2−1 ドーベルマン
この2、3日の札幌は、秋を忘れたような陽気が続いていた。
賑やかな、混雑をしたいつもと変わりない通りも、穏やかなせせらぎのように人の列が流れてゆく。
月曜のランチタイムも終わり、その喫茶店にもひと時の静けさがふんわりと降りていた。
客は禁煙席にかたよっている。
レポートの作成中なのか、学生が一人。
黒スーツの男。その隣に少女が一人、携帯を打つ。向かいには俯いたきりの男。
静けさを破る乱暴さはない。その代わり几帳面にカッターの刃で隅から切り開いてから片方の目だけで覗くように、黒スーツの男が長い息を吐いた。
何処かで見た腹話術師のように口の動きより一拍遅れで声が届くような、薄気味の悪い不安感が撫でてゆく。
▽
「怖いのか? べつに・・・・・・。
脅迫をしているわけではない。暴言を浴びせているわけでもない。
これは俺の言い方だ。慎重なんだよ。ゆっくりと相手に分かりやすいようにだ。十分心がけて話をしてるだけだ。怖いも優しいも薄気味悪いもあんたの取りようだろ。
目は逸らすな・・・・・・。と、会話の常識って本の基本てとこの一番最初に書いてあるんだよ。基本なんだよ、きほん。
へらへらすることを嫌いだという人間、ゴマをすらない人間を愛想がないという。それはそれでいいさ。それはそっちの、受け取る側の、勝手だ。
だからって、それがなんだ? どうした? どうであろうとそんなもので俺は困らない。
返すと言って返さないのはあんただ───。ふん? あんたの落ち度で、あんたがだらしないからだ。
返せないのではない。返さない。そう言われたって仕方ない。結局そうだろ。
聞こえてるのか?
さっきも言っただろ。話をする時はな、相手の目。目は分かるよな? ここだ。
目を見て話せと教わらなかったか? そうだよ。
おい───。
そういうふうに聞こえない振りをするなよ。とぼけるな。
ほら。
そう言われて急に取って付けたような返事したって伝わってこないんだよ。誠意が。
だから段々と声はでかくなる。身振りも大きくなるさ。あんたの集中力が途切れないように、なるべく早く分かってもらおうとしてるんじゃあないか。
なあ・・・・・・。
聞いてるのか?
『つもり』とか言うなよ。思い出せよ。
『必ず返します』だった。そう言ったろ? 返事をしろよ。言われたことが理解できた事を相手に伝えろ。
『必ず』だったよな? それが、なに? 期限が来たら『つもりだった』になったのか? どの場面で変わったんだ? 期限って言う意味は分かってるんだよな。その時までに行うように、前もって決められた時期のことだ。勘違いなのか?
どうせ1時間もしないうちにそのけち臭い舌をちろちろ出して『なんとかなるべ』って唾でも吐いたんだろ。
ああ? 違うのか? そんなに犬の尻尾みたいに首振って今俺が思ってることを、振る回数で変えようとしてるのか? 消しゴムで擦るみたいにか。
評価ってもんはそんなに思い通りに都合よく入れ替えが効かないんだ。過去の実績が足を引っ張る。実際、お前は約束ってもんを、それも大っぴらに『必ず』を付けた約束を破っちまったんだ。
『必ず』とか『絶対』を使ったら、その後にくるカードはもうないんだよ。切り札のジョーカーを使っちまったということだ。おい。
だから───。
『今度は必ず』とかって言うのはな。無しだ。限りがないからな。
根性ってのはな。
この世に生まれたその日から決まってんだ。治らない───。
お前も死ぬまでそうだ。治らないんだよ。もって生まれたもんだからな。手足の指の数みたいなもんだ。
治らないんだったらその分を見込んで生きるしかないだろ。補正するんだよ。はぁ?
・・・・・・信用? しろってか? ふん!
馬鹿じゃねえのか───?
いつもそうやって伸ばし伸ばしにして来たんだろうが。
・・・・・・いいや。駄目だ。今日の約束だ。払え。今払え。早く出せよ。
予定が狂ったならな、その時点。今日より前に連絡を入れて予定の変更を申し出て、謝罪をして、そこからまた交渉だよ。それが今のこの時に及んでなんだ?『ない』だと?
