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1―1 イメージの袋

 クロメはがいった。


 「じゃあ。さぁ・・・・・・。へーちゃん? 」


    ▽


 洋兵には独り言としかきこえなかった。ぽわんと白い吐息のようにあらわれたんだ。自然だった。


 うしろにいる誰かにいったようだった。


 洋兵はまだピントを合わせるのに苦労をしている思考のまま、背骨と頚骨をゆっくりとねじり、筋肉痛をがまんするように振り向いた。


 だれもいない。ふつうの白い壁。

 手入れのいきとどいた濃い緑色をした観葉植物。それは席を遮るようにして置いてある。それほど高くないけれどしゃれた木だ。小学生の背丈ぐらいだろうか。

 ほら。


 誰もいない。


 この木───

       ベンジャミン。


 二本で絡まっているように見えるけれど、ほんとうは三本の幹がきつく絡まっている。

 少女の三つ編みのようにきれいにねじられながら絡まりあっている。いつもこのままで痛くはないのだろうかと思う。

 ひし形のいちばん上の葉っぱが、加減された空調の風にリズムをとっている。たまに休符を入れながらふるふると揺れている。

 その奥の握りこぶしほどのすき間は、ほかの部分よりもずっと奥行きがあるように感じる。そのずっとずっと奥のほうから、懐かしくて、見覚えのある瞳に見つめられているような気がして、目玉が方位磁石のように引きよせられる。


 目を凝らした。いや。


 いやいや、誰もいない。見られているわけはない。

 誰もいないのだから。


 洋兵はべつのことを連想し、相手がいたこと、「へーちゃん? 」というクロメのことを思いかえすのに時間をつかってしまった。


 洋兵の首がカメラの置き台のようにパーンをして目をもどすと、そこにはさらに大きなクロメのアップがあった。見つめられているのは自分だった。どきりと心臓が一回だけ鳴るのがわかる。

 それをきっかけに、押さえつけていた時間がストッパーを外したように加速した。洋兵は黒目にいった。


「え? だれが? 」さらにもう一度訊く「なにが? 」

 

 洋兵の言葉はいつもの自然にまかせる呼吸のように、リコーダーを吹くようにはでてこない。

 困る───。

 

 まったく困る。

 

 意標を突かれるのはきらいだ。一瞬、おろおろする自分。テレビ画面のノイズのような不揃いな白い線が、右のこめかみから左のこめかみへジジジィーと走る。このとき少し虚しいなにかをかじったような気分になるのだ。

 そのまま飲み込むのかそれとも吐き出すのか。そう、その戸惑う一瞬。一秒の何分の一にも満たない時間だけれど、途切れるということにはかわりない時間。


 洋兵はビーム砲の発射スイッチに指をかけてでもいるような眼差まなざしの、相手の思考を探る。

 でっかい瞳の奥で考えていることなんかわからない。わからなくても、わかるはずがなくても、それでも脳みそは「あーでもない、こーでもない。いやいや、ひょっとしてこーかもしれない」などなどと、しょーもない大騒ぎをしだすのだ。これを、『うろたえる』という。


 洋兵はこのうろたえるのがなんとも嫌なのだ。だからそれを回避するために、へんに過剰に意識をして、補正をし過ぎてしまう。

 結局、もっとうろたえてしまって、あとになってから猛然と反省をする。


 もっと後になるとそれは虚しさに変色しながら領域を広げてゆく。拡散が止まったあたりで、今度は徐々に色あせて後悔というシミになる。

 結局は虚栄をはって、自分をよく見せようとしたいのだ。計算をした結果が優しさとか理知的にみえるように、自分の心地がよいようにとりつくろうとする。ということなのだが・・・・・・。

 

