても、眠りに落ちても、消える事はなかった。
彼女はずっと、怨まれて、責められ続けた。
気の遠くなる様な時間、気の休まる間もなく、恐怖を感じ続けていた。
しかし、この日、そんな無間地獄に終わりの時が訪れる。
けたたましい破壊音と共に地下室の扉の鍵が壊されて、開け放たれた。
眩い光が差し込み、その向こうからガブリエラがやって来た。
「おっ、おお……貴様のせいだぁあああああっ!!」
ガブリエラは顔を真っ赤にして、脂でべとついた錆色の髪を振り乱しながらティナの髪の毛を掴み、引っ張りあげた。
栄養不足のパサついた白髪混じりの髪の毛がごっそりと根元から抜けて、再びティナは床にへたり込んだ。
それを投げ捨ててガブリエラは右足で、彼女を蹴りつける。まるで畑の土を這う毒虫を踏み潰す様に蹴りつける。
「おお……貴様が! 貴様が! 貴様が! あの時、あんな事を言ったから! 私の! 赤ちゃあああんがぁああああ」
次にガブリエラは右手で持っていた斧を亀の様にうずくまるティナの背中に向かって叩きつける。
かつて幾千の敵兵にそうした様に……苦楽を共にした仲間に、同じ男を愛したライバルに、斧を振り下ろす。
肉片と鮮血が盛大に飛散する。
「おぉ……死ね! 死ねぇっ! お前のせいだぁ! お前のせいだぁっ!! ……返せ! 返せよぉ!! 私が勝ったんだぁ!! 私はお前達より上の女なんだぁあああああ!!!」
返り血を浴びて半狂乱でわめき続けるガブリエラ。
そして、彼女の背後には、それが佇んでいた。
ひゅー、ひゅー……と、口から隙間風の様な音を吐き出しながら。
その音を耳にしながら、遠のく意識の中、ティナは昔の事を思い出していた。
それは彼女と初めて会話を交わした時の事。
「……あっ、あの、よろしくね。女の子同士、仲良くして、欲しいかな……」
少し緊張気味にそう言ったのは、自分と同じ黒髪で、真っ白い服を着た女の子だった。
地味で垢抜けない彼女は、きっと人見知りする性格なのだろう。勇気を出して、今の言葉を口にしたに違いない。
その緊張しきった笑顔を見れば誰だってそう思う事だろう。
ティナはひとつ鼻を鳴らして、その女の子に向かって余裕たっぷりに言う。
「ええ。アタシはティナ。ティナ・オルステリアよ」
右手を差し出すと彼女はおっかなびっくりといった様子で握り返してきた。
少し汗ばんだ小さな手。
「私の名前は……」
「……サ、マラ」
現実のティナの唇から、それの名前が漏れる。
そこで、ようやく、すべてを思い出す。
最初は、単に見下していただけだった。
自分より下で、取るに足らない存在だった。
ではなぜ、彼女の事が大嫌いになったのか。
それは、彼女がガブリエラをナッシュの元へ導いたから。
そのせいで、これまで、ずっとひとりじめしていたナッシュとの時間をガブリエラと分けなければならなくなったから。
美しく初々しいガブリエラは、自分にはない魅力があった。
そして何より、ガブリエラの出現によって焦る自分とは違い、見下していた彼女は、それまでと変わらない態度で居続けた。
そもそも、自分がナッシュと恋仲になった事を知った時も彼女は平然としたままだった。
それが無性に腹が立った。
……あぁ、そうか。ワタシは勝ててなかったんだ。最初から。
惨めな負け犬だったのは彼女ではなく、最初から自分の方。
ティナはようやく、その答えに辿り着いた。
「ごめんなさい」
同時に、恐怖と薬物に犯されて隙間だらけになった彼女の脳味噌を、ガブリエラの振り下ろした斧が叩き割った。
