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【10】崩壊の序曲


 ルクレイア公太子の婚約破棄の一件で、アッシャー王国を襲った奇病についての噂は隣国から世界各国へと尾鰭をつけて伝播していった。

 原因不明の病を自国に持ち込まれてはかなわない。

 アッシャー王国との交易を取りやめる国や、渡航や王国民の入国を禁止する国が出始めた。

 おりしもその年は世界的な天候不順により作物が不足気味だった為、物価がじりじりと上昇する。

 やがて、王国内は慢性的な食料不足に陥り始める。

 そんな事にはまったく興味を示さない勇者ナッシュ・ロウは、その日、久々に自宅へと帰り、妻のミルフィナと朝食を取る事にした。

 およそひと月ぶりに目にしたミルフィナの顔は青ざめ、陰気でやつれて見えた。

 あのエルフの里で初めて出会った頃の様な、溌剌とした健康的な色香を何ひとつ感じない。

 こいつもティナとガブリエラの様にもう駄目かもな……と、ナッシュはぼんやりと考えながら食卓の上のスープをスプーンですくった。その瞬間だった。

「……おい」

「……なに」

 ミルフィナは一拍遅れて、疲れた様子で返事をした。

「なんだ、このスープ。何も入ってないじゃないか……」

 ナッシュはスープ皿をぐるぐると掻き回す。そのジャガイモのポタージュには、何も入っていない。塩気も薄く味もない。

「これを作ったのは誰だ! こんな貧乏臭いスープ」

 きょろきょろと辺りを見渡し、大声を張りあげるナッシュ。それに答えたのは、ミルフィナの陰気な声のみだった。

「ないのよ……」

「ない? 何がだ?! 食材ならば、買ってくればいいだろうが?! 今日、俺が帰るって、事前に連絡はしてあっただろう?!」

「だから、ないのよ……あはっ」

 ミルフィナは、嘲る様に吹き出してスープをひと口含んだ。

「だから、ないなら買ってくればいいだろうが! お前まで気狂いになったのか!」

 ナッシュが癇癪かんしゃくを起こす。

 しかし、ミルフィナは一切動じた様子を見せず、スープ皿を見つめながら半笑いを浮かべる。

「あんただって知ってるでしょ? 今、王国は食料不足だって……」

 ナッシュは鼻を鳴らす。

「ああ。それぐらい知っているさ。でも、金を出せば手に入れられないほどではないだろ?!」

「売ってくれないのよ……」

「はぁ?! 何だそれは、買い占めか?! どこの商人だそれは……」

「みんなよ!! 全員!! ウチらには物は売れないって!!」

 ミルフィナは泣き叫びながら勢い良く立ちあがる。

 その剣幕にナッシュは思わず唖然とする。

「何で……」

 自分はこの国の……いや、世界を救った英雄だったはずだ。

 その英雄の家に物を売る事ができないというのは、一体どういう事なのか。

「ウチらのせいなんだって……」

 ミルフィナが皮肉めいた笑みを浮かべる。しかし、ナッシュはまだぴんと来ていない様だった。

「だから、何がだよ?!」

「だから、全部よ! 豚頭病は魔王の呪いだって!! 私達が、魔王を倒したから!! 私達のせいで、今の王国は滅茶苦茶になっているんだって……うっうう……」

「そんな……馬鹿な」

 流石のナッシュも唖然として言葉が出ない。

 魔王を倒した直後は、あんなにも自分達を持てはやしていた癖に。

 冷や水を全身に浴びせかけられた様な気がした。

 彼は、自分がレモラ姫に熱をあげている間に、とんでもない事態が起こっていたのをようやく認識したのだった。




 それから、ミルフィナはろくに朝食を食べる事なく自室へ引っ込んでしまった。

 ナッシュはというと、どっと疲れたので、寝室で仮眠を取ろうとした。しかし、ベッドに横たわり目を閉じた途端、微かにガブリエラとティナの動物じみた叫び声が耳について眠れない。

