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1―14 動かないビー玉

 どうしよう‥‥‥。

「あの時、どうして助けたの───」と言われたら。

 ‥‥‥どうしよう。


「あの時に、死んでしまいたかったのに! 」と叫ばれたら。

 ‥‥‥私は、どうなるんだろう?


「事故にわなくたって、どうせ3人で、川のほとりで、お父さんとお母さんと亜美と、家族で一緒にっていたのだから‥‥‥」と泣かれたら、‥‥‥どうしよう。


 どうしよう‥‥‥。


 その時は、私の「しん」も、ぽきん、と二つに折れてしまうだろうか?



 二年前。函館へ向かう「急行−北斗」の自由席で、久美はそのことばかりを考えていた。

 考えることなんて意味がないのだと、窓に映る自分に言い聞かせても、向こうの席の女の子と目が合ったり、親子連れの話し声が聞こえたりすると、また本を1ページからめくってしまう。また「どうしよう」が頭をもたげる。

 戻ることはできない暗黒の島へ運ばれるような旅。見えないくさりがガシャガシャと両方の手首をつないでいるようで、心は目的地に近くなるほど重くなる。

 その心中をかろうともせず、一定のリズムで軽快に鋼鉄のレールを叩きながら、列車はそろそろ終点に辿り着こうとしていた。

 やがて、黒で塗られただけだった窓ガラスには、懐かしい海に浮かぶ夜景が出迎えるようにぽつりぽつりと現れ始めた。

 締め付けられていた全身に、安堵感がやっと血液を送り始めた。自分に向かって「よし」と言い聞かせる。


 私はすべてを中途半端にして逃げ出した。やり場のない怒りを言い訳にして───。「怒り? 」今にして思えばずいぶん自分勝手だ。一番の被害者は自分だと勝手に決めて、何でもかんでも人のせいにして逃げ込んだ。

 それでは、窓に石をぶつけた亜美の父親と、結局は同じではないのか・・・・・・。違う街で生活をしても、逃亡犯が味わうだろう後ろめたさは消えなかった。


 久美は、その「後ろめたさ」の答えを見つけられるような気がして汽車に乗った。


 あの日、振り返りも、別れも言わずに抜け出した故郷ふるさとの香りは、1年を過ぎた今も変わらなかった。

 両親とは電話でしか話をしていない。

 レストランの客の入りも、最近はあまりかんばしくない。最近といっていたのは、もう何ヶ月前だろう。

 半年ほど前から「帰って来い」という毎日の電話は、いつからか「体に気をつけて」「風邪をひかないように」「帰り道は用心して」という言葉で上書きされるようになった。


 新築間もない函館駅の改札を抜けると、坂口刑事が出迎えていた。明けの勤務が今終わったと腫れた目を瞬いて言う。24時間労働のようなものだ。

 坂口とは、事故のことや学生時代のこと、伸太郎の話ができる。出張で札幌に来たときは食事なんかも一緒にしようと連絡をよこしてくれる。仕事も最近になってやっと余裕が出てきたようだ。

 

