†chapter7 彷徨いの少女03
色とりどりのドーナツが並べられた棚の前で、普段は表情が乏しい雫が満面の笑みを浮かべていた。
「雫ちゃん、何か食べたいやつある?」
右手にトング、左手にトレーを持つ上条の横で、雫は悩みに悩んでいた。
定番のパン生地で作られたイーストドーナツ、ふんわり軽い食感のケーキドーナツ、シュー生地で作られた形の可愛いフレンチクルーラーなどもある。
幾つものドーナツに目移りしている雫を見かねて、上条は棚に乗っているドーナツを右から順番に次々にトレーに乗せだした。
「今日は特別に大人買いやで」
「い、いいの!?」
雫は先程身の毛がよだつと評した上条のことを、今や尊敬の眼差しで見つめている。
「ほんでドリンクはどうする? カフェオレでええか?」
そう聞かれた雫は、何か恐ろしいものでも見てしまったかのように目を見開いた。
「か、カフェオレも飲んで良いの!?」
「そらええよ。ドーナツだけじゃ胸やけするで」
雫の目から涙の粒が一つ零れ落ちた。「あ、ありがとうございます。それじゃ。ホットのカフェオレをお願いします……」
「お、おう……」
上条は全員の飲み物を確認すると、ドーナツが大量に盛られたトレーを二つレジカウンターに置いた。
「いやこの量、絶対食べきれないでしょ」
テーブルの上に山盛りに積まれたドーナツを見て、拓人の食欲は減退した。その一方、雫は高まる気持ちを抑えつつグラニュー糖を半分入れたカフェオレを静かにスプーンで混ぜていた。
「残したらお土産にすればええやろ。雫ちゃん好きなの選んでええで」
雫は目の前のドーナツの山を吟味すると長考の末、一番上に乗っている苺味のチョコが掛かったフレンチクルーラーを手に取った。
只ならぬ緊張感が店内を支配する。異常な事態を察した店員たちも、全員カウンターに出てきて雫に視線を向けている。
皆が固唾を呑んで見守る中、雫は両手で持ったフレンチクルーラーを大きく頬ばった。ゆっくり二度ほど咀嚼すると自然に表情が崩れた。
「どうや? うまいか?」
「甘くて、ふわふわで、おいしい……」
雫はカスタードクリームが鼻の頭に付いたことにも気付かず、初めて食べるその味に深く感動を覚えていた。
「そりゃ、良かった。カフェオレも飲んでええんやで」
カフェオレの存在を思い出した雫が静かに息を呑んだ。
目の前のマグカップの中で、白濁した薄茶色い液体が綺麗に渦を巻いている。
再び店内が緊張感に包まれた。雫はマグカップを掴むと一口飲みこんだ。珈琲のほろ苦い味と、ミルクの優しい味わいが口の中で解けるように広がり、そしてゆっくりと胃の中に流れていった。
雫はすーっと鼻で大きく息を吸い込むと、それを口から大きく吐き出した。
「……ドーナツと良く合う」
堪え切れなくなった雫はとうとう涙を流した。
「良かったな雫ちゃん。カフェオレの味を知ったということは、一つ大人になったいうことやで」
雫はその言葉に頷くと、涙を拭い再びフレンチクルーラーにかぶりついた。
「こんな美味しい食べ物生まれて初めて食べた……」
上条は泣きながらドーナツを食べる雫の姿に思わず吹き出しそうになるが、それを堪えると表情を整えて視線を向けた。
「こんなもんでええんなら、いつでも奢ったるからな」
「うん」
雫は笑顔で一口、二口とフレンチクルーラーにぱくついた。
すると横でアイスコーヒーを飲んでいた拓人が、持っていたグラスをテーブルの上に置いた。
「チームに誘うのに、食べ物で釣るのは卑怯だろ」
「いやいや、そんなつもりで言ったんちゃうわ。普通に友達として奢ったるいうことや。強引にチームに加入させる気はないで」
「ほんとかよ?」
拓人が不服な顔で椅子にもたれ掛かると、前に座るみくるが口を開いた。
「無理やりチームに入れる気だったら、二か月も放置しないでしょ。あたしの能力を使えば、あなたたちの居場所くらい簡単に見つけられるんだから」
そうだった。みくるの持つ千里眼の能力を使えば、半径5km圏内にある全てのものを見透かすことが出来るのだ。
「とはいえ、拓人も人間の瞳の件でスコーピオンから狙われてるやろ? 身の安全の為にも俺らと組んだ方がええと思うで」
そう言うと上条はプレーンのイーストドーナツを口に運んだ。目の前では、雫が二つ目のドーナツに手を伸ばしているところだ。
「いや、スコーピオンっぽい奴らとはたまにすれ違うけど、不思議と素通りされるんだよな」
「そうなん?」
上条は思った。雫が常に一緒にいるみたいだから、それで襲われないのかもしれないなと。
「まあ、基本的には休戦協定があるおかげで今の渋谷は平和やからな。けど近いうちにそんなんも言うてられへん状況になるで」
「何か大きな動きがあるのか?」チョコレート味のケーキドーナツを食べながら拓人が聞く。
上条は拓人の耳元に顔を近づけた。
「タイのマフィアが近々日本に来るらしいで」
それを聞いた拓人は首を捻った。
「何しに? 日本のヤクザと抗争でも始めるのか?」
拓人はそう適当に言ったのだが、それが当たらずも遠からずだった。
「詳しいことはわかれへんけど、スコーピオンのバックにおる天童会ってヤクザと何か揉めとるらしく、それで向こうのボスが今度日本に直接乗りこんでくるみたいやで」
上条は小声でそう言うと、神妙な面持ちで居住まいを正した。




