†chapter2 宇田川町の花火03
鳴瀬は蝋燭に灯る炎のようにゆらりと身を揺らす。恐れをなしたつもりはないのだが、拓人の足は無意識に後退していた。
「どうした? かかって来い。遠慮なんてくだらんもんはいらねぇ」
ゆっくりと近づきながら、鳴瀬は右の手のひらを前に差し出した。そこに重なるパチンコ玉がカタカタと振動している。
それでも尚、拓人の足は動かない。勿論遠慮などしているわけではなかった。幾度となく攻撃を仕掛けようと試みているのだが、身体がどうしても言うことを聞いてくれないのだ。
何だっていうんだ、この威圧感は……?
その時、鳴瀬の眼球が右に動いた。その方向に走る人影。黒髪だ。
「行けっ!!」
鳴瀬の掛け声と共に、手のひらの上に重なる銀色の玉が一斉に黒髪に向かって飛んでいった。
「やめろっ!!」
拓人は大きな声でそれに抗う。するとどうだろう。飛んでいったはずの玉に何らかの力が加わり、その全てが地面に落下してしまったのだ。
予想外の出来事に言葉を失う鳴瀬。彼は腰を曲げ転がってきたパチンコ玉を1つ拾い上げると、目の前にいる拓人の顔を睨みつけた。
「なるほど、お前も亜種だったか」
人外の能力を使ったことがバレてしまい、拓人は苦笑いを浮かべた。
「ああ、地元に1人しかいなかった亜種ってのは俺のことだよ」
鳴瀬は拾い上げたパチンコ玉を忌々しげに地面に投げ捨てた。
「俺としたことが迂闊だった。さて、そりゃ一体、何の能力だ?」
ピリピリと張り詰めた空気が辺りを支配する。拓人と鳴瀬が牽制しあっていると、その隙をついて黒髪が間合いを詰めてきた。
1歩、2歩と近づきながら、黒髪はその目を光らせる。すると地面に落ちていた幾つかのパチンコ玉が重力を無視したかのように浮き上がり、そして一方向に飛んでいった。
鳴瀬も黒髪の攻撃に感づく。しかし少々反応が遅かったようで、素早い身のこなしでそれをかわしたのだが、最後に飛んできた1発だけはどうしても避け切れずに額の中央に命中してしまった。
「……つっ、くそがっ!!」
鳴瀬は悪鬼の如く恐ろしい顔で凄んだが、黒髪は怯むことなく更に追撃を加えようとしていた。宙に浮かぶ銀色の玉が不気味な軌道を描く。
「小賢しい!!」
目を光らせた鳴瀬が声を荒げると、向かってきたパチンコ玉は全て反対方向に弾け飛んでしまった。彼らは手を触れずに物体を動かせる特殊能力を持っているようだ。
「お、お前ら同じ能力を持っているのか?」
拓人がそう聞くと、鳴瀬は苛立ったように口を開いた。
「こんな、まがい物と一緒にすんじゃねぇよっ!」
鳴瀬は赤く腫れた額の横に青筋を浮かべるとハチ公像を睨みつけた。ベキッという重苦しい音が鳴る。嫌な予感がした拓人がその音のした方向に目をやると、石製のハチ公像台座上部に大きな亀裂ができていた。
「いっ!?」拓人は瞼を見開く。
いくら亜種が人外の能力を持っているとしても、石を砕く程の力を持った者はそういないはず。しかし鳴瀬はそれを一瞬でやってのけたのだ。それも物体に触れることなく。
「猿まねにこんなことはできねぇだろ?」
左の軸足に力を入れた鳴瀬は、右足をしならせひびの入った台座に蹴りを喰らわせた。鈍い音と共に微細な破片が散ると、台座上部は脆くも砕けた。大きな石の破片が地面にゴトリと落下し、ハチ公像は僅かに下に傾いてしまう。
拓人の瞳孔が大きく広がった。これは相手にしてはいけないレベルの亜種のようだ。となれば話は簡単、三十六計逃げるにしかず。拓人は信号が青に変わったのを見計らい、スクランブル交差点に向かって一気に駆けだした。
「おいっ! 逃げるぞ!」
背後にいた黒髪の腕を捕まえ、拓人はそこから有無を言わさぬ速度で走り出した。風が身体の周りを駆け巡る。拓人は己の能力を使いその風に乗ると、信じがたい速度で駅前の歩道を駆け抜けた。
さすがにこの速度にはついて来れないだろう。人を1人連れていたが、拓人はその足に自信があった。
だが念のため交差点に飛び出したところで背後を振り返る。鳴瀬との距離はすでに30メートル。これだけ離れれば、撒くのは簡単だろう。
しかし、そんなことを思った矢先だった。背中に何か悪寒のようなものを感じた拓人がその速度を緩めると、手を引いていた黒髪に首元を掴まれ下に向かって強く押しつけられた。
「なっ!?」
前方に勢いがついたままの状態で地面に倒れる。身を捻り背中で受け身を取ろうとしたその瞬間、仰向けになった拓人の鼻先に何か大きな物体が物凄い速度で掠めていった。
これはまさかさっき砕いた台座の破片か……?
