10. 黒い獣 その2
突如現れた黒いライオンに、私は釘付けになっていた。
のっそりと、ライオンはこちらに近づいて来る。
間隔をあけて廊下に付けられている照明に照らされたライオンの姿は、暗がりの場所だという事を除いたとしても見事に真っ黒な毛並みをしていた。
……この森、ライオンまでいるんだっけ。
施錠をしているし、紛れ込んでくるわけない。しかし私はライオンが突然現れたことに驚いていて、きっと一番ありうる可能性をその瞬間には考えていなかったのだ。
「グルルルル……」
小さく唸り声をあげる黒いライオンに、私はそっと口を開いた。
「こんばんは。……こんなところでどうしましたか?」
囁くように発した声に、黒いライオンの耳がピクリと動く。
夜間の習性で光る猫のように、輝くキトンブルーの目は心做しかとろんと垂れていた。こんな状況下でも目の前の獣をなんだか愛くるしいとさえ感じる。
私の声に反応してくれたのかと思ったのだが、一度止まった黒いライオンはむしろ無反応な様子で再び前進し始めた。
のっそりのっそり床板はわずかに鳴いて、ついにライオンの湿った鼻が、数十センチという至近距離。
驚いてはいるけれど、私は黒いライオンに恐怖心を一切感じていなかった。
村にいた頃、修行の一環で師匠によって近くの森に放り込まれたことがある。
小鳥だけではなく、もっと力のある野生動物と話してみろ――と、背中を師匠の後ろ足で蹴られた六歳の何とも可哀想な自分。
最初は気が気じゃなかった。
森の熊が私に気づいて興味を持ったときは肝が冷えた。
前世を思い出し師匠を召喚してから日が浅く、魔女術もうまく扱えなかったし、背中を見せてはいけないという知識が脳裏をかすめて混乱した結果、私の体は石のように硬くなっていたのだ。
いよいよ熊が目の前に迫りいろんな意味で覚悟を決めたとき。
熊は、地面にペタリとお尻を着いて、両足を伸ばし楽しそうに私に話しかけてきた。
もう終わったとその時は思ったけど、今となってはいい思い出である。
師匠の無茶ぶり修行の甲斐があったからだろうか。
大きなライオンを前にしても心を平静で保てるのは、動物である彼らの意識を理解できるようになったからなのかもしれない。
この子は大丈夫、安心だと、自分の中の何かが言ってくれていたから。
「グル……」
黒いライオンはまた唸り、こくりと首が揺れている。
「……」
話しかけても返答はない。目の前の私に気づいていない。首を重そうにこくこくとさせている。
あきらかに様子が可笑しいので、もしやと思ったけれど、今の仕草はやっぱりこの黒いライオン……寝ぼけてるんだ。
「――グラン!!」
「あ、コクランさん」
わずかな足音と共に本館から現れたのは、血相を変えているコクランさんだった。
まだ寝床に入っていなかったのだろうか、コクランさんは部屋に案内したときと同じく黒いローブを羽織っている。
とてつもないスピードで走っていたんだろう。ローブの内側が風を孕んで隠している尻尾が丸見えになっていた。
そこでようやく私は、気づく。この黒いライオンは、コクランさんの相棒だったのだと。
……そういえば私、コクランさんに相棒の動物がいるか確認していなかった。
師匠が言っていた確認はしておけという言葉が頭をよぎる。あの面白そうにした確信犯な顔、絶対気づいていたんだろう。
あえて言わないあたり師匠らしくて呆れてくる。
はいはい、確認しなかった私が悪いんですよ!
亜人のお客様の対応に慣れていなかったとはいえ、それを口に出して言い訳にはできない。
「……っ、店主」
「コクランさん、こちらの黒いライオンは、あなたの相棒動物で間違いないでしょうか?」
「それは……」
その言葉の詰まり方は、肯定と取っていいだろう。
まあ、隠していたんだろうね。亜獣人の宿泊は許可しても相棒動物がいることで宿泊拒否する宿屋は多いらしいから。
気まずそうにするコクランさんを見上げながら私は、そんなことしないのになぁと呑気に考えてまた黒いライオンに視線を移した。
「……グル?」
コクランさんの声が聞こえたからか、黒いライオンの瞳がさっきの比ではないくらい力強く、しっかりと意志を宿ったようになる。
ようやく目の前の私の存在に気がついたのだろう。黒いライオンはぱちくりと瞬きをしている。なんて可愛らしい。さすが猫科の動物。
でも慣れない人間が近くにいて寝ぼけっぱなしだったのに引っ掛かりを覚える。
……いろいろ聞きたいことはあるが、とりあえず。
「ここではあれですから、少し移動しましょうか」
にっこりと笑いかける私に、コクランさんはひどく驚いていた。
それは大型のライオンを前に臆することなく笑っているからなのか、相棒動物がいるなら出て行けと言われなかったからか。
それとも、私が黒いライオンの鬣に平然と触れていたからなのか。
信じられない顔をするコクランさんは、素直に頷いていた。
……ああ、少し固め指が通るこの手触り。至福だわ。