どの面下げてきた───。
最初から払う気はない。『ない』と言えば何とかなると思ってるんだろ? 悪いな。
俺の場合はそうはならないんだ。
無い袖は振れないのか? 確かに振れないな。だけどな。
振ろうとした腕はまだ2本。
付いているよな。総菜屋で売っている手羽のような腕が・・・・・・」
▽
どの角度からどう押してもぴくりとも動きそうにない。物怖じのない影井の視線に射竦められた相手。不安からくる緊張は、この後のひと押しで頂点に達するだろう。
吸ったような吐いたような止まったような声で相手は言った。
「だから・・・・・・も、もう・・・・・・少しぃ。待って欲しいって・・・・・・」
「『だから』だって?! 」影井は声を荒げる。「なんの言い草だお前! 」ハスキーに荒げる声は室内には距離を計算したようにそこだけにしか響かない。しかし、鳥顔の頭では酷い二日酔いのように反響しているはずだ。テンポを速める。「何様のつもりだよ。『だから』はこういうときに使うもんだ───。だ、か、ら、あ。駄目だ! 」
「・・・・・・1円もないんです」雑巾が話をしているようだ。
「あるかないかは訊いていない。払えよ」
「・・・・・・」
一見仕立ての良さそうな紺のスーツを着た40代後半の鳥顔の男は営業職らしい。細いフレームの眼鏡はやはりメーカー製か。靴も腕時計も、その身なりは「全部剥ぎ取ってください・・・・・・取れるもんならね」と、にやついて挑戦しているようだ。そう思えてさらに苛立ちが増す。
外見ばかりを飾れるだけ着飾って、まるで七面鳥だ。物事を後回しにするほどの甲斐性も計画性も持っていないくせに・・・・・・。
鳥のような顔をしたサラリーマンは、返す言葉を無くし、虚ろな視線は喫茶店のライトや天井の繋ぎ目、たまに影井の口元をちらちらと彷徨って、最後にコピー用紙のように白い自分の手を見て黙る。残り少ない餌を縛られた嘴で突付いているようだ。
影井は言葉を待つ。いや、動作を待つ。それはたぶん鈍くて鈍感で、錆び付いた音がするだろう。
15分・・・・・・。
「どうした? 払えよ」
「トト・・・・・・」鳥顔は日本語を忘れたようだ。鳥語で話している。
組んでいた足を入れ替え、スーツの内ポケットに手を入れた影井の動作は一瞬だった。ビクリとして鳥顔は身を引いた。
瞬きを忘れた片方のまぶたは手の行方を凝視して、さらにこれ以上は無理、とでも言うような脅え顔を作った。
無造作に出てきたのは文庫本だった。『南京の基督』
初めはただのポーズのために買った。だから小さい文庫であれば何でも良かった。端の棚の手の届きやすい位置にあったもで、題名をぱっと見られてもすぐに記憶に残らないような気がして選んだだけだった。
あまりに退屈で馬鹿馬鹿しいこいつらの、人のせいにする言い訳にはうんざりする。下水の匂いがするような怠惰な時間を潰すために文庫本のページを開く。開くだけのつもりがそのうちに文字を読み進めるようになった。それから何度読み返したことか。
この中国人の異国の男を待つ15歳の、この少女は、お前らの目にはどう映る・・・・・・。
▽
見た目7割。
第1印象で70%が決まる。嘘だ。
見た目・・・・・・9割。
人は外見で判断する。特に顔。体型。身形。
その外見と話した印象が同じなら、後の1割も完全に埋まる。これで100%だ。
影井完司の外見は威圧感で武装されていた。
恐ろしい外見といってもオカルトのメイクさながらのそれでは、人に近づくことは難しいよりも警戒されて終わりだが。 威圧感。一発で心臓を氷の矢で突き抜くほどの、首を(も)ぎ取るほどの威圧感を武器として、磨いた。
別に顔に大きな対角線の傷があるわけではない。飯櫃に頬が腫れあがっているわけでもなかった。どちらかといえば端整で堀が深い顔の作り。これでも若い頃は、結構もてたものだった。
煽てることなどしなくても女達は近づいてきた。息苦しいほど途切れることがない臭いを発しながら。
40も半ばを過ぎた今、185センチの身長から流れ出す声音は、硬いリードで吹いたテナーサックスの高音域のように、掠れて搾り出される。それが返って得体の知れない囁きが、深い井戸から吼え出した死神が吹く草笛のように鼓膜を痛いほど振るわせる。
ドーベルマンが唸るのを堪え、絞った瞳孔は喉笛を焦げるほど睨みつけているようだ。
更に15分が経過する。
