2−2 風
影井の1メートル四方にしか飛ばない声音とは逆に、その彼女の透る声は店内のBGMに溶けながら響いた。
≪あ! きゃっ! へーちゃんっ! ≫
テーブルに虫でも居たのか声の主である彼女はいきなり立ち上がって叫んだ。そして。
どういうことなのか? 彼女のコーヒーカップを青年の頭の上に乗せている。それに。
「・・・・・えらい子ねぇ」って。なんなんだ。
ゲーム?
威圧感が充満しているはずのドーベルマンの目は、てんになっている。長くしゃくれた流木にちっちゃなアリが2匹しがみ付いているようだ。
頭のてっぺんに張り付いた「?」マークを急いで掻き消し、念のためにもう一度強い息で吹き飛ばす。
意味が分からなくて、周りから小突かれて突き飛ばされた気がして梓を覗く。なに!
今───。
笑ったのか?
梓! 「おい、梓」
影井が声をかけた時にはもう、いつもの静けさの畔で携帯を打つ梓しかいない。梓が笑ったのだとすれば影井にとってそれは初めて見た「絵」ということになるが。
返事など返ってくるはずもなかった。
梓は口が訊けない───。
怜治は相変わらず隣の席でブルトーザーのように力任せな勉強をしていた。最新テクノロジーを搭載したコピー機のようにレポートを書き綴っては自分専用の分厚い本を作り上げている。
「一生懸命もここまでされると苛つくよな」普通に、スマートにやれよ、と言いたくなる。
鮎川怜治は3年前、現役で国立大学の医学部に合格し医者を目指していた。にもかかわらず今年の春、中退してしまった。工学部に入学しなおすという。
現在はただの受験生だ。馬鹿としか思えない。
昨日の鳥顔こと鳥崎修をはめたのは怜治が鳥崎のノートパソコンをハッキングしてできたものだった。
怜治は約1ヶ月をかけてパソコンからデータを盗み出す。
コンピューターウィルスであるこの高度スパイウェアはよく働いた。怜治はこのウィルスを「ラビ」と呼んで可愛がっていた。
しかしラビは怜治が開発をしたものではないらしい。ネット上で「出会った」とジャングルの奥地で原住民に会ったようにいわれても影井には何のことやらわからない。
ラビは鳥崎のプライバシーに関係するキーワード、と思われる情報はすべて詳細に報告してきた。生活行動がみえるとこれから先の未来の行動さえ予測できるようになる。そうなれば先回りしたポイントの情報を操作して鳥崎自信の行動も意識も操ることが可能になる。そうだ。
今までならば、数時間で盗めた情報だったが、今回の鳥崎修に限っては1ヶ月もかかったのかかけているのか。終いには大家から部屋の鍵を借りてこいと言い出した。
「怜治、どうした? 」
「なにが? 」
「鳥崎の何が知りたい? 」
「・・・・・・」怜治の答えがない。ただいつものように、何事にも動じず支配などされない石が佇む。
「そうか。それならもうお前とは組まない───」本当にそう思う。はったりではない。影井にすればこんなことをいつまでも仕事としてやっているつもりなどない。この二人もそのはずだ。いつか何処かでとんでもないことをやりそうだ。
「・・・・・・。鳥崎じゃないよ」このおっさんに逆らうと面倒くさいといった顔を作って怜治が言った。
「鳥崎じゃない? 」
「うん。鳥崎の会社『朝水建設』と、ファミリー企業がやってることだよ」
「朝水!? 悪いことはいわない。やめておけ・・・・・・」本当に何をし出すかわからないのだ。
怜治が鼻の頭を掻きながらいった。
「ラビが勝手に送ってくるんだよ。あいつこの頃、正義に目覚めたらしくて・・・・・・」
はぁ? 影井は噴き出した。
「ラビってコンピューターウィルスなんだろ? 目覚めたのか? 正義に───。何を言ってんだ? 良いバイ菌てことか? ワクチンか? 白血球か? 」
「まあね」と怜治は案外分かっているじゃないか、という顔をしていった。
「あんまりバイ菌バイ菌っていうと、ラビ、怒るよ」怜治の目が急に険しくなる。
───ブーン!!