 洋兵の口にした「なにが? だれが? 」を、否定とか不満ととったのだろうか。黒目はなにが? に対する言葉の角度ををかえようとした。

「じゃあ、へー君? 」もっとわからない。

 洋兵の首はフクロウの柱時計ように、チクタクと時計回りへ回転し始めた。これ以上はかしげられない。

 先制攻撃は緩まず、ストレートからジャブに姿を変えて続く。どうするどうする? と。

 どうするといわれても。決まっていないおかずの材料を買ってこいといわれてるみたいで、やはり返答は口の中で声にならずにきえた。


「じゃあ・・・・・・おい! とか、ねぇ! とかになっちゃう? それは駄目よぉ」と黒目は大げさにかぶりを振った。

「・・・・・・ 」洋兵は散らばった言葉を捜して時間を使う。疲れる。


「なんて呼ぶのか、決めなくっちゃ! 」

 ね、ね、と説得にかかりはじめる。なぜ説得されるのかがわからない。


 フクロウみたいな洋兵は、フクロウみたいな顔をして、フクロウみたいにホーホーと考える。

 呼ぶかって? 決める? なぜ? どうした? だれを? え? だれが? それに。

 なんで”へー”なんだ? 


 へー? それは。


 それは断固阻止しなければならない。確実に、却下し消滅させなければ───。しかし、なんなんだこいつは───


 思ってはいても口には出ず。いおうとすると次の答えを要求され、「待て」の号令に逆らえずにおすわり状態でいる柴犬のような。ついにはそこにある置き物のように固まってしまっていた洋兵は、小さな息で吹くシャボン玉の数珠じゅずのように並んで飛びだして向かってくる「はてな? 」の玉をどう捕まえて、どう消したらいいのかわからない。

 うろたえながら、とりあえずは最初から仕切りなおしをしようと考えた。

 

 そのまえに。この黒目。


 彼女。は誰か───


 なにかのセールスか。宗教の。団体の。勧誘?

 

 自分を誰かと勘違いしているのか。それならありえなくはない・・・・。


 ぶつぶつと首をいっぱいにかしげた置き物は。あげくの果てに、自己紹介を始めた。


 名前はね。洋兵はいつもの音程をひとつ下げた。

宮下洋兵みやしたようへい」「みやした・・・・・・」

 二度目はゆっくり。名前はカーリングのストーン球を押し出すようにもっとゆっくりと、そして慎重に、「ヨウヘイ。ナンダケド・・・・・・」

 狙いを定めるようにいった。

 指を離れる瞬間にわかる高得点が期待できるような感覚を期待した。だけど。

 自分の名前なのにこれでいいですかと彼女に尋ねているような。答案用紙の四角い枠に名前を記入するときのような「これであってますよね? 」みたいな。

 どこか変ないいまわしになって、それをとりつくろうためにまたまた渋茶を飲んだような、中途半端にへんな顔になった。


 顔中の部品が真ん中に寄っていく。


「だからっ。へーちゃん? 」

 背中に髪の毛でも入ったように、細い体をよじりながら彼女がいった。「じれったい」という文字を背中で空中に描いている。

 薄くコロンが香った。

 ───僕はなにを説得されているのだろう。


「どーして? 」

 黒い縁の眼鏡のまん中を中指で上げて止めるいつもの「気分のリセット」をして、洋兵は彼女に訊きかえした。

「どうして? 」と訊いているのに彼女の答えは、「じゃあ、へー君? 」

「ちゃん」を「君」にかえただけ。さっきと同じやり取りが続く。間違いなく夕方まで続きそうな気配が立ちこめる。


 洋兵はため息だと勘違いされないように、大きな呼吸を吸って。それから横を向いて、鼻から吐いた。

「いや。『ちゃん』とか『くん』とかの問題、ではなくて」 そうだ、そんなことではない。洋兵はテーブルの端をつかんだ手に力を入れる。

「ではなくて? 」と彼女のでっかい黒目が訊いている。───なんなの?