 挨拶もそこそこに、助手席のドアを開けシートに体を預ける。後部座席へ追いやるほどの荷物は持ってこなかった。

 電車道路沿いに函館山の方角へ20分ほど走った。急なカーブを曲がると、速度を落として停車した。

 坂口のセダンがライトを遠目に切り替えて光量を上げた。全体を確認するためだ。

 辛そうに建っているシャッターが半端に上げられた倉庫。いくつかのコンクリートブロックや足場に使う鋼管が乱雑に散らかっていた。

 長い間主のいない自宅、兼、事務所の「宗方建設(有)」は見る影もなく、寂れていた。

 雑草が生い茂り、サッシの玄関戸は最後まで閉まらないのか、指がはいるぐらい開いていた。

 声を掛けても返事はなかった。

 カビの匂いと動物の生臭さと排水の混じった匂いが鼻をついた。久美はポケットのハンカチを握り締めた。


 ノックの音に、やはり返事はない。居間のドアを開ける。キーという潤滑油の切れた音がした。探す必要はなかった。

 物で狭められた空間の古いソファーに、消えた蝋燭ろうそくのように少女は座っていた。

 この子は、少女なのだ。それも、片手がない‥‥‥。障害を持っている。

 どうして、こんな所にひとりで置いておけるのか。朝には遠くの土地へ行く、その準備をしに来たにしても、なんて‥‥‥。

 亜美の周りには、見て見ぬふりの人間が群れていた。彼女が知らない、いくばくかの保険金を何かの名目でむしり取れば、もう用はないのだ。

 ハイエナやハゲタカのほうが姑息な言い訳をしない分、まだましでなのではないのか───。


 思えば、少女の顔を真正面から見るのは初めてだった。

 久美が少女の病室へ見舞ったときは、まだ意識が戻っていなかったし、ショックが強すぎてその頃は話しかけることができる状態ではなかった。

 そして今、久美は少女に話しかける。

「どうしたの? 大丈夫? 淋しくないの? 」期待はしていなかった。

 予想したとおりだ、返事の手前の反応さえない。

 こちらを見ようともしない無機質のマネキンが一体あるだけだった。瞳の輝きなどない。顔の真ん中にガラスのビー玉がふたつ、並べてはめ込まれているだけだ。


 久美の後ろに立っていた坂口は初め、立てかけてあったパイプ椅子が倒れたのかと思った。慌ててあたりを見廻した。

 すると今度はそれよりも数段大きな音が響いた。

 それまで面倒くさそうに部屋を丸く照らしていた蛍光灯が、一瞬驚いたようにまたたいて、倒れこんだ少女を白く写した。

 

 一発目のビンタは亜美にも何だか分からなかったようだ。人事ひとごとのようにビー玉の位置をゆっくりそろえただけだった。

 剣道の有段者が覚悟を決めて放った一撃が、2度目のビンタだった。

 突然襲った衝撃に、少女の目は見えない透明な蝶々でも追うように、細かく震えだした。


「聞こえてないなら それでもいいわ! 」久美は震えながら叫んだ。声は自分のではないような低いところから出ているような気がした。

「伸太郎は、あんたの代わりに死んだのよ! あの日に、あんたも家族もいなかったら、今でも伸太郎は生きているの! あんたは片手がないけど生きてるじゃない! 伸太郎の命をもらったくせに、そんなに無様ぶざまに生きることは許さない! あたしの腕あげるから、伸太郎をかえしてよ! 」


 世間にも、友人にも、親にさえもこらえていた「口に出せない言葉」は、狂った暴風雨のように11歳の少女に叩きつけられ、心の中の防風林をぎ倒し、防災シャッターをもめくり上げた。

 呆然と立ちすくんでいた坂口が、やっと我に帰り、涙にひきつる久美を引き止めた。


 長い時間なのか、短い時間なのか分からない。ずっと遠くで救急車なのか消防車なのか、やっと聞きとれるサイレンが鳴って、闇に溶け込んでいった。


 蛍光灯がまた、ちらつき出した。



      ▽



 身を起こした少女は、久美を見返すことはしなかった。一度、遅いまばたきをして。


 そして‥‥‥。


「伸太郎さんの‥‥‥」初めて聴く少女の声はしばらく間があった。

「伸太郎さんの‥‥‥奥さん? 奥さん、は‥‥‥久美‥‥‥さん? 」

 すず虫がひとり言を囁いたらこんな声だろうか? 亜美のわずかに開いた唇から羽音はおとが鳴ったようだった。

 高いほうの音域を使って誤魔化すように、すまなそうな声は聴こえてきた。

「え? 」

「奥さん? なら‥‥‥久美さん‥‥‥? 」

「そう‥‥‥よ」なぜ? なぜこんなに胸が熱くなるの? この子の息は、どうしてこんなに私を引きつけるの?

「久美さん‥‥‥。久美さん‥‥‥」

 そうだと訊いて、ふうぅっと亜美の瞳と口元の体温が僅かにがったような気がした‥‥‥。


 

 涙の貯蔵庫はどこにあるのだろうか?

 どうしてこんなに途切れることなく流れ出るのだろうか?

 きっと止める栓が壊れたのだろう‥‥‥

 治らなければ困るなぁ‥‥‥

 お化粧が‥‥‥できなくなるよ‥‥‥。



 亜美の涙の栓は久美のそれより、もう少し壊れていた。

 今までの分、そう、亜美を産んだお母さんはずうっと病気で寝ていたし、お父さんはいつも、誰の前でも謝りながら働いていた。あのお兄さんに命をもらったのに、亜美は毎日毎日何もしないで夜と朝を待つだけだった。

 ふたつのビー玉の目は、溢れる涙で高速に洗浄されて磨かれながら、24時間かけて朝日が昇るように、ゆっくりとあかりをともし始めた。


「ごめんね‥‥‥」

「え」久美は、はっとして亜美を見つめる。

「ごめんね、久美さん。ごめんね‥‥‥。ほんとに、ごめんなさい」

 このまま亜美は何千万回も謝り続けるだろう。その小さい体の命が尽きるまで謝り続けるだろう。

「づっと。久美さんに。謝りたかった。‥‥‥まってた」

「───待ってた? 」

「謝りたくて、ずっと、ずっと。亜美は‥‥‥。伸太郎さん、殺しちゃって‥‥‥だから、ずっと、ずっと‥‥‥」


 亜美は久美を待っていた‥‥‥。

 ずっと、心で叫んでいたんだ。

(久美さん。亜美に、会いにきて‥‥‥久美さん、お願い─── )



「亜美ちゃん、あなた、私の名前を知っていたの? 」

 亜美は小さく頷いて続けた。

「伸太郎さんから、聞いた───」



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