突然、影井の携帯電話が振るえ出した。
「ギャ! 」
ビックリして落としそうになり、捕まえて、また落としそうになった。
「ごめん。今のは僕が間違えた・・・・・・」
「おまえな・・・・・・。とにかく、だ。余計なことに首を突っ込まないで勉強してろ」
医学部を中退して工学部を受験しなおす男がこんな忠告を聞き入れることなどあるはずがない。
怜治はといえば、相変わらずまたペンを走らせ知識を脳に沁みこませている。砂漠に雨が降ったって、こんなに浸透しないのではないかと、まるでその情景が見えたように思ってしまう。
ふと、今まで気にかかっていたことを訊いてみる。
「工学ったって、いろいろあるだろ。何の工学なんだ? 」
「コンクリートだよ。コンクリート工学」
「セメントのか? 」
「そ、固まるやつ」
「面白いのか? それ」
「みんなそれぞれがそれなりに深いよ」
「医者の方がいいだろ? 」
「医療のほうが直接命に係わるから少しだけ深いかも。だけどそれはこっちが片付いてからさ」
「おっと! 医者もやるのか・・・・・・」
頭が良すぎて受験勉強だけでは物足りないのか。そう思うと影井は怜治を少しからかってみたくなった。
「そのラビさんに受験問題を探ってもらえばいいじゃないか」
ワッハッハと着包みを着たディズニーのキャラクタのように大袈裟に笑う。
怜治の目が大きく光って、影井さん鋭い! と言ったあとに、
「そうなんだよ! 実はその逆───。僕の作った問題を受験問題にしようと思いついてさ。印刷する瞬間にラビに入れ替えてもらうんだ」
影井さん流石、すごいなぁ。と、怜治はやたら尊敬をし始めた。
「おまえの、その、今書いているレポート。それな。それは来年の受験問題ということか? 」まさかそんなことが、と思いながら影井は訊いた。
「そうそう。何でも分かっちゃうんだね影井さん。これが終わったら国家試験もやっちゃう! 」
「国家って・・・・・・。そこまでせんでも」
「いや───。受験も国試もすべての試験問題は裏ではお金が動いている。天下り妖怪の餌だね。医者、防衛大学、検察、公務員なんか。官僚の偉い人も自分の取り巻きが身内のほうがやりやすい」
「そう言われればそれは、そんなこともやりかねないがな。だからアホばかりなのか? 」
「テレビの事務次官の記者会見。みた? あんなもんさ」怜治は急に不機嫌になった。
イージス艦がマグロはえ縄漁船を衝突・沈没させた事故の答弁も確かにそうだった。エリート中の超エリートが3と3がつく数字のときにアホになる芸をしているような、あの責任の無い、人事だという、いいよう・・・・・・。話し方も分からない奴ら・・・・・・。
自分が可愛いのだ。そう。
自分しか、可愛くないのだ・・・・・・。
「その試験問題がどうして手書きなんだ? どうせパソコンに打ち込むんだろ? 」
「ラビが早くやりたくてうずうずしてるからね。失敗なんて考えられないけど、一応ぎりぎりまで取り込みはしない。まあ、問題の打ち込みは梓がするから二日もあれば終わるよ」
海釣りにでも行くような気軽さで話す。
「え! 梓も知ってるのか? 」
「時給、一万円よこせってさ」
「げ、一日8万円か? おいおい」
「いや、二日だから48時間で48万───」
影井の開いた口は夕方まで閉まらない。
昨日の鳥崎とのやり取りの時も、実は梓は携帯電話を操作する意外は何もしていない。
梓がしたことは本人を前にしてあたかも鳥崎の携帯に侵入して操作しているように見せかたパフォーマンスだ。つまり、手品と同じ。
ネット銀行や他のカードのIDやパスワードは、怜治がすべて前もって盗んでいた。最初から分かっていたのだ。梓はそのすべてを記憶していた。そして鳥崎の携帯電話を操作してキャッシングを完了する。
結果的にどうあろうと鳥崎が自分で借金を申し出たことになる。
怜治に支持されたことを一度訊いただけで寸分の狂いも無くやり遂げてしまう梓も梓で、超を付けても足りないような天才だった。
こんな宇宙人が化けたような少女と受験生から見れば、影井はドーベルマンからは程遠い。手の上に乗ったチワワかトイプードルが無理矢理眉間に皺を寄せて「きゃん」と餌をねだっているほどにしか思われていない。
しかしこの2人の次元を超えた頭脳と感受性は影井の行動や言動に見事なまでに素早く完璧に反応した。自分の手足よりも敏感に正確に、いや微妙に前を行く。
▽
カップを頭に乗せたり、
≪りんどん?・・・・・・≫
≪西郷どんみたいな≫なんとかと話をしている2人は自制を失いかけているのか声のトーンが高く、年甲斐もない。
影井はこういうことに黙ってはいられなかった。なにかが、どこかがうずうずとして落ち着かない。口がむずむずとする。
説教がしたくなって、溢れ出てきた文句が喉ちんこをノックする。糸切り歯の辺りの唇が捲れてくる。
「ううう、う〜ん」お前らな、いい加減にしろよ! と、しっかり伝達するように影井は咳払いをした。途端、防音扉を閉めたように、二枚貝がパクンと閉じたように2人は静けさの中に入っていった。兎が草むらに隠れて辺りの様子を伺っているようだ。
自分の意志が伝わったことを確認して一応スッキリするが、余計なことしないでよ! という目で隣の梓が一瞬睨みをきかせた。
そういえば睨まれたのも初めてだ。ぷ、と隣の怜治がペンの手を休めずに噴き出した。
≪パスタ! 食べ放題?! ≫またもや隣の席のりんどんが声を上げた。こら。
おまえらは登山に来ているのか? 富士山の頂上でヤッホーと叫ぶのと同じ音量ではないか。
梓はもとより怜治までがペンを止めて顔を上げた。物事に動じないこいつらが興味を抱いている。影井にとってはそっちのほうが不思議だった。
美人という容姿以外の何に興味をよせるのか、双子の兄弟のように波長が合うのかそれとも全く逆にショートをするほど危険だと思うからか。
ただ、影井には何をしても許せてしまえそうな光りを放っている女性であると思えた。
影井と梓が席を立つより僅かに早く、向かいの席の二人が席を立って会計を済ませた。
後に続くように店を出た影井の鼻に清々しいコロンの香りが優しく香る。
閉まるドアと同時に、流れるBGMは街の雑踏に切り替わった。
クロブチ青年は「じゃあ、明日ね」と別れを告げ、手を上げたまま向きを変えて歩き出した。
誰かが「もういいよ」というまで見送るつもりなのか。
小さくなるその青年の後姿を、何故それほど追い続けるのか。
肩を左右に揺らし、背伸びをして慕う影を追う姿は美しく、いじらしく清純だった。突然、強い風邪が吹いた。行き交う人々は足を止め、首をすくめた。彼女の髪も横になびき、乱れるのを嫌って頭を抑え、目をつぶった。それより一瞬前にカシャン! シャッターを切る音がした。
梓が手にしている携帯だった。鳥崎の携帯だ。
「どうしてだ? 何のために彼女を撮る───」
影井が訊いた言葉に返ってくる返事はない。
それはわかっていた。