(だから───)


「だから? 」

「だから、なんでへいをとるんだよ? 」洋兵は少し腹がたってきた。

 彼女は言い返す。

「だから、なんでようをとるんだよ? 」まったくおなじ言葉をおなじ音程とリズムで返してきた。おまけにテーブルに両腕を突っ張っいる。そっくりだ、自分と。


 彼女のかたほうの目が少し細くなって力がはいっている。その理由は簡単だ。噴き出しそうになるのをこらえているからだ。目の下の頬骨の辺りに薄く書いてあるのだ。『爆笑我慢中!』 と。

 指でどこかの肉を押すと「ポン!」と小さな爆発音がして紙吹雪が舞いそうだ。

 だが。しかし。なんでもかんでもとにかく反撃はせねばならない。洋兵はいった。

「へって。へーはおかしいだろ? いやだよそんなの! 」

 とにかく口数を返そうとする。

「それに、あれだ。間抜けっぽいし」


 彼女は綿菓子をつまむ前のように嬉しそうにいった。

「そうねぇ。おかしいわよね」

(・・・・・・おかしいよ)


「おかしいわよ。でも! でもでもでも、間抜けではないわよ! 」と、次の瞬間には、トムソンガゼルが、風上の気配を感じて首をもち上げたときの真剣な顔だったりする。

 失礼な! そんなことを言われる筋合いはない。馬鹿にしないで! といっているように思えるけれど、それはだれにいっているのか。


 しかしながら、発端ほったんは彼女の「へーちゃん」の一言からのはずだった。混乱しそうな自分を励ましながら洋兵はいった。

「みんなはようとか洋ちゃんとか、宮下とか。ふつーに・・・・・・」

「かっこ悪いよね。『屁』だもん。クククッ。笑っちゃう」

 今度は笑いだした。 声を出して。


「それからさ・・・・・・」洋兵は咳払いをして続けた。

「へーじゃないよ。のびないんだ」

 兵隊さんの「ヘィ! 」と勇ましく敬礼をして踵を「タン! 」と鳴らす。


「だって───」彼女の異論を唱えた唇は尖っていた。いや、尖らせようとしていた。

(なんだ? )


 洋兵は考え込むときや納得していないことを尋ねるときには、眉間にしわが寄る。深く二本寄る。じゃんけんでいえば、そこでグーを握っている。悪気や脅かすつもりはない。あるわけがない。しかしそうとられない。



 それは、その昔の若いころ。という注釈がつく。


 すぐにそのことだけに集中してしまって、自分の世界に入ってしまう。これが少し厄介だ。顔を近づけると一瞬引かれてしまうことがある。みんな後ずさる。


 大きめの荷物を抱えたおばあさんに道順を親切に教えすぎて、結局怖がらせたことがあった。本当に覚えたのかを確かめすぎたのだ。

 大抵の年寄りは、教えられたことの最初から最後までを、もう一度復唱しろといわれてもできない。年をとっていなくても普通、無理。

 たいていの親切はここまでするとあだとなる。


 子供に上の「お」と下の「を」の違いを説明していて泣かれたこともあった。

「いやいやちがう」「だめだめもういちど」「おしいけどまだちがう」

 熱が入り過ぎたからだが、結局は上の「お」も、下の「を」も理解に至るまで子供の集中力が持続せず、根性の無駄使いとなった。

 この子は今後「お」と「を」がトラウマとなってしまうのではないだろうかと、やってしまってから後悔する。



 多分、今もそんな形相で、照明を取り込んだ彼女の黒目を、水晶玉を使う占い師のように覗き込んでいたにちがいない。


 しかし、空気はまったく変わる様子はない。

 むしろいい具合だ。

 初夏の空を渡る風のようにさわやかに乾いている。くつろいでどうしようというのか。アッケラカンとはこのことだろうか。アッケラとしていて、カンカンとしている。


 彼女は「だって・・・・・・」と、もう一度いった。


「へーちゃんのほうが、呼びやすいんだ。もん」と女子高生のように握った両手を口に当て、首を斜め20度ほどかしげた。


 呼びやすさだったのだ。単に。


 それなら「よーちゃん」でも「よーくん」でもミヤシタでも変わりないと思うのだが、彼女の思い出やら理想やらがいっぱい詰まった価値観のイメージの袋を覗きこめば、自分は「へー」なのだろう。

