†chapter9 泰国の若獅子09
「雫、こっち」
後ろから小声で呼ばれ、雫は振りかえった。
「佐藤さん」
交差点で立ち往生しているトラックの陰に、佐藤みくるが身を潜めていた。
「無事で良かった。ありがとうその子を救ってくれて」
「うん。けどこの状況をなんとかしないと……」
雫は抱えていた琴音をみくるに差し出した。琴音は未だ喋ることが出来ないほど怯えてしまっている。
「とりあえず圭介と疾風使いの子はうまく逃げられたみたいだから、あいつらの目が不破にいってる隙にウチらも逃げ出そう」
デーンシングの幹部達は、未だ不破と睨み合っている。しかしスクランブル交差点の周りにはデーンシングの構成員と思われる褐色の男達が複数包囲しており、容易に逃げられそうにはなかった。
雫が辺りを警戒していると、いつの間にか不破の周りに5人の男が取り囲んでいた。
「何のつもりだこれは?」不破が首を捻じらせ関節を鳴らす。首に巻かれた大きな鎖がカシャカシャと音をたてる。
若獅子が灰色のファーコートを揺らしながら不破に近づく。「良く来てくれたな不破征四郎」
「随分手荒な歓迎だな。ヘロイン+を作り出す『悪魔の能力』の女を引き渡すことで、天童会とデーンシングは和解したと聞いたが違うのか?」不破が低い声でそう吐き出した。
「ああ、悪魔の能力を持つ亜種はウチが買い取り、天童会との取引は成立したさ」
「なら俺達にだって、あんたらと喧嘩する理由はねえよ」
若獅子は「そうはいかねえ」と言うと、顎を上げながら上体を反らした。
「確かにうちと天童会は和解したかもしれねえ。しかし、ただ謝っただけで潰された面子は回復するのか? この世界にはこの世界のけじめのつけ方ってもんがあるだろ?」
回りくどい言い方だが、要するに悪魔の能力を持つ亜種を買い取ることでヘロインの世界シェアはこれでほぼデーンシングの独占状態になるが、潰された面子の責任が取られていないと言っているようだ。
「勝手な理由だな。そのけじめとやらを、スコーピオンが取れと言ってるのか?」
不破にそう言われると、若獅子は牙のような八重歯を見せ不気味に笑った。
「この商売、相手に舐められたら終わりだろうが。デーンシングに逆らった奴らはこうなるんだということを、世界中に知らしめる必要があるんだよ」
天童会は自分たちが生き残るために、下部組織であるスコーピオンの尻尾を切りデーンシングに差し出したということらしい。
不破は不快な顔で眉をひそめた。
「天童会みたいな三流ヤクザは仁義もへったくれもねえな」
「不条理は世の中の常だ。悪魔の能力の持ち主、竹村亜樹を渡しただけで終わる問題じゃねえんだよ」
竹村……? 雫はその名字に聞き覚えがあった。つい先ほど聞いたような気もする。
ふと横に目を落とす。みくるに抱かれた琴音が激しく身体を震わせている。
「マ、ママ……?」
琴音のその呟きで雫は思い出した。琴音の名字が竹村だったことに。
「もしかして竹村亜樹っていうのは、あなたのお母さん?」
その時、不破が地鳴りのような雄たけびを上げた。
目の前の構成員を右ストレートで殴り飛ばすと、その左の男に逆の手でボディブローを喰らわせた。殴られた男達は一撃で地面に倒れる。取り囲む構成員の数はこれで3人。1対3だが、明らかに相手の方が動揺してしまっている。
若獅子が異国の言葉で叫んだ。士気を戻した構成員が不破に立ち向かう。
しかし190cmはある不破とは体格差が大人と子供ほどあり、デーンシングの構成員達は次々と殴り飛ばされた。
そして不破は3人目の男を投げ飛ばすと、馬乗りになり頬を殴った。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
血走った目をギラギラと光らせながら、不破は何度も何度も男の顔面を殴りつけた。
そしてそれは不意に起きた。「ターンッ!!」という発砲音が交差点に鳴り響くと、不破の右肩から鮮血が飛び散った。見ると物部がコルト・ガバメントを構えている。
「動くな。次は心臓を撃ち抜くぞ」
しかしそんな脅し文句も不破には通用しない。ゆらりと立ちあがると、銃を構える物部に向かい全力で走りだした。
物部は引き金を引いた。コルト・ガバメントから放たれた銃弾が腹部に被弾するが、不破はそれすら気にも留めない様子で物部に左顎を思い切り殴り飛ばした。不破の太い腕で殴られた物部は3メートル程吹き飛ばされた。
「何であの人は銃で撃たれても平気なの?」みくるは唖然とした表情で聞いた。
「聞くところによると、不破征四郎には痛覚というものがないらしいわ」雫は知っている情報を答える。
「何それ、結界の他にもう1つ人外の能力を持っているの?」
みくるに聞かれたが、雫はそれ以上のことはわからなかったので首を振った。
「わりーな。俺様に銃弾は効かねぇんだよ」
そう言った不破だったが、腹から大量の血が流れ足元がふらついている。
「不破さん、逃げましょう!」
そのタイミングで現れたのは不破の部下、犬塚だった。
「犬、丁度良かった。サガってきちまった。お、お前、パ、『パッション』持ってれいか?」不破は明らかに呂律が回っていない。
「駄目です、不破さん。もうドラッグに頼るのはやめましょう。これ以上は身体が壊れちまいます!」
「バきゃロー! 俺ぁ、今ここでこいつら潰すんだよ。とっとと寄こせっつってんらろ!!」
不破の迫力に気圧され、犬塚が仕方なくポケットに手をつっこんだが、丁度その時、再び交差点内に銃声が鳴り響いた。
背中を赤く染めたのは犬塚だった。うめき声を上げると、ポケットに手をつっこんだまま前のめりに倒れた。
額に青筋を浮かべた不破が、銃を向ける若獅子を睨みつけた。
「てめえらは絶対に、許さねぇろ」