†chapter9 泰国の若獅子06
「助けてっ!!」
捕らえられた琴音の叫び声が遠くから聞こえた。
琴音の首根っこを押さえている蛇のタトゥーを入れた男は、首を内側に捻るとそのままジロリと睨みつけた。
するとどうだろう。恐怖を感じたのか、琴音は押さえつけられたまま声を発せなくなった。
「あの時電話で言ってた誘拐って、このことなの?」
雫が言うと、横にいる拓人は目線を交差点に向けたまま頷いた。
「何でもあのマフィアは、亜種や異形の人身売買もしてるって話なんだ」
「なるほど」
琴音は瞳の色が左右で異なるオッドアイ、いわゆる異形と呼ばれる人種だ。詳しいことはわからないが、亜種よりも高値で売買されるのかもしれない。
「何とか助けないと……」とは言ったものの多勢に無勢。しかも相手は世界的な犯罪組織ときている。簡単には手を出すわけにはいかない。まずは様子を窺おう。彼らにも何か目的があるのかもしれない。
「あの人たちは交差点を封鎖して、何をしようとしているの?」
「良くわからないが、不破征四郎を捜しているらしい」今まで成り行きを見ていた拓人は言う。
「不破? スコーピオン総長の?」
雫が言った丁度その時、宮益坂口から追いかけてきた犬塚が息を切らした様子で姿を現した。
「ハァ、ハァ、うちの総長がなんだって?」
「お前、あの時の!?」
犬塚と戦ったことがある拓人は彼の存在に気付くと、すぐに戦闘態勢を取った。しかし当の犬塚は、傷だらけの拓人の顔を見ると満足そうな笑顔で鼻を鳴らした。
「川久保兄弟にやられたのは本当みたいだな。相手が二人だからって簡単にやられてんじゃねぇよ」
「うるせー。有無も言わさずボコボコに殴られたんだ。次に会ったらお前同様にぶっとばしてやるよ」
「あ?」
犬塚は眉間に深い皺を寄せる。拓人もそれに合わせて鋭い眼光を向ける。
互いに睨み合いながら距離を近づけて行くと、間にいた雫が二人の顔を両手で引き離した。
「今は、それどころじゃないから」
確かにその通りだった。琴音が世界的な犯罪組織であるデーンシングに捕らえられてしまっているのだ。
犬塚は交差点に目を向ける。
「どういう状況だこりゃあ? お前らの知ってることを全部教えろ」
「どうもこうもあるか。あいつらデーンシングっていうタイのマフィアだ。お前らの親玉の天童会があいつらと揉め事を起こしてるって話じゃねえか。責任とって何とかしろよ」
拓人に言われ犬塚は首を傾けた。「何?」
その時交差点に集まる中のギャングハットを被った黒スーツの男が、周りにいる人間に聞こえるように大声を放った。
「スコーピオンの不破征四郎をここに連れてこい! さもなくば……」
そう言うと男は右手を前に出した。すると何もなかった手の中に何故か拳銃が浮かび上がる。
パーンッ!!
乾いた音が響き、男の持つ拳銃から一筋の煙が上がった。
「この街の人間全て殺していくぞ」
犬塚の顔が青褪めた。
「これはどういうことだ。天童会とデーンシングは和解したと聞いてんだが……?」
「本当か? 確か麻薬のシェア争いでトラブってんだろ?」拓人が聞く。
小さく頷くと犬塚はその経緯を語りだした。
元々デーンシングが独占状態だったヘロイン市場に昨年天童会が参入したのだが、当時無名だったにも関わらず天童会はとある方法で純度160%という驚異のヘロイン『ヘロイン+』を作りだし、それを安定供給させることで世界シェアの60%を占有し天童会はその名をこの業界では知らない者がいないほどに成長させたのだ。
勿論それに対しデーンシングも黙っていなかった。一昨日デーンシングのメンバーを名乗る男達が天童会の事務所に押しかけ修羅場になったらしい。天童会は元々大規模な暴力団ではないのですぐに彼らに屈するとヘロイン+の製造の秘密をデーンシングに売り渡し、最終的には和解にこぎつけということだ。
「ヘロイン+製造の秘密って何だよ?」
拓人に聞かれると、犬塚は今更秘密にしていても仕方がないのかそれをあっさりと答えた。
「それは『悪魔の能力』だ」
「悪魔の能力?」
「ああ、高純度の麻薬が指先から出てくるという人外の能力だ。そいつが1人でヘロイン+の生産を続けてきたんだ。だがその悪魔の能力の持ち主もデーンシングに引き渡したから、この一件は片がついたはずなんだが……」
だが今ここで、デーンシングの連中が悪意を持って不破征四郎を捜していることは間違いなかった。
「何故、今更デーンシングの奴らが不破さんのことを捜していやがるんだ。嫌な予感しかしねぇ……」
犬塚はギャングハットの男を睨むと、下唇を噛みしめた。