夢花火
毎年八月の決まった日。
僕の妻は、その日だけ決まって僕の家へと帰って来る。
「ただいまー」
そんな声が聞こえると、僕は迷わず玄関先へと出ていく。
読書中なら栞を挟んで、料理中なら日だけ止めて、風呂上りなら――流石に服は着て。
涼しい顔をして上がり込んでくるその姿を、僕の方から出迎えに行くんだ。
今日の到着は二十時も半分程回った頃。
いつもより遅い帰宅だった。
「雨にやられたろう? 先にシャワーでも浴びて来なよ、湯を張ってあるから。丁度、料理もあと少しで出来上がる」
「まぁ、剛さんの手作りなんですか? それは嬉しいです!」
「まだまだ詩乃さんの味には遠いけどね」
「料理に一番必要なスパイスは愛情です! 大丈夫。愛がなければ、わざわざ手料理を振舞おうとも思いませんから。安心なさって出してください」
「それはありがたい言葉だ。着替え、いつものタンスに仕舞ってあるから」
施錠しながらそう促すと、妻はさっそくと風呂場へ向かった。
さらりとした長い髪が揺れる後ろ姿が、やけに寂しい。
僕はキッチンへ戻って、まだ途中だった料理を再開した。
今晩のメニューは、白米に海苔、味噌汁、漬物、焼き魚――と、純日本的なものばかりである。
少し味気ないかなとも思うのだが、毎年妻がそれを所望するのだから仕方がない。お陰で、年に一回しか作らないまでも、味噌汁と魚の焼き加減はクオリティが上がってきている。
白米は水の量、漬物は塩分量さえ間違わなければ失敗はない。
一段落つくと、僕は風呂場へと向かう。
先にシャワーを浴びて、自身で脱いだものは洗濯機に放り込んであったから、後は妻の入れたそれと一緒に回すだけだ。
洗剤を入れ、なれた操作でボタンを押していく。
『随分と速く――慣れましたね、機械の扱い』
ふと、風呂場の扉向こうから妻の声がした。
「流石に、これは毎日やっていることだからね。上達してなかったら、機械音痴なんて話ではなくなってきてしまうよ」
言ってやると、向こうでは妻が『ふふ』と笑いを零した。
一瞬間の間が空くと、僕はそういえばと思い出したことを伝えた。
「今日の灯篭流し、さっきの雨の所為で少しばかり延期されているみたいだね。そろそろ止むから、やるにはやるんだろうけど」
『やってくれないと困りますねぇ。あれを見ないと、私はここを発つことが出来ませんから』
それはそうだろうね。
言わずもがな。ちゃんと開催してもらわないと。
『花火は上がるのでしょうか?』
「うーん…それはどうだろうね。湿気に負けてなければいいんだけど」
『五分五分、ですかね。あれも楽しみにしているのに』
少ししょんぼりした声。
今のところ、毎年この声を聞けてはいるのだが、こんな寂しそうな声はまだなかった。それだけ、こちらに戻って来れることが楽しみでならないのだろう。
願わくば、花火も上がって欲しいところだ。
洗濯機が回り始まると、僕はまたキッチンへと戻って、今度は皿へと並べていく作業に移る。
ご飯茶碗にお椀と、二人分を棚から出していく。
丁度二人分をよそい終えたところで、妻が風呂から上がって戻って来た。
シャンプー、それに石鹸の良い香りがふわりと漂うと、妻が返って来たのだという実感がまた湧いた。
頭を拭きながら部屋の中を通り過ぎて行き、そうして何をするのかというと。
チーン。
お鈴の音が部屋中に響く。
焼き魚を焼く音すらなくなり、静まり返っていた部屋には、それがよく反響した。
「皆さまのお陰で、今年も無事に帰ってこられました。ありがとうございます」
両手を合わせて向かい合うのは、僕ら二人の両親が眠っている仏壇だ。
今日は事情が事情だっただけに先に風呂へと向かわせたが、いつもなら、まずはここへと一直線にやって来てお鈴を鳴らしている。
「いい加減慣れて来たけど――やっぱり、君がそうして手を合わせているのは、おかしな光景だな」
「まぁ酷い。良いじゃないですか」
可笑しそうに笑って、しかし手はまだ離さない。
「笑ってくれてたら良いのですけれど」
「まぁ、楽しい人たちだったからね。四人とも、向こうでちゃんと笑っているとも。君がここにいることが、何よりの証拠だよ」
「そうだと良いですね」
少し遠い目をしながらも、微笑んで呟く妻。
お皿を並び終えた僕も、同じく後ろから両手を合わせて拝んで暫く。お鈴の反響も消えると、夕飯をいただこうかと妻が振り返った。
椅子に腰かけ、いただきますと一言添えてから、箸を取って皿に手を伸ばした。
