86. スパイスカレー 実食
豊かでコクのある香りが、厨房全体に広がった。
ぐつぐつと煮込まれた鍋を覗き込めば、食欲が待ったなしに刺激される。
「その匂い、森の方まで漂っておるぞ」
「あ、師匠だ〜。おかえりなさい!」
外を出歩いていた師匠が帰ってきて、シュカちゃんは出迎えるように裏口へと向かう。
「なにやら懐かしいと思えば、それは南方の料理だな」
師匠は鼻をすんすんとさせ、出来上がったばかりのスパイスカレーが入る鍋を見やった。
「え、知ってるの?」
カノくんが驚いたように師匠を凝視める。私も同じような顔をしてしまった。
「ああ、似たような香気に覚えがある。しかしまぁ、それも遥か昔のことだがな」
「昔って……そういえば師匠ってさ、ルナンの使い魔になる前は、どこでなにしてたの?」
「そんなもの、ゆっくりと寝ていたさ」
直球なカノくんの質問に、師匠は臆せずからからと笑った。
「えー、寝てたって……どこで?」
「さぁ、どこだと思う?」
「オレはそれを聞いてるのに。教えてくれる気ないじゃん」
くつくつと笑む師匠の言葉に、これ以上は聞いても無意味だと悟ったのだろう。カノくんは早々に話を切り上げた。
うん、師匠は私のときもそんな感じだよ、カノくん。
「いまね、ルナンさんが『すぱいすかれー』を作ってくれたんだよ!」
「そのようだなぁ」
「シュカもね、お手伝いしたよ」
「ほう、そうか。良いことだ、偉いぞシュカ」
「えへへ」
褒められたのが嬉しいのか、シュカちゃんの丸い尻尾がぱたぱたと揺れた。
「シュカってほんとに、師匠に懐いてるよね」
「私にはたまに、孫と爺の会話に聞こえるときがあるけど」
「あー……それは、たしかに」
口調が古風だからそう聞こえるのかもしれない。落ち着き払ったイケボは、お爺さんとはほど遠い響きだけど。
素直に接してくるシュカちゃんを師匠なりに可愛がっているのは、なんとなくだが分かっていた。
そんなことを考えながら、鍋の火を止める。
「せっかく作ったんだし、さっそくみんなで食べてみよっか」
底のあるお皿を取り出して人数分をよそう。
場所を食堂のテーブルに移し、いざ実食とスプーンを握った。
「これがスパイスカレー……」
固唾を飲んだ様子のカノくんが、ぽつりとつぶやく。
私も熱に気をつけながら、スプーンの先端を口に入れた。
その瞬間、スパイスと散らした野草の香りが、口いっぱいに広がる。
ほどよく辛さのあるスパイスのぴりっとした刺激。それでいて濃く深くもあり、噛みしめるだけ旨味が溢れでてくる。
煮込んだテラテラ鳥もちょうど良い柔らかさで、噛むとプリッとした食感があった。
大きめに切った芋にも味が染み込んでいるようで、口の中で砕くと、新たに優しい味わいが生まれる。
「うん、ちゃんとスパイスカレーになってる」
初回にしては上手にできた気がするんだけど。
他にも意見を聞きたくて、同じく椅子に座ったカノくんとシュカちゃんの様子を見てみる。
「えっ……どうしたの?」
二人はなぜか、口を押さえていた。
そして戸惑ったように、眉尻を綺麗に下げている。
「も、もしかして……美味しくなかった? どこか変なところがあった?」
「おい……しい、美味しいと、思うけど」
「けど?」
「み、みず……!」
「水?」
懸命に訴えるカノくんの横では、シュカちゃんが同じようにこくこくと頷いていた。
***
「……スパイスカレー?」
「はい。試しに作ってみたはいいんですけど、カノくんとシュカちゃんには慣れない味だったようで」
「おいら知ってるっス。南大陸ではよく使われてる香味料っスね。物によっては舌が刺されているんじゃないかってくらい辛いって」
「そこまで恐ろしいものなのか……」
夕食の時間。
いつものように他愛ない話を挟んでいると、途中からスパイスカレーの話題になっていた。
「私はそうでもなかったんですが、二人には刺激が強かったみたいです」
作り立てのスパイスカレーを一口食べた途端、カノくんとシュカちゃんが揃って水を求めていたことを思い出す。師匠は平然と食べていたので、個人差はあるようだけど。
「オレとシュカは食べ慣れてなかったってだけで、味は美味しかったよ。ね、シュカ」
「うん! あとね、そのあとルナンさんが作ってくれた甘いスパイスカレーは全部たべれたの」
カウンター内でグラスを磨いていたカノくんと、食事中のグランを眺めていたシュカちゃんが、口を揃えて言った。
辛さに堪えた様子の二人があまりにも可哀想だったので、私はあのあと急遽アレンジを加えたのだ。
鍋のスパイスカレーを半分ほど別の鍋に移し、砂糖やミルク、果実で作ったビネガーを混ぜた甘口スパイスカレーに。
