最初で最後。
必死で赤野は走る。
逃げる場所はないかもしれない。
とにかく必死で走り続け、弱々しくなっている少女の身体を強く、そして優しく抱きしめる。
(例えこの子があの『イヴ』だとしても……僕は……)
しかし、足が徐々に重くなっていく。
徐々に速度が遅くなってくる。
このままではこの少女を守るどころではなくなってしまう。
病院の入り口まで走ってきた赤野は気配を探り、辺りを見回した後、視覚になるような場所に少女の身体を下ろした。
「……せんせ?」
華は赤野を呼んだが、赤野は何も言わずに白衣を脱ぎ捨て、白衣を破り捨てる。
そして包帯のように細くした後、傷ついた首に応急処置をし、答えた。
「華ちゃん。僕はこれから志雄の所に行きます……君はこのまま隠れていて」
「え……」
「僕が志雄を何とか追い払うから……だから、ね」
「……」
赤野があの男の所に行くというのであろうか?
華は赤野の腕を放さなかった。
それよりも強く握り締め、華は必死になりながら答えた。
「だめ……行っちゃ駄目だよ!」
「華ちゃん?」
「だってあの人……とても怖い目をしてた……先生このままじゃ殺されちゃう!先生も行くなら私も行くから!そうだよ……あの人私の事『イヴ』って言ってたから私が欲しいんだよ!私があの人の所に行ったらきっと「華ちゃん、そんな事はさせたくない」
華の言葉に、赤野は否定する。
赤野は決意していた。
例えどんな事があっても、この子を守ろうと言う事を。
どんな形であっても、絶対に守って見せると。
赤野はゆっくりと華の身体を抱きしめて答える。
「志雄に君を渡すぐらいなら、僕は今ここで死ぬよ。志雄は本当に恐ろしい男なんだ……長年彼の傍にいた事があるから、よく知ってる」
「で……でも……」
「君には生きていて欲しい。どんな形であれ、僕は……」
笑みを浮かばせた赤野の表情は辛く、悲しそうな顔をしていた。
華はそれ以上何も出来なかった。
だからとて、赤野をあの男の所に行かせるわけにはいかなかった。
華は強く腕を握り締め、必死で放さないようにした。
「でも、私は……」
「華ちゃん、ありがとう」
まるで最後みたいな言葉だった。
「せん――」
赤野の事を引きとめようと、必死に声を出したその時だった。
華の顔に近づいた赤野の唇が、華の唇にそっと重なった。
まるで、最初で最後のキスのように。
そしてそのキスは徐々に深くなっていくと同時に、華の喉から何かが流れ込んできた。
一滴、二滴と――赤野の血が、流れ込んでいった。
流れ込んでいくその血を、飲むことしか選択肢のない華は流れてきた血液を全て飲み込んだ。
ゆっくりと唇が放れた瞬間、腹部に痛みを感じた。
「え……」
赤野が華の腹部に攻撃したのだ。
徐々に意識が遠のいていく。
「ごめんね、華ちゃん。ありがとう……」
「せ……んせい……」
手を伸ばしても、もう届かない。
赤野は少しずつ、華から離れていく。
伸ばしても伸ばしても、もう掴めない。
そして華はそのまま意識を手放していった――。
* * *
次に華が目を覚ました場所は、白い天井だった。
どこかで見たことのある天井で、ゆっくりと身体を起こしてみると、そこは病室だという事がわかった。
けれど、華が毎日見ていた病室ではなかった。
いつもだったら見慣れている景色が窓から見えるはずなのに、見たことのない景色だった。
夕焼けがとても綺麗な景色だった。
「……私の、部屋じゃない?」
華がいつもいる病室ではなく、そしてここは華が入院していた病室ではなかった。
ふと、首に手を伸ばしてみると、包帯がされているのがわかった。
「そうだ……私……っ!!」
意識が全て覚醒した。
(先生!赤野先生はッ!!)
