44. 黒魔女さんの解決方法 その9
『なんだ、逃げないで来たのか。まあ、人間にしては根性あるじゃねーか。そこだけは褒めてやるよ』
住処に到着して早々、父バードックスはそう言葉を吐き捨てた。
「きゅい、きゅい……」
さっきとそれほど状況は変わっていない。
父バードックスと、その足元にはジュニアちゃん。そして、対面して数メートル離れた位置に膝をついたカノくん。
カノくんは、驚いた様子で住処に到着した私を見上げていた。一瞬、安堵したように表情を和らげたかと思うと、すぐに顔を強ばらせてしまう。
「本当に、来てくれ……いや、なんで来てるんだよ!」
「あーあー、あまり大声を出したら駄目だよ。傷に響くから」
師匠の力によって毒の回りが遅くなったとしても、重症なのだ。そう伝えているのに、カノくんは聞く耳を持ってくれない。
「ば、ばっかじゃないの……! なに、自分から死にに来て、」
『テメェは黙ってろ。小僧。次に邪魔しやがったらタダじゃおかねぇぞ』
「……っ」
父バードックスにドスの効いたうなり声を出され、カノくんはぐっと口を閉じた。
時間を空けても、父バードックスの気の高ぶりに変化はなさそうである。冗談ではなく、本当にカノくんの息の根を止めようとしているのだ。
なんとしても、それは阻止しなければ。
「……約束どおり、彼に手を出さないでいてくれたんですね。ありがとうございます」
『ハッ! それはどうだかなぁ? テメェの返答次第では今すぐにでも状況は変わんぞ』
ざわざわと、森が揺れている。
きっと森に暮らす動物たちが陰ながら様子を見守っているのだろう。殺気を放つ父バードックスに近づくことはできないが、心配してくれているのだ。
『まさか、忘れてねぇよな。そっちの兎を見逃す条件』
「はい。魔女の肉体の一部を持ってくること、ですよね」
満足したように、父バードックスは荒い鼻息を鳴らした。
『ああ、そうだ。素直に言ったらどうだ? そんなもの、手に入るわけがねぇ。おとなしく食べられに来ましたってなぁ』
酷い言いようだ。でも、子どもを傷つけられたのだから怒り狂うのは当然である。
私は、持ってきた布鞄の中から、三本の瓶を取り出した。
『おい、なんの真似だ人間』
父バードックスは警戒して、ジュニアちゃんを守るように体勢を低くした。
「これは魔術薬です。一つ目は、そちらの赤ちゃんの傷を治すもの。二つ目は、彼の怪我を治すものです。そして、これが」
『おい! テメェ!!』
そこで、父バードックスは今までにないくらい威圧的な怒声をあげた。
『オレは言ったはずだ。んな薬なんて信用ならねぇ。魔女の肉体の一部以外は認めねぇ。魔獣との約束を違えるとは、覚悟は出来てんだろうなァ!?』
約束なんて知るか〜みたいな言い草をしていたのに、こういう時だけ会話にすり込んできたよ。
なんだか人間味のある父バードックスの言葉に、威嚇されているにも関わらず心に余裕が出てきた。不思議。
「魔女の肉体の一部なら、もちろんすぐに用意します。その前に、彼の傷の手当てをしてはいけませんか? これを飲ませるだけでいいんです」
バードックスの毒なのだ。魔術薬を飲ませるなら少しでも早いほうがいい。
『うるせぇ! 早く言われたもんを出せ!!』
これは無理そうだ。そうとなれば、今私がやることはたったひとつ。
「……わかりました。では、最後の三本目の魔術薬。これは、髪の毛の発育を著しく促す効果のあるものです」
父バードックスに見えるよう、腕を上げて掲げた。透明な瓶から見える泥色に赤混じりのくすんだ液体。夜も深くなったこの時刻、しっかりと色が確認できるか定かではないが、毒々しい見た目をしている。
触感はほんのりとろみがあり、進んで飲みたいとは思わない代物だ。
『それが、なんだって言うんだ……?』
