14. 残り香
さて、朝食を作ったはいいものの、この時間ではコクランさんとグランがまだ起きているのかわからない。時刻は8時前。微妙だ。
いや、素泊まりだと基本的に朝食も付いていないから、ギリギリまで寝ているお客様は前のペンションでも多かった。
だからといって部屋に聞きに行くのは論外。そこまで干渉するのはよくない。
「……これは食べるとして」
生地はまだまだ余るほどある。
余ったら余ったで森の住人たちにでもお裾分けしようと思っていたので無駄にはならないだろう。居合わせたらそれとなく食べるか尋ねればいいか。
ホットケーキを二枚ほど平らげ、師匠がおかわりを所望した追加分を焼いたあと、本日も薬草園へと向かう。雨が降ったあとだからだろうか、今日は湿気が強い気がする。空気の入れ替えも念入りにしよう。
雨が降った翌日は、薬草も畑の作物も艶々と輝いて見えるのは気のせいだろうか。私は藁籠を手に土の湿り具合を見たあと、被害を受けたものはないか確認していった。吹き飛ばされたりはしていなかったけど、少し水を浴び過ぎてクタクタになってしまったものがいくつかある。
幸い濡れて駄目になるものは採取済みだったり、部屋で育てているのがほとんどなので思ったよりダメージはない。
つづいて菜園を確認――ああ!
「キュウリが……落ちてる!」
なんてこと、師匠の大好物であるキュウリ様が。
もげて土の上に転がり散っている無残な緑……師匠に食べさせよう。
あとは、街で安く売ってもいいかもしれない。余ったら塩漬けしておかずにしてもいい。
そうすると白米が欲しくなるんだけど、あれはなかなか手に入らないのだ。こちらの世界の生産量でいったら麦が約七割を占めているぐらいだからなあ。ライ麦でも試してみようか。
ついでに菜園の端で多く実っていた野苺も摘んでキュウリと同じく藁籠に入れ、そろそろ戻る頃合だろうと腰を上げた。
旧館の裏手にある薬草園を後にして、新館の中庭を横切ろうと柵を開けた時。
いつも見かける野鳥とは、明らかに違う大きな羽音がバサバサと聞こえてきた。
なんだろうと、目を向ける。
音の出どころは、中庭に設置してある水場からで、その方向には小川も流れている。
水場と小川は、元々あったものだ。おそらく前の住人が貯水利用を目的として流していたのだろう。初めは枯れて干からびた有様だったが、水を巡回させ続けてここまで綺麗になった。
ちょっと様子を見てこようと、柵の出っ張りに藁籠を引っ掛ける。
それほど幅のない小川なので、難なく跨いで向こう側へと移った。
近くの植木の影からそっと水場の方向を覗いてみると――…そこには水浴び中のグランがいた。
通常の大きさに戻っているグランは、水に顔をつけてガウガウと鳴いている。
『あースッキリした。ここの水、綺麗でおいしい。コクランも飲んでみたら』
「ああ、そうだな」
傍にはコクランさんの姿もあった。
相変わらずここでも黒いローブを羽織ってはいたけれど、フードは外され立派なライオンの耳が見える。
コクランさんは無邪気なグランの様子を優しく見守りながら、背中をゆっくりとさすっていた。
昨日も思ったけど、コクランさんってグランの前では表情がとても柔らかくなっている気がする。当たり前か、自分の契約獣なんだから。
「……」
そろそろ声をかけようかと考えていたタイミングで、ふいにコクランさんは、私のいる植木のほうを振り返った。
「そこにいるのは……店主か?」
「あ、はい。おはようございます、コクランさん。昨日はよくお休みになられましたか?」
『ルナン、やっぱりいたんだー。おはよー。もうぐっすりだった』
コクランさんが何かを言うよりも早く、ガウガウと鳴き声をあげてグランがこちらに近づいてきた。
のっしのっしと歩くテンポがまるでスキップをしているようにも見えて、張り付けた笑顔の裏で悶える。
やっぱりということは、私の気配は筒抜けだったのだろう。気配をいじってしまうと逆に不審に思われる可能性があるからいいんだけどね。
「グランもおはよう。朝から水浴びしてたんだ。あ、はははっ。髭がびしょ濡れだ」
それすらも、可愛いねぇ可愛いねぇとデレデレになって撫でていれば、グランの後ろから小さく吹き出すような声がした。
「本当に店主は契約獣に抵抗がないんだな。会話もまるで成立しているみたいだった」
わかっているとは言えず、すっとぼける。
「そうなんですか? でも、グランは賢いからなんとなく態度でわかるかも。ここの水場が気に入ったんですね」
「そうらしい。水の味が美味しいだとか、そんなことを言っている」
グランを見るコクランさんの目は本当に優しい。本人が綺麗な顔をしているもんだから、ふと見せる笑顔が眩しい。ご利益がありそうな、そんな感じ。
『あれ、ルナンからいい匂いがするよ。ねぇ、コクラン』
「匂い?」
グランがしきりに私の体を隅々まで嗅ぎ出す。くんくんと鼻を押し当て、私をきらきらとした瞳で見ると「おいしそう……」と言うもんだから、ちょっとドキリとする。
知っている、匂いの根元はホットケーキだろう。キュウリも野苺もそこまで強い香りではないし、「こうばしい」とかグランが呟いてるから。
でも、ライオンに美味しそうって言われ慣れてないので、おかしくなって笑ってしまった。
「グランは、なんと言っているんですか?」
「……いや、その、店主から、いい匂いがすると」
思うところがあるのか、言いづらそうにグランの言葉を代弁しているコクランさん。
もしかしたら女である私に、匂い云々を伝えるのが気恥ずかしかったのかもしれない。大丈夫です、ホットケーキの香りだから。
「グランは鼻がいいんですねぇ。おっしゃる通り朝食にホットケーキを作ったんです。たくさん生地を余らせているんですが、よろしければいかがですか?」
「ほっと?……いいのだろうか、朝食まで」
「ええ、もちろんです。あ、いえ、迷惑じゃなければですけど……」
今さらになって少し強引過ぎかと、心配になって語尾をごにょごにょとしていれば、そんなことないと言ってくれた。
『たべる! オレもう腹ぺこ』
どうやらグランはすでに空腹だったようで、後ろ足を何度もぴょんぴょん跳ねさせては早く早くと催促してくる。
「館内へ戻るなら、グランを小さくさせなければ」
「構いませんよ。他にお客様は滞在されていないので。それより、グランはすごい喜びようですねぇ」
尻尾を右左と遊ばせるグランを眺めながら、私は忘れていたことに気がついた。
「そういえば……なにか大きな羽音がしたと思うんですけど。ここら辺に鳥とか飛んできました?」
尋ねると、コクランさんはピタリと足を止める。
それからゆっくりと私に目を向けた。
「……何も聞こえなかった」
「そうですか」
それ以上は何も聞かず、私はコクランさんにここへ来る前に置いてきた藁籠を取りに戻ると言って、先に食堂へ行ってもらった。
それから一人で水場の周辺を見て回り、近くに立っている木に近寄り、上を見上げた。
「……うん、やっぱり。結界に変な魔力がくっついてるわ」
この森に暮らす野鳥とは違ったわずかな気の気配。
敵意など、危害を及ぼそうという濁った殺気などが結界を通ると、すぐ私のほうに伝わることになっているが、今回はその仕掛けも発動しなかった。
でも、確かに。人によって生み出された魔力独特の残り香が感じられた。




