2−4 ビル風
狸小路のはずれに、小さなラーメン屋がある。
カウンター席しかない。椅子は5つ。
屋台から車を取り外したまま置きざらしにしたような、ラーメン屋だ。
「いらっしゃい」ぐらい、いえよ。
親仁は・・・・・、こういうところの親仁は、きまって愛想がない。『悪い』のではなく、『ない』。
それだけで、『まずは合格』といった風潮はいつから始まったのか。
頑固だから看板になるのか、看板というものは頑固なものなのか・・・・・・。
美味いのまずいのといっても作るのは人間である。
食材も職人の体調もいつも同じではないし、食べる側の人間の舌も胃も、朝も夜も同じなほうが考えてみればかえって気持ちが悪い。
店を気に入って料理を気に入るか、その時の料理が忘れられず店が気になるか、どっちにしても気分がよければまた来ようと思う。
影井は暇があれば薄口なのにだしのきいたしょう油味のラーメンを食べに、引きちがいの入り口戸を開ける。
力を入れすぎると外れるか、レールが噛んで開かないか。
機嫌の悪い戸だ。
一度目ですんなり入れることが常連の証し、とでもいって踏ん張りをきかせているようだ。
店員とも注文のとき以外には口も利かず、目もあわせない。ただ自分のペースで麺をすする。この静けさがかえって体の奥を温めてくれた。
今日に限って隣には怜治が座っていた。
「めずらしいこともあるもんだな」
怜治が影井についてくるなんてことは、あまりない。正確には一度しかない。
「影井さんはどういうものを食べてるのかと思って・・・・・・。誘われてないけどね。大家のじいちゃんからもらった3百円は、こういうところで使いたくなったんだ」
「ふ・・・、そうか」
「3百円でラーメンは無理だね」
「シャコ飯なら食える。3百円でな・・・・・・」それから「ラーメンは俺に払わせろ」と、影井は低く笑った。
頷いた怜治は百円玉を愛しそうにカウンターに並べた。
思えば怜治のことは、鮎川怜治のことは、何も知らない。
たしか・・・・・・。
何ヶ月前だったか、もう1年は過ぎただろうか。あれは・・・・・・。
地下鉄何線の何駅のホームだったか? チンピラに若い女がからまれていた。いつかのドラマでみたような、次に出る言葉さえ同じで、まるで台本片手に舞台稽古でもしているようだった。観客さえいる。
からんでいるほうは茶髪の、妙に背が低くて華奢な、年齢はまだ30歳手前だろうか? へんなイヤリングが目にうるさい。
思慮というものを持っていないぶん、たりない身長にプラスして幼く見えたのかも知れない。
女のほうがヒールの分だけ身長があった。それに腹をたてているのかとさえ思える・・・・・・。
少し背の高い猫背の同じような髪の男が横でもう一人、にやついている。興味もないので顔など覚えていない。
「見くだした眼つきで見やがった」などと論外なことを犬のように吠え、因縁を放水のように浴びせていた。
「ひ、ひ、ひっ」若い女はスカートの裾をめくり上げられ、スラリとした形の良い足が根元まであらわになっても、恐ろしさが口を被って、息を吸うばかりだった。
「一緒にきて、どっかいいとこで謝ってもらうか? こら!」女のブラウスの胸元のボタンが弾けた。
最近は都会に限らず、どこの街でも、物騒な、気分の滅入る事件があとを絶たず、聞きたくなくても毎日テレビのニュースを占領している。なにがどの事件だったか迷うほどだ。
こんなことが何層も織り重なって、痛さが痛さでなくなり、神経が麻痺をしてくるのか。
札幌でもコンビニ強盗を追いかけたアルバイトの大学生が胸を刺された。そしてその夜運ばれた病院で死んだ。
それと同じ日の早朝、ひとり暮らしの女子大生が血まみれの部屋で全裸のまま発見された。犯人は毎日それが義務のように訪れてはドアを蹴りつけに来ていた中年ストーカーらしく、指名手配中だ。
どっちの犯人もまだ、街のどこかの底に溜まった暗闇に紛れて息を殺している。
その頃も同じような事件が同じような件数で起こっていた記憶があった。
だから。こんな大衆のまえで自分の浅さを大写しにするように、弱いものに因縁をつけて目立とうとする奴は犯人であるはずはない。
いつ自分の身の回りで発症するかわからない伝染病を恐れるような過敏な空気は、恐怖のトーンで脅す声を拡張させて伝わった。
前もって学校の実習で教わっていたことのように止めに入るものはいない。みんな、ただただ自分の靴の先を見つめている。
物音を立てただけで注目が自分に集まり、因縁の刃先を向けられたのではたまったものではない。そして心の中で手を合わせ、次の電車が滑り込んでくるのだけを待ちわびている。
チンピラ二人はその場所では頂点に君臨しているようで、自分自身に陶酔しているようだった・・・・・・。視線はそれていても気配で注目されているのがわかるのだろう。
女の腕を抱き、どこかへ連れ出そうとした。
「やめましょう。ね、ゆるしてください。やめてください。ごめんなさい・・・・・・」
掠れた声ですがるように止めに入ったのは老人だった。痩せた体にハンチング帽は貧弱にみえた。
「あん? ちょろちょろ出てくるんじゃねぇよ! クソじじい!」
猫背のほうが、ポケットに両手を突っ込んだまま老人の胸を蹴った。力は抑えたようだったがダンボールのように老人は転がった。
それでも周りの人間は風景画のように、命令をされたように動かない。
横で、なにごともないように本を読んでいる若者がいた。たぶん大学生だろう。
「おい」
道でもたずねるように影井はチンピラの背中に声をかけた。
「わ! 」
大抵はこんな声を出す。影井の顔を突然アップで見たものはショックで止まる。目が合ったチンピラふたりはにやけた顔をそのまま凍りつかせた。
「そこのじいさんが代わりに謝ったろ? それでもどっかいいとこへ連れていくのか? 」
バチーン!!
