55. 3度の幻夢
※数話ほど、キーの話を挟みます。
――人の姿を形どった白狐は、3度の幻夢をさすらう。
白狐の亜人だけが知る、言い伝えのようなもの。
その意味を彼が身をもって実感したのは、一度目の生涯を終えたあとのことだった。
一度目――彼がはじめて生きたのは、世界が最も荒れに荒れていた時代。
それは先の世において『世界大戦』と語り継がれ、種族同士、他種族同士が領土を奪い合う惨い世の中で、白狐の少年は生きることに精一杯だった。
白狐の亜人は短命である。
それは、目を奪われるほどの美しい容姿を持って生まれる彼らの理不尽な運命だった。
他の亜人よりも格段に数の少ない白狐の亜人は、汚れた私欲の目的を持った者たちに捕らえられ、自由を奪われ続けていたのだ。
観賞用に飼う者、極上の毛皮をはいで仕立てる者など、どちらにしても彼らにとってはこれほど屈辱的なことはない。
「……はあっ、はぁ」
戦果に巻き込まれた少年は、生々しい異臭が立ち込める荒野をさ迷っていた。
子ども特有の柔らかな毛は赤く染まり、垂れ下がった尻尾は、地面を引きずり血が毛先から滴り落ちている。
痛いと、声を出すことすらままならない。
少年の視界の半分は闇に覆われ、まっすぐに進むこともできなかった。
「……っ、」
人間軍に一時的に捕らわれた際、左目は痛覚の実験と称してくり抜かれ、肌には数え切れないほどの傷を与えられた。
やつらは亜人を「人」とは思っていない。
だからこそこのような仕打ちを、幼い少年に施せるのだろう。
散々歩き回り疲れ果てた少年は、森の先にある泉のそばに体を横たえた。
父親と母親は、もういない。
巻き込まれて死んでしまった。
珍しいことではなかった。
戦争が続くこの時代では、多くの戦争孤児が存在したという。
親と離れ離れになってしまった子どもは、よほどの幸運がない限り、なんらかの形で死に絶えている。
「──! うそ……ひどい怪我」
年若い女の声が聞こえた気がした。
けれど、少年は片目を開く体力すら残っていなかった。
心地のいい匂いが鼻先をかすめ、不思議と体中がぽかぽかとした温もりに包まれる。
「……」
少年が渾身の力でまぶたを持ち上げると、そこには必死な顔で手をかざす、誰かの姿があった。
光が、とてもあたたかい。
照りつける太陽よりも──もっともっと、優しい光。
「あら、やっと目が覚めたのね」
少年は意識を失っていたらしい。
のろのろと起き上がると、女性が木製の器を持って近づいてくる。
「応急処置はしていたみたいだけど、十分じゃなかったわ。まずはこれを飲んで」
「……! うわああ!」
少年は女性が差し出した器を払いのけた。目の前の女が人間だと気がついたからである。
無地で簡素な作りのワンピースと、その上に薄手のショールを羽織った人間の女は、農婦にしては小綺麗な見た目をしていた。
ここは近くに街もなければ、集落だってありはしない。
それなのに女の身なりは、最低限の清潔さが保たれていた。
「もう、驚いたからって、落とすことないでしょう」
床に転がった器に視線を落とした女は、やれやれとため息をついた。
そこまで広いとはいえない室内を移動し、調理場のような空間でぐつぐつと何かを煮だす。
「──」
少年は言葉を失った。目の前で起きていることが、あまりにも現実離れしていたから。
女が指を空中で滑らせるように動かすと、鍋の下に火が現れた。
放置された床の器は浮き上がり、こぼれた液体はゆらゆらと動いて勝手に開いた窓の外へと飛んでいく。
「……魔女?」
それが少年の導き出した答えである。
こんな不思議な現象は、魔女以外に考えられない。
争いが頻繁に起こるこの時代において、魔女の存在は認知されつつあった。
人間にはない秘めたる力を身に宿す魔女たちは、各国の権力者が血眼になって探し出し、傘下に招き入れている。
魔女が加わったことにより、戦はより一層激しさを増した。
強大な力を前に人々は、魔女を信仰し始める。その噂は少年の耳にも届いていた。
人間と変わらぬ見た目をする魔女は、少年にとって初めて見る存在で。
不思議な力を前に、警戒することすら忘れてしまっていた。
「あなた、魔女術を見るのははじめて?」