「……新鮮なほうがいいと言っていたので。今、この場で切ってお渡ししようと思いまして」
『…………は?』
さすがの父バードックスも、理解できずに固まってしまった。
カノくんは言葉を発することもできず、父バードックスと、私を交互に目で確認している。その赤い瞳は横目でもわかる。「あんたなに言ってるんだ」と訴えていた。
「魔女の肉体の一部って言われて迷ったんです。肉体と言っても様々ある中で、どの部分なのか」
ぽかんと父バードックスが口を開けている隙に、布鞄の中から、切れ味の良い髪切りバサミを取り出した。
何度か刃を上下に動かす。棚にあった物を急いで取り出したが、十分使い物になりそうだ。
「目や耳、心臓に手足……いろいろありますけど、指定されなくてよかったです。肉体の一部なら、どこでも問題ないってことですよね」
……って、回りくどい話はもうよそう。
私は不味そうな色の魔術薬が入る瓶の蓋を外し、はたと地面に伏せるカノくんを見た。
「カノくん」
「なん、だよ?」
「さっきの、私がカノくんを見つけたときにした会話、覚えてる?」
「……え、なに、が」
戸惑う表情に、私は続ける。
「人間の私が信じられないなら、助けられることが嫌なら──魔女の私を、信じて欲しい」
赤い瞳が、大きく見開かれる。既視感があると思ったら、そうだシュカちゃんと同じだからか。
そのとき、森のざわめきが、風の音が、すっと消えていった。
だからなのか、私の声はバードックスの住処全体に行き渡り、もちろんそれは目の前に立ちはだかる父バードックスにも届いていた。
『…………ん、だと』
驚倒した父バードックスに、一歩、二歩と近寄り、瓶を口元に寄せる。
──ゴクリと、とろとろ粘り気のある液を、すべて胃に流し込んだ。
「う、っぷ……まっずい」
美味なわけがない。どれだけ頑張ったところで、この魔術薬の味が改善されることはないだろう。入れた材料がすべてドン引きするような代物ばかりだったのだから。
けれど、味の感想を呟ける余裕なんて、すぐになくなってしまった。
「……んん、あああ! かゆい!!」
魔術薬を飲み干して数秒後、頭皮に猛烈な痒みが生じ始めたのだ。
あまりの痒さに頭を触ると、さわさわさわと髪の抜ける感触が手に伝わった。
いや、抜けてるんじゃない。そう、これは、尋常ではないスピードで髪が伸びているんだ。
『お、おい』
狼狽の色を見せ始めた父バードックスの横で、私は痒みに耐え続ける。
しばらくすると、恐ろしい痒みは治まり、代わりに頭がずしりと重くなった。
自分の黒い髪が地面に触れるか触れないあたりで揺れている。成功したみたいだけど、ちょっと長過ぎて気持ち悪い。これ、絶対に似合わないよね。
「こ……こんなに痒いなんて知らなかった。もう絶対に飲みたくない……」
ぐったりと荒い息も整わないまま、私はハサミを持ち直す。
鎖骨あたりに長さを定め、伸びた髪を手に持って、ズレないようにハサミの刃を当てた。
──シャキ、シャキ、と、髪の切れる音が響く。
気持ちの良い音とともに、伸びたばかりの私の髪は、束になってひとつに集まっていく。
『まさか……』
フリーズしていた父バードックスも、ようやく私の行動の意図が理解できたようだった。
この長さの髪を切るのって、かなり大変だ。
もとの自分の髪の長さとだいたい同じぐらいには戻せたはず。素人の腕では綺麗に揃えることができなかったけれど、それは後回しだ。
「バードックスさん」
太い髪の束を、驚きっぱなしの父バードックスの元へと運ぶ。
ぱらぱらと地面に落としてしまった髪もあるけれど、そこは目を瞑って欲しい。
「お待たせしました。約束の、魔女の肉体の一部。魔女の髪の毛です」
私は自分の髪を、父バードックスへ差し出した。




