61. きみが望むすべてのことを その1
※年齢を変更致しました。
三度目、彼の尻尾には三本線の模様が表れた。
実際に三本の模様がある白狐の亜人を見たことはないが、三度目ともなると生きることにすら妥協し始めている。
彼は、キーという名を与えられ、灰色の毛並みが王家の血統である兎の亜人が統治をする「グレイス国」で暮らしていた。
今までの生涯と比べ物にならないほど、キーとしての生活は穏やかなものだった。
両親は国でもそれは有名な奏者であり、いつも楽しそうに音を奏でている。
白狐の亜人にしては珍しく子どもを二人儲け、周囲からおしどり夫婦と定評があった。
二つ下の妹は少し変わり者だが、それは愛嬌の範囲で許せる。知人には「妹に甘すぎる」と言われているキーだが、全く自覚はない。
グレイス国は十年前に前王が退位し、嫡子である王太子が戴冠した。
それからさらに安寧秩序の世へと生まれ変わったのである。
亜獣人が明るく暮らしていける環境を整え、都だけではなく辺境の地域にも管理がしっかりと行き届くように現在の国王が制定したのだ。
「キー、またサボってんのかよ〜」
「サボりじゃなくて休息と言って欲しいねぇ。昨日は夜間に駆り出されてヘトヘトなんだよ」
グレイス国の王城、騎士団訓練場にて。
大樹の太い枝で昼寝をしていたキーに声をかけた同僚は、またかと言うような顔をした。
グレイス王国王立騎士団第一部隊所属という肩書きを持つキーは、国でも数本の指に入る実力者である。
だが、腕は優秀で一目置かれる存在であるはずなのに、キーの拍子抜けするほど飄々としている態度のおかげでその凄味は霞んでいた。
『キーちゃん、お腹すいた〜』
「ああ、もう昼か。そろそろご飯の時間だね」
キーと同じく枝に寝そべっていたコンが、顔をあげておねだりをする。
「おい、キー。毎回コンに飯時を教えてもらうのかよ……」
同僚は再び呆れた様子だったが、キーはへらりと笑うだけであった。
キーにとっての食事は、ただ億劫なだけである。
生まれてこの方、至福だと感じたことなどない。それは、キーに味覚が存在しないからだ。
食べた物の味がまるでしない。それは思った以上に苦しいことである。ただ喉に無味の異物を流し込むこと、それがキーの食事であった。
嗅覚はあるというのに、味覚がないのはおかしな話だが、生まれた時からそうだったのだ。
そしてもうひとつ、キーの体には異常があった。
それは、体の状態を察知する能力が極めて乏しいことである。
もっと簡単に言うならば、痛覚がないのだ。怪我をしていても痛みがないうえに、例えば熱があったとしても症状に気づくことがない。
キーの体は、生き物として欠けている。その理由を、何となくではあるが彼は察していた。
「へとへとのところ悪いんだが、陛下がお前をお呼びだ」
「悪いけど休憩中だって伝えといてよ」
「ったく、毎回お前は、不敬だぞ」
「ははは、こんなくだらないことで不敬になんてしないよ。陛下のお心は広いからね」
「……ふうん、そう思ってくれているのは光栄だ。しかし、お前は思い違いをしているよ、キー」
同僚に木の下からガミガミ言われていれば、涼しげな声が乱入してきた。
その声が聞こえた瞬間、キーは寝転がっていた場所を降りて素早く地面に片膝をつく。
「これはこれは、ラビ陛下。まさか御身自ら足を運んでくださるとは思ってもいませんでした」
息を吐くように語り出すキーに、グレイス王国国王ラビ・ヒート・グレイスは、含み笑いを浮かべた。
見た目はかなり幼い容姿の彼だが、余裕でキーの倍を生きている。兎の亜人は童顔であることが多いが、ラビ陛下はそれが色濃く出ていた。
「白々しいよね、本当に。あまり同僚を困らせるんじゃないよ」
控えたキーの前額を目掛けてラビ陛下は指を弾いた。まったく痛みはなかったが、キーは痛がるフリをして額に手を当てる。
「はい、不敬の処罰は終了。さっさと立って移動するよ」
ラビ陛下は踵を返し、数人の護衛を引き連れて城の中へと戻って行こうとする。
護衛たちから「テメー早くこいや」という目を向けられ、さすがのキーもそれに従った。
キーは、この生暖かい世界に浸ることを望んでいた。剣の腕も、対人関係も、どうすれば適度にやり過ごせるのかを考え、適度な暮らしを重んじていたのだ。
もう、一度目みたいな死も、二度目のような愚かな死も御免だった。
だからこそキーは、ひっそりと生きることを選んだ。たまたま騎士団の実力者にはなったが、他の者が嫌がる夜間警護を積極的に代わり、必要以上の地位や名誉も放棄した。
ただ、淡々と、時が過ぎることを目標に。
──そうありたいと、この日もそう思っていた。