地面と背中が接触し、拓人と黒髪の2人はアスファルトの上を数メートル転がる。そしてそれと同時に、前方から大きな衝撃音が鳴り響いた。飛んでいった物体がどこかにぶつかったようだ。
「だ、大丈夫か!?」
拓人は身を起こし、横に倒れる黒髪の腕を取る。彼女は肘から少し流血しているようだったが、至って冷静な表情でその場に立ち上がった。
「あなたの能力は何なの?」
「え?」
まさかこの状況でそんな質問をされるとは思わなかった拓人は、思わず目が点になった。
「そんなことより、早く逃げないとやばいだろ! 何なんだよ、あいつの能力!」
そう言って鼻先を掠めていった物体が飛んでいった方向に目を向けた時、拓人の背中に鳥肌が広がった。交差点の反対側には薬品店があるのだが、その店のシャッターが大きくへこみ、その中心に先程の台座の破片が突き刺さっていたのだ。
「ま、まじっすか……?」
まさかとは思ったが、鳴瀬は人外の能力を使ってあんな物まで飛ばしてきたようだ。あの場で黒髪に押さえつけられなかったら、命の危険すらあったであろう。
感謝の気持ちを込めて横を振りかえると、黒髪は何故かその場で走る練習のようなことをしていた。
「それ、何してるの?」
拓人の問いに、黒髪は答える。
「さっきあなたと手を繋いだ時、速く走れたでしょ。それをもう一度試してるの」
そして黒髪はまた、その練習を再開する。しかしそれは拓人の能力があってできたことなので、当然先程のように走れるはずもなかった。
「今、そんなことどうでも良いだろ。それよりこの状況をどうにかしないとっ」
そんなことをしているうちに、騒ぎを聞きつけたのかブルーのカラーバンドを身に付けた鳴瀬の仲間たちが交差点に集まってきた。その中には、拓人に因縁をつけてきたツーブロックリーゼントの辻堂の姿もある。
「鳴瀬さん、一体どうした!?」
鳴瀬は青く腫れあがった眉の上を忌々しく触れた。
「黒髪だ。お前らはこれ以上近づくな!」
仲間が集まってきたが、どうやら全員でリンチにするつもりはないようだ。しかし囲まれているため逃げ場はない。このまま奴と戦うしかないのか?
ふと横に目をやると、黒髪が真剣な眼差しで前を見据えている。
「勝負に決着が着いたらあなたの能力、詳しく教えて貰うから」
彼女はこんな状況下でもまだあの男を倒す気でいるようだ。そもそもこちらが助けようと思ったこと自体、おこがましかったのかもしれない。
黒髪はいつの間にか手にしていた石の欠片を手の中で転がすと、鳴瀬に向けてサイドスローで投げつけた。石は細腕で投げたとは思えない勢いで飛んでいく。
しかし鳴瀬が一度腕を右に払うと、その石の欠片は激しい音と共に空中で木っ端微塵に砕け散った。
手を触れずに物体に力を加える謎の能力。今の自分の力では立ち入る隙がないと悟った拓人は、唾を飲みこむとそこからどうやって逃走するかということだけに考えを集中させた。
「格の違いを見せてやろう」
鳴瀬がそう言うと、その周りに落ちている小石、空き缶、ガラス片等、地面に落ちているあらゆるものが宙に浮かびだした。初夏だというのに、拓人の背中に冷たい汗が流れる。いくらあの女でも、これだけの物体を全て防ぐことはできないのではないだろうか?
辺りの空気は真冬のそれのように張り詰めている。
ギャラリーも含めそこにいる全ての人たちが、次の攻撃で決着が着くのだと確信していたのだが、現実はそうはならなかった。そこに集まる若者たちは、これから起こる出来事など誰も予想していなかっただろう。
鳴瀬と黒髪が互いに戦闘態勢に入ったその瞬間、突然スイッチが切れたように目の前が真っ暗になり、大音量で流れていた音楽も何故かピタリと鳴り止んでしまったのだ。
暗闇に目が慣れない上に、キーンと耳鳴りもする。まるで異空間にでも投げ出されてしまったかのようにも感じられたが、数秒の後、それが停電によるものだと思い至った。
夜の渋谷を華やかに彩っていた街明かりが一斉に消えて、明け方まで垂れ流している音楽も鳴り止み、そこにいた人々も一瞬言葉を失った。
その時ほんの僅かな瞬間だが、渋谷の駅前に透き通るような静寂が広がった。
だがその場違いな静けさは、すぐに若者たちの怒声で掻き消されてしまった。
「何だこれはっ!? どういうことだ!?」「貴様たちの仕業か!?」「逃がさねぇぞ!!」
困惑する声もあれば、敵に怒りをぶつける者もいる。しかし本当に予測できない事態が起きたのは、この後だった。
混乱の収拾がつかない状況下で、今度は静寂とは正反対の爆音が漆黒の夜空に鳴り響いたのだ。
その場に居合わせた人々は我が目を疑っただろう。爆音と共に夜空に現れたのは、直径200メートルを越える大輪の華。
何の前触れもなく、宇田川町の夜空に金色の花火が色鮮やかに打ち上がったのだ。