襟元をつかんで影井は男を殴った。
本が飛んだ。殴られたのは横で本を読んでいた大学生だ。その学生にとって、あるはずのない事が突然起こった。自分の位置を、どの空間に立っているのか立たされたのか、少し前のことなのに思い起こすまでの時間が相当過ぎたような気がした。
「・・・・・・僕が、殴られた」
そして声がした。鼓膜のすぐそばだ。
「おまえは───、生きているのか? 死んでいるのか? 」その声はまだ続いた。「おまえのまわりで何がおきた? おまえは自分に何をさせたい? 」
「それからそこのじじい! 年を考えろ! 運が悪ければ死ぬんだぞ。簡単に死ぬんだ。あっけなくな。殺人事件にでもなってみろ、こんな大勢の紳士的なマネキン人形さんたちに迷惑がかかるじゃないかぁ! 」
影井の皮肉を聞いたか聞かずか、それでも人々は顎を下げ、口をつむぎ、みんな同じ角度に背中を丸めて次の電車を待っている。待っているのではなく逃げる準備をしている。
「けっ! マネキンに失礼だったな」
そうだよな、こんなかっこうの悪い後ろ向きなマネキンは誰もつくらない。
チンピラはなくなるようにどこかへ消えた。まるで舞台の袖へひっこむように手際がいい。突き出していた横暴を何もなかったように平らに戻して、ほの暗い隅へするりと隠れていった。
相手が弱いとみればライオンになり、強いとみればペンギンがブリザードをやり過ごすように黙りこむ。おまえたちは何処で・・・・・・なにをしたい。
からまれていた若い女は長い足を折り曲げて座り込み、安物の洗濯機のように大きく震えだした。
静かにひざを立て、油圧を送るように腰を伸ばし、唇の血を手の甲でぬぐって鮎川怜治がいった。
「生きているよ」
「いいや。生きているふりをしているだけだ・・・・・・」
「ふり? 生きている・・・・・・ふり? 」
遠くから駅員がこっちへ向かっている。歩いている。
「この! わざと今ごろきやがって───」影井は今降りてきた階段をまたもどった。
老人も若い女も具合が悪ければ手当てをしてもらえるだろう。
路上にはでたもののむしょうに腹が立って歩くたびに踵は地面に当たりちらす。
ビル風は冷たく吹く。冷たいけれど、背中を押した・・・・・・。
「───なんなんだよ! おまえたちは?!」
「・・・・・・」
「気持ち悪ぃな! こら、あっちいけ」
「・・・・・・」
「おまえ、妹が一緒だったのか? 兄弟で着いてきてどうするんだよ? 帰れ! 」
「この子? 知らないよ・・・・・・」鮎川怜治がやっと口をひらいた。
「なにぃ? 」
少女の瞳は何もいわず、ただ影井を見つめるだけだった。梓の視線は不思議に苛立ちを押さえてくれた。
「生きているよ・・・・・・」怜治がいった。溜息のように下には落ちなかった。そのまま目の位置で浮かんでいるように、消えない。
「だからなんだよ? めんどくせえな。だからついてきてどうすんだよ? 」影井は振り切るように歩き出す。
「僕は明日、大学をやめる」
「どうしてやめなきゃないんだよ? 俺に殴られたからか? 」
「そうだよ」
「なん? 」
「僕は自分にやらせることがあったんだ。僕は死体じゃない。来年、ちがう大学を受験する」 決めたんだ、といった怜治はどこかうれしそうだった。
ビル風邪の温度が上がったようだった。そして、さっきより少しだけ強く背中を押した。
生きてるふりは・・・・・・やめた。