「ここ半年、辺境の民が姿を消している。私も管理の目を広げる努力はしてきたが、まだ完全じゃない。姿を消しているのは、迷いあぶれた難民や孤児が大半であり、情報によると人攫いでまず間違いない」
王の執務室へ訪れて早々、物騒な話を聞かされたキーは眉を顰める。
なぜ、それを自分に話しているのか読めないが、ラビ陛下のことだから考えがあるのだろう。
「本当に、許し難いよね。まさか我が国の民に手を出すとは。そいつの体の穴という穴に人参を突き刺して、たっぷり拷問してやりたいよ」
それは人参が不憫であると、キーは思った。
国王陛下にあるまじき発言に、横に控えていた宰相は咳払いをした。ラビ陛下は「はいはい」と発言を自重する。
「……それにしても陛下。そう仰るからには、すでに目星がついているんですね?」
すでに犯人がわかっているような物言いだった。
つまり自分が呼び出されたのは、人攫い犯を始末するという命令が下されるということか。
次の言葉を待つキーだったが、事態はそう単純な話ではなかったのだ。
「ねえ、キー。民が消えた辺境の先の国は、どこだと思う?」
空気が変わり始める。
低く鳴らしたラビ陛下の声は、怒りをぎりぎりに抑えているような、そんな声音であった。
「その国は――クロノス王国」
どくりと、キーの胸が強く脈打つ。
「キー、これは機密事項だ。ここには心から信頼する者だけを集めた。もちろんお前もね」
いくら国で指折りの実力者であろうと、キーはなんの役職にもついていない一端の騎士だ。
そんなキーに、なぜラビ陛下がこうも言うのか。それはラビ陛下が、元々キーの実力を買っていたからである。
それ相応の称号を与え地位を確立させようと考えていたが、本人はそれを良しと思っていない。だからこうしてキーがただの騎士としていることに目を瞑っている。
だが、役職関係なしに任務の内容によっては王が直々にキーへ命じることがある。今回もそうだった。
そうしてラビ陛下が放った言葉に、ああ、と心の中でキーは呟いた。
ようやくアイツに裁きが下るのかと、客観視するように。
「グレイス王国、レッドアス王国、シロヴィス王国の三カ国は、クロノスの王を断罪するため同盟を結んだ。これは、クロノス城にいる臣下らの決死の願いでもある」
クロノス王国国王は、年月が流れても亜獣人の売買を止めることはしなかった。
そしてついに国内のみでは飽き足らず、国外にまで手を出してしまったのだ。
決して許されない大罪。それはもう、命で償うほかの道が用意されていないほど、各国の王の怒りを買っていた。
正直、もう振り回されるのは嫌だった。自分のせいで大切だった人たちが死んだキーは、現実から目を逸らし続けていた。
――昔、キーが読み書きができるまで肉体的に成長した頃、クロノス王国について民間の貸本屋で調べたことがある。
百歩譲って臣下であるコクトの情報はなくても、王子であるコクラン、そして愛妾であるセイランについては何かしら手がかりが見つかると思っていた。
しかし、キーの目に飛び込んできたのは、背けたくなるような事実だった。
王の正妃、セイラン妃を攫った罪により、狼の亜人を処刑。セイラン妃は攫われた際の負傷により死亡。
また、手を貸したと思われる白狐の亜人を処刑。及び、今後、白狐の亜人の国への出入りを一切禁じる。
記事にはそう書かれてあった。
クロノス王国の街人に号外で配られたと思われるそれは、キーにとって覚えのあるものだった。
私情が含まれたクロノス王の正気の沙汰とは思えない条例。それだけセイランとコクトの逃亡を手助けした白狐の亜人に怒っていたのだろう。
本当の事実と記事の内容には間違いが多くあったが、キーがどうこうできるものではなかった。
また記事の内容で気になったのは、コクランの存在がどこにもないということ。
しかし、クロノス王国は徹底的に白狐の亜人が国へ侵入することを禁じたため、キーが自ら確かめることは不可能だった。
もう、忘れるべきなのだ。二度目のことは。それでもキーの胸の内は、苛まれ続けている。
「キー。お前には私の護衛として、クロノス国への同行を命じる」
ラビ陛下は、クロノス国への護衛者としてキーを選んだ。
白狐の亜人はクロノス国に入国することは禁じられているが、グレイス王国国王の護衛の一人として紛れていれば身を改められる可能性は低い。
耳と尻尾も、衣服でどうとでも隠せるのだから。
「仰せのままに、国王陛下」
キーとして生まれ十四年。
これをきっかけに彼はまた、クロノス国へと足を踏み入れることになる。
あの頃、大切だった人たちは、きっともう誰一人として生きていない。
そうと知っていても、一端の騎士であるキーが命令に逆らうなど、できなかった。