「いや〜、それにしても……ルナンさんは次から次へとよく珍しい料理が作れるっスね。冒険者街にも見たことない料理はたくさんあるけど、カレーはおいらも初めて聞いたっス」
ポンタさんはスパイスカレーに興味があるようだ。同意したように頷いたコクランさんも気になっているみたい。
「もしよかったら、少し召し上がってみますか?」
最初に作ったスパイスカレーも、甘口に調節したスパイスカレーも、深皿一杯分ほど残っている。
「いいのか?」
「おいらも、どんな味が気になるっス」
どちらもメインであるテラテラ鳥の炙り焼きソース添えを食べ終わり、デザートで用意したスフレも平らげたようだ。
胃に余裕がありそうなら、出してみてもいいかな。
「せっかくなので、ご用意しますね。お味はどちらにしますか?」
「辛い? ほうを試してみたい」
「じゃ、おいらもそれで!」
お二人とも、未知への挑戦心が強いらしい。
「グランは……」
新しい食べ物を前にすると、いつも可愛くねだって鳴き声をあげるグラン。だけど今日は様子が違った。
『おなかいっぱい』
「グラン、お腹ぱんぱん」
しゃがみ込んだシュカちゃんは、ヘソ天して寝転がるグランのお腹をつんつんと指で触っていた。
だらけきった自分の契約獣に、コクランさんは呆れた様子だ。ふふふ……そんなグランも可愛い。
厨房に入って鍋を温めると、香りが一気に広がっていくのがわかった。
食堂のほうから嬉々とした「不思議な香りっスね〜」の声が聞こえてくる。
スパイスカレーを小さめの中皿に移して持って行くと、コクランさんとポンタさんの耳が同時に動いた。
「お待たせいたしました。こちらがスパイスカレーでございます」
スパイスカレーと一緒に瓶詰めされた香味料を、コクランさんが座るカウンター席と、ポンタさんが座るテーブル席に置く。
元々テーブルの端には、味を付け足すための香味料がいくつか並べられていた。
今用意したのは、スパイスカレーに合いそうなもので揃えた香味料である。
黒胡麻やしょうが、あとは粉状に擦ったハーブなど。
「店主、この凄まじく赤いのはなんだ?」
「あっ……すみません。こちらは辛さを増幅させる香味料なので、避けておきますね」
うっかり自分用の香味料がコクランさんのところに紛れ込んでしまった。
スパイスとはまた違うけど、故郷の森に育っていた刺激の強い木の実のおかげで、どうやら私は辛さに耐性がある。
この真っ赤な色合いの香味料も、ホールスパイスや既存の香味料を混ぜ合わせ試作として作ったものだ。
カノくんとシュカちゃんからは「鼻が曲がりそう」という評価をもらってしまった。
舌がおかしくなるほど辛いものが好きってわけじゃないけど、たまに食べたくなるんだよね。こういう刺激が強いものって。
でも、初めてスパイスカレーを食べるコクランさんには不向きな香味料だ。
私はそっと、真っ赤な色の瓶をカウンターの端っこにずらした。
「ふんふん、これがスパイスカレーっスか〜。では、ちょいと失礼して……まずはこのままで」
お皿に鼻を近づけて匂いを確かめたあと、ポンタさんは意気揚々とスパイスカレーを一口頬張った。
続いて見た目の観察を終えたらしいコクランさんも、スプーンで掬うと、ぱくりと口の中に入れた。
「……!」
「これは! たしかに刺激があるっスね。でも、美味い!」
先に感想を述べたのは、ポンタさんだった。
どうやら彼の舌には合っていたようで、絶賛の声が飛んでくる。
お礼を言いたいところだけど、私は目の前のコクランさんから目が離せないでいた。
「コクランさん、大丈夫ですか?」
「……っ、……」
というのも、スパイスカレーを一口入れたコクランさんは、瞳孔をぱっと広げたかと思うと無言のまま固まってしまったのだ。
「…………コクランさん、冷たいお水、お持ちしましょうか」
「……」
コクランさんは、こくりと首を縦に動かす。
こ、こんな表情を見るのは、初めてだ。
驚いたような、戸惑ったような、焦ったような……言い表すには難しい、表情が渋滞しているコクランさん。
言葉こそないものの、私は察することができた。
きっとこのスパイスカレーは、彼にとっては相当辛かったのだと。
「どうぞ、お水です」
急いで水を手渡すと、コクランさんは感謝の色を瞳に滲ませてグラスを受け取った。
冷たい水分で口内と喉を潤し、彼は控えめに言葉を並べる。
「少し、その……驚いた」
本当に、心の底から出た言葉のようだった。
激辛ではないけれど、日頃から刺激の強い味に慣れていないと、カノくんやシュカちゃん、そして今のコクランさんみたいになるのかもしれない。
「あの、無理だけはしないでくださいね?」
「……た、食べられる。残してしまっては、申し訳ないからな」
残してしまってはって……それ結構、無理されてません?