「うん、美味しいです! 私好み、丁度良い濃さのお味噌汁です!」
「それは良かった。なら、もう失敗作は他にないかな。魚の焦げ具合も丁度良いからね」
「楽しみです。どんどんいただいちゃいますね!」
「存分に。その為に作ったんだから」
肩を竦めて促してやると、宣言通り、妻はあれやこれやと手を伸ばして食べていく。
白米はふっくら、漬物の辛さは丁度良い、焼き魚も良いぱりふわ具合です、と全てに頬を緩ませて、美味しそうに。
作った者としては、これ以上ないくらいの幸せだ。
夕飯を食べ終えるまでは妻の向こうでの話を聞いた。
あの人がどう、この人が――と、困り顔で、しかし確かに楽しそうに、妻は止まらず話し続ける。
それも終えると、ようやく巡って来た灯篭流し。
花火も、これの後から少しずつ上がり始めるらしいと近所さんからのタレコミがあった。
喜び笑う妻の横に並んで、僕らはそれらを眺めていく。
「毎年言っていますが、やはり綺麗なものですね」
「そうだね。ここいらの人口は少しばかり減ってきているから、年々灯篭の数も減っているみたいだけど」
「数じゃありませんよ。気持ちです。大事なのは、灯篭を流す人々の心なんです」
「心、か。君が言うと、普通以上の実感を感じるね」
「そうでしょうか?」
そうだとも。
僕も倣って灯篭を一つ、大きな川へと流していく。
それを見送りながら並んで歩いて、川の下流の方へと。
少しずつ、花火も上がり始めている。
ふと、ある程度まで歩いた所で、妻が「じゃあ」と小さく一歩前に出た。
「今年は、ここまでで」
「今年も、だけどね。また来年まで待ってるよ」
「はい。すいません、短いもので」
「気にしないで。一時間でも一分でも、来てくれるだけで嬉しいんだから」
「ふふ。そう言ってくれるのは、剛さんだからですよ」
口元に手を添えて上品に笑うのは、妻のいつもの癖だ。
口調とも、清楚な見た目にはよく似合っている。
「……名残惜しいですが、それでは」
「うん。元気でね」
「それは私の方から言う言葉では…?」
「そうかもしれないけど。まぁ、それこそ大事なのは気持ちってね」
「では、有難く受け取っておきます」
困った風に笑って小さく頭を下げると、妻は僕らが進んでいた方へとさらに歩いていく。
僕はその場に立ち止まって、その背中が遠く、遠く――視えなくなるくらいまで遠くに見送って、それから家に帰った。
「ただいまー」
今年も、その声は聞こえて来た。
良かった。今日も、迷わずここに来られたようで。
「また少し、歳を取りましたね。ちょっとだけ、白髪も増えました」
出迎えた僕の姿を見てそんなことをいうのは、他でもない、見た目の全く変わらない妻だ。
「去年も聞いたかな、それは。その前も、その前も。毎年、最初の挨拶が僕の歳を取った話というのは、どうなんだろう?」
「健勝で何より、ということですよ。今年は普通に灯篭流しがあるみたいですね」
「そうだね。手を合わしておいで、今年ももう夕飯の準備が出来る」
「分かりました。ありがとうございます」
いつものように小さく頭を下げると、妻は仏壇の前へと急ぐ。
そうして今年も、無事を知らせる挨拶を交わすのだ。
夕飯を食べて、互いにシャワーも済ませて、そしてまた灯篭流しへ。
そろそろ、外を長時間歩くのもしんどくなってきた。
「歩くの――ちょっとだけ、短めにしましょうか」
妻からの提案だった。
「おじいにはまだほど遠いと思ってたんだけどね。助かるよ」
「安全第一です」
鮮やかな笑顔。
混じり気のないその笑顔は、いつでも頼りになるな。
今年もまた一つ灯篭を流し、それに並んで歩いて川を下っていく。
最近では年々、それから少し遅れてきている気がする。
「足の遅さも否めないかな」
「無茶はなさらないでくださいね」
「分かっているとも」
頷き、何とか、何とかと歩いて、いつも歩いている所のすぐ傍までやって来た。
立ち止まった僕に、今年は二歩程前から振り返る。
「ありがとうございます。今年は、ここまでで」
「すまないね。向こうの両親にも、よろしく言っておいてくれ」
「そんなことを言うのは初めてですけれど――剛さんは、まだすぐにこっちに来ちゃいけませんからね?」
「君に料理を振舞えなくなるのは困る」
「よろしい。ふふ」
満足げに微笑むと、妻はそのままふわりと歩いていく。
名残を惜しむように、しかしずっとすがって悲しみが増さないように、適度な速度を守って。
見送った先は、流れる灯篭と共に川を渡って。
どこまでも、どこまでも。