57. 二度目の罪 その2
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セイランの妊娠を知っていたのは、シン、コクト、そしてセイランの部屋付きの侍女と、薬師の老亜人の四人だけであった。
薬師の老亜人は、セイランが幼い頃から城で仕えている古株であり、セイランのことを孫のように可愛がってくれていた。
この老いぼれに何か役立てることができるのならと、セイランの些細な顔色の変化で妊娠に気がついた老亜人は自分から申し出てくれたのである。
これは絶対に知られてはいけない。知られてしまったら、この命すらタダでは済まないのだから。
着用するドレスはシルエットが不自然にならないように配慮し、お腹が隠れ、なおかつ体を冷やさないように心がけた。
この頃、つわりの症状による体調不良でセイランは床に伏せってることが一日の半数を占めていた。
事情を知らない城の者は、セイランが病にかかったのだと噂しており、それはもちろん王にも伝わっていたが、自ら様子を見に訪れることはなかった。
そうして常に緊張と隣り合わせの日々が続き、安定期に入った頃、セイランのお腹はふっくらと目立つようになってきた。
とはいえ、元から細身であったセイランは、通常より膨らみが小さく、ドレスの生地で妊娠を隠すことは十分に可能であった。
つわりの期間中に部屋に籠っていたセイランは、病により身体を弱くしてしまったと周囲から囁かれるようになった。
これは、セイランの侍女が嘘の情報を噂好きの城の下女に流し、妊娠と悟られないようにしたのである。
また、王に正妻として望まれていたセイランは、他の愛妾たちに醜い嫉妬を向けられていた。
そのため、病を持っているセイランに王が顔を見せに行って何か移りでもしたら大変だと、愛妾たちは結託して王をセイランから遠ざけていた。
それはセイランたちにとって都合の良い結果となっていたのである。
「名前、シンが付けてくれない?」
──夜。
セイランとコクトが、シンにそう言った。
その日シンは、小間使いとしてセイランに滋養に効く粥を届けていた。
今や病持ちだと言われているセイランに近づこうとする者は少なく、代わりにシンが目立たないように配膳などの雑用を率先しておこなっていた。
また、お腹の子の父親であるコクトをセイランの部屋に引き入れる手助けをするためにもシンは役に立っていた。
「……えっ、俺が、名前を?」
二人に懇願され、分かりやすくシンはたじろいだ。
ついさっきまで仲睦まじい様子のセイランとコクトを遠目から見守っていたシンだが、まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかった。
「ふふ、そんなに驚く? だってシンは、もうわたしたちの家族みたいなものでしょう?」
「いや、そんなこと」
「シンには、本当に感謝してるんだ。こうして私がセイランの顔を見ることができるのも、君が助けてくれているからなんだよ」
「でも家族とか、そんな大袈裟な」
軽口で言っているんだとしても身分が違いすぎる。しかし二人は腰が引けているシンに優しく笑いかけた。
「シンは変なところで遠慮するのね。それにね、この子だって、もうあなたのことをお兄ちゃんだと思っているみたいなの」
「え?」
自分の張り始めたお腹を優しく撫でながら、セイランはくすくすと笑う。
「シンの声がすると、すぐにお腹の中で反応があるの。あなたが来てくれて嬉しいって言ってるみたいに。コクトより反応が多いんだから」
「……そういうことだ、シン」
父としては若干複雑そうにしているコクトだが、うんうんと頷いていた。
子どもの名前なんて大それたこと、自分が決めてしまってもいいのだろうか。
嬉しく思いながらも、重要な役割を任されてしまったシンは、身を固くしながらセイランがいる寝床へと近づいた。
「お腹、触ってもいい?」
「ふふ、どうぞ」
「ほら、シンが来たぞ」
快く許してくれたセイランとコクトに見守られながらシンは恐る恐るお腹に触れる。
……とくん、とくんと、衣服の上からでも伝わってくる母体の鼓動。
そして──
「……! いま、お腹」
ぽこっ、ぽこっ、と。何度か手に振動する不思議な感覚に、シンの耳と尻尾がざわざわと逆立つ。
頬が紅潮するシンを見つめるセイランとコクトは、年相応の彼の反応に微笑ましく思った。
「ほら、この子は、あなたのことが分かってる」
「だからシン、この子の名は君が考えてくれないか」
コクトの大きな手が、シンの頭をぽんと触れる。
実の両親は他にいるが、彼らにも似たような感情を抱いていたシンは、気恥ずかしくしながらもこくりと頷いた。
「分かった、考える。だけど気に入らなかったらちゃんと言ってね」
「ふふ、ありがとう」
「楽しみだな」
「……うん、楽しみにしてて」
セイランのお腹に触れ、子が着々と育っているのだと実感したシンは、どういう訳か泣きそうになってしまった。
無事に生まれてきて欲しい、そしてどうか彼らがこの先……。
「……」
シンは手に力を込める。
その日は、もう目の前まで迫っていた。
◆
──逃亡決行日。
その日は王城で隣国の客人として王太子が招かれ、盛大な宴が催されていた。
城の奏者として宴の席で笛を披露したシンは、灰色の毛並みをした兎の亜人、客人である王太子殿下にそれはそれは絶賛された。
酒が回り気分を良くした王は、城の者を大勢呼び寄せ、無礼講だと共に宴への参加を認めた。幸い客人の王太子も快く頷いてくれたので、人数は一気に膨れ上がり大宴会となっていた。
「……」
どんちゃん騒ぎとなった広間から姿を消したシンが向かったのは、下働きの者だけが利用する城壁に取り付けられた小さな扉の前。
すでにそこには、町人の装いをしたセイランとコクト、そして見張りとして部屋付きの侍女と老亜人の薬師の姿があった。
「セイラン様、コクト様。お早くお逃げくださいまし」
共に城から逃げる予定であった侍女の言葉には、決意にも似たものがあった。
侍女と薬師の老亜人は、城に残ることを決めていたのだ。
セイランとコクトができるだけ遠くに逃げれるように、自分たちはその時間稼ぎをするのだと、逃亡の話を聞いたときから、ずっと。
「この老体など、この先そう長くは生きれんでしょう。それならば城に残り己が出来ることをするまでです。セイラン様……どうか、どうかご無事で」
老亜人の皺だらけの手をセイランは力強く握りしめた。
その肩をコクトは優しく抱き、何度も何度も頭を下げる。
「シン、お二人をお願いね」
「……はい」
侍女のその言葉を胸に抱き、シンは二人を連れて城を出た。
逃走経路は何度も予習済みだった。
この日は客人のいる城と、その周辺の警備が特に厳重となるため、城さえ離れてしまえばいくらか余裕ができる。
セイランの体に気を遣いながら、シンが目指したのは南だった。
クロノス国の南方には、大きな運河を渡った先に人間が治める小国がある。
そして開拓が進んだ都以外、山々に囲まれたその国は、身を隠すのには格好の場となっていた。
予定より早く逃亡に気づかれた場合、亜獣人が王として統治する国ならば簡単に捜索隊が放たれてしまうだろう。
その分、人間の国ならば身動きが取りずらく、目立った動きは制限される。
それは逃げる側のシンたちにも言えることだが、この日のためにルートは完璧に覚え、対策もしてきたつもりだった。
そう簡単に追いつかれることはない。
頼むから、追いつかないでくれ。
(お願いだから、この人たちだけは)
予断を許さない綱渡りの状況で、シンは不安に付け込んで入ってくる弱気を振り払った。
ありがとうございました!




