77. 変化
「……もう、きみを前にしても視えなくなったんだ」
「見えなくなった……?」
「街で倒れた時、きっかけはおそらくそれだと思う」
キーさんの言う「あの時から」というのは、冒険者街で彼が倒れたときのことを言っているらしい。
「起きたばかりだから、きみだけなのか、それとも全員がそうなのかは分かりようがない……けど」
説明しながらも、彼自身も自分の状況を詳しく把握しきれていないような印象を受けた。
ただ、私を見据える瞳からたびたび覗かせていた嫌悪のようなものが消えたのは確かである。
「やっぱり……きみをいくら見ても視えない」
「あの、その見えないというのは?」
細めた目を向けてくるキーさんに、私もつい同じような顔をして尋ねてしまった。
見えない見えないって何が見えないのだろう。視覚に問題はなさそうなんだけど。
もしや霊的な類い……いやいや、そんなまさか……。
「――ぼくの目に映っていた、幻覚」
「幻覚?」
「情けないことに……ぼくにしてみたら挙措を失いそうになるような、そんな奴の幻覚さ」
「……」
……奴。
伏せる目と、移り変わった表情の起伏をじっと見つめる。
彼が何を思い出しているのか私には到底分かることではない。
けれどその幻覚の話をした途端にキーさんの様相は、つい先日まで私が感じていたものと近いものになった。
背筋が冷えていくような、あの探り混じりの研ぎ澄まされた瞳。
でも、それはもう私に向けられているものではない。
「ぼくの役目を差し引いたとしても、きみをその幻覚と重ねていた部分があったんだ。きみは、あの幻覚そのものではないはずなのにね」
私を見るたびに目の色を変えていたのは、その幻覚が原因だったの?
それが消えたことにより、キーさんの態度が緩和されたということ、なんだろうけど。
「……」
心ともなく黙り込んでしまった私に、キーさんは察した様子で眉尻を下げる。
「ダメだなぁ。どう取ってもただの言い訳みたいに聞こえるね。そもそもぼくのお嬢さんに対するこれまでの接し方は褒められたものじゃないだろうし。謝ったところでその事実は消えない。疑われても当然だ」
「え? 疑うですか?」
私がしばらく無言でいたことを、キーさんは全く違う方面で解釈していたようだ。
彼の言っている幻覚を、私が半信半疑に思っていると勘違いしたらしい。
「ああ、いえ。疑っていたというわけではないんです。ただ、幻覚といわれて……正直、どう言葉をかければいいのか考えてしまって」
それでも話している相手が突然口を開かなくなったら不安に感じるだろう。
紛らわしい態度を取ったことを謝ると、キーさんは再び目を見張ってこちらを凝視した。
「いや、なんできみが謝って――」
少々呆れ混じりになっていたキーさんの声が、途中から吐息に変わった。
「……?」
どちらも床に膝を突いた状態で、向き合うようにいる。
その体勢は変わらないまま、気まずそうにしたキーさんが私の顔を間近で見つめた。
――途端に、ハッとしたような息づかいと共になぜか彼は動きを止める。
「キーさん?」
今のは完全に私の顔を見たあとで起こった反応だった。
顔にとんでもない物でも付いているのかと心配になって手で触れてみる。
が、さすがに鏡がないと分からない。
「……っ、いや、なんでもない。なんでも……」
キーさんのフリーズはすぐに解かれた。
しかし、その黄色く澄み渡るふたつの眼には変化が表れる。
「……」
「あの」
なんだろう。今度は凄い食い入るように見てくるんだけど。
先ほどまでは気まずさで避けていたはずの彼の視線。それが一切目を離そうとしなくなった。
「お嬢さんは、魔術使い……なんだよね」
「えっ。……はい、そうです」
一応は魔術使いとして通っているけれど、キーさんに問われてなぜかギクリと胸が跳ねる。
きっと今までとは違って、純粋に知りたいと思っているような眼差しを向けられたからだ。
「ぼくが倒れた時、きみは何か……魔術をかけたかい? いや、魔術というよりも……ああそうだ、魔力。お嬢さんは自分の魔力をぼくの体に流し込んだり……した?」
まるで逸る気持ちを抑え込むように、キーさんは私に問いかけてくる。
元々キーさんは魔術使いに悪感情を抱いているような節があったので、一瞬だけ返答に迷ってしまった。
しかし、ここで取り繕った嘘を吐いたところでどうにもならない。
私が魔力を流してキーさんの体の状態を確かめたのは事実なんだから。
「……はい、すみません。たしかにあの時、キーさんに自分の魔力を流しました。体の状態を把握するために」
ちょっとだけ後ろめたさのようなものを感じて控えめにうなずく。
「……それ、だったんだ」
誰に言うでもなく、震えるように眼孔を開かせたキーさんは静かにつぶやいた。
彼の背後から見え隠れしていた密に生える柔らかそうな白銀の尻尾が、ふわりと上向きになる。
私は反射的に動いた尾の毛先を目で追った。
「ぼくの幻覚が消えたのは、きっときみの流した魔力のおかげ……なんだと思う」
「私の、魔力?」
自分では心当たりがないのに、キーさんは思い返して確信を得た素振りを見せる。
「きみの魔力は、ある人とよく似ている。ぼくはとんだ勘違いをしていたと、今はっきりとわかったよ」
だから、とキーさんは言葉を紡ぐ。
「――ありがとう」
今までで一番と言っていいほどの、彼の穏やかな音が耳朶を打つ。
「それと、もう一度。今まで本当に……嫌な思いをさせて、ごめんね」
絵に書いたように眉が弱々しくさがっている。
言葉で言い表せない、見たことのない真摯な面差しに息が詰まった。
どの感情を当て嵌めればその表情が象られるだろう。
残念ながら私にはキーさんの内側にあるすべてを察せるほど心情を読むことに長けているわけではない。
全部が傍から見ただけの他人の感想になってしまうけれど。
再び私に謝罪の言葉を紡いだキーさんは、重荷をひとつ下ろしたような、そんな顔をしていた気がする。
そしてこの時から、キーさんの態度が驚くほど緩和したのは明らかだった。
だけど、
「――って、私の魔力ってどういうことですか??」
私はちょっと待ったと声をあげた。
だ、だって……キーさんの幻覚が消えたのが、私の魔力のおかげってなに!?