縦揺れだった鳥顔の貧乏揺すりは横揺れに移行した。振り幅が乱れ出す。かたかたと体の何処からか音がする。
「払えよ。144万」よくもこんなものをこんなにも溜め込んだものだ。
ひと月6万の家賃を2年。払わない奴も奴だが、取れない大家もだらしが無い。結局半分の72万でも取れれば御の字ということらしい。結局、人任せだ。こんなことを一生繰り返す。
残りの72万は債務の回収を依頼された影井の報酬となる。
そもそも相手が相当ずる賢くなければこんなふうにはなりようがない。「払う」と言ってその日が来ると「今度」と捕まらない距離を取ってゴキブリの幼虫のように逃げ回る。
鳥顔は相変わらず言葉が見つからず、肩を蝙蝠傘のようにすぼめ左の目と右の目を交互に、こそ泥が暗い部屋を窺うように動かす。
鳥顔の携帯がバイブと一緒に鳴った───。
あくびでもするように、身の一部になった動作で暢気に取り出した携帯電話を開ける。
「あ! 」
持っていたはずの携帯は蝋燭の火を吹き消されたように鳥顔の手から消えた。それは豹が獲物に爪をかけるように影井にもぎ取られていた。
即座に隣に座っていた少女に渡される。
鳥顔の携帯をコールしたのはその少女だった・・・・・・。
返す言葉もなく沈黙する時間は針の上に座るほどに苦痛だ。そんな時に携帯が明るく鳴るのは砂漠の真ん中で待ちわびた雨が降ってきたようなものだ。一時しのぎながらほっとする。何の疑いもなく取り出して、間の良い救いの相手を確認したくなるのだろう。
黒い最新型の携帯電話は少女の右手にじゃれつくように馴染んだ。少女は一目で器種を確認し裏返す。バッテリーを外した奥の製造番号を読み取る。自分の携帯とケーブルでリンクさせた。2台同時に電源を入れる。今まで見たことのない色のイルミネーションが記憶にない間隔で。チ、チ、チー。カ、カ、カ。チチ。高速な点滅を繰り返す。
奇妙な点滅が治まった次の瞬間からの操作は、新型器種の携帯コマーシャルの映像を何倍かに早回しするようだった。
少女の5本の細い指は携帯の表面を撫でるかのように、甚振るように、仔犬とでも戯れるように繊細だったり、箇所によっては大胆に動いたりした。
全てが右手だけの操作で間に合っている。店頭で買い換える器種でも検討しているようにも見える。
頭の中に粘度の強い空白を無理矢理に流し込まれていた鳥顔がどうにか我を取り戻し、鳥顔のようすを高見から観察するように見つめていた影井が最後の冷めたコーヒーを啜った。
鳥顔の腕が動いた。震える指で胸から煙草の箱を取り出した。咥えた唇はもっと震えて、折れたマルボロは激しく上下して何本にも見える。
「禁煙席だ! 」影井が嗜める。
初めから吸う気もなかった1本は空しく口元を離れて床に落ちた。
少女の壁のような白い無表情は崩れない。
指が止まり影井に画面を覗かせた。見たければ見ろ、といった仕草には誇張もなにもない。
覗いた画面を読み取った影井は冷たい水をを浴びせるように鳥顔にぶつける。
「端末暗証番号は『548977』だな? 」
「げっ」鳥顔の動揺がびっくりした目から溢れ、熱湯のように吹きこぼれた。
少女が画面を切り替える。
「おやおや・・・・・・。ネット銀行に35万も入ってるなあ。さっき1円もないって言ってたっけなあ? 」そう言ってドーベルマンの顔に戻して視線を目から喉元に下げる。
「梓───。全額だ。抜け! 」そして鳥顔に教えるように「あと109万だなあ」と手を大袈裟に広げた。
梓が違う画面を映す。サイトは瞬時に切り替わった。
「おやおや、ネットキャッシングもできるじゃないか。今ならキャンペーンで最高300万まで借りられるぞ。この際だな、これで払ってもらうか」
あんぐりと口を開けたままの鳥顔に影井が続ける。
「言っとくけど。詐欺でも横領でもないからな。大家は請求書もきちんと毎月出している。督促状も書留で2回、内容証明で2回送っている。それは知ってるだろ? もちろん口座も架空じゃない───。融資じゃあないからな、利息はなしだ。これはこっちが悔しい話だ。・・・・・・利息がないなんて儲かったじゃないか。あん? そしてようやく今だ、お前がネット銀行から借り受けて2年も溜めたかび臭い借金を、いや遅滞していた分を、お前の携帯から振り込んで完済して頂けた。文句はないよな? こういうのは自業自得とは言わない。後回しにしていたことを、一気に片付けたまでた。あとは───。銀行さんに毎月きっちりと返済しな! 」