 たぶん一番上にあって取りやすかったか、探ってみて偶然触れて、バーゲンのくつ下みたいに引っこ抜いたのが「へー」なのだ。


 なんともしまりがなく、残念そうな印象のその「へー」は、実は小学生のときに一度、使われたことがあった。


 みんなからあまり好かれていない女の子がいた。血色が冴えなく、目のつりあがった女子が、ある日から急に「おはよう、へー」とか「へー、これ使って! 」とかと言いながら洋兵の後をついてきた。

 なぜか偶然、出会い頭にばったり、という回数はそのある日から飛躍的に伸びた。

 最初はあまり気にもしていなかったけれど、さすがに毎日が毎時間になり、それがめにつきだすと噂がささやかれるようになった。


 洋兵はその「へー」がクラス中に蔓延まんえんすることと、その子と仲がいいと勘ぐられるのを恐れ、面白がられ、冷やかされるのを嫌って遠ざけ、無視をした。

 必要以上につれない態度をしたはずだった。

 それが幸をそうしたというべきか、その子の影は洋兵の周りから遠ざかり、そして徐々に薄くなっていった。


 さすがに罪悪感が込みあげ、「ふつー」を意識しようと考え直した。べつにたいしたことではないと。そう考えると、防具を身につけていたような体が急に軽くなった。

 次の週、その子は転校をした・・・・・・。


 そんな周りを気にする不甲斐ふがいなさや小心さや卑怯ひきょうさが、洋兵のイメージの袋に入っている「へー」なのかもしれない。いや・・・・・・。

 彼女への後ろめたさ。申しわけなさ。だろうか。

 それは今でも洋兵の心臓の下あたりを、チクチクと刺す。


 思い出は苦くチクチクと遠慮深げに、心を刺す。


 黒目に、

「呼ばれたって、返事───、しねーよ」

 反動で出てしまった「ねーよ」はガラが悪かったかと思ったけれど、気にしないことにした。

 彼女にとってそんなことはまったく関係のないことだと直感的に思ったというか、そこまで気が回らないだろうと安直に思ったからだが、いつの間にか焦点は、主題である「呼び方」をすっ飛び越して、返事をするか、しないのか、さぁどっち状態になってしまっていた。


 知らず知らず意図的ではないにしろ、彼女のペースにはまってしまったということだ。


 教え子の答えを待つ家庭教師のように、空白を数えていた彼女が水のグラスを傾けて、その中のなにかを探すかのように覗き込んだ。


 氷はカランと氷らしからぬ乾いた音をたてながら半分回転して、また戻った。


 彼女は差し伸べた手に狙いを付けて落ちてきた雨粒のように、ぽつんと言った。


 「返事は


  ───するよ」


 なぜわかる。


 遠慮気味に言われても決めつけられると、やっぱり反発の虫がかぁかぁと騒ぐ。

 ひらひらと手をふりながら洋兵はいう。

「しなあーい。したければ、する。嫌なら、やっぱりしない」

 俺の勝手だと、腕組みをしてかっこをつける。結局は言いなりになるのがしゃくにさわる偏屈さが表に現われただけだが。洋兵は続ける。

「いきなり知らない、思ってもいない、違和感のある名前で呼ばれたって、それは人事と言うか、人事にしたくなる。だろ? だから。お返事は───。残念ですが。で、き、ま、せ、んーっ! 」

 口をヘの字にして目をむいた。


 赤頭巾ちゃんを食べる時のオオカミはこんな顔かと想像する。きっとすごいことになっているはずだ。

 耳もいささか伸びていたかも知れない。置き物は首をかしげたままオオカミに変身した。



 きょとん、とした彼女の顔をそのまま絵にして飾っておきたいと洋兵は思った。




 お読みいただきありがとうございます。


 引き出しの数が少なく、おまけに、入っているものはお粗末なものばかりなので、イメージを文字に変換するのに苦労しています。


 評価頂ければ、とても勉強になります。


 よろしくお願いいたします。

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