華は急いでその場から立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
床に足をつけた後、歩くことなくその場に座り込んでしまったからだ。
まるで自分の身体ではないかのように、いう事を聞いてくれない。
もう一度立ち上がろうと、両手に力を入れた時、病室の扉がゆっくりと開いた。
そこから入って来たのは、見知らぬ男性。
「あ……動いてはいけません!何をしてるんですか!」
「っ……」
男性は座り込んで立ち上がろうとしている華に気づき、急いで華の身体を支えるために近づいた。
華は突然現れた見知らぬ男性に驚いてしまい、動きを止める。
一方の男性は身体を抱き上げた後、先ほどのベットに華の身体を移動させる。
「……けど、目が覚めてよかったです。あれから一週間君は寝ていたんですよ」
「いっしゅう……かん?」
「ええ。病院の焼け跡から眠るように寝ていたのですから」
「やけ、あと?」
何がなんだかわからない。
華は頭の中で整理しようとしたが、出来なかった。
男性の話は続く。
「君があの病院に入院していたという事は調べはついています。君はあの病院の唯一の生き残りですから」
「生き残り……?」
「ええ……君が入院していた病院ですが、君以外の患者、医師、看護婦全員、何者かに殺されてしまい、病院も放火されてしまいました」
(殺された?放火?じゃあ……じゃあ先生は?赤野先生はどうしたの?)
笑顔でいつも色々な事を話してくれたあの人は、今何処にいるのだろうか?
華は徐々に男性が話している言葉を聞くことが出来なくなってしまっていた。
意識が、朦朧としてくる。
「……大丈夫ですか?」
「……え?」
「顔色が悪い……ごめんなさい。疲れているのに辛い話をしてしまいましたね。今日の話はここまでにしましょうか?」
「……」
「私は巴月良行と言います。よろしくね」
「……」
男性は自分の名前を名乗ると笑みを浮かばせながら華の頭を撫でる。
だけど、華はそんな事考えることが出来なかった。
頭の中に浮かぶのは、赤野とあの男の姿のみ。
病院が焼け、自分だけが生き残ったという事は、赤野はどうなったのだろうか?
どくんっ、どくんっと胸が鳴り続ける。
頭を撫でた男性、巴月が病室から出て行った後、華はただ病室のベットに座り込み、何も言わず蹲るような体制で一日を過ごした。
* * *
次の日、華は朝早くから行動に出る。
(一階の病室でよかった……)
まず華はこの病院を抜け出す為に、今来ている服のまま窓の外から抜け出した。
辺りを警戒しながら裸足のまま無我夢中で走り出そうとした。
しかし次の瞬間、突然右腕を誰かに掴まれて、そしてそのまま引き戻される。
「っ!!」
「見張っておいて正解でしたね」
聞こえてきた声は、昨日華の病室を訪れた男、巴月良行の姿だった。
まるで華が抜け出すことを知っていたかのように彼女の腕を掴み、ジッと見つめてくる。
「ど、して……?」
「なんとなくです……それより抜け出すという言葉は関心しませんね。昨日も言いましたがあなた以外の医者、看護婦、そして患者全員は何者かに殺され、病院は放火されてしまったと言いましたよね。それなのに何しにいくつもりなんですか?」
「……せん、せいを……」
「え?」
「先生を、探しに行くんだ……赤野先生は死んでない!まだきっと生きてる!!何で病気の私が生き残って、先生が死んだんだよ!!どうして私じゃなかったんだ!!」
「……」
「だって……だって先生は……先生はぁ……」
(一ヶ月もたってないけど、先生は優しくて、面白くて、どこかドジで……そんな先生が、何で死ななきゃいけないんだ……)
華は叫んだ後、こらえていた涙を流し始める。
ボロボロと涙を流し、声を殺しながら泣き始める。
彼女のそんな様子を見た巴月は、腕をそっと放し、優しく頭を撫でてくれる。
そしてゆっくりと彼女を抱きしめる。
まるで父のように、まるで家族のように。
「……大切な、人だったんですね」
「っ……」
「……」
巴月はそれ以上何も言わなかった。
静かに華を抱きしめながら、何かを考えるかのように、別の方向に視線を向けていた。