影井が首を少し傾けると、こきんと骨が鳴った。首を傾けたままで鳥顔に続ける。
「だがな、また面倒くさがって、人に甘えていい気になっていると、債権回収業者が動くぞ。仕事が下手な業者が手を余したふりをして2重依頼したお客様担当が・・・・・・」鳥顔の顎を乱暴に鷲掴んで言った。「俺だよ」
「梓───。ついでに遠隔オールロックや他のセキュリティーも全部外しておけ」
梓と呼ばれた少女は影井の言葉にも無表情だった。そしてつまらなそうに自分の携帯でまたメールを始めた。
「そうか・・・・・・。もうそれは終わってるのか。悪かったな」影井は満足そうに少女の頭に手を置いた。
呆然とした鳥顔に影井が言った。
「お前の携帯は預かる。明日またここに取りに来い。その間に俺の気にそぐわない事が起こった時は、今の借金が1日で100倍になると思え」
▽
鳥顔は横に置いたバックを肩に掛ける。夢遊病者のように席を立って出口へ向かった。
「おい! 自分のコーヒー代を払え」
そのまま帰ろうとした鳥顔は空き箱のようになった頭を半回転しておずおずと振り向いた。「あ。はい・・・・・・」
内ポケットの光ったブランド財布から1万円を抜いた。
「おーや。1円も無かったんじゃないのか? 」
影井が鳥顔の席にあった伝票を頭の上でひらひらと振って眉間の皺を深くした。
鳥顔は途端にドアをぶつかるように開け、逃げた。一目散だ。レジを開けて会計を待っていたウェイトレスは苦いコーヒーを飲んだような顔で影井を睨みつけた。
「しょーがねえなぁ。梓。525円と立替料金3万円。キャッシング追加だ」
▽
1日が過ぎる・・・・・・。
月曜の午後、こ奇麗な喫茶店で久しぶりにのんびりとできるのか・・・・・。そして影井は隣に座る梓に声をかける。
「この頃、あいつの様子はどうだ? 」
「・・・・・・」無言の返事が返ってくる。
「そうか・・・・・・。もう少しだ。それまで母ちゃんが持てばいいが」持てばには、折れないように、逃げないようにという意味を押し込めた。頭のいい梓は感じたはずだ。
「・・・・・・」梓の携帯を打つ手は止まらない。
昨日の鳥顔こと鳥崎修はまだ来ない。口座には額面通りの金額がさっき振り込まれた。
「ほおー」来ないのか?
このパスワードもセキュリティもぶっ飛んだ携帯電話のメモリにびっしりと詰まった人脈や個人情報の数々は、なんにでもどうにでも利用されるとは思わないのか? 特に女や少女たちとのメールのやり取りは酷いものだ。どうでもいいのか、頭が悪いだけなのか? 妻子持ちで、ある程度の会社の営業だ。部屋は行きずりの女を連れ込むために借りていたようだ。どうりで半端な家賃だ。サラ金にはまだ、手を出していないが時間の問題か。使い込みにでも走るか。
今回の74万は少なかったな。しかし今後を思えば損はない。梓と、怜治さえいれば・・・・・・。
それにしてもそんなことをして何の意味があるんだ? 向かいのテーブルでのおかしな光景が目に入った。
営業の商談らしい。ネクタイの似合わない40歳ぐらいだろう、体格のいい日に焼けた男。初心者のような棒読みの説明は新人の営業マンか。
クロブチの眼鏡の相手の青年は30手前か。明るさを隠しているのか神経質なのか、乗り気ではない態度が伝わる。会話のちぐはぐさだけが先走っていた。
別れ際。日焼け男の100円ライターがテーブルの下へ落ちた。取ろうとしてテーブルへ潜った日焼け男のしたことは奇妙だった。ライターは見つかったはずなのに土下座をして止まっている。
そして日焼け男はそそくさと喫煙側へ逃げるように席を離れた。
数分して見慣れぬ光景がまた現れる。
梓がさっきのクロブチ青年の向かいに座った女を盗み見ているのだ。今まではありえないことだった。携帯意外にはまるで興味を示さない梓が・・・・・。
必然的に影井も二人の会話を聞き取ることに集中することになってしまった。
初めて出会った彼女に「へーちゃん」と、不本意な呼ばれ方を修正させようとムキになっているようだ。
≪みんなは洋とか洋ちゃんとか、宮下とか。ふつーに・・・・・・≫
≪かっこ悪いよね。『へ』だもん。クククッ。笑っちゃう≫
梓もその当てどもない会話に釘付けになっているようで、携帯の指は止まりその分神経は聴力へ移ったようだった。