~マンション(共同住宅)の物語 其の1 「制御不能」
西宮市は、隣が国内有数の高級住宅地である芦屋、その先には三宮を中心とした神戸である。
安仁屋さんが思っていた、西宮市は、東隣の気さくな尼崎、その向こうに在る、たくさんの沖縄出身者が住む大正区が身近に感じられる街…そう思い描いて生活を始めた西宮は、9割西寄りの街であった。
沖縄鈍りをからかわれ、慎ましやかに他人の迷惑にならないように遠慮がちなほどに暮らしていたのに、ゴミ出しの曜日を間違っただけで、ルール違反者のように玄関前にごみを戻されたことで、マンション住民全員が自分を悪者にみていると被害妄想は増幅して行った。
悔しい…
廊下に自転車や乳母車や子供の乗り物まで置いていて、車椅子の方が通りにくくなっているようなことをしている連中が、このマンションの役員になって、偉そうな訓示を述べている。
管理人も、そのような人には注意しない。
なのになぜ私だけには赤文字で書いた警告文付きで、ごみを玄関に置かれないといけないの!
悔しい。悔しい。悔しい。悔しい!
「ばか住民ども、地獄に落ちろ!」
「いつでも来い!包丁持って来い!決闘じゃ!」
安仁屋さんは、窓を全開にし、大型マンションの敷地内にある提供公園で世間話をしているママさんたちに向かって叫んだ。
ママさんたちが遊具で遊ぶ子供を呼びよせ、急いで自室に向かおうとエントランスに向かう頭上から、安仁屋さんは唾や痰を吐きかけた。
それが運悪く、マンション内の子供会で、もっとも発言力の在る副会長の、生後9カ月の女児の眼球に着地した。
粘りある深いな液体で視界が悪くなった幼児が泣き叫ぶ。
それを見て、副会長が奇声を上げながら自室に逃げた。
安仁屋さんは、可哀想な被害者から、不適切な行為をする迷惑な加害者に変わった。
安仁屋さんは、悔しさと怒りから、感情をぶち負けていたが、憂さを晴らし、憎しみの標的と捉え逃げるのの者どもに痰を履くことで、無意識にスッキリしたいと思って狙いを定める訳でもなく吐いた。
しかし、それが、まんの悪いことに、有名な五月蠅型の女性の赤児の眼球に着弾するとは思ってもいなかった。
上から見ていて異常な叫び声に、「あっ、痰が服に落ちたかな。悪いことしたなぁ…。」
安仁屋さんは冷静に戻っていた。
「ざまあみろ。」と思えたなら、それら蛮行に行った価値が安仁屋さんにだけは、少しはあっただろう。
しかし「悪いことしたなぁ。」と思うところに安仁屋さんの人柄や人生や、苦労性が感じられた。
案の定、時間の経過から、「文句言いに来るだろうか…。」と悩み始めた。
その晩は、帰宅した主人に、できごとについて語ることなく就寝したが、なかなか眠れなかった。
翌朝、新聞を取りに集合郵便受けを開けたら…
「子供会副会長402の江川です。昨日、あなたがなさった行動について、昨夜、早速理事長に報告し、次回会合で審議していただくよう申し出ました。召喚されると思いますので、まずはその旨一報まで。
また、あなたが吐いた痰が我が子の眼球にかかりました。今後、目の病気になってしまった際は、全ての治療費を、安仁屋様に請求いたします。まずは昨夜の診療費、以下の口座に金融機関3営業日内に、振り込んでください。履行されない場合は、理事長にその旨報告のうえ、弁護士に相談いたしますので良く理解して行動してください。私は断じてあなたを赦しません。」
そう書かれた封書を握り、安仁屋さんは全身が震えた。
そして、402号室の郵便受けを素手で何度も殴り、扉は歪曲し、安仁屋さんの血液で紅く染まった。
「どうちもこいつも、掛かって来い!」
朝のエントランス、子供を含め多数の住民がいる前で、安仁屋さんは、叫んだのであった。
もう、制御不能であった…。