1―8 偽物のバリアー
当時、警察官だった中村伸太郎さんは交通事故で亡くなった。
中村さんの旦那さんだった人だ。
中村さんの名前は久美。
だから。
中村 久美
久美さんの実家はレストランを2つ経営しているので、すこし良いとこのお嬢さんだと、僕は勝手に決めつけている。
少年剣士だった、伸太郎さんと久美さんの二人の出会いは、函館公立高校入学と同時に入部した「剣道部」がきっかけで、当然のように1ヶ月後には交際も始動する。
練習時間が一緒であれば帰りの時間も一緒。自然に仲が良くなるのは当然というか、それしかないというか・・・・・・。
話題が共通過ぎて困る、なんてなんともむかっ腹の立つ悩みまで聞かされた。
あれあれと言っている間にも、個人戦で二人そろって、ささっと全道大会に2年連続で出場しちゃたりもする。
更衣室でもクラスでも玄関でも「お似合い! 」という言葉を最後の句読点の替わりに使って、いつもの二人への噂話はお開きとなった。
とにかく、
少女コミックそのままの、全編カラーのそのページを思春期にしたような、爽やかが服を着てカバンをしょって歩いているようなカップルだったらしい。
これは伸太郎さんと同期の、当時はライバルだった坂口刑事が教えてくれた話だ。何回もする。
やがて高校を卒業して伸太郎さんは、幼い頃からの夢だった警察官になった。父親は函館から1時間半ぐらい北へ上った漁師町の派出所に今も勤務している。
久美さんは看護士をめざして進学する。最終目標は保健士だった。小学校の保健室の先生になるべく、猛勉強に明け暮れた。
猛勉強に明け暮れても会う時間は、別腹! みたいに湧いて出てくる。
久美さんの学校も伸太郎さんの職場も、同じ函館だった。偶然もここまでくれば計画と言う。
電話するなら会ったほうが早かった。 そんなことを口実に、いつも一緒にいた。
だから。
破局って?
なにそれ?
みたいに交際は順調に、ビデオの早回しのように進んでテープが終わったところが25歳の夏。
ケルンで二人だけの結婚式を挙げた。
そして・・・・・。
月曜の夜のテレビドラマのような、半径2メートル以内のそこだけが常夏の島のような、新鮮な空気、中身は酸素100パーセント! みたいな羨ましい新婚生活が始まった。
そんな生活が壊されることなど、DVDで観る映画の中でしか起こりえないと思っていた。
空想でしか、脚本でしか、壊すことはできない、と・・・・・。
ふたたび、「よくきてくれましたね」とさっきよりも緊張がほぐれた声でいった。
揃えた空のコーヒーカップに思い出を注ぐように、久美さんが短く語り始めた。
「二人とも偶然近くに居たから良かったけれど、ちょっとでも距離があったら、引っ張って伸ばしたお餅みたいに、細くなって切れてたわ。結局伸太郎は、コンビニに出かけるみたいに天国に行っちゃったけど・・・・・・」
久美さんが話す伸太郎さんのことは、湿度を上げないように、照度は落とさないように常に明るく、空気が淀むことのないように、わざとそっけなく言葉を選んでいるように聴こえた。
ピピッ、と鳴ってキッチンのガステーブルはお湯の沸いたことを知らせる。
フラミンゴの首ような口をしたポットは、コーヒーを淹れるのに都合がよく、細いお湯をドリップに注いで満たしてくれる。
僕の足は高い椅子に座るほうが、空中に浮いていて、重力を無視できるような気がして楽なので、居場所は食卓テーブルを選ばせてもらった。
しっかりとした作りの木の椅子の硬さは、かえって気持ちを落ち着かせてくれて、整理された日用品や、磨かれたフロアや壁の水彩画なんかを、控えめな動きで観察する余裕をあたえてくれた。
椅子には黄色の布で、赤いチョーリップが二つ並んだ絵のクッションが置かれていた。
静かでゆっくりとした空間は、久美さんの毎日の生活を耳打ちして教えてくれているようだった。
僕の視野のなかで探した限りでは、期待していた伸太郎さんの写真はなかった。
だから、僕の中の伸太郎さんの肖像画は、久美さんと坂口刑事から受け取る情報からでしか描くことはできない。
伸太郎さんの顔を、僕は知らない。
クリーム色の、広い部屋の割には質素なコットン地のソファーは、同じように質素であまり大きくない薄型テレビと、腰あたりの背丈のベンジャミンを話し相手に、奥ゆかしく隅で出番を待っている。
ありえない、あってはならない話が現実に起こると、それは手に負えない惨事を巻き起こす。
横断歩道を歩いているのに・・・・・・、
車が、
居眠りをした車がそこに突っ込んでくるなんてこと・・・・・・。
横断歩道は、車から歩行者を守ってくれるバリアーのはずではなかったのか?
その領域は別の世界でなければなかったはずだ。なのに。
あれではただの落書きではないか───。
その日、非番だった伸太郎さんは百貨店で買い物をし、釣具屋へ寄って「山女魚」の稚魚そっくりのルアーをふたつ買った。ルアーの中でもスプーンというやつだ。
食器のスプーンに似ていて、水の流れに逆らってひくと魚のそれそっくりに泳ぎだす。
疑似餌といって魚を騙して尻の針にかける。
伸太郎さんの楽しみは、渓流釣りしかない。
そして道路向うのショッピングモールは平日だと言うのに、バーゲンの賑わいをみせていた。駐車場へ戻る道・・・・・・。
昼下がりの雑踏のボリュームはいつもより高く、途絶える暇がない。
交差点の横断歩道の一歩前を小さな小学生の女の子が黒と白を数えるように渡っていった。肩から黄色い布のショルダーバッグを斜めに掛けている。
何かの歌を歌いながら、両親が待っているそちら側へ、もう少しで渡りきろうかというその時───。
黄色いショルダーバッグを狙いめがけるように、家ほどの黒い車の影が、豹のように吠えながら襲いかかっていった。
悲鳴にそっくりなブレーキ音はサイレンのように響いて空気を切り裂いた。ばずん! という聴きなれない、限界を超えた鈍い音が鼓膜の奥を打ち、その場のすべてを震撼とさせる。反射的に少女をかばって盾となった伸太郎さんは5メートルも跳ね上げられた。伸太郎さんは頭を縁石に叩きつけられ、2度バウンドして動かなくなった。
振り返る人。
立ち止まる人。
そして顔を覆う人。
少しの時間があって、いくつもの叫び声が交差する。
その日、どれほど虫の居所が悪かったのか、それでも飽き足らない死神の悪戯はまだ続く───。
伸太郎さんに突き飛ばされた少女は通行側の道路にゴムまりのように飛んだ。倒れて、そして運悪く伸びたちっちゃな右腕の上を、停止できずに通りかかった大型トラックの2重後輪が轢いた。
伸太郎さんは脳挫傷と全身打撲で意識不明の昏睡状態となり、少女の右腕は、肩の部分を残して消えた・・・・・・。