~マンション(共同住宅)の物語 其の1 「管理事務室 乗っ取り立て籠もり事件」
「安仁屋さん、開けてください!」
受話器の向こうから、扉を叩く管理員の声が聞こえた。
年始間もない夕暮れに、マンションの管理事務室が、ひとりの女性によって、乗っ取られた。
「安仁屋さん、開けてください!扉を開けてください!」
管理員は10秒ほど待ったが、扉は開かない。
「安仁屋さん、開けなさい!」管理員は扉を叩いた。
安仁屋さんは、乗っ取った管理事務室に立て籠もった。
管理員は、急いで雇用元のマンション管理会社に電話を入れた。
「お客様に管理事務室を乗っ取られました!呼びかけても出てきてくれません!」
それを聞いた管理会社の社員は、外出していたマンション担当者に代わり、対応に出た。
社員は、応じるかどうか判らなかったが、乗っ取られた管理事務室に電話を入れた。
2度、3度、そして4度目にようやく安仁屋さんは電話に出た。
「はい。何ですか?」
「いつもお世話になっております。管理会社の者です。安仁屋さま、お話をお伺いいたしますので、まずは管理事務室を出て、お部屋にお戻りください。戻られた時間を見計らって電話を掛け直しますから。」
「あなたは判っていない。こうでもしないと話を聞いてくれないでしょ。」
「私がお話を伺います。どうぞお部屋で落ち着いてお話しください。」
「あなたは判っていない。部屋の電話は盗聴されているから使えない!」
「それでは携帯電話に、連絡させていただきますので番号を教えていただけますか?」
「それもダメです。FBIが傍受しているし、宇宙人から妨害電波も受けているんです。だからここからかけているんです!」
安仁屋宗子さんは、ローズガーデンマンション六甲の入居オーナーで、30代の女性である。
どうして管理事務室が乗っ取られたか…。
それには伏線があった。
安仁屋さんは、たびたびマンションの管理会社に「部屋に盗聴器が仕掛けられている。どうにかして欲しい。」や「隣の部屋で良からぬ相談をしている。テロリストが住んでいるのではないか。調べて欲しい。」等の相談の電話を、マンションの担当者に入れていた。
担当者は、27歳、大卒5年目の男性社員井川慶次。
大学を卒業し、マンション管理会社と言った、現代の共同住宅においては管理組合へのアドバイザーとして不可欠な存在ではあるが、社会的に職業としての認知度は決して高くない業界に飛び込んだ。
そんな井川も、多くの同期が辞めていく中で、多くの難問や課題を乗り越え、自信と共に、先輩社員のようにお客様を、ときに諭し、ときに説き伏せるような会話をしたがる経験年数に差し掛かっていた。
「安仁屋さん、お気持ちは判りますが、私共は、マンション共用部分の管理を主な業務としています。お部屋の中は、専有部分ですので、恐れ入りますが立ち入ることは出来兼ねます。」と言葉は丁寧であったが、足を組みながら、やや横柄な電話を対応していた。
「では、隣の部屋の怪しい動きはどうなのですか?」
安仁屋さんは、これも応じてもらえないのではないかと不安に駆られ、やや震える声で井川に質問した。
「安仁屋さん、お隣は入居届も規定通りご提出いただき、お住いの方について、人数を含め把握しています。テロを起こすなど、あり得ませんよ。」
と、安仁屋さんにしてみれば、不安が的中する回答になってしまった。
八方ふさがりになった安仁屋さんは、不安と失望を増幅していった。
安仁屋さんは、独り暮らしの女性。
しかし、もともとは、二人暮しであった。