お腹が空いたから
「食べてしまった……最後の一枚だったのに……」
森で一羽の兎が絶望的な声で呟いた。彼の名を、仮にジョーイとしよう。
ジョーイはまだ若く、食べ盛りである。そのため、彼は彼のナワバリ内の葉を全て食べ尽してしまったのだ。とんでもない食欲である。普通の食欲であれば、こんな事態は招かない。
森の中なのだから、葉が全て無くなるわけではない。無くなっていたら、今頃ここは砂漠だ。森林破壊をしてしまう食欲なんて洒落にならない。ならば訂正しよう。ナワバリ内の食べられる葉が全て無くなってしまったと。他に生えている、ジョーイの歯型が一切無い他の葉は、毒は無いが、味覚的な面からとても食べられるシロモノではない。
「食い足りない……何故だ……」
ジョーイは腹の辺りを手で押さえて耳をたらした。恐ろしいことに、彼の食欲はまだまだ尽きてはいなかった。それどころか、『もう食べるものが無い』という意識が彼の食欲を増殖させてすらいた。もしかしたら、彼一羽だけでここら一体を砂漠化することも可能かもしれない。当然、そんなことはしないが。
「…………あれ? 俺、このままだったらもしかして、もしかすると死ぬんじゃないか?」
持て余した食欲をどうしようかと頭を悩ませていると、ジョーイは一つの結論に至った。そう、例え今、この持て余した食欲を誤魔化す事が出来たとしても、ナワバリ内の葉をたべ尽くしてしまったジョーイには、明日以降の食料が無いのだ。植物がすぐに生えてくるなんて奇跡は起らない。つまり、彼はこのまま食料が見つからないと餓死してしまうのだ。欲望を抑え切れなかったがために、天罰が下ったようである。
「うおおおおぉぉぉぉ……唸れ俺の思考力ぅぅぅぅ……」
耳を組み(腕を組む的な意味で)、頭をフル回転させる。しかし、どう考えても明日以降は食べることは出来なさそうである。食べるものを葉に限定すればという話だが。
「そうだ……聞いたことがあるぞ……」
幸いなことに奇跡は起った。ジョーイは柔軟な思考の持ち主だったのだ。そして、抜群の記憶力も持ち合わせていた。そこに、食欲という強力な欲望が加わることで、彼の能力は最大にまで引き上げられる。
最大となった記憶力は、彼に一つの情報を思い出させた。
「……虫を食べる兎がこの世界のどこかに居るのなら、俺にだって……!!」
兎は基本的に草食動物だが、一部の野生種は昆虫なども食べるという。今は昆虫を食べられるような体をしていないが、毎日続けてみればいつか問題なく昆虫を栄養源として食べられるようになるのではないか。彼はそう考えた。そして、すぐに行動に移すことにした。
この日から、ジョーイの血のにじむような努力は続いた。最初は、動くものを追いかけて捕まえるなんて事をしたことが無かったために、昆虫を捕まえることすら出来なかった。せっかく捕まえて食べた昆虫を吐き出してしまうこともあった。それでも、ジョーイは諦めなかった。全ては生きるため、そして、己の欲望を満たすため。
それからどのくらいの月日が経っただろうか。ジョーイは問題なく昆虫を食べられるようになっていた。それどころか、かつては同じげっ歯類に分類されていたはずの鼠を食べることもあった。昆虫だけ食べていては、また食料が尽きてしまうのではないかと危惧した結果である。鼠や昆虫を追いかけ捕らえるために、筋肉や歯、爪や内蔵などが発達し、かつての天敵であった小~中型の肉食獣、猛禽類に簡単に捕まるような体ではなくなった。ジョーイは、追われる草食動物から、追う雑食動物へと進化を成し遂げたのだ。たった一羽でここまで進化してしまうとは恐ろしいものである。すべては彼の食欲のお陰だ。
兎は集団で生息する動物である。あまりの食欲に群れを追放されていたジョーイだったが、進化していくことにより再び群れへ戻ることが出来た。そして、彼は仲間たちに雑食動物になることを呼びかけた。
追われる立場にうんざりしていた兎たちは、ジョーイの呼びかけに乗った。そして、ジョーイほどではないが、彼らもそれなりの進化を遂げることになる。
たまに猛禽類との壮絶な争いを繰り広げることもあるが、そこにかつての追われる草食動物の姿はなくなった。可愛らしさもなくなった。進化のためには犠牲がつきものなのだから仕方ない。草食動物としての脚力が備わっていたお陰で、狐などに追われることはなくなった。たとえ追われたとしても、完全に撒くことが出来るようになった。兎に怖いものはほとんどと言っていいほど無くなっていた。
この急速な進化は、かつて猿から世界を支配する生き物へ進化した人間を思わせた。それなりの知恵が彼らに備わり始めていた。
「ホモサピどものお陰で俺たちは苦労する羽目になった」
進化した兎の頂点に君臨したジョーイが呟いた。この短期間で一番変わったのは彼の性格かもしれない。頂点に君臨したことにより、ジョーイは己の欲望を第一に考えるようなことはしなくなった。
「俺たちは変わることが出来た。そろそろあの猿どもに場を譲ってもらおうじゃないか」
ジョーイが呼びかけると、周りのウサギたちは雄叫びを上げた。進化していく中で、彼らの生理的な欲望は、世界制服という野望へ変わっていたようである。お腹が空いたから、狩りをするのではない。お腹がすいたらそこにあるものをすぐに食べられるようにする。そのために全てを狩る。そんな思考になったようだ。
だが、彼らにはまだ大型の肉食動物に勝る力や技術は無い。彼らだけで人間に挑めば返り討ちに遭うであろう事は容易に予測できた。
「ならば、戦争を仕掛けよう。俺たちに力が無いのなら、力がある奴を使えばいいんだ」
道具を使うことを憶えた猿のように、他の動物を道具として扱うことをジョーイは提案する。彼に異論を唱えるものは一羽も居なかった。彼のお陰でここまでこられたのだから、当たり前である。もし、ジョーイが死んでしまったら、彼は神として奉られあがめられることになるのだろう。
「時は来た! 全ては我らの空腹を完全に満たすために!!」
ジョーイが叫んだ。周りの兎たちも叫んだ。こつこつと、着実にしかし迅速に進化を遂げた彼らは、虎視眈々とはいかないが、同じように人間を狙うことだろう。
世界を兎が動かす日は、そう遠くないのかもしれない。