黙りこくってまじまじと瞳を大きくさせる少年に魔女はおかしそうに笑う。
少年が素直に頷くと、魔女は再び近寄ってきた。
「今度は手を払わないでちょうだいね。きっと今まで酷い目に遭ってきたんでしょうけど、あなたに危害を加えるつもりはないの」
魔女は少年に器を渡す。中身は艶やかな緑色の液体が入っている。
「わたしが調合した特製の薬。切られた傷ならすぐに治るわ」
次いで魔女は、思い出したように続けた。
「まだ名前を言っていなかったわね。わたしはノヴァ。魔女のノヴァよ」
***
魔女のノヴァに助けられた少年は、しばらくの間ここで居候することになった。
というのも、少年の怪我がかなり酷かったからである。
左脚は折れ、片目を失い、身体中は傷だらけ。
誰がどう見てもすぐに外を歩ける状態ではなかった。
そのため完治するまでの間は、ここで生活しても問題ないとノヴァが言ってくれたのだ。
魔女の家には、もう一人住人がいた。
外にある木の太い枝でいつも昼寝をしている、ほんの少し耳の長い、真っ黒な猫。
黒猫は使い魔というものだと、ノヴァが教えてくれた。
戦の世の中だというのに、ノヴァの住むこの小さな家だけは穏やかな空気が流れている。
人に見つからないように、周辺に特殊な魔女術を施しているらしい。
ノヴァは力を使うために、よく月の光を浴びていた。月の光を取り込むことで、ノヴァは魔女術を生み出していたのである。
黒猫はいるけれど、他には誰もいない。
寂しくはないのかとノヴァに尋ねれば、彼女は眉じりを下げて答えた。
「寂しい。でも、わたしは表に出てはいけないの。わたしが寂しさから逃げて血を与えたから、戦争がおかしくなった」
笑っているのに、泣いている気がした。
少年が聞いたのは、それだけだった。
ノヴァはよく鳥を頼って各国の情勢を逐一調べている。鳥が戻ってくるたび、ノヴァの横顔は悲しげに陰っていった。
いつしか両親を失った少年にとって、魔女の家は心の傷を癒す特別な場所となっていた。
砂利にまみれていないスープを初めて飲んだ。
頬がとろけるほど甘い菓子というものを初めて食べた。
夜を過ごすための掛け毛布は、涙が出るほど柔らかく温もりがあった。
「もしわたしに……子どもがいたとして、あなたぐらいの歳なら、こうして服を縫ってあげたりできたのかしら」
楽しそうに、けれど同時に寂しげに微笑んだノヴァは、少年の頭を何度も、何度も優しく撫でる。
そこにいることを感じるように、少年の姿を通して、ノヴァは別の何かを映しているようにも思えた。
こんな平穏が、世の中に広がっていけばどんなにいいだろう。死者を出す争いなんて無くなって、もっと世界が優しくなればいいのに。
叶いもしないそんな思いは、少年の胸だけに留めておくことにした。
なんの問題もなく怪我が完治するころ、ノヴァは少年に言った。
「この場所も、そろそろ戦火に呑まれる」
もう慣れたと言わんばかりのノヴァは、少年に遠くへ逃げるように伝える。
離れたくなかった。親を亡くした少年にとって、ノヴァは安心できるただ一人の人間だったから。
助けて貰ったお礼すら、まだ何一つ出来ていないというのに。
一人ぼっちになるのが怖くて首を横に振り続ける少年を、ノヴァは優しく抱きしめる。
「一緒に過ごせて、とても幸せだったわ。時間は短いけれど、あなたのこと大好きよ」
「ノヴァ……」
「だからお願い、わたしのそばを離れてちょうだい。わたしのそばにいるということは──あなたをこの先、不幸にしてしまう」
言葉の意味が理解できないまま、少年はまたひとりになった。
ノヴァは少年を、まだ安全だった遠くの森の泉に飛ばしたのである。
後になって、少年はノヴァという魔女を知ることになった。
ノヴァ──始まりの魔女。
彼女は特定の人間に自分の血を分け与え、契りを交したという。
契りを交した人間は、魔女の力を手に入れた。
ノヴァの血を与えられ魔女となった者たちは、子を作り、子孫を残し──血を繁栄させていったのである。
けれど、流れゆく時代の中で、とうとう魔女は公の場から姿を消し、一人残らず絶滅した。
「……ノヴァ」
ノヴァが特別な魔女であると少年が知ったのは、白狐の亜人として、二度目を生きていたときだった。
ありがとうございました!