その頃、ミルフィナは王都プルトから延びた街道をくだり、南海岸にあるシュトロムという港町を目指していた。
シュトロムから船に乗り、彼女の故郷の森がある南方大陸を目指す。
旅は順調だった。
気分もここ最近にないぐらい爽快で、体調も良かった。
持って来た食料が尽きたあとは、街道から少し外れた野山で得意の弓を使い、野鳥や小動物を狩った。
弓の腕は随分と鈍っていたが、自分の食料を狩る程度ならば問題はなかった。しばらくぶりの野宿も苦痛には感じない。
そんな中、ミルフィナはティナとガブリエラの事などすっかり忘れて、自分のこれからに思いを馳せる。
穏やかに時が流れゆく森の中で、何の変化もない緩やかな時間を生きる。
木の実を採って、狩りをして。
そんな、素敵なスローライフ……。
本来あるべきエルフの暮らし。
そういった、以前はくだらないと思っていたすべてが、今のミルフィナには、手に入らない高価な宝石の様に輝いて感じられた。
街道沿いに旅を続けて三日目の事。
「……酷い」
ぼそりとミルフィナは呟いた。
両側を上り斜面の深い森に挟まれた峠の道での事。それは後方からやって来た三台の馬車だった。
一台目は積み荷で、あとに続く二台には、後ろ手を縛られた幾人かの女と子供達がぎっしりと乗せられていた。
どうやら奴隷として売られるらしい。ミルフィナは顔をしかめて道の端に寄り、その馬車を見送った。人相がバレない様に、頭のフードをしっかりと抑えてうつむく。
魔王を倒したら、こうした不幸が全世界から消えると思っていた。
しかし、これでは何も変わらない。むしろ今のアッシャー王国の現状は、魔王討伐前よりずっと酷いものだった。
ミルフィナは馬車を見送りながら、深い徒労感を覚えた。
しかし、それからすぐに、自分が世界平和の為に旅を続けていた訳ではない事を思い出して自嘲気味に笑った。
当然、ティナもガブリエラも。ナッシュと一緒にいたかっただけだ。
そのナッシュですらも世界の事など、どうでも良かったに違いない。
きっと、純粋に世界に平和をもたらそうと考えていたのは彼女だけだ。
ミルフィナは思い出す。
自分達が死に至らしめ、暗黒の地の底へと投げ捨てた彼女の事を。
もう一度、去りゆく馬車に目線を送る。
すると、去りゆく馬車の後部から潤んだ瞳をこちらへ向ける幼い少女と目が合った。
ミルフィナは、ぎゅっ、と両手の拳を握りしめる。
「……ウチは、正義の味方じゃないの……ごめんなさい」
すると、その瞬間だった。
木が斬り倒される、かん高い音と地鳴りが周辺に轟く。
馬車の前方で、両脇から何本もの大木が倒れ込んで道を塞いだ。馬が嘶き、馬車が止まる。
それより少し遅れて、ミルフィナの後方でも同じ様に木々が倒れ込む。
「何なの……」
ミルフィナは再び馬車の方を見た。
すると、右の木立をぬって飛来した矢がじっとこちらを見ていた少女の側頭部に突き刺さる。
少女はそのままゆっくりと左へ倒れ込み、荷台の柵の向こうへと姿を消した。
再び馬の嘶きと悲鳴。
撃たれ、穿たれ、馬も人も死んで行く。
荷車につまれた女子供は身を丸めて、その矢嵐が過ぎ去るのをじっと待つしかなかった。
ミルフィナは肩にかけていた弓を手に取った。
すると、左右の森の中から、武器を手に持った者達が現れて一斉に馬車へと群がる。
山賊の集団だった。
「逆らう野郎は鏖しだ! 女と子供はとっつかまえろ!」
耳を塞ぎたくなる様な言葉。
