1―7 回想…オン
浮いていた体に誰かが荷物を持ったまま腰掛けてきたように、急に重力を感じて「ガクン」と落とされた。
はっ、として目が覚める。
ガスストーブの青く光る小さな線は<AM 04:45>を縦と横で形造っていた。そうか、もう夜が明ける。
夢を見ていた。
ただロウソクの炎が揺らめいているだけで、吹き消して、消えたと思っていても小さくなって見えなかっただけで、また吹き消したけれど、今度は前より揺らめきの幅を広くしてのしかかってくる。可笑しないつもの夢。
ここは。自分の部屋だ。昨日。
・・・・・・僕は最後の言葉をためらった。
▽
鈴は僕の腕の中で震えていた。
片方の掌に入ってしまうような、生まれたばかりの雛のように、壊れそうな肩を僕に預けていた。震えていた。
「鈴が勝手に決めたんだよ。彼は───へーちゃん。鈴は、鈴は勝手なんだ・・・・・・ごめんね。ごめんね」
僕はまだ人の流れが途切れていない歩道で、鈴の頬の優しい感触を確かめた。空気は流速を変えず、ふたりはずっと前からそこに佇んでいたように、そしてそれを知っていたように、せせらぎを渡る木の葉のように、角度を変えては通り過ぎていった。
ふたりはだれの目にも映らないようだった。
ごめんね ごめんね・・・・・・
どうして? なぜ謝るんだ? 何度も、謝るんだ?
だって・・・・・・ ごめんね ごめんね
ただ繰り返される「ごめんね」を、僕はどうして止めてやることができないのか。なぜと繰り返すだけで、もうやめろといえなかった。
僕の送ろうかという声に返事はなく、ひとりで帰れるかといった声にも頷くことはなかった。
改札で鈴がいった。
「また会える? 」
今度はいつ? ではない「また会える? 」に、僕の都合を推し量る遠慮に、急に消えてしまった強引さに、少し戸惑い、物足りなさを感じた。
うなずいた僕は───「会える」という形のはっきりした言葉を喉の少し奥で辛うじて、止めた。
それを見透かされないように、鈴の頬を軽く撫でて「うん」と咳のような返事をし、手を広げて・・・・・・振った。
途中、鈴は何度も振りかえり、立ち止まった。遠くなるにつれ振るその手の位置は高くなり、大きくなり、やがて地下階段に吸い込まれた。
▽
目が冴えて、眠れそうにないようだ。
この時間、起きたところでやることもない。
この時期の布団の中は本当に気持ちがいい。親鳥に抱かれる卵は、こんな温度の巣の中で眠っているに違いない。この場所で、この体勢で、いつまでも放っておかれたいと思う。
まどろみの中で、また記憶が展開した。
▽
0時を過ぎたので、もう3日前のことになる。
そう、日曜日のコンビニ。「とろ〜りとろける」なんとかという、恐ろしく美味しいプリンが二人を引き寄せた。
そしてその次の日は、鈴という女性が自分と同じ世界に生きているということを知った日だった。
あの日のあの時間に、ほんの1分遅いか、あるいは逆に早ければ、他の何処かですれ違っても、道を尋ねられたとしても、映画館で隣に座っても、二人は知らない者同士であったはずだ。
そしてあの日、ガムが必要だった理由は他にある。
僕はその人の家へ誘われ、そこへ行く途中だった。
「宮下さんはもう少し栄養とらないと。体重を増やしたくないのはわかるけど。一緒に食事はどうですか? 」
僕の身長は174センチで、体重は54キロ。身長の割には痩せている。
外へ出るのは億劫で、休日はただゴロゴロとしていたい僕だったけれど、柔らかなウールのカーディガンをかけてくれるような親切を、紙を握り潰すように無碍にもできず、天気も良く風も穏やかだという予報を信じ、重い腰を上げた。
何度も考えた。急用だとか、体調が悪いとか。一歩踏み出すたびに、どうして訪問を了解したのか。今になっても後悔をする。
彼女は、僕が来るのを待っていると言う。ある面で似たもの同士だから・・・・・・。
何から話そうか。
「こんにちは」か、「おす」か。どっちでもいい。自然に行こうと思う。
思えば思うほど、考える。傷つけないように、優しく抱きしめるべきか・・・・・・。
たぶん僕は自分をつくりかえるだろう。いい人になるか悪い人になるか。意地悪な人になるか。それとも無神経な人か。
どっちにしても僕は見せかけのものを着飾って、たぶん嘘をつく。
いつか観た映画の脇役あたりの俳優をイメージして、たぶん嘘をついて、その場をやりすごそうとする。
▽
札幌駅前の一等地にそのマンションはあった。
オートロック式でここの住人か確認された者でなければ、指紋ひとつないガラスの自動ドアは開かない。
インターフォンで部屋の番号を押して、認証してもらおうと近づいた。
そのとき携帯が震えた。
開いて着信を確かめ時間を見た。約束の時間、3時ちょうどだった。
「あ、宮下です。こんにちは」
向こうの声は緊張をかくさなかった。
「こんにちは。いま、どの辺ですか? もう、着きますか? 」
「はい、到着です。いま着きました」
急にいそいそとする気配が携帯の受話器から伝わってきた。(あら! )とか(たいへん! )とか、向こうの世界は急に時間が速くなったようだ。
「じゃあ、いま。降りますから・・・・・・ごめんなさい」
何を謝るのだろうと思いながら外を眺める。
事前に一階まで降りていて迎えてくれるつもりだったのだろうか。勝手に解釈して勝手にうれしくなった。
マンションの周りは意外に緑があり騒音も気になるわけではない。駅へは歩いて10分もかからないだろう。
音もなくスマートに開くエレベーターから出てきた中村久美さんは、職場とはまったく違う印象だった。
髪を結んで、どんなに忙しくても、いつも全員のお茶を気にかけ、帰ると「お疲れさまです」と声をかけてくれる事務員の中村さんも素敵だが、真ん中から分けて優雅に揺れている長い黒髪の彼女はもっと素敵で、同僚ふうな言葉で話すのはもったいない気がした。
エチケットのつもりで買ったガムだけど、顔を見てから噛み始めるのも、浅く軽薄に見られそうで、ポケットの一番奥に、何かの拍子に出てこないようにしっかり押し込めた。
「お疲れさまです」といつもの訊き慣れた声がフロアに響いた。それでやっと同僚という糸が繋がり、安心した気分になる。
中村さんの部屋は8階で、エレベーターを降りてから左に曲がった突き当たりにあった。
窓もないのに廊下は明るく、照明が行き届いている。
あらためて、よくいらっしゃいましたと言いながら開けられた玄関には、花びらの大きな植物が綺麗に飾られていた。話しかけてくるのではないかと思った。
しかし「綺麗ですね」とか「いいお宅ですね」などという言葉を出せるほど、今の僕には余裕がない。そのときが迫ってきているからだ。
どうぞと眩しい笑顔が道を空けた。そのときもやはり、僕の目は見なかった。
焼きたての甘いクッキーとチョコレートとシナモンの香りが広がった。
玄関の扉は来訪を優しく気遣うように二段階のスピードでゆっくりと閉じた。
さて、気の重さはこれからがピークになる。
僕にとって、どうぞお上がりくださいといわれるのは何事より苦痛なのだ。
空気が薄い山頂で、鉛で編んだ服を着せられたように全身が重く動作が鈍り始める。
靴紐に手を当てて、引っぱり、緩める。左の手で足を固定し、右手で靴を外す。
僕の左足は、足首から先がない。