 頭に来た彼は、館をあとにして、この辺りの商人達を束ねるギルドまで足を運ぶ事にした。

 勿論、商品の購入を拒否された事を抗議する為だった。

 ギルド本部までの距離はさほど遠くはなかったので、歩く事にした。何時もは馬車での移動が殆どであったが、単なる気まぐれの気晴らしだった。

 すると、そこでナッシュは気がつく。街中の雰囲気が暗く沈んでいる事に。

 彼の脳裏にあった王都プルトの印象は、魔王が討伐されたばかりの頃で止まっていた。

 溢れる希望。新しい時代の到来を祝う人々の笑顔。輝かしい未来を見据えた活力。

 そういった、諸々の正なるエネルギーがすべて消え失せてなくなっていた。

 それは、自分が魔王を倒して掴み得た、かけがえのない物だったはずだ。

 しかし、今現在、目に映るこの風景はどうだろう。

 すれ違う人々の顔には生気がなく、路上に座り込む物乞いの数も以前より増えた様な気がした。

 更に、どういう訳か、火事にでもあったのか、焼け落ちたまま放置された建物が結構な頻度で目にとまった。

 まるで魔王討伐前の暗い時代に逆戻りしてしまったかの様だった。

「……いったい、何なんだこれは」

 ナッシュは気づかぬうちにまったく知らない世界に紛れ込んでしまったかの様な違和感を抱きつつ、古めかしい様式のギルド本部前に立った。

 入り口へと続く石段を登り、開かれたアーチ状の玄関を潜り抜けようとする。

 すると二人の門番が持っていた槍を交差させ、ナッシュの行く手を阻んだ。

「……おい。どういうつもりだ?」

 ナッシュが凄む。すると二人の門番が返答する。

「あんたこそ、いったい何の様だ?」

「何で、食料を売らない? 貴様らが今、こうして平和を謳歌していられるのも俺達が魔王を倒したお陰だろうが!?」

 すると右側の門番の顔がくしゃりと怒りに歪む。

「その魔王を倒したお前のせいで、俺の嫁は豚の死体を産んじまったんだよ!!」

 そして、ナッシュの右頬を思い切り殴った。

 打撃音と共に顔を逸らすナッシュ。その一撃のおかげで口腔に鉄錆の味が滲み出る。

 ナッシュは自らを殴った門番を殺意の籠もった目で、きっ、と睨みつけた。

「ひっ」

 彼を殴った門番がかすれた悲鳴を漏らす。もうひとりの門番も青い顔をしている。

 当然である。ナッシュは、あの魔王クシャナガンを倒して世界に平和をもたらした英傑なのだ。

 女神の選定の力を持つ者は、あらゆる武器や武術、様々な魔法を何の練習も修行もなしに突然使える様になる。

 普通ならば、ただが商人ギルドの門番風情が、太刀打ちできる訳がない。

「てめえ、死んだぞ……?」

 ナッシュは腰に差していた護身用の剣に右手をかけた。

 すると、彼は気がつく。


 ……あれ? 剣術ってどうするんだっけ?


 思い出せない。ならばと、魔法の呪文を唱えようとする。しかし、何も出てこない。

 彼は女神の選定で力を受ける前は、しがない宿屋のひとり息子だった。さして、出来が良かった訳ではない平凡以下の、その頃の自分に戻ってしまった様な気がした。

 ナッシュはもう一度、自分を殴った門番を見る。

 女神の選定の力抜きで勝てるだろうか。

 一応、ずっと過酷な旅を続け、何度も修羅場を潜り抜けてきたナッシュには、それなりの地力はある。

 しかし、この門番、ずっと自分より背が高く体格もデカい。それに長らく自堕落な生活をしてきた為、ナッシュの肉体はなまり切っている。

「こっ、このクソ勇者! 来るなら来やがれ……てめえが、どんだけ強かろうが、俺は絶対に退かねえぞ?! 差し違えてでも、てめえを地獄に送ってやる!」

 それは、追い詰められた獣の眼だった。

 何時の間にか周囲に人だかりができていた。彼らを見渡す。その目つきや表情から、自分の味方は、ただのひとりもいない事を悟った。

 ナッシュはひとつ溜め息をついて、吐き捨てる。

「今日は、これぐらいにしておいてやる……」

 その捨てゼリフを残して、人だかりを割ってギルド本部前から足早に立ち去った。

 そんな彼の後ろ姿に何者かが罵声を浴びせかける。

「お前だけが呪われろ!!」

 ナッシュが振り向く。

 すると、その瞬間、彼の額に何者かの投石が当たる。

「痛っ……」

 ナッシュは右手で額を抑えた。べったりと血がついていた。

 顔をあげると、ギルド本部前に集まった人々が全員、ナッシュの事をじっと睨んでいた。

「糞……」

 ナッシュは怒鳴り散らそうとした。

 しかし、もしも今、自分が女神の選定の力を失っている事を知られたらどうなるか……。

 想像して、ぞっとした。

 ナッシュは舌を打ち、なるべく平静さを装って、その場から立ち去った。




 館に辿り着き玄関を潜るとメイド達が駆け寄って来た。

「……ナッシュ様、お顔にお怪我を……どうなされたのですか?」

「いや、ちょっと馬車の車輪に弾かれた小石が当たったんだ」

 ナッシュは笑いながら嘘を吐いた。

「今、丁度、ガブリエラ様とティナ様の往診に、ヘクタール様がいらしています。呼んでまいりますので、少々お待ちください」

 ヘクタールは腕の良い治療術師だった。心身のあらゆる病の専門家である。

 ティナとガブリエラは精神だけではなく、体調を崩す事も多くなった。その為、近頃では頻繁に、この館へと往診に訪れていた。

 その彼の唱える回復魔法で額の傷や殴られた頬を癒やしてもらおうというのだ。

 ナッシュは玄関ホールの応接で腰をおろし、ヘクタールの事をしばし待った。

 すると白いローブを着た小太りの男が姿を現す。彼が治療術師のヘクタールだった。

「おお。ご無沙汰しております、ナッシュさん」

 ヘクタールは気の良い笑みを浮かべて、ナッシュの元にやって来る。

「先生もお元気そうで」

「おや。お怪我をされている……どうなされたのですかな?」

 その問いにナッシュは、メイドに吐いた嘘と同じ事を口にする。

 するとヘクタールは、呵々と笑い、

「無敵の勇者ナッシュ・ロウも偶然の悪戯には勝てませんなぁ」

 と、悪戯っぽく言った。

 しかし、女神の選定の力を失った今、その冗談は笑えないとナッシュは思った。

「……それはいいとして、折角の色男が台無しだ。癒やしてあげましょう」

 ヘクタールはそう言って、椅子に腰を下ろしたままのナッシュの前に立ち、その額に手をかざした。

 そして回復魔法の呪文を唱え始める。

 しかし、何も起こらない。

「おや……」

 ヘクタールが怪訝そうな顔で首を捻り、自らの右手を見つめた。今度は左手をナッシュの額にかざして呪文を唱えるが、

「……これは、いったいどうした事だ……?」

 やはり何も起こらなかった。


 この瞬間を境に、アッシャー王国全土から魔法の力が消えた事に、二人はまだ気がついていなかった。


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