試食だし、合う合わないはあるから気を遣わなくてもいいのに。
そんな生真面目な横顔に、器を下げるべきか迷っていた時だった。
「――あ、いたいた。コクラン、そろそろ時間だけど」
食堂の扉が開かれ、その隙間からキーさんが顔を出した。
「……もうそんな時間だったのか」
コクランさんは、カウンターの隅にある置時計を確認する。
今の時刻は、八時前。
「お出かけのご予定があったんですね。それならなおさら、無理はされないでください」
「どうかした?」
キーさんはカウンター席に近寄ると、コクランさんの顔を見て不思議そうにした。
「いまスパイスカレーという料理を試食してもらっていたんです」
「おいらは美味しく食べれたんスけど、コクランさんには辛かったみたいっスね」
すでにスパイスカレーを完食させたポンタさんの言葉を聞き、キーさんは状況を理解したようだ。
そして、思い立ったようにぱっと顔を明るくさせる。
「……コクラン、残りはぼくが食べていい? スパイスって名前は知ってたけど、口にしたことはなかったから気になってたんだ」
その発言に、思わず「え……?」と声をもらしそうになる。
「構わないが……キーが、食べるのか?」
「そんなに驚くことかな。ぼくだって興味があるものは、試してみたい性分なんだ」
キーさんが食事をするところを、私は見たことがない。
最近になってまたコーヒーを飲みにくるけれど、それだけだった。
そんな彼が、あっさりとスパイスカレーを口にしようとしている。
「替えのスプーンをお持ちしますね」
「ああ、わざわざありがとう」
驚きを顔に出さないようにしながら、カウンター内に置いてあるスプーンをキーさんに手渡した。
お皿を手にしたキーさんは、くんとスパイスカレーの匂いを嗅いでいる。
「香味料も置いてあるので……もしよかったらお使いください」
それだけを告げて、私はカウンター内でコクランさん用のカトラコーヒーを淹れる準備をした。
あまりじろじろと見つめるのは失礼なので、コーヒーに集中する。
「おいっ、キー! その香味料は……!」
「ん、これがどうかした?」
お湯を注ぎ終えると同時に、コクランさんの驚愕声が飛んできた。
顔を上げれば、キーさんが赤い香味料をお皿に振りかけているのが目に入る。
隅に寄せていたはずの、自分用の香味料……!
それをキーさんは、平然とスパイスカレーに投入していた。
少しずつ味を確かめながら調整していくものを大胆にかけて、躊躇なく口に運んだのだ。
「――うん」
どうしてだろう。
一口スパイスカレーを味わったキーさんの表情が、残念そうに、寂しそうに見えた気がする。
しかしどうやら見間違えだったようで、キーさんは顔色を一切変えることなく、黙々と残りのスパイスカレーを食していた。
試食なので元からあまり量もなく、あっさりと完食まで至る。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
お皿をカウンターの上に置いたキーさんは、貼り付けたような笑顔で言った。
「キー、大丈夫だったのか?」
「ぼくは、大丈夫みたいだね」
「か、辛くはないですか?」
「うん、べつになんとも。……あー、少しだけ、ぴりっとするぐらいかな」
「キーさんも辛さとか平気なんスね〜。おいらと同じっス」
ポンタさんが朗らかにうんうんと頷いているけれど、本当に大丈夫なのか心配になってくる。
コクランさんも気にした様子で、淹れたばかりのカトラコーヒーに口をつけた。
辛さが平気というか……あれだけスパイスたっぷり香味料を後入れしていたのに、顔色ひとつも変えていないなんて。
本当に、私と同じく耐性があるだけ?
……うーん、だけど私だってあれを丸々ひと匙も入れたら無事で済まない気がするんだけど。
疑問が尽きないまま彼の顔をそっと窺うと、タイミング良く目が合った。
「お嬢さん、なに? なにか聞きたそうな顔してない?」
「聞きたいというか……キーさんが、辛さに耐性があったことが少し意外といいますか。さきほど振りかけていたスパイスは、とても辛みが強いものだったので」
「元々ぼくの舌は、刺激に鈍感みたいでねえ。だから、個性的なスパイスの類いは相性がいいんだ」
私の曖昧な返答のあと、キーさんは涼しい顔で当たり前のように言い切る。
だから私も無難に「そうなんですね」と言うことしかできなかった。