まだ生き残っていた女子供が荷車から引きずり下ろされる。
誰もまだミルフィナには注意を払っていない。森の中に逃げ込むなら今だ。
しかし――。
「へっへっへ……奴隷商人に高く売れそうだぜ」
髪の毛を鶏冠の様に刈り込んだ男が、地面に転がった女を組み伏せる。
「ひっ、やめてください……」
「おらっ、立て!」
鶏冠の男は、女の髪を鷲掴みにして無理やり立たせようとした。
その瞬間だった。
鶏冠の男の頭部に矢が突き刺さる。
ミルフィナだった。
すぐに彼女は、つい我慢できずに矢を射ってしまった事を猛烈に後悔する。
どさっ、と男の体が崩れ落ちた。
「おい。何だ?」
近くにいた山賊の仲間達が、そこで、ようやくミルフィナの存在に気がついた様だ。
ミルフィナは更に一発、牽制射撃をしてから左手の森の中へと逃げ込んだ。
その直前でフードが、ぱさりと落ちる。
山賊達が一斉に叫ぶ。
「エルフの娘だぁああああッ!!」
全盛期のミルフィナならば、この程度の人数の山賊など、ものの数ではなかっただろう。なにせ彼女は魔王を倒して世界を救った勇者の仲間なのだから。
しかし、王都プルトでの堕落した生活の中で、すっかりと腕がなまってしまった彼女は、まるで狩人に追い立てられた野兎の様に、木々に覆われた斜面を駆ける。
「いたぞっ!! 捕まえろっ!!」
ミルフィナが立ち止まり振り返ると、木立の合間から追っ手の姿が見えた。
先頭の山賊に向かって弓を撃つ。だが、当たらない。
山賊達の嘲笑が耳をつく。ミルフィナは悔しさのあまり舌打ちをして、更に斜面を登る。
息があがり、脇腹が痛くなり、足が釣りそうになった。
ミルフィナは体力の衰えを実感する。そもそも彼女は元々、それほど体力がある方ではない。
そうして、しばらくすると周囲を取り巻いていた木々が突如として開けた。
「……あああ」
その眩い光と共に飛び込んで来た光景を見たミルフィナは深く絶望する。
そこは急角度で降下する崖の縁だった。
真下には轟々と流れる渓流が横たわっている。
後ろを振り向いた。
「へっへっへ……」
山賊達が笑い声を上げながらミルフィナの元へ迫る。
ミルフィナは弓を撃つ。当たらない。
もう一発撃つ。木の幹に突き刺さる。当たらない。
更に撃つ。木の枝に当たる。
また撃った。また当たらない……。
いくら腕が鈍っているとはいえ、ここまで外すのはいくら何でもおかしい。
ミルフィナの弓の腕前は魔王討伐の旅で磨かれ、一時は達人の域に迫っていたはずだった。
まるで、この山賊達は、何かの加護で守られているかの様だとミルフィナは思った。
「嫌……嫌っ」
弓を投げ捨て、腰の山刀を抜いた。
やがて山賊達は、崖の縁に立つ彼女を取り囲む。
山賊のひとりが両手の指先を蜘蛛の様に蠢かせながら言った。
「……勇ましいじゃねえか」
別な山賊が獣じみた視線で、ミルフィナの身体をねっとりと蹂躙する。
「……よくも仲間をやってくれたな!」
そこで、別な山賊が気がついた。
「おい」
「どうした?」
「こいつ、あの勇者ナッシュ・ロウの嫁じゃねえか?」
山賊達が息を呑み、ミルフィナの顔に視線を集める。
「本当だ……間違いねえよ! こいつ、あのクソ勇者の女じゃねえか!!」
その言葉のあとだった。
ひとりの山賊が猛然とミルフィナに歩み寄る。
「嫌っ!」
山刀を振り回すが、あっさりと手首を掴まれ、奪い取られた。ただの山賊とは思えない腕力だった。
「嫌ぁー!」
その悲鳴が終わらぬ間に、ミルフィナの頬に右拳がめり込んだ。